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2008年6月18日 (水)

CDで臨む「クラシック音楽」

Tokiomusikfroh

来たる6月22日は、私共のアマチュアオーケストラ、東京ムジークフローの定期演奏会です。詳しくはバナーをクリック下さい!20名様(ペア換算10組)まで無料ご招待申し上げます。ご希望の方は本ブログのプロフィールページから、記事掲載者宛メール下さい。・・・バナーは、sergejOさんがご好意で作って下さったものです。



最初に申し上げますと、この一文は、世の中の「CD推薦書」、あるいは「推薦CDを明記しない<名曲>紹介書」のいずれに対しても持っている私的な疑問から綴ろうと考えたものです。ですが、それらをまっすぐに批判していいのかどうかとなると、これはまた私だって日々ブログでいずれにも相当するようなことを綴りつづけているわけですから、そうはいきません。
ですので、「じゃあ、自分はどうなのか」を確認しておこう、というものだとご了解下さい。その分、話は極めて抽象的になります。
かつ、以下の制約を設けておきます。

演奏法については
・自分が永久に未熟であること
・尊敬する諸家の著作を真っ当に読めていないこと
から、このたびは、自らが演奏する場合、ということを含め、考えることを遠慮します。

音楽を聴く、ということはどういうことか、も、全般を考えると課題が多岐にわたるし、自分の聴いていない「ジャンル」も多々ありますので、こちらも焦点を絞らなければなりません。
そこで、
・クラシック音楽を「聴く」とはどういうことか、ということについてのみ、考える
ということにします。

また、聴く、ということには、聴く場所、音の媒体の問題が付きまといますので、
・ナマ演奏他については、今回は考えない。CDのみに絞る。
・どういう場所で聴くか、という問題は考慮しない。

こういう条件で、話を進めたいと思います。



極めて大まかに分けますと、いきあたりばったり、や、そのときの興趣で、ランダムに、という<気まぐれ>を排除すれば、クラシック音楽にCDで接する形態は4通りかと思います。

ひとつめは、個別の作品を特定の演奏で聴く。
ふたつめは、作曲家または演奏家個人(あるいは特定の団体)の作品を全集・選集で聴く。
みっつめは、同一の作品をさまざまな演奏で聴き比べてみる
よっつめは、メーカーが組んだ特集盤(単体または集合)で不特定多数の作品・演奏を聴く。

具体例を先にあげますと(私の例)、
ひとつめ=シューマンの「森の情景」をヴィルヘルム・ケンプのピアノでだけ聴く
ふたつめ=バッハのカンタータをリヒターの選集かアーノンクールらの全集で聴く
みっつめ=今は、特になし
よっつめ=ハルモニア・ムンディ社50周年記念セット50枚組を聴く

・・・まあ、いろいろ、ですが、これが最近の例です。サンプルだ、とだけ思っておいて下されば幸いです。



ふと振り返ってみて、それぞれ、聴くときの意味合いが違っているなあ、と感じ出しました。
それぞれに、それぞれの大切な出会いを求めて聴いている。ですが、求めている出会いの中身が、違うのですね。
一般論にまでできるかどうかは分かりません。ただ、少なくとも私個人の内部においての、「求める出会いの違い」に屁理屈を付けてみようか、という心算です。


「ひとつめ」、です。

初めて「クラシック音楽」に出会った瞬間・・・ここまでを含め、「出会う」という言葉には「心が動かされる」との意味をも付け加えています・・・というのは、キリスト教で言えばパウロ(サウロ)がキリストの声を電撃のように受けた瞬間と同じような、同様にはイスラム教で言えばマホメットが神の啓示をなかなか体で受け止めるのに苦しんだような、あるいは仏教で言えばガウタマ・シッダルタが修行から離れて差し出された牛乳を飲んだときの安堵のような、興奮とも苦痛とも静寂とも判別のし難い精神状態が、自分にもあったのだろうな、と、最近思い返しています。
ただし、宗教上の偉人達と凡愚の私の大きな違いは、それが純粋な感動として「持続」しないがために、CDという「モノ」への執着というかたちで「クラシック音楽」への依存心を生み出しているのかもしれません。

この、初めての瞬間、というのが、先にあげた4ケースで言うと「ひとつめ」に該当するのは明らかです。
初めてその曲を聴き、初めてその演奏に魅入られる。「ひと目惚れ」ならぬ「ひと聴き惚れ」といってしまったら、ちょっと<人聞きが悪い>けれど・・・あ、失礼しました。

瞬間の回顧の為に、私はその曲については、その演奏だけを、常に繰返し聴くことになる。
極端な場合は、同じ曲は他の演奏では絶対に聴けない。すなわち、その曲について、私は相対的な価値判断の手段を放棄してしまった、ということにもなります。
それが善か悪か、と自問しましょう(冒頭での制約に沿って、今は「自分が演奏する場合」にこのことが与える影響は考慮しないことにします)。
導かれるのは、禅問答みたいな答えしかなさそうです。

「善であり、悪である」

「絶対」と「相対」の違いと言うもの自体が、論理的に(数学的にも)明確に区分され得ないものである以上、相対的な価値判断の放棄、ということが「善」か「悪」か、という二者択一に繋がることはないでしょう。
問題は、「この曲を聴く」ときの私が、素直か捻れているか、という、多分に精神的なものなのでしょう。
CDという媒体を前にして、同じ演奏を常に「最高のものだ」と感じている点は変化しないにしても、それはその演奏を純粋に初めて聴いたときと同じ心情を再び私にもたらすことは、おそらくないでしょう。同じ曲の、同じ演奏で、同じ賞賛の思いで耳にしていながら、同じであるはずの私は、あるときは「爽やかな気分で」、あるときは「涙を催されるような感慨で」、また別の時には「救いを求めてすがるように」接する。繰返し聴くことのできる媒体が存在するからこそ生じる、わるく言えば、ご都合主義的な聴き方への<許し>が、ここには生まれる。<許し>は、この音楽を前にしての私の懺悔を必要としないだけでなく、傲慢をも受け入れる。
これは、無差別な<許し>である以上、私になんのモラルをも強要しないという意味で、「善でもあり、悪でもある」のです。禅問答的な、と言いましたけれど、実は禅語に、

「不思善不思悪」

というものがあります(出典は忘れました)。

いってみれば、CDの聴き方の「ひとつめ」の形態は、
「では、私は執着に留まるのか、パウロの改心やマホメットの開眼や釈迦の頓悟に近い道へと一歩を踏み出せるのか」
という問いかけを、暗黙のうちに私自身に投げかけているのだ、と考えるべきなのかも知れません。

すげー、大袈裟!



「ふたつめ」に行きましょう。

一人(ないし関連する数人)の作曲家の曲を、複数にわたり集中して聴く、あるいは作曲家を演奏家に置き換えても、とにかく特定の誰かの「音楽」を聴く、という行為には、「ひとつめ」とは違い、最初から限定された何らかの目的があることが前提となるでしょう。
では、どんな目的が想定しえるでしょうか?

・その作曲家の作風、その演奏家の流儀を熟知し、人間性や理想型に触れたい(負の評価も含む)
・嗜好上、その作曲家またはその演奏家以外の演奏では聴けないから、それだけを収集する

他にもありますか? では、すみませんが、私が思いつくのはこの二つだけです。この二つで考えてみることをお許し下さい。

後からあげた方の条件から見ていきましょう。
これは、「ひとつめ」の延長線上にある、と見なして、ほぼ支障がないと思っております。ただ、「ひとつめ」に比べると、聴く私の「執着心」が非常に強い、という特徴があり、したがって、相対的な価値判断の放棄の度合いも高まることとなります。・・・となると、これには病名をつけてもよさそうです。

「特定作曲家(演奏者)依存症」。中毒、ですね。
タバコやお酒への依存度が高まれば、不健康に繋がります。・・・音楽で特定のものに依存してしまい、それ無しには生きていけない、となった場合には、これは果たして幸福なのか不幸なのか?
「許容範囲が限定され、かつその範囲が大きな面積を占めると、価値観が歪曲される」
すなわち、価値判断を放棄したことが自らの心を閉じることや、範囲外のものを「押し付けられた(相手側にはその意図がないにしても、そう受け止めてしまう)」ことに繋がる以上、音楽が対象であっても、やはり「中毒症状」は不健康ではないか、と私は考えます。

では、前の方の「作風・流儀の熟知の為に」という聴きかたは、どうでしょう?
これは、案外、一筋縄では行かないのではないかと思われます。
作曲家にしたって演奏家にしたって、よっぽど特別な例外でなければ(録音は残っていませんが、パガニーニなんかはそういう例外だったのかなあ、と想像しています・・・余計な話でした)、実はその師匠・先輩やライヴァルから、正負に関わらず、多大な影響を受けているのが普通です。したがって、個人的には、私はそうした影響への考慮無しに特定の対象だけを追いかけても、面白くもなんともないだろう、と思っています。
ただ、一方で・・・これは意識的に行なう場合に大きな意味を持つのではないかと感じるのですが・・・ある人が、その人の内面で一生かけてやったことを知りたいと思えば、私もそれのために一生を費やさなければ、とても追いつけない、という面もあり、そこまで覚悟をするのでしたら、たとえ人様からは馬鹿者にしか見えなくても(まあ、もともと愚かであれば気にする必要は全くないですし)、「全集」と生涯を共にするのもいいかも知れない。いや、幸せに死を迎えるには、誰にも姿を見られず、ひっそりとひとりで「全集」の前にたたずんで時を過ごすのが、もしかしたら最良の生き方なのかもしれないなあ、とさえ思います。


「みっつめ」。

これは、大変に難しい聴き方ではないかなあ。。。
「自らの演奏」をも考慮する場合には理由付けが簡単なのですが、今回はそれを放棄していますから、純粋に
・「聴き比べ」なんかすることに、いかほどの意味があるか
を考えなければなりません。

無茶、だな。

言えるとすれば、理想の伴侶を見出せないために旅を続けるのと等しい聴き方です。
あるいは、「こっちもいいけれど、あっちも捨て難い」・・・浮気性な臭いのする聴き方です。

「聴く耳」を持つ人には、それなりのメリットはあるかも知れません。
それぞれの演奏がどのように違うか、の判別が出来るようになる。

でも、「聴く耳を持つ」とはどんなことを指すのか、は、必ずしも明らかではありません。
少なくとも、現代語訳された古典から「原文」が復元できるほどの能力を指すもの、と定義してしまったら、敷居は非常に高いと言えます。
古文献を扱う学者さんがよくやるような、
「この演奏Aには元のモデルとしてβがあり、そのβは原点に直結していたが断絶してしまった流儀αから引きうつされたものである」
・・・そんなふうにして「クラシック音楽を聴こう」などという殊勝な心がけは、通常、私はとてもとても、もてません。
ですから、私の場合は、自分、あるいは自分の仲間、所属する楽隊が次の演奏会でその曲をやる、とか言う場合に限って、この聴き方を採用するに留めています。

それ以上の意味は、あまり見出しにくい気がします。
演奏者が違うからって、同じ曲ばっかり聴くくらいだったら、その時間を別の曲の鑑賞に当てた方がいいなあ。

とはいえ、優れた例が世の中にはあるものでして、web上でも、ふるたこさんのように、ショスタコーヴィチの交響曲をいろんな演奏で追いかけつづけている・・・これは「ふたつめ」の聴きかたの前の方の例の範囲拡大型でして、ふるたこさんの「ショスタコーヴィチCD評価」記事は脱帽モノです。

いずれにせよ、自分の<ものさし>をしっかり持っていない以上、こういう聞き方によって形成される<ものさし>には、目盛の幅の狂いや<ものさし>自体の屈曲が生じてしまいそうに思います。


「よっつめ」に来てしまいました。

実は、私個人の「よっつめ」に上げた「ハルモニア・ムンディ」記念盤について、「がっかり」という言葉を用いて検索してこのブログの中の記事を検索なさったかたがいらしたようでした。
「え? なんで?」
と思ったのですが、理由を知る手立てはありません。
それに、とりたてて理由を問うつもりもありません。
この聴き方、すなわち「企画に乗っかって、そこにランダムに収録されたいろいろな演奏を楽しむ」ということ自体は、そういう選択をした時点で既に、「がっかり」すべき権利は私にはもうない、と思っているからです。

企画特集セットは、初めて「クラシック音楽」CDの選択をする場合にはお勧めしない旨は、前に綴ったことがあります。演奏の出来不出来が無造作に詰め込まれているケースも多いし、最初から粗悪なものしか含んでいない場合も、往々にしてあるからです。
ですが、そう言っている自分自身が、あえて意図して選択した以上は、人様に「おせっかい」をしたのとおなじことを通じて「がっかり」するなんてことは、あってはならないことだと考えます。
何故なら、私はそのセットの中に
「粗悪な演奏もあるかもしれない、でも、それが面白いかも知れない。ものすごい当たりが入っていることも十分考えられるしな」
などと、いろいろ覚悟の上で決断してセットを入手してしまっているのです。
宝くじを買うのと、何の違いもありません。

別な呼び名をつけるとすれば、「よっつめ」は「博打聴き」、という具合になるでしょうか?

これは、4つ上げたケースの中でいちばん不純かも知れませんが、それだけに、いちばん頭をカラッポにして(あるいは欲だけでいっぱいにして)無心夢中で楽しめる聴きかたなのかも知れません。



・・・はて。
・・・いったい、なにが言いたくって、こんなに長々綴っちゃったのかなあ。。。

要するに。
CDでクラシック音楽を聴く、ということには
・「惚れ聴き」
・「崇拝聴き」
・「希求聴き」
・「籤引聴き」
があるんだ、ってことかしら。

・・・なあんだ、たいしたことないことで、うだうだと。



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