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2008年5月23日 (金)

木簡に「万葉集」の和歌!

ラ・プティット・バンド at つくば(6月1日)、是非お出掛けになってみて下さい!(リンクしてあります。)



ベルリンの「フィルハーモニー」が20日、火災となりました。被害は最少限に留まりましたが、消防の際の水浸しから立ち直るのにどれだけ時間がかかるのか・・・


定家の記事そのものが進んでいないのに、すみません。定家のカテゴリに含めてしまいました。

取り急ぎ、Asahi.comから転載・・・と19時には思っていたら、そのあとすぐ外出する用事があったので、掲載が遅くなりました。(昨日の記事、つづってあるから、いいか!)
その間に、もっとまっとうな記事がWeb上で毎日新聞にふたつ記事があったので、それをまず引用します。



<木簡>万葉集と違う表記で「安積山の歌」  成立過程に光 奈良・紫香楽宮跡
5月22日19時57分配信 毎日新聞

2008052200000041maiallsociview000写真は、史跡紫香楽宮跡から出土した万葉集の歌が書かれた木簡(「阿佐可夜(麻)」側上部)=滋賀県甲賀市で

奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)の跡とされる宮町遺跡(滋賀県甲賀市信楽町)で出土した木簡(8世紀中ごろ)に、日本最古の歌集である万葉集に収録された「安積山(あさかやま)の歌」が書かれていたと22日、市教委が発表した。万葉歌が木簡で見つかったのは初めて。万葉集とは表記が全く異なっていた。もう一つの面には「難波津(なにわづ)の歌」が書かれており、この2首を歌の手本とする伝統が、平安時代に編さんされた古今和歌集の時代から万葉集の時代まで約150年さかのぼって確かめられた。日本文学の成立史に見直しを迫る画期的な実物史料となる。

「歌木簡」は97年、宮殿の排水路と推定される溝から出土した。長さ7.9センチと14センチの2片に分かれ、幅は最大2.2センチ。万葉集になく、木簡などで残る難波津の歌の一部が書かれていることはわかっていたが、厚さが約1ミリしかなく、木簡の表面を削ったくずと考えられていた。(栄原永遠男さかえはらとわお)・大阪市立大教授が昨年12月に調べ直して見つかった。

両面とも日本語の1音を漢字1字で表す万葉仮名で墨書され、安積山の歌は「阿佐可夜(あさかや)」「流夜真(るやま)」の7字、難波津の歌は「奈迩波ツ尓(なにはつに)」などの13字が奈良文化財研究所の赤外線撮影で確認された。文字の配列などから元の全長は2尺(約60.6センチ)と推定される。字体や大きさが異なり、別人が書いたとの見方が強い。

万葉集は全20巻のうち、安積山の歌を収めた巻16までが745年以降の数年で編さんされたとされる。木簡は一緒に出土した荷札の年号から744年末〜745年初めに捨てられたことがわかり、万葉集の編さん前に書かれたとみられる。約400年後の写本で伝わる万葉集では訓読みの漢字(訓字)主体の表記になっており、編さん時に万葉仮名が改められた可能性がある。

2首は、古今和歌集の仮名序(905年)に「歌の父母のように初めに習う」と記され、源氏物語などにも取り入れられている。筆者の紀貫之の創作の可能性もあったが、古くからの伝統を踏まえていたことがわかった。【近藤希実、大森顕浩】

<難波津の歌>

難波津に咲くや(木こ)の花冬こもり今は春べと咲くや木の花

(訳)難波津に梅の花が咲いています。今こそ春が来たとて梅の花が咲いています

<安積山の歌>

安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに
(安積香山 影副所見 山井之 浅心乎 吾念莫国)

 (訳)安積山の影までも見える澄んだ山の井のように浅い心でわたしは思っておりませぬ

(いずれも「新編日本古典文学全集」小学館より。「安積香山」の表記は、万葉集の原文)

【ことば】万葉集
奈良時代編さんの日本最古の歌集。全20巻に約4500首あり、主に飛鳥時代から奈良時代にかけての歌を収録。歌人としては柿本人麻呂、山上憶良、大伴家持、額田王などが知られる。天皇や皇后などの皇族のほか、東北や関東などの民謡「東歌(あずまうた)」や、九州沿岸の防衛に徴集された防人(さきもり)の歌なども収録し、作者層が幅広いのが特徴。

【ことば】紫香楽宮
奈良時代半ばの742年、聖武天皇が造営を始め、745年に難波宮(なにわのみや)から遷都したが、地震や山火事が相次ぎ、5カ月で平城京に都が移った。公式儀礼を行う中枢建物「朝堂」の跡が宮町遺跡で01年に確認されたが、全容は不明。



<歌木簡>聖武天皇の前で音読、庭で曲水の宴…膨らむロマン
5月22日22時8分配信 毎日新聞

紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる宮町遺跡(滋賀県甲賀市)で出土した、万葉集の歌が書かれた8世紀半ばの「歌木簡」。わが国最古の歌集が編まれる直前、聖武天皇が造営した5カ月の短命の都で、どのような歌の世界が繰り広げられたのか。専門家は、さまざまな場面を想像する。【近藤希実、花澤茂人】

木簡には、万葉集の「安積山(あさかやま)の歌」、もう一つの面には「難波津(なにわづ)の歌」が書かれていた。

安積山の歌の文字を発見した栄原永遠男(さかえはらとわお)・大阪市立大教授(日本古代史)は「聖武天皇のいる場で、手に持って声を出して読んだのではないか」と推測する。歌木簡が2尺(約60.6センチ)と長いのは、読み間違えにくい1字1音の万葉仮名で記したため。大切な儀式や宴会で役人が朗々と読み上げる姿が浮かぶ。

奈良時代の歴史を記した「続日本紀(しょくにほんぎ)」に登場する8首の歌のうち4首が紫香楽宮の時期に集中している。宮町遺跡の「朝堂(ちょうどう)」(公式儀礼を行う中枢施設)の跡で「歌一首」と墨書した土器も出土しており、歌詠みが盛んだったらしい。

歌木簡は溝に捨てられていた。同時期の平城京には池と曲水路のある庭園があり、中国の唐のように、杯が流れる間に歌を詠む「曲水の宴」が行われていたらしい。小笠原好彦・滋賀大名誉教授(考古学)は「紫香楽宮にも歌会をする場所があったのだろう。近くを調査すれば、宮中の歌会や儀式で使われた歌木簡が続々と出てくるのではないか」と期待する。

木簡の2首は「歌の父母」とされた手本。上野誠・奈良大教授(万葉文化論)は「当時の役人は、日本固有の名前を万葉仮名で表記する能力が求められた。2首の手習い歌を人に読んでもらって書き取る練習をしたのではないか」と想像する。

「難波津の歌」は天皇を賛美する「公」の歌、「安積山の歌」は感情を吐露する「私」の歌。中西進・奈良県立万葉文化館館長(国文学)は「役人が公私の歌をきちんと書き留めているということは、紫香楽宮が安定した都だったことを示すとも考えられる」と話す。



上の記事に載った歌は、表のものは、講談社文庫本(底本:西本願寺本)の万葉仮名は毎日新聞の記事の通りです。(巻十六、3807)
歌が書かれていることが判明した木簡での表記の方が簡便なもの(ひらがな一字相当分が万葉がな一字となっている)であるところには、注目したいですね。・・・「万葉集」の方の表記は、この集を編纂したのが、「インテリ」として選ばれた人物であったことを示唆していると言っていいでしょうから。
逆に言えば、最初の記事通り、木簡は「読みやすいように」一字一字を記したのだとすると、当時の宮廷人の、それでも一般よりやや学識があったと思われる連中の「読み書き理解度」も、何となく伝わってくるようです。
  
裏の歌は(日本書紀に載っているのだとしたら・・・しまいこんじゃって今行方が分からないのですが・・・)日本に論語や千字文をもたらした王仁(わに)の歌だとされているようですが(Wikipediaに記載あり)、法隆寺五重塔の落書に次のように記されているものです(一部しか分かりませんでした)。
奈爾波津爾佐久也己・・・
こちらは、法隆寺五重塔のものより、新しく解明したもののほうが、「ひらがな」に近づいて来ているのを示唆しているようです(もっとも、法隆寺落書の現物を見ていないので、この比較が当を得ているかどうかは分かりません)。「爾」に対して「迩」(前者の、「しんにょう」が付いたものの略字、またそれより略された「尓」が使われていますし、もし読みが記事の通りで正しいのなら、tsuの読みに当たる字がすでに「川」から崩れた「ツ」になっているあたりも・・・パソコン上はこれはカタカナですが、おそらく実際の字はひらがなの「つ」に変形する途上の形状である筈です・・・「ひらがな」の醸成が万葉仮名の汎用化と並行して進んでいたことを示す例として、仮名の資料としてみただけでも大変に価値があるものと思います。

二首とも、古今和歌集仮名序には(割書きの部分を省きますが)このように引用されています。

難波津の歌は帝(みかど)の御初(おほむはじ)めなり。--(割書き略)--安積山の言葉は釆女のたはぶれよりよみて、--(割書き略)--この二歌(ふたうた)は、歌の父母(ちちはは)のやうにてぞ、手習ふ人のはじめにもしける。(岩波文庫なら11頁)

古今集仮名序に並んで出てくる歌が表裏に書かれていた意味について、なお面白い考察が出てくることを期待したいと思います。

先ほどのWikipediaの記事によれば、「難波津の」は平安時代には「誰でも知っている歌」であることが常識だったそうで、毎日新聞2記事の最初の記事の方に「源氏物語にもとりいれられている」とあるのはちょっと大袈裟なのです。「源氏」に登場する「難波津」の歌は断片でして、「若紫」の巻で、光源氏がまだ幼い紫上に無茶ともいえる懸想する場面で、紫上の保護者である尼君が
「まだ難波津をだにはかばかしう続け侍らざらめければ」
と、(要するに、まだ読み書きもままならないのに無体なことを、という尼君の気持ちを込める比喩として)なんとか断ろうとする場面にちょこっと引かれているだけです。
むしろそのあとに、安積山の歌を本歌にして源氏と尼君がこんな歌のやり取りをしているのが、難波津の喩えとセットで出てくるところに、当時の常識を踏まえた面白さがあるのでしょう。(但し、安積山は浅香山にすり替わってしまっています。)

(源氏)浅香山あさくも人を思はぬになど山の井のかけはなるらむ
(尼君)汲みそめて悔しと聞きし山の井の浅きながらや影を見るべき

この部分、角川文庫でしたら第1巻の172頁にあります。このあと、源氏は継母である藤壷宮と密かな情事に走り・・・藤壷は大変な後悔をしながらも源氏の子を「桐壺帝」の子として生むことになり、「源氏物語」の暗い世界の面が大きく展開していく・・・のだそうですが、私は途中で投げ出して、そこまで読めておりません。つまり、あとはちっとも知りません。念のため。

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コメント

万葉集に付いて書いています。
良かったらお奨めサイトにリンクを作っていただけたらと思います。
当方からはリンクを作成しました。
よろしくお願いします。

投稿: いつもの人 | 2008年6月22日 (日) 22時41分

「いつもの人」さま、ありがとうございます。
「お勧めリンク・サイト」は当ブログにご意見・ご感想を下さった方のページを拝読したり、お友達になって頂いたりして、私がほんとうに<他のかたにお勧めしてもいいな>と感じた方のものを中心にリンクさせて頂いております。
あしからずご了承下さいますようお願い申し上げます。

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マイナーブログの割にナマイキを綴っているようで我ながら心苦しいのですが、趣旨をおくみ頂ければ幸いに存じます。

投稿: ken | 2008年6月23日 (月) 08時46分

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