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2008年5月 8日 (木)

モーツァルト:やっぱり他人作? ヴァイオリン協奏曲第7番

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。



ヨーロッパの、中世までの文献には、「偽プラトン」だの「偽デメトゥリオス」だの(名前は適当に付けているので、本当にそんな呼び方でよかったのかどうか記憶していませんが)、別に「偽」がついても、現代の研究者にとって重要なものも少なくない、と伺っております。
音楽にしたって、その頃までは作者がどうであっても、あんまり気にされず、「美しければいい」ということで享受されています(こちらは文献の世界に比べると、ずいぶん最近になって芽生えた傾向ですが)。

けれども、近代音楽になると、作曲者の真偽が大きく問われることになる。
19世紀に入って、作曲家全集が盛んに刊行されるようになると、
「果たしてこの作曲家の<全集>におさめていいものかどうか」
ということが検討され、次第次第に許容範囲も狭まって、「偽作・疑作」はどんどん除外されて行くようになります。

その中でも、ハイドン作とされた「セレナード」四重奏曲や、小品のなかでは「モーツァルトの子守唄」・「シューベルトの子守唄」なんてのは、辛うじて出版楽譜としても録音としても、コンサートナンバーとしても生き残っています。
が・・・大多数は、「偽作」すなわち「ニセモノ」であることが分かった時点で、楽譜として出版も演奏もされなくなり、それがさらに「疑作」すなわち「アヤシイ」となっただけでも同じ運命をたどるところまで拡大されて行く。・・・あんまり新しい話でなくて恐縮ですが、ベートーヴェン生誕200年のころ、「もしかしたらベートーヴェン若年時のものではないか」と話題を呼んだ交響曲があったことをご存知ですか? あるいは覚えていらっしゃいますか?
「イエーナ交響曲」と称されたその作品、今のようにCD化が早い時代だったらもっと広まるチャンスもあったのでしょうけれど、CD時代が到来する前に「偽作」だと判明したため、とうとう私たち素人の耳に届くことは(FMで放送されたものをしっかり録音していた人以外には)ありませんでした。・・・でも、騒がれたくらいだから、決して「駄作」ではなかったんですけれどね・・・

モーツァルトの第6番、第7番と称されていたヴァイオリン協奏曲も、前者は「偽作」として、後者は「疑作」として、演奏されなくなってしまったもののひとつです。



モーツァルト関係の「偽作」や「疑作」も、決して少なくありませんが、
「あ、これってモーツァルトじゃないの!」
って分かったり怪しまれたりしたとたん、それまで大事に弾かれていたものが急に顧みられなくなるのは、なんだか寂しいですね。
それがたとえ真性でないにしても優れた作品かも知れないし、優れていないにしても美しかったら、「ニセ」であること、「アヤシイ」ことが分かった上で、その美しさを大事にする、というのが本来の音楽の愛されかただと思うのですが・・・人間の愛情と同じで、チャップリンの<街の灯>で、相手の女性が目が見えないうちはチャップリンは聴覚だけで彼女に「金持紳士」だと信じ込ませるのに成功し、愛されていたのに、彼が必死に集めた手術資金で彼女の目が開いたとたん・・・チャップリンは「放浪紳士」としての正体を知られてしまう。ただし、それが大きな悲劇ではないことに、人間として救いを感じますけれど。

第6番(K.268)についてはまた別途触れることになるかどうか分かりません。ただ、言えることは、これは確かにモーツァルトの作品ではないでしょう。それでも、明らかに1780年代前半のウィーンで流行だったスタイルに敏感、かつ熟練した腕の持ち主の作品だということまでは、耳にするとはっきり感じ取れます。本来は、楽譜を参照し、スタイルをきちんと検証して述べるべきですから、聞いただけの印象で述べるのは誤りなのですが・・・



1777年に限って、ということで、この年7月に完成されたとするヴァイオリン協奏曲第7番K.271aについて、第6番よりやや突っ込んで、しかしやはり簡単に触れるに留めます。

アルフレート・アインシュタインは、第7番について、次のように述べています。

(第7番が少なくとも)モーツァルトが書き下ろしたときの姿で保存されていないことは絶対に確実である・・・それも彼が仮の総譜の草案以上のものを書き下ろしたとしての話である。

さらに、第7番(第6番とカップリング)は、疑作や偽作としては幸いにして、演奏の録音が入手しやすいので、そうしたなかのジャン=ジャック・カントロフのCDにあるライナーノートから、これも少し引用しましょう。

・・・写譜と称するものが二つある。ひとつはオーストリア、ウィーンの資料蒐集家アロイス・フックスが1840年頃に写譜したとされる総譜であり、他はフランスの指揮者、作曲家でヴァイオリン奏者でもあったフランソア・アブネック(私註:ベートーヴェンの第九を、1stViolinのパート譜だけでフランスで初演した人物)。原譜のパート譜にはモーツァルトの自筆で「ヴァイオリン協奏曲、ザルツブルク、1777年7月16日」と記されていたという。

「パート譜に自筆で」というところに、ひとつひっかかりがありますね。パート譜は通常は写譜の担当者が作成した(と私は理解しています)ので、モーツァルト自身がパート譜を作成し、そこに署名をした、ということは、ちょっと信じ難い。いかがでしょうか?

さらに、作品のスタイルを検討してみます。
第1楽章のアレグロ(ソナタ形式ですが、あとで述べるように、この時期のモーツァルトでは考えられないスタイルの作りになっています)は、楽譜がないので、呈示部についてのみ耳でカウントしてみたのですが、まずオーケストラ総奏が52小節あるのに対し、ソロヴァイオリンの第1主題呈示が45小節あります。最初のオーケストラ総奏は、古典派の協奏曲では第2主題が現れても原調(この作品ではニ長調)に留まるのが通常ですが、それに対しソロが登場すると、第2主題に入る遥か前であっても、なるべく早めに属調(この作品ではイ長調)に転調するのが常套手段です。で、転調するまでに、あまり長い間を・・・これはきちんと統計的に見なくては行けませんから、こんな直感だけで言ってしまってはいけないのですが・・・長い間を置くことはない。ですのに、この作品では延々と45小節も原調のニ長調に留まるのです。これは、第5協奏曲まででさまざまに斬新な様式をトライしたモーツァルトの、彼自身が明言している「作曲の名人」であるという自覚と矜持からは全く信じられない<安易さ>です。当然ながら、作品の印象も単調になります。

第3楽章のロンドが、やはり先行する第2から第5までの工夫の積み重ねの痕跡が全く見られない(協奏曲ではありませんが、せいぜいK.136〜K.138の通称ザルツブルクシンフォニー【ディヴェルティメント】程度のウィットを延々と引き延ばすことでつまらないものに陥れてしまってさえいる)ような平板なものであることも、モーツァルトの真作ではないことを確信させます。

では、誰の、とまでは言わずとも、どんな人の作品か、ということを推定する上で、3つのヒントがあります。

ひとつ目は、第1楽章の展開部が、呈示部で示された第1主題、第2主題とは全く別種の、第3主題とでも呼ぶべきものを持っている点で、これはクリスチャン・バッハのシンフォニアなどにもみられるものですが、イタリア系の(かつ、面白いことに、ベートーヴェンが「エロイカ」で復活させた)古式な「ソナタ形式」です。

ふたつ目は、第2楽章のピチカート伴奏。これも、本当はモーツァルトと同時代のヴァイオリン協奏曲と比較したいところですが、有名な例ではヴィヴァルディ「四季」冬の中間楽章に見られるように、やはりイタリアの系譜を示しているものです。

3つ目は、全曲を通じて、ソロヴァイオリンのパッセージが、モーツァルトのしたように、ではなく、ごく普通のヴァイオリン名人がいかにも考えつきそうな、「主題に変形を加えないまま高音域に持って行くことで華やかさを演出したり、旋律の原型が崩れない程度の装飾を定型的に繰り返す手法」で書かれているところです。

以上から、「第7番」は、やはり残念ながらモーツァルト自身の作だとは、私にも思えません。
イタリア在住であった保証はありませんし、そう考える必要もありませんが、最低限オーストリアに進出して来ていた人物だとしても、かつ、それがモーツァルトに近い人物であったとしても、おそらく純正の<イタリア人ヴィルトォーゾ>の手に成ったものなのではないでしょうか?

ただ、素人ヴァイオリンを弾く一人として、だからといって私たちの耳から遠ざかった作品になってしまうのは甚だ残念です。
すくなくとも、Viottiの協奏曲に比べれば、ずっと面白い気がするからです。

・・・あまり、モーツァルトの生涯そのものには直結しない観察になってしまいました。
・・・アブネックが見たと言うパート譜の日付があてになるかどうか分からない以上、モーツァルトのこの時期の環境と結びつけることにも、あまり意味がないと考えたからです。

こんなところで、ご容赦下さい。

モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第6番・第7番Musicモーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第6番・第7番


アーティスト:カントロフ(ジャン=ジャック)

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コメント

7番の解説ありがとうございます。いや~勉強になります。

さて
>だからといって私たちの耳から遠ざかった作品になってしまうのは甚だ残念です。

同感です。「疑作」と謂われていても一応持っておきたい性分なので時々は聴いてます。でも本当は暫くご無沙汰です。ということで、今日は早く帰ったので久しぶりに聴いてみます。音は、1966年録音 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団 指揮 アレクサンダー・ギブソン / ヘンリク・シェリング です。 う~ん 第2楽章のヴァイオリンやっぱり痺れます。

投稿: ランスロット | 2008年5月12日 (月) 20時39分

7番に触れておきたい、お思ったのは、アルフレート・アインシュタインが、とくに第2楽章をあまり高く評価していないからなんですよね。・・・これは、たとえ技法的に新姓のモーツァルトより劣るように見えても、ヴァイオリン音楽としては大変に美しいと思ったんです。そのことまでは、本文では触れませんでしたが。

モーツァルト神話は「モーツァルトだけが絶対」かつ「神の子」であった、というところから崩して行かなければならないのではないかなあ、と思っています。でないと、人間として、職人意識の結晶としてのモーツァルトの価値が、いつか逆におとしめられてしまうのではないかなあ、と。

投稿: ken | 2008年5月12日 (月) 23時13分

こんばんは。
僕も6番、7番共に
やはりモーツァルトの真作とは言えなさそうだと感じています。
6番の方が一聴して分かるくらいモーツァルトっぽくないですよね。
ですが作品自体は全体的にかなり魅力的なので、
腕の立つ作曲家の作品ではあるかもしれません。
作曲技術的には拙いところもあるらしいのですけれど、
それも聴いていて気になるものではないですね。

一方の7番は響きの点でヴァイオリン協奏曲2番K211にとても近い
ものを感じます。(フランス風?)
モーツァルトは3番K216以降の3曲ではそういう響きから
かなり離れていっているように感じるのですが、
そうするとこの曲(1777年作?)の存在はちょっと不自然かも。
スコアを見てみても(Web上で公開されている新全集で見れます)、
管楽器の使い方や弦のオーケストレーション、
ソロ偏重でオケとの絡みが少ない等、
モーツァルトらしからぬ要素が散見されます。
また(蛇足かもですが)彼のスコアを見ていて感じる、
ある種の図形的な美しさがほとんど無いのも疑惑を深めます。
とはいえ、なかなか楽しい、美しいところもある音楽なので
全く無視するには惜しい音楽ですね。

投稿: Bunchou | 2008年12月12日 (金) 00時23分

Bunchouさん、長らくお待たせしてゴメンナサイ、でした。

6番、7番を一生懸命聞き返してみました。
結論。Bunchouさんのご意見にまったく賛成!

7番が「フランス風」だと言うのはご達見だと思います。
かつ、3番以降のモーツァルトの協奏曲には7番の持つ響きがないことも仰る通りだと思います。
ただ、第1楽章の中間の短調部分は、あらためて聴くと、非常に美しいですね。
スコアに図形的な美しさがないのは、やはりソロ偏重型の作品だからなのでしょう。

6番は6番で、技法上の欠点を云々する人がいるなら「じゃあ、自分で作ってみろよ!」と言いたくなるほど、作品全体としてはまとまりがよく、決して退屈しない音楽ですね。

記事を綴ったあとiPodから消しちゃったので、また入れ直そう!
最近、6、7番を含む全集が数種、また再発売されているのを、先日ちょっと仕事をさぼって覗いた見せで発見しました。

投稿: ken | 2008年12月13日 (土) 18時08分

6番は単純にモーツァルト作と間違えられたものかもしれませんが、7番はモーツァルト死後の名声に乗じた贋作(しかし割と良い作品)だったのかもしれませんね。

>スコアに図形的な美しさがないのは、やはりソロ偏重型の作品だからなのでしょう。

僕はそれだけでない気もしています。
モーツァルトのややソロ偏重のコンチェルトでも
もっとマシというか、なんというか…。
やはり伴奏部がミソなのかも。
(音楽自体とは全く関係ない話でしたね…)

投稿: Bunchou | 2008年12月17日 (水) 21時01分

Bunchouさんがいつもいろいろ示唆してくださることに、どれだけ感謝を申し上げたらいいのか!

そうですか、モーツァルトじゃないから、という部分が、伴奏部の絵柄にも出ますか。。。

パガニーニなんかをスコアを見ないでイメージすると、
「オケなんて所詮お飾り」
なので、まあ、それと同じだろう、程度にしか考えていませんでしたが・・・絵柄はたしかに大事です!

機会があったら、7番とパガニーニとヴィオッティあたりのスコアの「絵柄」をよーく観察してみます。

投稿: ken | 2008年12月18日 (木) 10時37分

僕はモーツァルトのスコアを見ていると
「神は細部に宿る」
って言葉をよく思い出すんです。
コンチェルトにおける伴奏部とか、
シンフォニーでの内声部の丁寧さが
そういう感覚にさせるのだと思っています。

そしてそういう部分にこそ、
モーツァルトの綿密な計算や彼の言葉にあるように、
「僕ほど作曲の勉強をした人はいない」
という強い自負を感じさせられます。

投稿: Bunchou | 2008年12月21日 (日) 21時22分

>「僕ほど作曲の勉強をした人はいない」

彼のスコアを最初から読んでみたい衝動に駆られたのは、まさに、彼のこの精神が「音符」から溢れ出てくるのに打たれたからのような気がしております。私にとっては初期のカルテットの中の1曲、ついで「ジュピター」の自筆譜のファクシミリを手にした時に受けた感激が、スタートラインにあります。

ベートーヴェンは何度もスケッチを重ねたけれどモーツァルトはそれをしなかった、という迷信を打ち砕いたのが、とくに「ジュピター」の清書稿でした。
ベートーヴェンは紙にスケッチした。モーツァルトも、場合によってはそうしていたことが分かったのが、「ジュピター」の終楽章の消しあとによるものでした。ですが、基本的にモーツァルトはスケッチ帳までは必要としなかった。彼は心にメモをし、心に彫り込んで、それから初めて紙に書き下ろした。・・・これは個性の違いですね。
ただの神童にはおさまっていなかったし、ただの天才でもなかった。ただ、スケッチ帳がないところでベートーヴェンとの違いを云々するのは(これはひとつの例え話ではありますが)、モーツァルトの努力家であった面を見落とす危険性を非常に高めますし、現に、未だに誤解されている気がしてなりません。

投稿: ken | 2008年12月21日 (日) 23時29分

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