« モーツァルト:楽器を知りつくしたオーボエ協奏曲(ハ長調K.314) | トップページ | TMF:合宿の「感傷的」総括 »

2008年5月 2日 (金)

古代のカルタゴ=今の日本?(時事ネタにあらず)

明日から三日間は、合宿の手短かなまとめになるでしょう。
その前にひとつ、(ここ数日綴ったことの幾つかをも考慮しつつ)、私的な思いを綴っておこうと思います。



しかしまずは、旧約聖書の「コヘレットの書(伝導の書)」から、幾つもの引用を並べます。
(内容が日本仏教に似ていることに驚かれるかもしれませんが、その驚きに対してなんらかの答えを出すのが目的ではありませんので、ただ引用だけを行ないます。)

     太陽の下に新しいものはない。
     これは新しいものだ、ごらん、といえる何かがあったとする。
     ところが、それも、先の世にすでにあったものだ。
     ただ、昔のことは記憶に残っていない、
     私たちののちの人々のすることも、
     それよりのちの人々の記憶に残らないだろう。
(1-9〜11)
     
     曲がったものをまっすぐにはできない
     足りぬものは数えられない。
(1-15)
     
     知恵者は自分の前を見る、
     愚か者は手探りで歩く。
(2-14)
     
     人間の行く末と獣の行く末とは同じものだ、
     人間も死に、獣も死ぬ。二つとも同じ息をしている、
     人間が獣にまさるというのも空しいことだ。
     二つとも同じところに行く。
     二つとも ちりから出て ちりに帰る。
(3-19-20)
     
     知恵は人の顔を輝かせ、
     その固さを和らげる。
(8-1)
     
     風に気をつけている人は種がまけない。
     雲を見ている人は刈り入れをしない。
(11-4)

     朝から種をまき、
     夕方も手を休めるな。
     なぜならあなたは、これか、あれか、そのどちらが
     実るかを知らないからだ。
     二つともよいかも知れない。
(11-6)


      以下、史料などを手元に用意して綴るわけではありません。すべて、私の主観です。
話は大きく出ますが、申し上げたいのは、人間というものの、生の営みの消長とは、いかに定型的であるか、という、最終的には個々人レベルへの比喩に(ご自身で)落とし込んでお考え頂きたい事柄です。
現在の日本について、大きく三つの実態があります。

*人口は、確実に減る。
*従って、流通は確実に規模縮小する
*しかし、いったん定着してしまった私たちの「消費速度」は、慣性の法則と心理的重力の弱さのバランス故に、容易には落ちない

これに対して、なにゆえでしょうか、非常に矛盾する4つの振る舞いを、私たちはしています。

・企業は、バブル崩壊経験を忘却し、第2次大戦以降身に染み付いた「市場拡大」幻想を元にしか事業計画を立てていない。
・国家運営は、そうした企業活動を前提に税またはそれに準じるものの徴収増額をもって、慢性化した金銭上、精神上の「赤字」を解消する以外に別の手段を見いだす能力がなく、それに賛成する側も反対する側も、おしなべてみな、新機軸を提案しようという主体的感性を失っている。結果的に、税収を上げるだけの運営とは企業のもくろむ市場規模拡大にブレーキをかけるだけでなく、ギアをバックに入れるのだ、ということへの自覚がない。
・こうした事態を公平に評価できる実践的「知識人」は、自己の獲得して来た視野をなるべく客観的に見据えながら、上記の矛盾がもたらすであろうこの国の「後退局面」について警鐘を鳴らし、次世代を守ることに懸命である(と私は信じています)が、一方で上記2項の橋渡しをする上で影響力が大きいのはあくまでマスメディアであり続けている現状、なおかつ、自らも営利企業であるという特質から、マスメディアは知識人の警鐘の本質よりは(口先は別として)自らの営利に繋がるのであれば、たとえば(マスメディアではない)企業が破綻しても国家運営系から収益が入れば良し、逆に国家が破綻しても企業が利潤を確保しうるかぎりそれでも構わないのであるから、結果的に、危機の本質には目を向ける努力は怠っている。
・一般人は、マスメディアからの情報への依存度がまだまだ高く、従って、根底に起こっている、また確実に起こっていく事態について統括的に理解しないまま、その日その日のニュースや「感動エピソード」・「卑劣エピソード」にスポット的な反応や批判をするレベルにとどまっている。

・・・すべて、私の主観に基づく一般論です。ですから、「例外のない法則」としてはお読みにならないよう、心からお願い致します。

で、私が主観でまとめてみたこの状況は、古代のカルタゴに非常に似ている。

商才だけで大きな版図を築き、荒削りなローマに対抗し得て来たこのフェニキア人の「平和国家」は、最終的に「力による支配」を是としたローマが(こちらには、まだ経済が未開であった、故に発展する余地があった、というメリットもあったので、長い目で見ると実はカルタゴと似た道筋をたどって行くことになるのですが)「押し」に入り込んで来たとき、ハンニバルと言う一個人にのみ責任を押し付け、たったひとりの人間の「武術戦術の才能」のみに依存しておきながら、バックアップを何も行なわず、結果的にハンニバルを見捨てることによって延命を図る、という連帯無責任を演じ、仮の平和を取り戻したかに見えながら衰退の速度を早め、最後はローマの武力によって制圧されてしまったのでした。

今の日本と似ているのは、「連帯無責任」という、その体質です。
「国家」がそうなのではありません。「企業」がそうなのでもありません。マスメディアには・・・連帯無責任を助長して来た責任はあると思います。しかし、以上の三つは、あくまでその実態は「仮想的」な存在に過ぎない。属している人はそうは思っていないかも知れないけれど、「○○大臣」とは紙切れに「○○大臣」と書かれていることだけが根拠で「大臣」として存在しているのですし、マスメディアを含む「企業」とは、おおもとはこれも、極端な場合は「登記」という手段で「法人」という仮想の人格として「法的」に(この「法」もまた、成文化されている場合には紙の上だけのものです)「人間」に成り済ませば、実際には実態としての人間なんか一人も存在しなくても(その場合には休眠という扱いにはなりますが)いい、ヴァーチャルなものでしかありません。
であれば、それに目くらましされている私たち個々人こそ、実は「連帯無責任」の根源なのではないか。

果たして、私たちはカルタゴの人々と、あるいは帝国化した古代ローマの人々と、またあるいは、無数の消え去ったオアシスの人々と、同じ運命をたどりたい、だなんて思っているのでしょうか?

「そんなことは思っていない」

でしたら・・・個々人のためのたとえ話としてはあまりに大袈裟になってしまいましたが・・・まずは、私の、あなたの、私たち一人一人の、日々「いかに生きるべきか」ということへの内省から始めていかなければならないのではないか。内省、とは、すなわち、「当事者」としての責任意識をどう持つべきか、を自身の中で見極めていかなければならない、もしかしたら死のその日まで結論が得られないかも知れない行為ではないのか。



なんで結びつくのかは全然納得して頂けないかもしれませんが、私がこんなことをまとめてみたいと思った最大のきっかけは、バルトークを読み直したことに端を発しています。

私の内省は、「音楽」という行為から始めるのが、もっとも私自身にとって分かりやすかったからに過ぎないのです。

ですから標題に記しました通り、この記事は
「時事問題にはあらずして」、
私の内省の方法がこれで良いのかどうかの確認のためであり、そのことを通じて(お読み下さった方と直接会話はできなくても、あるいはコメントでのやり取りなどせずとも)、一人でも多くのかたと、ほんとうに「心を前向きに接しあいたい」という表明なのです。

あまりに複雑怪奇な文で、
「脳ミソの具合でも悪いんじゃないの?」
と仰られてしまいそうですが、あえて掲載させて下さい。

脳ミソの具合は、たしかに、家内の不在以来、よくはありませんから。

繰り返しますが、
「時事問題にはあらず」
です。くどくてすみません。
     

|

« モーツァルト:楽器を知りつくしたオーボエ協奏曲(ハ長調K.314) | トップページ | TMF:合宿の「感傷的」総括 »

コメント

繰り返しのご注意を読みながらも、時事問題として拝読しましたが、至極ごもっともだと思いました。

道路だ、箱ものだ、それぞれ細部を見た問題点は、とりあえず抜きにして、いわゆる市民=納税者=有権者の態度におよそそうあるべきところの自覚がなく、いまだに

 いじめるお上とあわれな庶民

などという民主主義ではあり得ない図式に、我々がとらわれているのはまったく事実だと思います。そんな発想で、自覚、自立なんて起こるのか?

事実上そうだとしても、これはおかしい、こうしなきゃならん、という意見はおのおの自分で情報収集と遂行を重ね、自分の孫子らにそれを教える・伝える・・・からこそ、最終的に世代交代で多少ともよりよい方向に向くのだと思いますが、およそそんなことを放棄しているように見えます。

わたしのゆるい歴史認識ですが、日本でまともな市民階級、中産階級(中流階級などではなく)の育成がなされないまま、一気に戦後がはじまったので、なかなか難しかろうとは思うのですが、、、それだってもう何十年たっているのか・・・

・・・という話をよく友人としているのですが、そんな中、昨日でしたか一昨日でしたか、カーデザイナーの奥山さんの帰郷後の活躍がNHK クローズアップ現代で放送されたのは清涼剤でした。私には「地方にはいろいろいいものがある。東京経由している限り、単に日本国内の下請けだよ。世界に直接売りましょうよ、自分の手と知恵で。」と見えました。

こちらがうんざりして愚痴を言っている中、実際にお金をぶんどって(いるほど成功しているかは不明ですが)いらしゃるのは実にすばらしいことだと思います。

海外経験者が海外の資本の手先となって、国内の利益吸い上げの片棒を担ぐのでなく、きちっと、外に売ってくる。実に立派なものです。

・・・と輪を掛けて、「大丈夫か!?」な時事問題的コメントをしてしまって済みません!

投稿: sergejo | 2008年5月 3日 (土) 03時23分

申し訳ありません、私も「時事ネタ」としてレスポンスしました。

昨晩、10年ぐらい前の日本悲観論の流行を思い起こしておりました。

あの頃は、山一証券が自主廃業したりという状況の中で、日本のメディアも結構真剣に日本の行く末を議論していたように思います。

それから小泉政権と時を同じくしたように「戦後最長の経済成長」が始まりました(今、終わろうとしていますが)。これで東証一部上場企業などの一流企業は息を吹き返しました。しかしそれにおいて行かれた人たちのことは、一部メディアは報じても、いわゆる「エスタブリッシュメント」の方は真剣にそれらのことについて考えているように思えません。

教育の現場を考えても、10年前より、今の方が悪くなったと思える理由はたくさんあっても、良くなったと考えられる理由は少ないように思えます。

恥ずかしくなるような単純な見方ですが、日本のエスタブリッシュメント(アイコン的に語るなら、NHK-BSを見て、日経新聞・文藝春秋を読み、それらのメディアの中に取引先の知り合いなどを見つける人々)は、日本で、以前なら「下層階級」と呼ばれていた人々(アイコン的に語るなら、民放地上波を見て、フリーペーパーでテレビ番組チェックをし、漫画本などは定期購読している人々)を見捨て始めたと思います。

そしてその間にいたはずの「中間層」は、必死でエスタブリッシュメントにつながろうとするか、「みんなと同じように落ちてゆけば、それは落ちていることにならない」とばかりの無思考状態になりつつあるような気がします。


すみません、また熱くなりました。


ひさしぶりにバルトークでも聞きます(笑)。

投稿: イワン | 2008年5月 3日 (土) 12時57分

コメントありがとうございます。
詳しく拝読させて頂いております。
現在合宿中です。
正式の御礼は、あらためて綴りますので、失礼お許しくださいね。

投稿: ken | 2008年5月 3日 (土) 22時01分

自分はいろんな方が思い思いに綴るblogという媒体が好きです。ときおり、このように「ひじょうに深い」文章にお目にかかることがあるからです。

おっしゃっていること、しごくもっともです。ときおり、プロの書いた文章でも論理的につじつまがあわず、循環論法に陥っているなど破綻しているようなものを見かけたりします。最近見かけたヘンテコな例では、米国のサブプライムローンの焦げ付きが世界経済をおかしくした→この問題の背景には低所得者層に「持ち家」を買わせようとした米政府の「確信犯」的行動がある→米国の「低金利政策」は「持ち家政策」でもあった→かつての「日本列島改造論」での土地投機のあおりを食って日本の庶民にとってマイホームは高嶺の花→いまやこの国の若者には自力で家を買うどころか、車さえもてない→日本版サブプライムローンを検討してみてはどうか(??? それが焦げ付けば、けっきょく低所得者層は自分の家から追い出されるし、こんどは日本発世界不況になりかねない)。こういうのを新聞に載せられてしまうと読まされたほうとしてはどうにも挨拶に困ります。

sergejoさんのコメント、まったく同感であります。とくに、

> 日本でまともな市民階級、中産階級(中流階級などではな
> く)の育成がなされないまま、一気に戦後がはじまったの
> で、なかなか難しかろうとは思うのですが、、、それだっ
> てもう何十年たっているのか・・・

というくだりはほんとにそのとおりです。自分もふくめてですが…以前読んだケニアを舞台にした本の譬えだと、「道路も車もないところにいきなり飛行機と飛行場がやってきた」みたいなチグハグ感はぬぐえません。きちんと醸成されたうえで市民みずからの力で勝ち取った民主主義ではなくて、GHQ主導のもと、「気がついたらそうなっていた」ていどの認識でしかないのだと思います。残念ながら戦後60年が経過しても、あいかわらず真の市民階級・真の民主主義からはほど遠いような気がしてなりません。もっともわかりやすい例は、投票率の低さ・無関心さでしょうか。

そういえばマザー・テレサが、「われわれの最大の敵は、無関心だ」と言っていたのも思い出しました。

投稿: Curragh | 2008年5月 3日 (土) 23時30分

kenさん、度々申し訳ありません。多分、時事問題とすると熱くなりすぎるので、避けられたのかと思いますが、、、面白い話なので、、、一言だけ!

Curraghさんの書かれた

>こういうのを新聞に載せられてしまうと読まされたほうとしてはどうにも挨拶に困ります

ですが、どうも最近メディアに出てくる経済学者やアナリストには、経済学的な見方でなく、「誰の為に話しているのですか?」と疑いを抱かせる方々ばかりなので注意した方が良いと思います。

市場経済が最高!なんて散々仰っていた某KO大学の諸先生方が、サブプライムの破綻への市場介入に何も言いません。市場介入のルールが不明瞭なら、そんなもの誰かの都合でいいようになるなぁと(ハイリスク、ハイリターンを明晰な頭脳集団がくぐり抜けるようなこと言っといて、リスクを政治的に他人にかぶせているだけでしょう、、、)。

投稿: sergejo | 2008年5月 6日 (火) 04時24分

>時事問題とすると熱くなりすぎる

にもかかわらず、私の大好きなお三人がお三人とも「時事問題として」お読みになられた。
そういう問題意識を持つ人にでなければ、たとえ難解な言葉が読み解けたり、情が深くて誰にでも優しい人徳者だったりしても、お三人のようには<今>をひもとくことが出来ないのだと思っています。ですから、「時事問題にあらず」と断り書きを付けた主旨は、「私は悲観論者、なのかもしれない」という、私の自己確認の意味しか持っていなかったのかなあ、と、それぞれのコメントを拝読しつつ、つくづく思い返しております。

話を一瞬そらすようにお見えになるかも知れませんが、そうではなく、以下、脇道から入ります。
音楽系の歴史を考え直す読書では、いま、ルネサンスとは何だったのか、を見つめ直すところに差し掛かっているのですが、「ルネサンス」=「文字通り、人間性の再生」かというと、そうではない。ヨーロッパがやっと世界経済を掌握する自信を持ち始め、それが故に、富者と貧者の分立がいっそう激しくなったところへ、やっぱり大半の貧者は富者とどう結びつくかに腐心するようになり、むしろ中世より甚だしく意図的で露骨な「封建制の権威化」が進展した時期ですね・・・あ、そういう意味では、人間が「なくてもよいものに最高の価値付けをするようになり」、人間の本性を<再生>させた時期で、やはり「ルネサンス」は文字通りで宜しいのかもしれませんねえ。残念ながら、というべきか、反対に良かったというべきなのか、音楽家たちも、名前を富者に寄生しなければ、音楽家として暮らして行けない存在となりました。それでいて美しい作品が残せたのは、ある種の奇跡としか言いようがありません。今日まで名前が知れ渡り続けているルネサンス期の作曲家が、いかに僅かであることかを、文人達と比べると、これは研究が難しいから少ないのだ、という理由ばかりではないようです。
・・・と、話をまた昔に引っ張って行くのをお許し下さい。

「再生」の鍵は、ほんの一握りの人間が握っただけでした。比率は「思考をしなければならない」必要上から文人が圧倒的に高いのですが、ペトラルカに始まり、交友のあったボッカチォ、国は移りますがセルバンテスやラブレー、チョーサー、モア、エラスムス・・・端からある意味で厭世者だったボッカチォなどを例外として、いかに「今の階層のありかた、その間の交流の仕方」を真剣に思索したかは、彼らの著作では明確に前面に現れています。ですが、真面目に取り組んだ人々の理想はことごとく潰えて行く。
ボッカチォの特異さは(チョーサーとは似て非なるもので)風刺に徹底していた点ですが、これがむしろ庶民には支持され、ドイツの「ティル=オイレンシュピーゲル」説話、フランスの「狐物語(これのほうがボッカチォより古いですか?)」などを通じ、かえって以後の「身分が低かろうが、死んだら名前も忘れられようが、オレはオレを生きるのだ」という、良き時代のヨーロッパ精神に繋がっていったところがまた、興味深く思われます。

「ルネサンス」期の救いは、正面からぶつかる人が、たとえその思いがとげられなくても、続々と現れ続けたこと、反面、「ゲリラ的」な、しかし武力的ではない風刺精神が地下水となって近代へ繋がって行くところにあったのではないかと思っています。

カルタゴには、そう言う文化がありませんでした。

今の日本も同じです。
正面からぶつかる文人については本文中で触れた通りですが、現時点ではアキバが代名詞になっている「文化ゲリラ」も、いずれも<権力>側が無視をしたり抑圧したりしている一方で、マスコミはあいかわらず面白おかしく画面に映し出して、あたかもチベット問題と同列であるかのように、お客様的な無責任コメントを連発しているだけです。

私なんぞは一介のサラリーマンを続けているので、実態は無責任組であるわけで、そうである自分にも非常に悲しみを覚えながら綴ったことでもあります。これは、このお礼の文の冒頭にお話したことの、背景のひとつです。
企業(官庁も含めて)というところの中では、みんながみんな、自分を押し殺すことが美徳だと思っています。私も例外ではありません。一方で、オーケストラの世界で生きていると、自分を押し殺すことは、必要な規律に習熟していることが前提ではありますけれど(でなければ「徒弟」のままなのです・・・そこへの自覚の機会もモラルも失われていると言う別の側面もあるのですが、この話はまた別の機会にできればいいかなと思います)、響きを広げる上では非常に邪魔になります。

そんな自己矛盾は、環境・目的の性質が表面上いかに異なっていても、大なり小なり、本来は誰でも抱えていると思うのです。

ですが、自覚できる人がまた稀であることも、現実です。議論したがる人は、「まず自覚」よりも、他者攻撃・環境攻撃という非難をすることばかりに腐心します。それは、私の目には正しい行為であるとは映りません。

この記事を綴った根底には、大変にスケールの小さい話で恐縮ですが、せめて我が子達には、「自己矛盾」を抱えたかたちで生きて行くような「大人生活」のスタートを切って欲しくない、そこまでに、彼らの自立をどう応援するのか、をよく考えなければならない、という私の反省があります。

必要なのは、自分を見つめる確かな目を養うこと・・・そうすれば、人様が「ズルい」と言おうが何と言おうが、きっと逞しく生きられる。

そう言う人間を・・・我が家の場合は二人だけではありますが・・・養成できれば、日本人もカルタゴ人よりはルネサンス人に、少しでも近づけるのではないか?

ある意味では、ですから、私が人生を終えるまでに何を考えておかなければならず、どのように行為していかなければならないか、という、これは(法的な意味ではない)「遺言書」の「前書き」でもありました。

「今」の話で終わらせてはいけない、目先で方法論に走ってはいけない、という、自戒も含みます。

そこへ思いがけず、素晴らしいコメントを頂けたことに、心から感謝しております。

きちんと、正面からのお答えと感謝になっているかどうか・・・また是非ご批判下さい。楽しみにしております。

投稿: ken | 2008年5月 6日 (火) 11時57分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/95716/20721152

この記事へのトラックバック一覧です: 古代のカルタゴ=今の日本?(時事ネタにあらず):

« モーツァルト:楽器を知りつくしたオーボエ協奏曲(ハ長調K.314) | トップページ | TMF:合宿の「感傷的」総括 »