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2008年5月21日 (水)

「黙って見守る、見守られる」

ラ・プティット・バンド at つくば(6月1日)、是非お出掛けになってみて下さい!(リンクしてあります。)



日頃の、お礼です・・・今更ながら、なのですが。

今朝、家族全員、寝坊をしました。
夕べは決して「遅寝」ではなかったのです・・・
でも、気がついたら、8時20分でした。

娘は前日に試験を終え、高校に入って初めて緊張が解けたのでしょう。
息子は、ま、ノンビリやですから。
私は気候の変動で体のリズムが崩れ気味で、昨日は念を入れて早退して来たのですが。。。
娘が、徹夜近いほどに連日勉強したにもかかわらず、試験で思わしい結果が出なかったとの感触でしたので、帰宅後、息子も連れて三人で本屋さんへ出向き、そこで娘の気に合う「英文法の本」、「数学の問題集」、加えて私の発案で英語の初歩的な読み物(月2冊以上読むこと!との命令付き)、「数学物語」という、故・矢野健太郎さんの名著(角川文庫)を買って与えました。それから、すぐ近くのスパゲッティ屋さんでの夕食。
・・・これが、子供たちに休日気分を与えてしまったせいもあるかも知れない。

慌てて子供たちそれぞれの学校に電話を入れ、寝坊した旨伝え、出掛けさせてから、自分は
「午後出社します」
と電話を入れましたが、
「いや、確実に体調を整えるように」
とのことなので、無念ですが欠勤しました。



「なにも、昨日といい今日といい、そんな時くらいブログ休めばいいのに!」
そう、お叱りを受けるかもしれません。
でも、この日課、私は「自分の治癒」のためには、どうしても日々続かなければならない、と、勝手に決めつけています・・・バカです。

家内の生前は、日常会話はともかく、話していない時には、家内と私がお互いに
「黙って見守る、見守られる」
ということで、お互いどこかで安心出来たり、救われたりしていた、と信じています。
これが私の一方的な思い込みだったら、悲しいのですが・・・
今日休んで、でも寝付けませんので、たまたま娘と約束した箇所の整理のチャンスだと思って片付けていたら、家内が娘を保育室に預けていた当時、保育室との約束でやり取りしていた日誌を見つけました。そこに時々(いや、まれに)登場する自分を発見し、
「ああ、少なくともその頃はオレでもヤツの気持ちが安定するのには役に立っていたのかな」
と、ちょっと安心することが出来ました。

同時に、そんな家内がもういないのだ、という現実が、私にこんなブログを続けさせているのだ、ということにも気づきました。
家内の生前には、何も語らなくてもよかった。
どうしても言葉にしなければ落ち着かないときは、話す、という手段があった。
そんなときの話題は、案外非日常的で、いま思い返すと、ここへ綴り続けていることの簡易版のようなことばかりでした。

喋りまくる私。黙って聴いてくれている家内。

いまでは、家内の生前よりも、この場で私はしゃべりまくっている。それも、自分でも分かっていないような難しい言葉で、延々と。

だから、本当は人様に読んで頂けるようなシロモノではない。

それなのに、いえ、それでも、と言った方がいいのでしょう、今ではそんな私の饒舌を「黙って見守って」下さっている友人が、この画面の向こうに何人もいらっしゃる。
ときどき家内が
「それは、そういうことだよね」
とか、
「いや、こんなふうかもよ」
と言葉を返してくれたのと同じように、楽しいコメントを下さるお友達も、家内という一人の人間ではなく、何人かいらっしゃる、という、ある意味で贅沢を味わわせて頂いている。

ところが、片方で、こちらのほうが「黙って見守っている」相手が目の前に存在しない、というのは、「悟りの境地」に達しえない俗人としては、甚だ苦しい・・・

子供たちにとって、いざという時に「黙って見守っている」存在に、果たして自分がなり得ているか・・・というのとは、また別の話として、なのですが、こちらも日々、不安です。父親は母親と同じにはなり得ない、ということも、同じ日誌を読んでいて、痛いほど感じました。



昨日いただいたコメントで、「楽理を勉強なさっているのですね、頑張ってください」という、実に嬉しくも有り難い、汗顔の至りのものがありました。
ですが、ここで綴っているのは・・・専門屋でもないのに専門屋を気取りたいから、でもなく、世の中の理屈に納得がいかないから極めたい、というものでもありませんで、ただ、家内と交わしていた「暗黙の」会話の延長としての<音楽>、私にとって<音楽とは何だろう>という、もしかしたら、とても狭量な、小さな問いの集積に過ぎないのです。

すべては、つい1年半前まで、(楽隊関係に伝えたかったり、お友達と共有したい情報を除いては)語らずとも別段「腹膨ルル」類いのものではなかった。

そうやって見つめ直してみると、私は、ここで図々しくも、「語らなければおさまらない」醜態だけをさらしている気がしないでもない。

それでも、家内に死の直前まで心配をかけてしまった「ウツ」から少しでも立ち直らなければならない、自分自身が何であるかを確かめ直さなければならない・・・たったそれだけの理由で、併せて「子供たちが自立するまで生き延びなければならない」気力を保つために続けなければならない、そんな個人的な事情からに過ぎないにも関わらず、ここで綴り続けて行くでしょう。

10万アクセスに達していたのに気づいたとき、あわてふためいて一旦お礼を綴ったのですが、そもそもの成り立ちがこのような「手前勝手」な事情であることを、あらためて皆様にはご承知頂け、お付き合い頂けるのでしたら、いつかは何らかのかたちで、そんな皆様にきちんと報いられるようなことも、併せて考えて行かなければならないのだな、と反省致しますと共に、お付き合い頂いておりますことに対してあらためて深い感謝を捧げたく、懲りずに駄文のご挨拶を付け加えました次第です。

とはいえ、当面、ブログを綴る上での方針には何の変更もございませんで、当面の課題を申し上げておきますと、
「藤原定家」は、「千五百人歌合」でつっかえ、本文をやっと半分読んだところでフウフウ言っております。和歌は、とくに歌合となると、読み解くのには素人では相当な難物です。必ず続きを綴れるようにしますので、今しばらくご容赦下さい。
「モーツァルト」は、今日のずる休みで「エジプトの王タモス」の方にだいぶ見込みがたちましたので、近日中にまとめますが、深い内容は期待しないで下さい。(劇の、ドイツ語の台本、ヨメマセーン。)
・単独トピックながら、バッハの新発見筆者譜の解析も、今日何とかやっと手が付きましたので、これは少しは早めにまとめられそうです。
「音楽史」「音楽と話す」は、前者は既存の音楽史の書籍ではなく、なるべくその時代の、その地域や国々の、その時代に書かれたものの翻訳(これが必ずしも音楽の本ではないのですが)に目を通した上で・・・そのわりには大した内容にもならず・・・、あるていどイメージがまとまったかな、というタイミングで綴っております。後者は、それと連動しながら<音楽>を私なりに見つめたらどうなるか、がまとまってから材料を漁りますので、より不定期になります。
このあたりを核に、あとは身近な宣伝を中心に続けます。

今後とも、暖かく見守って下さる目を信じて綴っていけることだけが、私の幸せです。
懲りずにお付き合い下さいますよう、あらためてお願い申し上げて、本日はこれにて失礼を致します。

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