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2008年5月28日 (水)

素直に感じることから始め直したい・・・

ラ・プティット・バンド at つくば(6月1日)、是非お出掛けになってみて下さい!(リンクしてあります。)



夕べ、2つのことがありました。


ひとつめは、息子との会話。
「夢にね、コウジロウが出て来たんだ」
「ふうん」
コウジロウ、というのは、家内の生前、よく我が家を訪ねてきた野良猫です。そのことは前に綴ったことがあったと思います。目が悪くて、やせ細って、毛並みの悪いヤツでしたが、
「うちへきてもご飯をやれないんだよ」
そう言い聞かせつづけたのに、別にそんなの関係ない、という表情で、変わらず我が家に来つづけていました。家内が、
「賢いねえ」
と、褒めちぎっていました。私にとっても、可愛い猫でした。
最後に我が家に来たのが、家内の死んだ朝でした
やってこなくなってからも、時々見かけていたのですが、最近、私も息子も娘も、とんとその姿を目撃することがなくなっていました。
で、息子の夢の話の続きです。
「それがね、夢の中なのに、コウジロウに、ちゃんと触(さわ)れたんだよ」
「じゃあ、コウジロウ、うちのおかあさんのとこへ行っちゃったのかなあ」
「でもさ、コウザブロウも、一緒に夢に出てきたんだよ」
コウジロウとよく一緒にいた、別の猫です。あだ名も、ですから、一緒にいるヤツなので適当につけたのです。こちらのコウザブロウも姿を見かけなくなったのですが、それでも、簡単にくたばるような風貌ではありませんでした。よく肥えていました。そのかわり、声が全然出せなかった。家内が倒れる数ヶ月前から、少しずつは鳴き声がだせるようになってはいましたが。
「そうか、コウザブロウもでてきたのか」
「じゃあ、まだ、どっちも、どこかで生きているよね」
「そうみたいだなあ」


ふたつめは、全然種類の違う話ですが。
私がネットをやっていましたら、たまたま、友人の綴ったものに
「いいはずのオーケストラ演奏を聴いてきたのに、ひどかった」
という苦情が、2件集中してあったのでした。
一つは、友人が友人に公開しているネット上の日記でのもの。
「有名指揮者だけど好きじゃない人が振ってたから?」
もう一つは、
「拍手が大きいのを聞いて、不満を感じる自分が正しいのかどうか、自信が無くなった」
・・・これはちょっと話を極端にまとめすぎているかもしれませんが、そんなメールを別の友人がくれたのでした。
どちらでも同じだったのが、(後者についてはダブりますが)、アンサンブルが不揃いでもオーケストラが平気の平左だったこと。それにもかかわらず、終わったら会場は万雷の拍手で・・・お二人とも、それに納得がいかなかったこと。

共通点の見いだせないお話、と感じられてしまうかもしれません。
ですが、ある理由で、私はここに、人が「考える」ことの、貴重なスタートラインを感じましたので、以下、そのことを極めて大雑把に述べたいと思います。



前の方の話には夢に出て来た相手の側の、後の方の話には演奏者の側の、それぞれの都合というものもあったかもしれません。ですが、以下をまとめ易くするために、ここからは「受け手」側の感じたことだけに注目して進めて行きましょう。


しばらく会っていない大好きな野良猫に夢の中で触れた。まず、前の話の方では、息子はそれを父親に話さずにはいられなかった。触れたことをどう感じたか、ということを、ではなくて、「触れたんだよ」という事実を話したかった。
夢の中で、夢の中に登場したものに触れられた、ということを、フロイト流だのユング流だの、いろいろに解釈することは出来るでしょう。でも、そんな説明をいくら探したところで、意味がないのだろうな、というのが、息子に話しかけられた時、私がとっさに思ったことでした。
「触れた」ことを父に話す・・・まさにそのことに、息子にとって大事な意味があった。
言葉のかげには、「なぜ触れたんだろう」という疑問も残っているのですが、疑ったところで「触れた」事実に変化はない。
「僕、間違いなく、コウジロウに触ったんだよね」
そのこと、そのものを確かめたかったのだろう、と、勝手に勘ぐりました。ただし、それをストレートに問わないということは、「そうだよ、間違いなく触れたんだよ」という答えを、父には求めていないのです。
だから、私は息子が「触れたんだよ」と言ったことをそのまま受け入れることにしました。
その先は、私の意図的な連想が働いています。
この「コウジロウ」は、息子にとっては母親の存在と切り離せない存在ではなかったか?
であれば、いまの私たちは、私にとっての家内、子供たちにとってのおかあさんには、夢の中でしか触れるチャンスがなくなっているのですから、
「じゃあ、うちのおかあさんのところに行っちゃったのかな」
と問い返すことで、息子が母を通じて感じた生と死の意味を、息子の口から引き出せるのではないかな、という発想でした。
結果は、別の仲間の猫まで登場した、ということ、そのうえ、こっちの猫は夢に出て来た猫より生命力があるから「死んでいるはずは無い」という暗黙の了解が私たちのあいだにあったことから、息子が「夢で触れること=死んで別の世界に行ったこと」とは考えていないことがはっきりした、というものでした。

家内の死の1年前から、息子とはお風呂でよく、命の循環の話をしていました。この体が死ぬと、そのまま埋められるにしても、焼かれて埋められるにしても、小さな生き物に食べられる。まず、私たちの命は、その小さな生き物の中に移って行く。小さな生き物は、もう少し大きな生き物に、もう少し大きな生き物は、さらに大きな生き物に、さらに大きな生き物は、ずっと大きな生き物に食べられる。そうやって、命っていうのは次から次に受け継がれて行くんだ、と、何度も話し合って確かめ合ったものでした。あとで考えると、不思議なタイミングで、そんな話をしていたものです。
ここに掲げただけの会話で、息子が私との過去の会話で「命は繋がって行くものだ」という発想をずっと保ったままなのかどうか、は、はっきりとは分かりません。ですが、少なくとも、息子の中で、生と死は「分離していない」らしいことが、いちおう確かめられたというわけです。
いや、そんな屁理屈をこねるまでもなく、
「触れたなんて、夢の中の錯覚じゃないの?」
と否定していたら、息子はどう反応したでしょうか?
そっちを確かめてみた方が良かったかもしれません。
・・・ただ、息子が「感じたそのまま」で間違いないかどうかを父に確認したかった。確認することで、
「信じる」
力を失わずに済むようにしたかった・・・息子が話しかけてくれたことを、私はそんなふうに捉えています。

すみません、のっけから、ちょっと面倒に綴ってしまいました。



次の話の方が、手短かに捉えられるかもしれません。
ただ、これは、前の話の延長線上にあることを、まず念頭に置いて頂ければありがたく存じます。
オーケストラ音楽、と、対象は変わりますが、
「間違いなく触れた」
というところが出発点になっています。
で、「触れた」結果が
  ・自分自身にとっては、ちっとも快くなかった
  ・なのに、周りは気持ち良さそうだった
  ・周りと自分の、この落差は何?(思考の始点)
で、(触れたコンサートは別々のものでしたが)似た感触を得て帰って、とくに、あとの友人は
・もしかして、自分の耳は正しく働いているのか(「信じる」ことへの揺らぎ)
という具合に展開して行きます。

メールを頂いて、お答えしたのは、(メールした通りではありませんが)
「あなたの耳は、間違いなく、正しく働いています」
との趣旨だったつもりです。
「信じる」
ことを見失って欲しくはなかったからです。



私は、たいへんけしからんことながら、業務中に精神状態が揺らぐのが日常ですので、午後に一度くらいは、どうしても<へばる>直前にまで至ってしまいます。
そういうときは、人前でくずおれないよう、地下の本屋を10分程度、ほとんど本の表紙だけ眺めて、その言葉のランダムな渦で、固まりかけた脳ミソをほぐして来ます。
あ、それは、別にどうでもいいことなんでした。
ただ、そうやって、出ている本の傾向を見ると、とくにビジネスマン向けとおぼしき新書の類いには、やれ「新入社員はなぜ3年でやめる?」だの「日本人はなんで勉強しなくなったの?」だの、と、もう私が25年前に就職した当時には起きていた現象について、あたかも<つい最近はじまったこと>のように謳ったタイトルが多いことに、ちょっと呆れ、だいぶガッカリさせられます。

私だって、会社に入った当時は、「3年したら辞めてやる!」と本気で思っていましたし、就職前の学生時代は、<勉強>そっちのけでアマチュアオーケストラ活動に夢中になっていました・・・それでも就職するとなったら、後で知ったのですが、成績表は殆どいわゆる「甲」とか「A」とかいうものでした。学校へ全然行かなかったヤツの成績表が、ですよ!

自分がそうでしたから、私は若い人が「会社を3年で辞める」のも「勉強しない」のも、特段不思議なこととは思いませんし、ましてや、新しい話題だとも思えません。
かつ、「以前の日本人は勤勉で高い評価を得ていた」などと書かれているのを目にしましたが、そういう「勤勉」な諸先輩が、日本の経済を、環境を、次々と破壊して行くのも目の当たりにして来ました。
で、その当時の、「信じる」ことに対するアンチテーゼとしての用語は「無宗教」でした。・・・「無信仰」では無かったところがミソだったように思うのですが、いま、確認する術がありません。



さて、あまり脱線してはいけません。

人には人それぞれの「能力」があるとしましょう。
でも、それには落差があることもまた、生まれ落ちたその日から、人それぞれにつきまとう事実です。
落差のうちの「谷」にいる、と評価する人にたいして、「それよりはオレの方が山にいる」と思っている人は、
「谷の奴らっちゅうのは、<考える>ことを放棄している。<信じる>ものをもたないからだ」
と述べて憚りません。
(同水準の「能力」がある人たち同士を横並びで評価する必要に迫られる指導者のかたは、ここで綴っていることとは違う角度での悩みがあるのは承知しておりますので、「同水準同士」ということは話の埒外に置きます。また、「能力」とは何か、も、本来きちんと定義する必要があるのかもしれませんが、いまは「能力とは能力そのもの以外の何物でもない」という、非常にいい加減な公理として扱ってしまいますから、突っ込みません。)



さて、山側にいる人たちと、谷側にいる人たちと、実際にはどちらが「考えることを放棄」しているのでしょう?

これは、山の性質、谷の性質によって、一通りに断言出来ることではないのでしょうね。

地学的にだって、「山」は「溶岩が盛り上がって固まって出来る」ものもあれば、「土が風や水の力で積み重なって出来る」ものもあり、岩が削れた結果、周りより高く見えることになって山と呼ばれるようになったものもあります。「谷」は、こうしていろいろ違った過程で出来上がった山との相対的な関係で、山の急な斜面の底に存在することから、相対的に「谷」と呼ばれるようになるのです。

ニーチェが「神は死んだ」と発言してから、欧米には「無宗教」が普及し、日本人は神仏分離で千五百年来の自国の「宗教」観を捨てました。
「宗教」を捨てたこと=信じることを捨てた、という具合には、しかし、ならなかったからこそ、こんにちの私たちは、たとえ神様がいなくても、仏様がいなくても、連綿と続く「生命」というものをどこかで「信じたい」と思っていやしないでしょうか?
「山」さんはプライドがあるから、あまり感じないのかもしれませんが、「谷」さんは、「どうして私は谷なのか・・・谷であっても生きているのか」を、
・悩みがちな人は悩みつつ
・割り切った人は「山」さんから見れば愚かなほど割り切って
実は、考えている。
このとき、「考えている」という言葉の難しいオモテ面に誤摩化されてはいけないのでして、高尚な「山」さんから見れば、「谷」さんが「考えることを捨てていない証拠」は、
「さて、今日はどうやって飯にありつこうか」
という、まったく単純な問いが日々彼・彼女の中で繰り返されている事実に気づけば自ずと見いだせるのです。
単純な、とは言いましたが、しかし、これだけ我が身の「生命」に密着した問いを反復している点では、むしろ、「山」さんよりも「谷」さんの方が、<考える>という行為に純粋に対峙している、といってしまったら、詭弁ですか?



「神は死んだ」
「仏だってあるものか」
・・・結構。

それでも、この宇宙が発生に「根源」を持っていたことは、物理学が私たちに残してくれた「信仰」です。

「3年経ったらなぜやめる?」
「なぜ勉強しない?」
そんな問いかけに釣られるより、もっとおおもとのところにかえりませんか?
山も谷も平らにしてしまいましょう。

「感じた」そのままを、飾らない、素直な言葉で・・・ただし、願わくばそのことによって諍いを生じるような愚を犯さず、静かな心で話し合える「私たち」でありたい、そう思うのですが、如何でしょうか?

あまりにややこしく綴りすぎましたか?
いけません、いつもの癖ですね。

根源では、ほんとうにだれもが欲しているのは、まずは自分がその瞬間「素直に感じたこと」を
「信じること」
「そこから心がゆるがないこと(但し、妄信的に、ではなく)」
である気がしました。
昨日あった2つのことにより、それ以前に出会ったいろいろなことどもが、私の中に呼び起した「思い」です。

「信じたいんだけれど」
という人には、
「それで大丈夫だよ」
と言ってあげられるように、そしてまた自分が不安にかられて
「信じられないんだけれど」
と言いたくなってしまったら
「そうなんだろうか」
と知恵を与えてくれる友を持つことを、私たちは、まず最初に大切にしなければならないのではないか、と、・・・現実の現在の自分自身がはなはだ不安定であることも顧みず・・・ちょっと語ってみたくなった次第でした。

しかしなんでまあ、私が綴ると、すぐこんなに話が面倒になるんでしょうねえ。
ごめんなさいネ!

あ。
ついでですが、「信仰」の押し売りや「占い」の類いは、ここで語ってきた「信じる」とは関係がありません。商売抜きでの、人と人との心のやり取りだけを前提にしています。
便乗してのご商売はおよしになってくださいましね。

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