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2008年5月31日 (土)

活用したい「自作自演」

ラ・プティット・バンド at つくば(6月1日)、是非お出掛けになってみて下さい!(リンクしてあります。)



クラシック音楽の聴き手には、
「この作品、もともとはどのように演奏されたんだろうか?」
という関心が、他のジャンルの音楽に比べて強くあるように思います。
それは、現在演奏される演目でも
・数百年前のものを当時の楽譜(もしくは翻訳譜)で演奏する
・アジアなどの伝統音楽と違い、それらは演奏法が口承で伝わっていない
という特殊事情があるためではないか、と、私などは漠然と思っています。

19世紀〜20世紀までの「(広義の)クラシック」は、たとえば6月1日(記事記載現在、明日)つくばノバホールで公演するラ・プティット・バンドなどのように、作品が出来た当時の史料(文献や事物)を元に当時を再現することに力を注いできました。20世紀初頭にはこうした試みは始まっているのですが、それが「おそらくオリジナルに近い」と思われる演奏をするプレイヤーたちのみに淘汰されたのは、やっと最近になってからのことです。
その中で、「ラ・プティット・バンド」は、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスやアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックなどとともに、長い時間をかけて音楽を見つめ直して来た、貴重な団体です。(今回のプログラムには含まれませんが、イタリアバロックの名作曲家ジェミニアーニの合奏協奏曲などは、その復権にラ・プティット・バンドが大きな役割を果たしたのではないか、と、私などは評価しています。)

バロック期の音楽は、当時の録音がないために残念ながら、とは言いつつ、上記のような良心的な団体が、しっかりした成果を上げることで、私たちは、だいぶ「実像」に近いと思われる音で聴くことが出来るようになりました。
今回は述べませんが、古典派からロマン派にかけては、事情が錯綜しており、素人目には学者の研究にも主観的な偏向があるため、たとえばオーケストラの規模・構成員の流動性などについて議論が整理され尽くされておらず、実演の記録という面ではホグウッドやアーノンクールといった、すでに古顔となった人が、むしろその経験を活かして注目に値するものを残している他には、これといって説得力のある(あるいは極端な反発を感じさせる・・・これもなければならないのですが)ものが出て来ない、ちょっと寂しい状況にある気がします。

もっと奇妙なのは、後期ロマン派から20世紀前半の音楽についての、あまりに「それぞれ勝手」な演奏の横行です。これは、20世紀後半の演奏が「あまりに肥大化したのではないか」との、当時としては「反省」からの反動に根差すのですが、もはやそうした経緯も忘れられて、「意味なく演奏している」ようにさえ聞こえます。(ついでながら、20世紀後半の「肥大化した」演奏は、実は後期ロマン派の伝統の延長線上にあったので、単純にそれを否定すること自体、いまとなっては「如何なものか」と思われなくもありません。いい演奏もたくさん残ったのですから。このこともあらためて考えてみたいと思います。)

後期ロマン派については、残念ながら音楽の録音までが残っていませんが、20世紀前半の「作曲者による自作自演」は、けっこう手にし易くなっています。
でも、そんな録音に興味を持つのは、どちらかというと「アマチュア」の方でして、最近の演奏家の録音を聴くと
「あれ?・・・これ、自作自演があるのになあ」
・・・それとあまりに違いすぎるんじゃないかなあ、と思うものも少なくありません。

たまたまリヒャルト・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」については、その演奏流儀の変遷を私なりに追いかけてみたことはありますが、以後、そうした試み自体はせずに今日に至りました。
ですが、やはり同じような試みは、他の作曲家の作品についてもやってみなければならないのかなあ、と感じます。
演奏家として飯を食う人はどう考えているのか分かりませんが、「自分なりの新奇な解釈でも音楽が成り立つ」というグレン・グールドの先例に、しかしグールドとは違い、一定の哲学なしにしたがっているだけ、という「精神の浅さ」のみを印象づけられることも少なくありません。

ここで私が言っていることが是か否かは、現在手に入り易い「20世紀作曲家の自作自演」をお聴きになり、最近流行の演奏家の演奏内容との違いをお聴き取りになって、ぜひ確かめてみて頂きたいと思っております。
(自作自演ではないながら、後期ロマン派の演奏様式についても、1915年くらいまでの演奏にはそのまま引き継がれていると考えてよいのです。この当時まで、たとえばワーグナーの曲を演奏する場合でも、弦楽器は基本はノンヴィブラートだ、という事実が確認し得ますし、それは遡ってベートーヴェンの交響曲の演奏にまで敷衍出来るのですが、この事実は「恣意的」ではないかと疑いたくなるほど、演奏家には無視され続けており、現代オーケストラが「古楽研究の成果・奏法も取り入れて」と、ちゃんちゃらおかしな謳い文句で売り出していることがあり、これがまた嘘八百で、非常にガッカリしております。・・・他のパートがノンヴィブラートなのにファゴットだけずっとヴィブラーとかけっぱなし、という奇妙な演奏もありました。また、曲の全部でヴィブラートを用いない、というのも「古楽」の考え方としては正しくないことは、クヴァンツやレオポルト・モーツァルトの書き残した言葉からも明白ですのに、そのことを考慮している現代オーケストラは皆無です。「古楽アンサンブル」と呼ばれて来た人たちは、さすがにそんな愚は冒していません。「古楽」が死語であることを充分承知しているからでしょう。要するに、許されるかぎりでは、彼ら先達は「スタイル」に拘泥していないのです。)

以下、ラフマニノフ、ガーシュウィン、R.シュトラウス、ストラヴィンスキーの自作自演は比較的手に入り易いし、少し時期が下ると、ショスタコーヴィチやメシアンその他、およびブーレーズ、タン・ドゥンなどの現役活躍者あたりは入手し易くなるので省きますが、その他の作曲家について、私の手元のものから幾つかご紹介しておきます。
現時点では中古でもすぐには見つからないものをも含みますが、そういうものもまた店頭に並ぶ可能性はあります。自作自演盤は愛好家は少なくはないと見え、大きな店の店頭に並ぶと、比較的早くなくなります。店頭で見つけた場合は、なじみの無い作曲家のものでも、即、ご購入を決心なさるとよろしいでしょう。

・コンドンコレクション(自動ピアノに記録されたロールから演奏を再現したもの)
 残念ながら、全部集める機会を逃しました。お持ちの方はうらやましい!
 Vol.5=Prokoviev,Scriabin,Mahler,R.Strauss,Miraud,Reger
 ビクター エンタテイメント VICC-60183
 
・Claude Debussy The composer as Pianist(同上、1904、1913年のロール)
 Pierian 0001
 
・The Piano G&Ts Volime 3 : Chaminade, Saint-Saens
 Appian Publications & Recordings APR 5533(1901、1904、1919年録音)
 
・RAVEL conducts RAVEL
 URANIA SP 4209(※演奏の真正性は、一部については少々疑っています・・・)

・Alfredo Casella, Ottorino Respigi The composer as Pianist(録音、1925〜27)
 Pierian 0024
 
・HOLST, VAUGHAN WILLIAMS The composers Conduct
 NAXOS 8.111048

・BARTOK plays BARTOK
 PAVILION RECORDS GEM 0179

・・・これらの作曲家もこれしか録音が無い、というわけではないですし、他によく見かけるものにレハールやウォルトン、グラズノフ、ヒンデミットなどもあります。

私の手元のすべてではないのですが、代表的と思われるものをご紹介しました。
なお、タワーレコードやHMVでも「自作自演」で検索をかければ一定数は出て来ますが、必ずしも僧分類づけられていないものも多くありますので、情報には常にアンテナを張ってみて下さい。

タワーレコードでの「自作自演」検索結果

HMVでの「自作自演」検索結果



Maurice Ravel: The Composer as Pianist and ConductorMusicMaurice Ravel: The Composer as Pianist and Conductor


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Claude Debussy: The Composer as PianistClaude Debussy: The Composer as Pianist


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MusicRespighi & Casella: The Composer as Pianist


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Holst / Bridge / Bliss / Harty / Smyth / Vaughan Williams : English Composers Conduct Their Own WorkMusicHolst / Bridge / Bliss / Harty / Smyth / Vaughan Williams : English Composers Conduct Their Own Work


アーティスト:Frank Bridge,Arthur Drummond Bliss,Ralph Vaughan Williams,Hamilton Harty,Ethel Smyth

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2008年5月30日 (金)

J.S.Bach:BWV1〜3

ラ・プティット・バンド at つくば(6月1日)、是非お出掛けになってみて下さい!(リンクしてあります。)キンキンさんによるこのコンサートの紹介は、こちらこちら。学生さんは、交通費を加味しても、超オトク価格です!



(長ーい前置き)
J.S.バッハについては、日本ではもしかしたらモーツァルト以上に愛好者が多いかも知れず、国際的に活躍している小林義武さんはじめ、優れた研究者にも恵まれています。
その分(本来はモーツァルトを含めた他の作曲家についてもなのですが)、いまさら私ごときが見直しをはかるなどという僭越をする余地は全くありません。

先日、新発見のオルガン真作と思われるもの(BWV1128)についてニュースを目にし、楽譜を読み込んでしまったのが運の尽きで、どうひっくり返したって私には大バッハが分かっていない、ということを痛感もしました。

そんなところへ、sergejOさんのサイトで、アーノンクール/ラインハルトのバッハ・カンタータ全集が昔年の三分の一の価格で入手出来る(60枚組!)、というご紹介があり、キンキンさんのところでは「ドイツ・ハルモニア・ムンディ設立50周年記念限定BOX」という、バロック期の音楽を楽しむには絶好のものが出ていることが掲載されており、さんざん迷ったのですが、
「これは、どっちも買いだ!」
という結論に至りました。

「音楽史」は世界中見渡しても、西欧ほど明確になっている地域は他にありません。
ですが、人間の歴史というのは、辿ってみると面白いもので、表面上は各地域(大陸アジアなら大陸アジア、島嶼部アジアなら島嶼部アジア、ヨーロッパならヨーロッパ)で勝手に進行しているように見えながら、少なくとも大陸が分断されていないかぎり、案外、古代は古代、中世は中世、近世は近世で、どこでも似たようなことが起こっている。
なぜそのようなことが起こっているのか、は、歴史書には出ていないのです。それは、従来、歴史というものは、特定の国がその国のアイデンティティを確立するために「書かれる」のが最大の目的だったからだろうと思います。
地域が違っても同じような「時代の変化」がなぜ起こったのか、は、むしろ、その時代のとある年にスポット的に登場した旅行記や見聞記のほうからうかがい知ることができることのほうが多いような気もしています。そして、その背景には、(スペインの南米侵攻についての報告類のような例外を除き)文書の表舞台には殆ど現れることのない、大勢の無名の商人たちが築き上げていた交易ネットワークがあったらしいことが、たとえば日本の例でも円仁(慈覚大師)「入唐求法巡礼記」にチラチラ顔を出す朝鮮人商人たちの活動ぶりから推測出来ます。

であれば、音楽についても、書かれなかった「歴史」をしっかり辿るには、注目されて来なかった地域の情報を探ることも変わらず重視すべきではありますが、変遷が現在でも詳しくたどれるヨーロッパ音楽について、もっともっと、基礎的な精神基盤を体得することを欠かしてはいけないのかも知れないな、という思いが強くなりました。

特定の人物の様式、ということについてなら、幸い、モーツァルトという、その生涯と作品の年代を対応させるのが現在でも比較的容易な人物を通し、時間をかけながら自分なりの<観察>はしています。

そういう路線の延長でもいいのですが、また違った方針で接することの出来る音楽家はいないだろうか、と考えますと、少なくとも「ルター派プロテスタント」の精神との関係においては、ヨハン・セバスチャン・バッハという恰好の対象が存在するのだ、ということに、ようやく気づいた次第です。
個々の作品の作曲年代・前後関係の確認はモーツァルトに比べると格段に難しいのですが、こちらもモーツァルトと肩を並べるほど研究者の多い人物、かつ「作品の録音を耳にし易い」作曲家でもありますから(同時代の周辺情報もハルモニア・ムンディのお得セットで・・・これはむしろモーツァルトより恵まれた状態で・・・得ることが出来ます)、違うアプローチの対象として、この人を選んでみよう、と思うに至った次第です。

ただ、モーツァルトの場合は家内の生前に楽譜を「全集」で揃える贅沢が許されましたけれど、大バッハに接してみようと思い立った現在の環境は、それを許しません。

従って、アプローチの方法は、次のようにしていこうと思っております。
・宗教作品については、教会暦との関連性を最優先に知ることを狙いとし、
 プロテスタントにおける教会暦の意義と、カトリックのそれとの差に付いて簡単な知識を貯える
・その他の作品については、同時期ないし先行する時期の音楽から彼が何を受け取ったかの
 概略的な流れを把握する
 
幸いにして、カンタータとオルガン曲(BWV1000番台を除く)、管弦の器楽については、既に音源材料は揃いましたので、大きなところでは4声のコラールと(オルガン以外の)クラヴィア作品群以外には、耳で確かめる上での支障はあまり大きくありません。
ただし・・・耳で確かめる必要性がどこまで生じるか、は、方針とするアプローチがどちらかというと文献頼り(手持ちはわずかですが)になって行く可能性が高いので、まだ何とも分かりません。

ちなみに、当面は教会カンタータについて、なるべく全集のCD1枚ずつの作品をまとめて、それが教会暦のいつに対応するか、教会暦でその日はどんな意味を持っているか、だけについて記して行くだけですので、お退屈さまな記事になるかと思いますが、ご了承下さい。(今日の分も非常に機械的に綴ります。)

まずは、試行錯誤です。教会暦の知識については、八木沢涼子「キリスト教歳時記」(平凡社新書203)のお世話になります。



(とってもあっさりしすぎな本編)

という次第で、本日はカンタータBWV1〜3についての基礎データのみを記します。
アーノンクール/レオンハルトの全集のCD1におさまっている3作品です。
(作品の構成については、本日は時間の関係上省略し、明日にでも補記します。)



BWV1 "Wie schoen leuchtt der Morgenstern"(oeはオー・ウムラオトなのですが、文字化けしちゃうので・・・)
Philipp Niclai原詞(1599)〜ただし、中間のレシタティーヴォは簡略化されている由
(1724-25年の第2回年間カンタータシリーズの最終作)
「暁の星はいと麗しきかな」〜演奏日:1725年3月25日(受胎告知の祝日)

この祝日は、カルヴァン系のプロテスタント以外はすべてが祝う日です。
祝われる内容については、今更言うまでもないでしょう。

天使は乙女の所に来て言った。
「おめでとう、恵まれた人よ、主があなたとご一緒だ!」
(「ルカによる福音書」第1章28節、塚本虎二訳、岩波文庫「福音書」による)

編成:オーボエ・ダ・カッチャ2、ナチュラルホルン2、弦楽器群及び通奏低音
構成:合唱〜レシタティーヴォ(テノール)〜アリア(ソプラノ)
    〜レシタティーヴォ(バス)〜アリア(テノール)〜コラール


BWV2 "Ach Gott, von Himmel sieh darein"
ルターによる「詩篇」12のパラフレーズ。ただし、第2〜5曲については不明
(1724-25年の第2回年間カンタータシリーズの第2作目)
「ああ神よ、天より見給え」〜演奏日:1724年6月18日(三位一体祭後の第2日曜日)

「三位一体」は、伝統的なキリスト教が重視して来た、例の「父と子と精霊」というものですが(このこと、八木沢さんの本からは脱線)、この概念がローマカトリックの主軸になるまでは泥沼の神学論争があったことは、初期キリスト教の文献が示していることです。「三位一体」が概念として公のものとなったことが、一方では数多くの<異端>派を生み出しましたが、そのなかでも中国まで伝わったネストリウス派は、現在でも細々とながら西アジア北部に命脈を保っています。ちなみに、「三位一体」の教えを記念する「三位一体の主日」の祭日は、東ローマ系(正教系)では設けられていません。
これは蛇足ですが、ルター派は、カトリックのモラル墜落を攻撃したものであるため、基本的にはカトリックが大切にして来た概念はそのまま受け入れており、私たち日本人がよく誤解して来たことですが、ラテン語のミサも「ルター派だからやらない」ということは、ありません。
BWV2が演奏された日曜日は「三位一体の主日」後の第2日曜ですが、この日が特別な祭日なのかどうかは、私には分かりませんでした。ご教示下さい。(CD全集の解説からは、もととなった詩篇がこの日のためのものであり、人間が神に向けて発する嘆きを表した内容になっているのだそうです。)
「三位一体の主日」そのものは、(複雑ですが)復活祭から50日目の日曜日の、さらにその次の日曜日とされています。これは、初期の「正統」教会が、いったんそこから離脱したものの復帰を認めたのがこの日であったことに由来するそうです。「三位一体の主日」は、早ければ5月20日に到来しますが、この年はそれから29日もあとですね。この年の復活祭(イースター)が遅かったことが分かります。(計算すれば分かるのですが、今日はやめときます。)

編成:オーボエ2、トロンボーン4、弦楽器群及び通奏低音
構成:合唱〜レシタティーヴォ(テノール)〜アリア(アルト)
    〜レシタティーヴォ(バス)〜アリア(テノール)〜コラール


BWV3 "Ach Gott, wie manches Herzeleid"
マルチン・モラーの18の讃歌から、ヨハネ福音書2-1-11に基づいたもの。第3・5曲は不明
(1724-25年の第2回年間カンタータシリーズ中の作)
「ああ神よ、心の痛手いと多く」〜演奏日:1725年1月14日(顕現節後の第2日曜日)

顕現節(エピファニー)は、イエスの洗礼を記念する日で、起源はクリスマスよりも古い、とのことです。2世紀の後半にはエジプトで祝われている、とも、八木沢さんの本にあります(別の書籍での確認は、とりあえずサボります)。これは、もともとエジプトでは1月6日がナイル氾濫の日とされ続けて来ており、古くからのナイルの神オシリスの祭礼が行われていたものが転化したのだ、と説明されています。この直後の日曜日が「主の洗礼日」となっていることは分かっているのですが、さらにその次の日曜日になぜこういうカンタータが歌われたのか、は、すみませんが、調べきっておりません。(調べがついたら書き換えます。)  

編成:オーボエ・ダ・モーレ、トロンボーン、弦楽器群及び通奏低音
構成:合唱〜コラール〜〜アリア(バス)〜レシタティーヴォ(テノール)
    〜アリア(二重唱:ソプラノ&アルト)〜コラール



※バッハがライプツィヒで試みた企画である「カンタータシリーズ」についての説明は、別の機会に綴ります。

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著者:八木谷 涼子

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2008年5月29日 (木)

曲解音楽史:36)神意・俗権・民衆〜ブルゴーニュ・フランドル楽派

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ
    34)イスラムと西欧の融合 35)ルネサンス?


<ルネサンス>問題の延長です。 この言葉が「人間の再生」を意味することは前回も触れた通りですけれども、ヨーロッパ史上の時代区分用語としてしまうと、<ルネサンス>期は、むしろ「混乱と破滅」が横溢していました。 言葉を生んだイタリアが、はるか昔の西ローマ帝国崩壊を未だ引きずった内乱状態にありましたし、アルプスやピレネーという峻険な山脈を挟んでいながら、イタリアを囲む大陸部各地も、常に戦乱の坩堝でした。

よくよくたどってみますと、これはヨーロッパ(東西とも)が「ローマ帝国」世界の最大版図を幻影として引きずり続けていたことに根ざすことのようです。
まず、滅亡したはずの西ローマ帝国は、その後もヒスパニヤ・フランク・ゲルマン民族が混在したままの(カエサル『ガリア戦記』の舞台となった、現スペイン・ポルトガル、フランス、オランダ及びベルギー、ドイツ・オーストリア・チェコ・ハンガリー、ブルガリアあたりまでを包括した)広い地域でその皇帝位が神聖視されつづけ、紆余曲折を経て、西暦800年にカール大帝がローマ教皇から戴冠を受けたことにより、名目上の再生を遂げました。
ところが、この帝国もカール大帝が死ぬとすぐに崩壊し、現代の国境とは一致しませんが、ほぼフランス・フランドル・ドイツ地域に分断されてしまいます。
分断の後、今度はローマ教皇がカール大帝を戴冠した、という実績から(これも複雑な諸々がありましたが、省きます)、のちに「カール大帝の意思を継ぐ」明確な意思表示をしていた東フランク国王オットー1世が961年にやはり教皇からの戴冠を受け、以後、「ローマ」を象徴する「皇帝」の称号はドイツ・オーストリア圏の国王に継承されていくこととなりました。(現在ではオットー1世の戴冠以後、ナポレオンの登場による帝国崩壊まで、さらに体面上は20世紀初頭のハプスブルク家引退まで、ドイツオーストリア圏のこの帝国を、一貫して「神聖ローマ帝国」と呼んでいます。実質はそれほど単純ではないのですが、詳しいことは歴史専門の書籍で確認して下さい。)
「皇帝位」は、のちにまた名目上のものでしかなくなるのですが、ヨーロッパ世界にとっては神聖なものでありつづけ、時代が下り、かの「太陽王」を名乗ったルイ14世がこの称号を欲したものの、許されませんでした。



東に目を転じますと、こちらは以前から瀕死状態だったとはいえ、16世紀半ばまで「東ローマ帝国」が存続しつづけていました。存続しえた最大の要因は、首都コンスタンチノープルが、政治的には末期にはイスラム教を奉じる大国オスマントルコとすぐ向かい合わせにあった不利を抱えたものの、経済的には(まだスペインがインドとの直接交易路を持っていませんでしたから)東西貿易の重要拠点であり続け、富を保ち得ていたところにあったのではないかと思います。
その東ローマ帝国が滅びると、こちらの「皇帝位」は、東ローマから逃れてきたキリスト教徒たちを庇護したロシアが自主的に名乗りだすこととなります。かつ、それを妨げる何者も存在しませんでした。地理的にも、東ローマ帝国滅亡後のロシアは西ヨーロッパとの接点はしばらくの間無に等しく、「神聖ローマ帝国」皇帝との間に「正当性」を争う必要は全くありませんでした。
・・・そんな次第ですから、ロシアについては、しばらくは目をつぶっておきましょう。


再び、西です。

イベリア半島(ヒスパニア)は、レコンキスタと称してイスラム勢力を完全に駆逐し、航海に巧みな連中を雇い、スペイン・ポルトガル両王国が、地中海経由を必要としない、インドとの直接貿易経路を開拓して巨富を得ます。さらに、中南米へも進出し、新奇な物品でなお裕福さを増していきます。・・・このことに伴って中南米に何が起こったかは、また観察することになるでしょう。

それに先立って、フランスは、教皇のお膝元ローマに最も近い、という地理的な利点から、教皇との結びつきを確保することに躍起となり、ついには自国南部のアヴィニヨンに教皇を強制移住させる(第2バビロン捕囚)など、対外政治では強圧的な姿勢の堅持に努めます。

「ローマ」を継いだはずのドイツ圏が、政治・経済面では最弱でした。というのも、帝国を称していたとはいえ、その内実は有力な貴族(皇帝は貴族達の選挙でえらばれる、というのが建前でしたから、その選挙権を持つ彼らは「選挙公」と呼ばれました)が各々の自領について多くの特権を有したままであり、とても「統一されている」とはいえない状況下にあったからです。そのため、皇帝の代替わりの度に新たな勢力争いが生じ、内乱が絶えませんでした。(これが結果的に、音楽面では18世紀にドイツ音楽を多種多彩な優れたものへと育成していくことになったのですから、世の中、何が良くて何が悪いか、分かりません。)



歴史そのものの話としてはかなり大雑把なのですが、以上からまず明確になるのは、まず、宗教上、カトリックの伝統が最もよく保持されたのはフランスだったということです。
実際に、カトリック聖歌の最初の発展は、フランスを舞台としています。
ペロティヌス・レオニヌスの世代にノートルダム寺院を舞台として萌芽した、複声化(ポリフォニー化)した音楽は、アルス・ノヴァ(新芸術)と称し、14世紀を代表する音楽家ギョーム・ド・マショーを世に送り出します。
それが次には、フランス王国内のブルゴーニュ伯領に引き継がれ、「巨星」と称されるギョーム・デュファイを生み出し、より美しい響きへと昇華していきます。
さらに、その伝統は、東洋貿易によるイベリアの富と、地中海貿易によるイタリアの富が、海と川の両方から集積されるという、地理的に非常に有利な位置にあったフランドル地方へと引き継がれ、代表例としてはオケゲムの敬虔な音楽へと結晶することになります。

<聖界>の音楽は、おおまかにはこのようなものですが、実はデュファイなどはミサ曲の作曲に際して民衆の間で有名だった流行歌を下敷きにしたり、と、このころから、音楽は<神意>の中に<民衆>を取り込むようになっていきます。
それが最も明確になるのは、ジョスカン・デ・プレの作風です。
ジョスカンの音楽は、宗教曲においても、師のオケゲムよりも明るい、開放的な色調を帯びます。また、彼自身の作曲した世俗曲も、16世紀初頭までにはほぼ西欧に定着した印刷術の助けもあり、幅広い支持層を獲得したと思われます。

それぞれの活動拠点から、デュファイは「ブルゴーニュ楽派」、オケゲムやジョスカンは「フランドル楽派」と呼ばれますが、系統的には<アルス・ノヴァ>からまっすぐに繋がっていると思ってよいでしょう。すなわち、西欧音楽の流れは、<人間の再生>という方向からではなく、<神意>をより輝かしく飾る方向へ進みつつ、そこに「民衆音楽」を組み込むことで、伝統を断絶させることを回避しながら発展してきた、と言っていいのかと思います。
実際にお聴きになって、確かめてみて下さい。

・マショー :ノートルダムミサから (アルス・ノヴァ)〜デラー・コンソート
・デュファイ:イムヌス (ブルゴーニュ楽派)〜テルツ少年合唱団
・オケゲム : 〜ヒリヤード・アンサンブル
・ジョスカン:ミサ「パンジェ・リンガ」から 〜クレマン・ジャヌカン・アンサンブル
       

デュファイやジョスカンによって、当時の民衆音楽の様子も記譜されたものから推測できるようになるのですが、彼ら自身は宮廷に仕え続けたのでして、その点では、
・創作していたのは<神意>の音楽
・演奏の場は<俗権>の世界
だったのです。
これが、以後の西欧音楽を「宮廷のもの」と「民衆のもの」に分け隔てていく源となります。
その分化の様子は、またしばらくの間窺いにくくなりますが、別途イギリスの音楽を観察することによって、ある程度推測することは可能だろうと思います。・・・これについては、あらためて見ていきます。

フランドル楽派の時代、この地方には思想面でも興味深い動きが現れます。
こちらの面の代表者として、エラスムスを例に出しましょう。
彼の「対話集」の中には、デュファイやジョスカンも曲を付けている伝統的なカトリック聖歌の効果について、愉快なエピソードが見られます。

<難破>から
アドルフニス 君があの場にいたら、われわれがなんともあさましい場面を演じるのを目撃しただろうな。水夫たちは「めでたし元后(サルヴェ・レギナ)」を唱い、聖母にお助けを請願し、彼女のことを、やれ「海の星」だの、やれ「天なる女王」だの、やれ「世界の女主人」だの、やれ「救いの港」だのと呼び、そのほか聖書のどこを探しても見あたらない称号をやたらと奉ってお追従を並べあってていたっけ。
アントニウス マリアと海とどんな関係があるのかね?たしか彼女は一度も船旅なんかしたことがないと思うがねえ・・・・・・。
アドルフニス 昔はウェヌスが水夫たちの守り神だったんだがな。海から生まれたと信じられていたからね。ところが水夫たちの面倒をみることを彼女がやめてしまったので、この処女ならざる母の役を聖母が引き継いだわけさ。(渡辺一夫訳)

エラスムスがこれを書いた頃は、折りしもルターが宗教改革を断行しようとしている真っ最中で、エラスムスは最初はルターを応援しながらも結局は相互の思想の差に気づいて断交したりしています。
背後ではフランドル生まれのカール5世が、ハプスブルク家の巧みな婚姻政策で、神聖ローマ帝国皇帝となったばかりか、スペインにも君臨する、という時代を迎えています。
輝かしく見えるカール5世ですが、帝王としては苦悩の一生を送った人物でもあり、退位の際には涙ながらに
「これまで、私は皆に良かれと信じることをなしてきたが、結果がそうではなかったのなら許して欲しい」
と発言したそうです。
彼の人生は、西はスペインの中南米支配、東はオスマントルコとの抗争とも密接に関わっていますし、宗教改革運動にも絡んできますので、また別立てで、彼の送った人生に即した「音楽」を見て見たい気がしております。(そのときには、フランドルからイタリアへ、さらにイタリアからドイツへと、音楽が輸出されていくさまを知ることができるでしょう。)
このカール5世の戴冠の時期には、ドイツの画家デューラーが(新帝の関係者から年金の保証を得るため)ネーデルラント旅行に出向いており、道中で片目の見えないラウテ奏者の画像を描いたりしています。デューラーも音楽には大変関心が深かった、とのことですが、残念ながら私にはそれがどの程度のものだったかを知る材料は得られませんでした。ただ、その道中記に、街中での奏楽の様子を書いた文が一ヶ所だけ現れます。

(1520年)8月19日
聖母被昇天節の後の日曜日にアントウェルペンの聖母教会の大行列を見た。(中略)合間合間に華美な大燭台が担がれて通り、それにはフランス風の長い銀のラッパ隊が従った。またドイツ風の鼓笛隊も大勢いた。音楽は高らかに吹かれ、また激しく奏された。
(後略。デューラー「ネーデルラント旅日記」前川誠郎訳 岩波文庫 2007年)

屋外では管楽器の演奏が常識だったらしいことが、ここからは推測出来ます。当時にしては国際色豊かなのが、土地柄を表しています。

民衆音楽そのものかどうかはなんとも分かりませんが、出版が栄えていたおかげで、多くの舞曲の楽譜もまた、この地で印刷されています。
最も有名なのはスザートの編んだ曲集やプレトリウスの「テレプシコーレ」で、今の日本でも、中学生くらいからこの曲集のものを金管アンサンブルで楽しんだりしています。

・スザートの舞曲集から 〜マンロウ/ロンドン古楽コンソート

・・・これは、ひょっとしたら、お耳になさったことがあるのでは?
・・・でも、変わった音でしょう? ラケットという楽器が使われています。

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2008年5月28日 (水)

素直に感じることから始め直したい・・・

ラ・プティット・バンド at つくば(6月1日)、是非お出掛けになってみて下さい!(リンクしてあります。)



夕べ、2つのことがありました。


ひとつめは、息子との会話。
「夢にね、コウジロウが出て来たんだ」
「ふうん」
コウジロウ、というのは、家内の生前、よく我が家を訪ねてきた野良猫です。そのことは前に綴ったことがあったと思います。目が悪くて、やせ細って、毛並みの悪いヤツでしたが、
「うちへきてもご飯をやれないんだよ」
そう言い聞かせつづけたのに、別にそんなの関係ない、という表情で、変わらず我が家に来つづけていました。家内が、
「賢いねえ」
と、褒めちぎっていました。私にとっても、可愛い猫でした。
最後に我が家に来たのが、家内の死んだ朝でした
やってこなくなってからも、時々見かけていたのですが、最近、私も息子も娘も、とんとその姿を目撃することがなくなっていました。
で、息子の夢の話の続きです。
「それがね、夢の中なのに、コウジロウに、ちゃんと触(さわ)れたんだよ」
「じゃあ、コウジロウ、うちのおかあさんのとこへ行っちゃったのかなあ」
「でもさ、コウザブロウも、一緒に夢に出てきたんだよ」
コウジロウとよく一緒にいた、別の猫です。あだ名も、ですから、一緒にいるヤツなので適当につけたのです。こちらのコウザブロウも姿を見かけなくなったのですが、それでも、簡単にくたばるような風貌ではありませんでした。よく肥えていました。そのかわり、声が全然出せなかった。家内が倒れる数ヶ月前から、少しずつは鳴き声がだせるようになってはいましたが。
「そうか、コウザブロウもでてきたのか」
「じゃあ、まだ、どっちも、どこかで生きているよね」
「そうみたいだなあ」


ふたつめは、全然種類の違う話ですが。
私がネットをやっていましたら、たまたま、友人の綴ったものに
「いいはずのオーケストラ演奏を聴いてきたのに、ひどかった」
という苦情が、2件集中してあったのでした。
一つは、友人が友人に公開しているネット上の日記でのもの。
「有名指揮者だけど好きじゃない人が振ってたから?」
もう一つは、
「拍手が大きいのを聞いて、不満を感じる自分が正しいのかどうか、自信が無くなった」
・・・これはちょっと話を極端にまとめすぎているかもしれませんが、そんなメールを別の友人がくれたのでした。
どちらでも同じだったのが、(後者についてはダブりますが)、アンサンブルが不揃いでもオーケストラが平気の平左だったこと。それにもかかわらず、終わったら会場は万雷の拍手で・・・お二人とも、それに納得がいかなかったこと。

共通点の見いだせないお話、と感じられてしまうかもしれません。
ですが、ある理由で、私はここに、人が「考える」ことの、貴重なスタートラインを感じましたので、以下、そのことを極めて大雑把に述べたいと思います。



前の方の話には夢に出て来た相手の側の、後の方の話には演奏者の側の、それぞれの都合というものもあったかもしれません。ですが、以下をまとめ易くするために、ここからは「受け手」側の感じたことだけに注目して進めて行きましょう。


しばらく会っていない大好きな野良猫に夢の中で触れた。まず、前の話の方では、息子はそれを父親に話さずにはいられなかった。触れたことをどう感じたか、ということを、ではなくて、「触れたんだよ」という事実を話したかった。
夢の中で、夢の中に登場したものに触れられた、ということを、フロイト流だのユング流だの、いろいろに解釈することは出来るでしょう。でも、そんな説明をいくら探したところで、意味がないのだろうな、というのが、息子に話しかけられた時、私がとっさに思ったことでした。
「触れた」ことを父に話す・・・まさにそのことに、息子にとって大事な意味があった。
言葉のかげには、「なぜ触れたんだろう」という疑問も残っているのですが、疑ったところで「触れた」事実に変化はない。
「僕、間違いなく、コウジロウに触ったんだよね」
そのこと、そのものを確かめたかったのだろう、と、勝手に勘ぐりました。ただし、それをストレートに問わないということは、「そうだよ、間違いなく触れたんだよ」という答えを、父には求めていないのです。
だから、私は息子が「触れたんだよ」と言ったことをそのまま受け入れることにしました。
その先は、私の意図的な連想が働いています。
この「コウジロウ」は、息子にとっては母親の存在と切り離せない存在ではなかったか?
であれば、いまの私たちは、私にとっての家内、子供たちにとってのおかあさんには、夢の中でしか触れるチャンスがなくなっているのですから、
「じゃあ、うちのおかあさんのところに行っちゃったのかな」
と問い返すことで、息子が母を通じて感じた生と死の意味を、息子の口から引き出せるのではないかな、という発想でした。
結果は、別の仲間の猫まで登場した、ということ、そのうえ、こっちの猫は夢に出て来た猫より生命力があるから「死んでいるはずは無い」という暗黙の了解が私たちのあいだにあったことから、息子が「夢で触れること=死んで別の世界に行ったこと」とは考えていないことがはっきりした、というものでした。

家内の死の1年前から、息子とはお風呂でよく、命の循環の話をしていました。この体が死ぬと、そのまま埋められるにしても、焼かれて埋められるにしても、小さな生き物に食べられる。まず、私たちの命は、その小さな生き物の中に移って行く。小さな生き物は、もう少し大きな生き物に、もう少し大きな生き物は、さらに大きな生き物に、さらに大きな生き物は、ずっと大きな生き物に食べられる。そうやって、命っていうのは次から次に受け継がれて行くんだ、と、何度も話し合って確かめ合ったものでした。あとで考えると、不思議なタイミングで、そんな話をしていたものです。
ここに掲げただけの会話で、息子が私との過去の会話で「命は繋がって行くものだ」という発想をずっと保ったままなのかどうか、は、はっきりとは分かりません。ですが、少なくとも、息子の中で、生と死は「分離していない」らしいことが、いちおう確かめられたというわけです。
いや、そんな屁理屈をこねるまでもなく、
「触れたなんて、夢の中の錯覚じゃないの?」
と否定していたら、息子はどう反応したでしょうか?
そっちを確かめてみた方が良かったかもしれません。
・・・ただ、息子が「感じたそのまま」で間違いないかどうかを父に確認したかった。確認することで、
「信じる」
力を失わずに済むようにしたかった・・・息子が話しかけてくれたことを、私はそんなふうに捉えています。

すみません、のっけから、ちょっと面倒に綴ってしまいました。



次の話の方が、手短かに捉えられるかもしれません。
ただ、これは、前の話の延長線上にあることを、まず念頭に置いて頂ければありがたく存じます。
オーケストラ音楽、と、対象は変わりますが、
「間違いなく触れた」
というところが出発点になっています。
で、「触れた」結果が
  ・自分自身にとっては、ちっとも快くなかった
  ・なのに、周りは気持ち良さそうだった
  ・周りと自分の、この落差は何?(思考の始点)
で、(触れたコンサートは別々のものでしたが)似た感触を得て帰って、とくに、あとの友人は
・もしかして、自分の耳は正しく働いているのか(「信じる」ことへの揺らぎ)
という具合に展開して行きます。

メールを頂いて、お答えしたのは、(メールした通りではありませんが)
「あなたの耳は、間違いなく、正しく働いています」
との趣旨だったつもりです。
「信じる」
ことを見失って欲しくはなかったからです。



私は、たいへんけしからんことながら、業務中に精神状態が揺らぐのが日常ですので、午後に一度くらいは、どうしても<へばる>直前にまで至ってしまいます。
そういうときは、人前でくずおれないよう、地下の本屋を10分程度、ほとんど本の表紙だけ眺めて、その言葉のランダムな渦で、固まりかけた脳ミソをほぐして来ます。
あ、それは、別にどうでもいいことなんでした。
ただ、そうやって、出ている本の傾向を見ると、とくにビジネスマン向けとおぼしき新書の類いには、やれ「新入社員はなぜ3年でやめる?」だの「日本人はなんで勉強しなくなったの?」だの、と、もう私が25年前に就職した当時には起きていた現象について、あたかも<つい最近はじまったこと>のように謳ったタイトルが多いことに、ちょっと呆れ、だいぶガッカリさせられます。

私だって、会社に入った当時は、「3年したら辞めてやる!」と本気で思っていましたし、就職前の学生時代は、<勉強>そっちのけでアマチュアオーケストラ活動に夢中になっていました・・・それでも就職するとなったら、後で知ったのですが、成績表は殆どいわゆる「甲」とか「A」とかいうものでした。学校へ全然行かなかったヤツの成績表が、ですよ!

自分がそうでしたから、私は若い人が「会社を3年で辞める」のも「勉強しない」のも、特段不思議なこととは思いませんし、ましてや、新しい話題だとも思えません。
かつ、「以前の日本人は勤勉で高い評価を得ていた」などと書かれているのを目にしましたが、そういう「勤勉」な諸先輩が、日本の経済を、環境を、次々と破壊して行くのも目の当たりにして来ました。
で、その当時の、「信じる」ことに対するアンチテーゼとしての用語は「無宗教」でした。・・・「無信仰」では無かったところがミソだったように思うのですが、いま、確認する術がありません。



さて、あまり脱線してはいけません。

人には人それぞれの「能力」があるとしましょう。
でも、それには落差があることもまた、生まれ落ちたその日から、人それぞれにつきまとう事実です。
落差のうちの「谷」にいる、と評価する人にたいして、「それよりはオレの方が山にいる」と思っている人は、
「谷の奴らっちゅうのは、<考える>ことを放棄している。<信じる>ものをもたないからだ」
と述べて憚りません。
(同水準の「能力」がある人たち同士を横並びで評価する必要に迫られる指導者のかたは、ここで綴っていることとは違う角度での悩みがあるのは承知しておりますので、「同水準同士」ということは話の埒外に置きます。また、「能力」とは何か、も、本来きちんと定義する必要があるのかもしれませんが、いまは「能力とは能力そのもの以外の何物でもない」という、非常にいい加減な公理として扱ってしまいますから、突っ込みません。)



さて、山側にいる人たちと、谷側にいる人たちと、実際にはどちらが「考えることを放棄」しているのでしょう?

これは、山の性質、谷の性質によって、一通りに断言出来ることではないのでしょうね。

地学的にだって、「山」は「溶岩が盛り上がって固まって出来る」ものもあれば、「土が風や水の力で積み重なって出来る」ものもあり、岩が削れた結果、周りより高く見えることになって山と呼ばれるようになったものもあります。「谷」は、こうしていろいろ違った過程で出来上がった山との相対的な関係で、山の急な斜面の底に存在することから、相対的に「谷」と呼ばれるようになるのです。

ニーチェが「神は死んだ」と発言してから、欧米には「無宗教」が普及し、日本人は神仏分離で千五百年来の自国の「宗教」観を捨てました。
「宗教」を捨てたこと=信じることを捨てた、という具合には、しかし、ならなかったからこそ、こんにちの私たちは、たとえ神様がいなくても、仏様がいなくても、連綿と続く「生命」というものをどこかで「信じたい」と思っていやしないでしょうか?
「山」さんはプライドがあるから、あまり感じないのかもしれませんが、「谷」さんは、「どうして私は谷なのか・・・谷であっても生きているのか」を、
・悩みがちな人は悩みつつ
・割り切った人は「山」さんから見れば愚かなほど割り切って
実は、考えている。
このとき、「考えている」という言葉の難しいオモテ面に誤摩化されてはいけないのでして、高尚な「山」さんから見れば、「谷」さんが「考えることを捨てていない証拠」は、
「さて、今日はどうやって飯にありつこうか」
という、まったく単純な問いが日々彼・彼女の中で繰り返されている事実に気づけば自ずと見いだせるのです。
単純な、とは言いましたが、しかし、これだけ我が身の「生命」に密着した問いを反復している点では、むしろ、「山」さんよりも「谷」さんの方が、<考える>という行為に純粋に対峙している、といってしまったら、詭弁ですか?



「神は死んだ」
「仏だってあるものか」
・・・結構。

それでも、この宇宙が発生に「根源」を持っていたことは、物理学が私たちに残してくれた「信仰」です。

「3年経ったらなぜやめる?」
「なぜ勉強しない?」
そんな問いかけに釣られるより、もっとおおもとのところにかえりませんか?
山も谷も平らにしてしまいましょう。

「感じた」そのままを、飾らない、素直な言葉で・・・ただし、願わくばそのことによって諍いを生じるような愚を犯さず、静かな心で話し合える「私たち」でありたい、そう思うのですが、如何でしょうか?

あまりにややこしく綴りすぎましたか?
いけません、いつもの癖ですね。

根源では、ほんとうにだれもが欲しているのは、まずは自分がその瞬間「素直に感じたこと」を
「信じること」
「そこから心がゆるがないこと(但し、妄信的に、ではなく)」
である気がしました。
昨日あった2つのことにより、それ以前に出会ったいろいろなことどもが、私の中に呼び起した「思い」です。

「信じたいんだけれど」
という人には、
「それで大丈夫だよ」
と言ってあげられるように、そしてまた自分が不安にかられて
「信じられないんだけれど」
と言いたくなってしまったら
「そうなんだろうか」
と知恵を与えてくれる友を持つことを、私たちは、まず最初に大切にしなければならないのではないか、と、・・・現実の現在の自分自身がはなはだ不安定であることも顧みず・・・ちょっと語ってみたくなった次第でした。

しかしなんでまあ、私が綴ると、すぐこんなに話が面倒になるんでしょうねえ。
ごめんなさいネ!

あ。
ついでですが、「信仰」の押し売りや「占い」の類いは、ここで語ってきた「信じる」とは関係がありません。商売抜きでの、人と人との心のやり取りだけを前提にしています。
便乗してのご商売はおよしになってくださいましね。

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2008年5月27日 (火)

音楽と話す:楽譜って、どんな姿?(3)

ラ・プティット・バンド at つくば(6月1日)、是非お出掛けになってみて下さい!(リンクしてあります。)



「・・・」

このあいだ見せられた、線だらけの楽譜を前に、私がずっと首をひねりっぱなしでいると、

「なにを、いつまで困っていらっしゃるの?」
と、<楽譜>さん。
「だって、ちっとも浮かんでこないからですよ」
「何が?」
「・・・歌が。」

「だって、全部書いてあるじゃないですか?」
「でも、線ばっかりだから、どう歌っていいのか分かりませんよ」
「何故? 線の上がり下がりの通りに歌ってみればよろしいんじゃないの?」」
「そう仰いますけど、だいいち、どんな高さの音から歌いだして、どれだけの長さを伸ばして、次にどんな音の高さに移ればいいのか、さっぱり見当がつきませんよ」
「テキトーでよろしいじゃないですか」
「・・・は?」

「好きな高さの音から歌い始めて、線が長く見えたら、この線の長さは時間ではこれくらいかなあ、ってくらいお好みで伸ばして、線が下に下がったら、これくらい下がるのかなあ、上がったら、これくらい上がったのかなあ・・・で、全然構わないんじゃありません?」」
「それで、ちゃんとした歌になるんでしょうか? デタラメもいいとこになるんじゃないです?」
「しかたがないわねえ!」

<楽譜>さんは、大きく溜息をつきました。

「ホント、仕方ないのかもね。もともと、私が字とか線とかで書かれるようになったのは、あなたがた人間が、<音楽>さんをかたちにしなければ気がすまなかったからですものねえ」
「かたちになっていなくっちゃ、分からないじゃないですか」
「だから、いつまでたっても、<音楽>そのものにたどり着ける人間なんて、殆ど現れないんだわ!」
「そりゃ、私に限ればそうかもしれませんけど、優秀な音楽家は、昔っからいっぱいいるじゃないですか」
「どれくらい昔から?」

<楽譜>さんは、イタズラっぽい、いや、皮肉っぽい薄笑いを浮かべて私を見つめました。

「それは・・・そうですねえ・・・ベートーヴェン、ハイドン、モーツァルト・・・いや、まだ新しい方か。バッハのオヤジさん。もっと遡って、モンテヴェルディ。・・・いやいや、13世紀まで遡ればペロティヌスとか、その先輩のレオニヌスとか。」
「まあ、ヨーロッパのかたばっかり!しかもせいぜい700年前まで。」
「いや、私が知らないだけですよ。名前が忘れられた中に、アジアにでもアフリカにでもオセアニアでも、たくさん、すばらしい音楽家がいたはずです。」
「忘れられたかたたちのほうが、大事かもね」
「・・・そうなんですか?」
「だって、そういう皆さんは、書かれた楽譜なんていらなかったんですもの」

そう言われてしまっては、私にはもうどうしようもありません。

「それなら、これでいかが?」
<楽譜>さんは、なにやらまた、数枚の紙を出しました。
「あなたがお望みなのは、こんな類いのものでしょう?」

古ネウマと併記されたグレゴリオ聖歌の4線譜
Avemaria

定量音符の譜例
Teiryoukyrie

「こういう楽譜はね、あなたみたいに、<どんな高さから>・<どれくらいの時間伸ばして>・<次はどの高さへ移るのか>を、数学のグラフみたいにして描いたものよ」

「ほう。最初のは、線で結ばれている難しいところは分かりませんけど・・・」

「そういうのはまたテキトーにお勉強なさってくださいまし。二つだけお話しておきますとね、線の左端にCのマークがついているところが、<C>の高さの音になるの。日本人風に申し上げますと、<ド>の音ですわね」
「じゃあ、そこを目印に、音の高さに見当をつければいいんですね」
「手っ取り早く申し上げれば、そういうことになりますわね。・・・もう一つ、線の上に書かれた黒の四角が<音符>というもので、これの場所が音の高さを表しているの」

「これで完璧・・・じゃないな、長さが分かりません」
「長さはね、例えば<あいうえお>の<あ>ひとつを少しゆっくり目に声に出すときの長さが基本だと思っておけばよろしいかも知れませんわ。ただし、黒四角(音符、ですわね)の右に点が付いているのは、それより長く伸ばすの」
「どれくらい長くするんですか?」
「そんなの、決まってなんかいませんわ」
「じゃあ、困っちゃうじゃないですか」
「もう、あなたみたいな人がいるから、2つ目の紙みたいな書き方が出来たのよ。まず、それはいいということにして、右に点の付いた音符の長さは、雰囲気で、テキトーに伸ばせばいいのですわよ」
「また、テキトーですか!」
「気分、気分。・・・<音楽>の基本は、<気分、気分>」
「そんな、いい加減な・・・」
「いい加減かどうかは、実際にお歌いになって、試してご覧になるといいわ」

・・・これは、このときすぐ試したら短めにしか伸ばせなかったのですが、後でゆったり風呂に入りながら試したら、<楽譜>さんのまえでやったときより長くなりました。。。やっぱり、気分、気分なのかなあ。

「でも、どうしても<気分、気分>が嫌な人たちがいて、長さをきっちり決めたくなっちゃったの。それで、2番目みたいな、菱形やら長方形やらが混じったものが出来たんですわ」
「そりゃ、きっちり長さが決まっていないと、一人ならともかく、何人もで音楽を楽しみたいときには困るでしょう」
「多分、これを考えた人たちも、あなたと同じような発想でいらしたのよ。私にしてみたら、ばかばかしいったりゃありゃしなかったんですけれどもね。仕方がないから、妥協して差し上げた、という次第。」
「ああ、でも、今見ただけじゃあ良くわかんないけど、決まり事さえ覚えれば、ずっとすっきり分かりそう!」
「(そんなにあまかあないのよ!)・・・まあ、そうお思いになるんでしたら、せいぜい、一生懸命お勉強なさって!」


グレゴリオ聖歌のほうの4線譜の読み方については、前に別記事で綴りました

定量音符記譜法については、事典に記載された図版を、参考までに掲載しておきます。

Teiryou

どうでしょう、これで上の図の例が読み解けますか?(この表だけでは足りないのですが、あとは推定で可能です。ちなみに、上の図では「C」記号(ハ音記号)は装飾的になっています。五つある線の、したから2番目の線に付いています。余計なことを付け加えますと、この装飾がこんにちのハ音記号の原型で、いまも手書き譜を作る場合にはこれと似たように書く場合があります。印刷譜でも、フランス製の楽譜でしたら、上図に似ています。)


駄目押しで<楽譜>さんに言われました。
「申し上げておきますけれど、Cがかかれた場所が<ド>、だって、さっき申し上げましたけれどね、この<ド>の高さは、別にテキトーに決めてよろしいんですのよ。」
「???」
どういうこと?

ま、次回への宿題にしましょう!

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2008年5月26日 (月)

BWV1128〜うーん、私なりの結論。。。

ラ・プティット・バンド at つくば(6月1日)、是非お出掛けになってみて下さい!(リンクしてあります。)



私の所属するアマチュアオーケストラ、東京ムジークフローの名オーボエ奏者だったHさんの一周忌に寄せて駄文を綴りました。

3回目を綴ってしまいます。
1回目の記述の際、ばたばたと綴りましたので、文に混乱がありますが、そちらも時間を見て修正します。
さまざまご教示頂いたCurraghさんには、あらためて深く御礼申し上げます。


で、ご教示を考慮して、再検討したのですが・・・

私の結論は、
1)Web上に公開された資料には真贋判定の可能な部分が無い
2)私としては、作法上から見て、真作とは考えにくい
ということに、あいなりました。

念のため、まず、


を、もう一度お聴き下さい。

1)については、公開されたのが冒頭部と結尾部のみの画像であり、公式発表通りに7分程度の演奏時間がかかるのであれば、せいぜいその1/6〜1/7の分量に過ぎません。かつ、結尾部(最終頁)のほうには素材となったコラール旋律の断片が全く見られず、冒頭部との関連性をうかがうことが出来ません。

2)については、
最初に持った「コラール旋律単独で始まるところに違和感がある」という印象は誤りであることは、前回この作品に付いて触れた際に述べた通りです。
その後、バッハの手になる、なるべく多くの、大小を問わないコラール編曲(パルティータなども含む)を数度繰り返して聴きました。
オルガン曲の楽譜を手に出来なかったので、決め手、とはいいきれないのですが、聴いてみた曲は、耳での印象ではすべて、2つの点でBWV1128と大きく異なっています。

分析譜を掲示しますので参考になさって下さい。(クリックで拡大します。)
Bach_bwv11281

まず、コラール旋律が最初に呈示される際には、バッハは旋律を1度呈示し終えるまでは、コラール旋律を受け持つ声部を途中で変更することはない、と感じられました。もちろん、例えばテノールが先行しソプラノが後行するといったカノン的な手法で、複声部で同時進行でコラール旋律を呈示することはありますが、BWV1128と決定的に違うのは、その場合でも「間の開け方」に継続的な規則性が見られることです。分析譜をみてもらえば分かる通り、BWV1128は、

・冒頭で第1楽節をテナー声部で呈示した後、その模倣は1小節あけた後でバスで行なわれます。

・ところが、続く第2楽節は、6小節目から7小節目にかけて呈示されているところ、そのバス声部での模倣は8小節目からすぐに始まっています。すなわち、第1楽節のようには間を空けていません。

・そのあとの部分は間奏ですが、その部分を示すためにつけた折れ線に割り当てる色を間違いました。この間奏部の10〜12小節は(印を付けるとくどくなるのでやめましたが)第2楽節の変奏になっています。すなわち、これも第2楽節の模倣であるとみなせます。模倣が2度繰り返される、という例は、私の聴いたかぎりのバッハの他のコラール編曲には存在しませんでした。

・13小節のアウフタクトから、第3楽節がソプラノに呈示されます。これも、聴いたかぎりの他のバッハのコラール編曲作品にはないものでした(ほんのわずかしか聴けませんでしたが、ブクステフーデにもそのような例はいまのところ見いだしていません)。なお、この部分、第2楽節に音型を似せているので紛らわしいのですが、音程を確認して下さい。第3楽節であることが明らかです。

・第3楽節がバスに模倣されるのか、と思いきや、これがソプラノの呈示の終結を補強するかたちでしか現れず、続く14〜16小節では(素直には)模倣されていません。ここでは一種類の動機が積み重ねられて「ファンタジー」的な雰囲気を醸し出しているのですが、ダッシュを付した箇所までは「第3楽節の模倣である」ことを明示していません。・・・よく見ると、第3楽節を内包していると見なせなくもない部分なのですが、ダッシュを付した箇所はむしろ第2楽節に似てしまっている。おそらく、16小節目最終拍から始まるソプラノの(第4楽節の呈示でしょう)対位をどうするか、という都合からきているのではないかと思われますが、そうすると、作りとしては「もしかしたら、ここ以降はバッハらしくない拙さがあるんではなかろうか」と勘ぐりたくなってしまいます。

・また、今回は載せません(最初に載せたときの画像を参照して下さい)が、コラールパルティータの類いでは、バッハはBWV1128のようなコーダを書いていることは無い、との印象も受けております。すなわち、コラールを用いた曲の場合、カンタータの中からの編曲を集めた「シューブラーコラール集」以外では、バッハはコラール編曲のコーダはコラール旋律そのものの終結部との関わりを最後まで保ったコーダを書くのが通例である、と、私には感じられました。

・・・本当は、BWV1128を含め、バッハのオルガン曲の楽譜を出来るだけ数多く目を通して結論を出したかったのですが、このくらいが、私の考えられる限界ですね。ただし、希望があるとすれば、このコラール旋律、第1楽節と第3楽節が同一ですので、そのあいだに長めの間奏があることは「理性的に計算されたものである」可能性は残るのです。また、形式的にバッハ作品としては例外、ということは皆無ではないことでしょうから、第3楽節から呈示声部が変わることに伴い、第2楽節までとは雰囲気を変えた作法を少なくとも第3、4楽節で行なっており、また第5楽節以降が異なった構造になっているのであれば、まずそこまでをひとまとまりとして見、以降の「ファンタジー」にその自由さが何らかの明確さをもって引き継がれているのであれば、真作であることを完全否定する必要はなくなると思います。(歯切れが悪くて恐縮ですが。)

創作推定年代の頃のバッハがもっとも影響を受けていたベームの作品を耳にできなかったことも、イタいのですが・・・少なくとも、目にし得る材料だけでは、残念ながらバッハの真作であるとは、どうしても評価出来ませんでした。

発表されていない部分が・・・音声としてよりもむしろ楽譜として・・・一日も早く全貌を明らかにしてくれることに、なお期待をかけたいところです。

うーん、残念!

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2008年5月25日 (日)

モーツァルト:等閑視されて来た傑作〜「タモス、エジプトの王」K.345

ラ・プティット・バンド at つくば(6月1日)、是非お出掛けになってみて下さい!(リンクしてあります。)



私の所属するアマチュアオーケストラ、東京ムジークフローの名オーボエ奏者だったHさんの一周忌に寄せて駄文を綴りました。

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。

この週末は文化史上興味深い事件が相次ぎました。「ベルリンのフィルハーモニーが火災」・「万葉歌が木簡に書かれていることが判明!」の2つはブログに記事を引用しましたが、今朝までに、さらに「行方不明になっていた正倉院宝物の荘園絵図(19枚あったうちから持ち出されて行方不明になっていた1枚)が富山で発見された」というものもありました。荘園については、私はざっとしか知りませんので(音楽だの和歌だのも本当はろくろく知らない厚顔無恥で記事を綴っているのですが)掲載しません。

トドメが、「後期ウィーン時代のモーツァルト作品とおぼしき3作の<筆写譜>、チェコ郊外で発見」というニュースなのでした。・・・が、これは朋友が時事通信のニュースで見つけた以上のものがないか、検索しましたけれど、まだ他には出ていません(080525、14時現在)。「写譜」というところと、モーツァルトはウィーン時代には自作カタログを作っているのですけれど、かつニュースを読むかぎり学者さんは少なくともそこまでは照合を行なったかと推測されますけれど、該当作が見当たらない、というところに引っかかりを感じますが、どんな結果になるでしょう?(バッハについても真作新発見のニュースがあったばかりで・・・これについての私の最終結論は、数日中に綴ります。)



「モーツァルト唯一の」とされている劇音楽「タモス、エジプトの王」K.345は、西田氏(やコンラート)の作品表によると、2つある合唱曲の初稿が1773年、その改訂作ともうひとつの合唱曲および4曲の幕間音楽が、コンラートの推定では1776〜9年ごろ(幕間音楽は77年)、アイゼン説では1779〜80年頃、とされています。
後で見て行きますように、私の素人推測では、早い方の1777年でも、モーツァルトはこの音楽を完成させるには充分な実力は持っていたと思っております。ただ、公式には1779年説が有力なのかな、との印象を受けております(NMAの解説【1956】は79年補作を前提として書かれいています。それは、第4曲の合唱が、モーツァルトが78年にマンハイムで強く印象付けられたベンダ作曲「メデア」の影響を受けていることが最大の論拠であるようですが・・・私は「メデア」を聴くチャンスに恵まれず、確認のとりようがありません)。

「タモス」は、この推定作曲年代の幅の広さから窺われるように、(音楽のことはさておいても)ロングラン上演された「フリーメーソン」演劇だったようです。エジプトが舞台であり、フリーメーソンの参入儀礼で重視された「死」の象徴的な意味を劇のクライマックスに持って来る(このあと、「タモス」の音楽の中で最も劇的で美しい第7曲が演奏され、大団円を迎えます)構成となっていることからも、また、第2幕への間奏曲である第2曲冒頭が主和音3回の上昇して行く響き(『魔笛』序曲と同じ。ただし、『魔笛』が長調の和音であるのに対し、『タモス』は短調の和音です)が用いられていることからも、この作品が「フリーメーソン」劇であったことが音楽面から裏付けられていると言っていいでしょう。
劇の作者はトビアス・ヨハン・フライフェルン・フォン・ゲブラー男爵(1726-1786)という人物(アインシュタインによれば、ボヘミア宮内省の枢密顧問官兼副長官だったそうです)。
ゲブラーは当初、この劇への音楽をザットラーという人物(不詳)に作らせ、グルックに吟味を依頼しだのですが満足がいかず、最終的にモーツァルトにお鉢が回って来たもの、ということになっています。アインシュタインはこのように述べているのですが、確かめ得なかったものの、この話の出所はオットー・ヤーンのようです。
これまた出所の分からない話ですが、アインシュタインによれば、ゲブラーはモーツァルトの作った音楽に大変満足し、73年12月13日に、初演の地ウィーンからベルリンの文学者フリードリッヒ・ニコラーイに手紙でこう書き送っているそうです。
「先日モーツァルト氏という人が作曲したばかりの、タモスの音楽を・・・同封致します。それは同氏自身の構想によるもので、第1の合唱は実に美しい曲です。」
この書簡については、ドイッチュとアイブルのまとめた「ドキュメンタリー モーツァルトの生涯」には収録されていません。
最終的な改作は、他のモーツァルト作品の劇音楽上演にも貢献したベーム一座のために行なわれた(79年と推定)とされ、その際に第3の合唱曲が追加された、とアインシュタインは述べています。

モーツァルト自身、「タモス」の音楽には自信を持っていたと思われますが、作品は報いられず、1783年2月15日のウィーンから父に宛てた書簡の中で、こう述べています。
「タモスのための音楽を利用出来ないだろうということは残念でなりません!・・・この作品は当地では気に入られなかったので、もう演奏されることのない見捨てられた作品の仲間入りをしています。・・・ただ音楽だけのために演奏されるとすれば別問題ですが・・・その見込みもまずありますまい。・・・実に残念です。」(アインシュタイン著所載のものから、浅井真男訳)



初稿が残っているのは、ゲブラーも書簡で触れているという(幕開けの)第1の合唱曲(最終稿より5小節短い)と、第5幕冒頭で用いられる第6曲の途中まで(121小節)です。NMAではさらに、登場人物のなかの悪玉フェロンがカミナリに打たれる場面の音楽(第7曲a)が、これらの初稿と共に、全体とは別に切り離された「付録」の部に収められていますが、これは自筆譜に抹消線が引いてあることによります。ただし、録音される場合は、7aは第7曲に先立って演奏されるのが通例化しているかと思われます。


「タモス」の音楽については、不思議と、劇の進行との兼ね合いについての記述を見受けません。NMAのスコアには台本部分も印刷されていますし、後述するように、第3曲はタモスの舞台上での演技におそらく密接に関わっていたでしょうし、第4曲は、やはり登場人物のひとりザイースが音楽のどの部分でどの台詞を喋るのかについての注意書きまで入っています。音楽の印象が素晴らしいから劇の進行との関係は無視して鑑賞し得る、というのが常識化しているのでしょうか? 劇の再演自体が今日的意味合いを全く持たないのは、劇の方は忘却されているのですからやむを得ないとしても、劇本体の筋と音楽がどう言う接点を持っているかが不明確であることは、一方で音楽の方の演奏機会をも減らすことに繋がっているような気がして、モーツァルトの
「・・・ただ音楽だけのために演奏されるとすれば別問題ですが・・・」
というはかない希望も未だにかなっていない状況は、寂しいかぎりです。


劇は5幕ものですが、基本的に1幕あたり8場となっており、登場人物の短い独白を2〜3場目と後半の1ヶ所に置くことでドラマにアクセントを付ける工夫がなされています。
登場人物は、
・タモス(陰謀にたけた故・父ラメセスとは対照的な、人徳豊かな若いエジプト新王)
・ザイース(実はタルジス、陰謀で死んだとされる先王メネスの娘、タモスと恋仲)
・ゼートス(実は、タモスの父ラメセスの陰謀で死んだと思われていた先王、メネス)
・フェロン(王位継承権を持つ、エジプト王室の重臣)
・ミルツァ(フェロンのおば)
・ハモン(ゼートスを密かに救った高僧)
・ミリス(ザイースの親友)
・ファネス:宮宰
といったところに、合唱要員として、舞台となる「太陽の神殿」に仕える男女の神官の集団が加わります。


恥ずかしながら、私にはドイツ語の読解力はさほどありません。文学的なものとなると、なおさらです。・・・ですので、誤りを多分に孕んでしまうかとは思いますが、以下、曲の構成を、私に出来るかぎり、劇の進行と結びつけてご紹介したいと思います。以下、お読みになりづらいかも知れず、恐縮の至りですが、「タモス」の音楽の魅力の由来がどこにあるかのヒントとして少しでもお役に立てるようでしたら幸いです。

なお、管弦楽の編成はフルート、オーボエ、ファゴット、ホルン、トランペット各2本、トロンボーン3本(宗教曲とは違い、合唱をなぞるため、ではなく、独立して和音を構成するという用いられかたになっています)、ティンパニ、弦五部、という、当時ではおよそ考えうる最大級のもので、合唱をクラリネットを含めて割り振り直して管弦楽曲に編曲し直したい誘惑に駆られるほどです。音楽も「モーツァルトは軽やかな奏法で!」とこだわる演奏者にとってはおそらくびっくり仰天の、むしろ固い音で演奏することが似合う、部分的にはベートーヴェンを先取りした作風を示していることをも、申し添えておきます。

第1幕:第1曲と共に幕を開けます。
第1曲=合唱曲、ハ長調。新王タモスへの期待を込めたもの。2/2、Maestoso。208小節。
・・・合唱の後、第8場までの劇が一気に進行しますが、ここでは早くもゼートスが先王メネスであることが(ハモンの台詞を通じ観客にだけ)明らかになり、幕の最後ではフェロンとミルツァの間に、タモスを亡き者として王位を簒奪しようという陰謀の芽生えがほのめかされます。

第2幕:先立って、間奏曲として激しい第2曲が演奏されます。
第2曲=フルート、トロンボーンなし。ハ短調、4/4、Allegro、128小節。
     冒頭部の3つの和音がフリーメーソン的であることは先述しました。
     主和音・属和音の跳躍、シンコペーションの多用は73年の交響曲第25番と共通です。
     第5曲と共に、半音階的進行が有効に活かされている点も要注目です。
     途中(48小節から)のc-f-g-cという巧みな転調も(これが73年作なら)画期的です。
・・・間奏曲の終了後、ザイースが友ミリスと、タモスへの恋心を屈託なく語るところから始まりますが、フェロンのおばミルツァがすぐに参入して来て、タモスがいかに悪人か、とのあらぬ吹聴をしてザイースの心を乱します。そうとは知らぬタモスは、ひたすら無心に、ザイースへの思いにふけります。
第3曲=Andante、3/4、変ホ長調。具体的にどんな演出だったのかは分かりませんが、タモスがザイースに抱いている純粋な思いを「動作」として表している背景で鳴り響く音楽ですから、第3幕への間奏曲とだけ見なすのは適切ではないと思われます。ピチカートによる伴奏は、本来の恋の歌としてのセレナーデを彷彿とさせます。

第3幕:音楽を伴いませんが、緊迫した幕です。フェロンが、タモス、ゼートスのそれぞれに個別に追従し、とくにゼートスに対してはその清廉潔白さを利用しつつ陰謀に丸め込むべく、ミルツァと組んで執拗に「タモスの排除」をもちかけます。

第4幕:第1場は音楽を背景にザイースが台詞を語る、ということが音楽(第4曲)の方に明記されており、この点、劇の「単純な」背景音楽ではありません。台詞の変わり目と一致した音楽のテンポ変化に注目してみましょう。
第4曲=29小節までAllegr、3/4、ト短調。30小節よりAllegretto、2/4、変ロ長調。35小節よりAndante、43小節からザイースの台詞が始まり、53、70小節目にも対応すべきザイースの台詞が記されています。63小節よりPiu andante、73小節よりPiu Adagio、80小節よりAllegretto、85小節よりAdagioで、73、80、85小節はテンポ変化と共に語られるべきザイースの台詞が明記され、90小節で第1場の終了と共に曲を終えます。不安のうちに始まった台詞が、ザイースの、タモスを信じる心へと移り変わって行くのを、巧みに表現した音楽です。
以降、ザイースはタモスと簡単な会話をして去り、ついでゼートスがタモスの善良な人間性を確認し、ハモンと打ち合わせの上、フェロンの示した陰謀に「嵌る」ふりをします。第9場まであります。

第5曲は=終幕へ向けての激しい間奏曲です。ニ短調で4/4、Allegro vivace assai、第2曲と同編成で、やはり交響曲第25番に通ずる書法で作曲されています。さらに、半音階進行(10-15、73-79、115-118)の多用も第2曲と共通しています。

第5幕:263小節という長大な合唱曲で幕を開けますので、台本は第3場までしかありませんが、終曲が大きく3部に分かれています。最初の合唱曲(第6曲)がやはり大きく3部構成となっていますので、最初の3場この曲が受け持っていると受けとめれば、全体が8場の構成となり、他の幕と均衡がとれていることが分かります。
第6曲=1小節目からは、ニ長調、Adagio、4/4。13小節目からは、それまでを前奏とするAllegro vivace。69小節目よりイ長調のAllegretto、3/4で男声・女性の独唱がそれぞれなされたあと、四重唱となります。143小節目から、同じ調性で再び合唱となります。185小節からは再びニ長調に戻り、Allegro vivaceですが、ベートーヴェン「荘厳ミサ」の先駆けを思わせる壮麗で重厚な音楽である点、これまでのモーツァルト作品とは一線を画しています。267小節からテンポを落とし、moderatoの指示となって284小節で曲を閉じます。
物語は、フェロンの陰謀が行なわれるはずのタモス戴冠式の場を迎えます。ここで、水戸黄門の印籠宜しく、ザイースが先王メネスであり、タモスの正義を支持していることが、(お客はとっくに知っていたわけですが)フェロンとミルツァの前では初めて明らかになります。切羽詰まったミルツァは自害し、なおも悪事を貫こうと粘るフェロンはカミナリに打たれて死にます(第7a曲、ニ短調、75小節)。
第7曲=劇はこの曲で荘厳に締めくくられますが、最初の部分の音楽が「ドン・ジョヴァンニ」に通ずる雰囲気を持っていることには、なぜ注目されて来なかったのか、不思議で仕方ありません。
1小節目から、ニ短調、Andante moderato、弦楽器上声部はミュート装着、下声部(低音)はピチカート。力強いバスの独唱で始まりますが、これがまさに「ドン・ジョヴァンニ」の騎士長のようです。それに続く合唱は、神秘的な静けさを讃えています。33小節目からニ長調に転じ、祝祭的な場面への転換を予告します。46小節以降はフィナーレです。ニ長調のAllegro、3/4と、舞曲的なリズムなのも特徴的です。191小節で曲と、演劇全体を輝かしい雰囲気のうちに閉じます。

長くなりました。これくらいで。

タワーレコードでの、CDの一覧をリンクしておきます。

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2008年5月24日 (土)

TMF:オーボエHさん一周忌

ラ・プティット・バンド at つくば(6月1日)、是非お出掛けになってみて下さい!(リンクしてあります。)



当団の名物オーボエ奏者、深い音色で仲間やお客様を魅了し続け、そうかと思うと豊富な経験を(辛かったことでも悲しかったことでも)巧みなジョークに変えて、みんなを楽しませ続けてくれたHさんが、昨年の今日、心不全で逝去なさいました

1年経ったのですね。

練習に出掛けると、いまだに、
「今日はHさん、いるかな?」
と、ふと楽しみにしています。

で、ナマでは耳に出来なくなりましたけれど、そういう日には、どこからともなく、声ならぬ声で、彼がいつもながらのジョークを振りまいて、メンバーの緊張をほぐしてくれている、と感じることがあります。

ですので、タイトルからは適切な選曲ではないのですが、
「ウィットに溢れた彼に似合う曲は何だろうか」
と考えて、選びました。


  アンタル・ドラティ/フィルハーモニア・フンガリカ(DECCA 425 910 2)

最初の部分で第1オーボエと第2ホルン、次いでファゴット、さらに第2オーボエ、第1ホルンと、まず管楽器がみんなステージから退場します。
あっけにとられたお客さんは、残った弦楽器が平然と先を続けているので、一旦安心します。
ところが今度はコントラバスがそそくさと片付けを始め、それが済んだらチェロもエンドピンを畳み込んで袖の奥へ行ってしまい、ヴァイオリンのおおかたの連中も
「じゃあ、ここまで」
といなくなるのです。
・・・お客さん、呆然。

が、ステージの上では、ヴァイオリンでまだ二人だけ粘っているので、ヴィオラも一人、
「しかたねえなあ」
と付き合っています。
でも、8小節付き合ったところでイヤんなっちゃって、
「やってらんねえや!」
と、切り上げて出て行っちゃう。
最後まで律儀に演奏を続けるのは、二人きりのヴァイオリン。

この交響曲を巡る有名な逸話については、敢て触れません(歴史的には実証出来ないそうです)。

Hさんのジョークに比べれば直裁な面白さは無いですし、音だけですからなおさらなのですが・・・有名作曲家の中では音楽史上最もウィットに富んでいたハイドンの、最もウィットに富んだ作品です。

Hさん、これからも、一緒に楽しく演奏しましょうね。
私にはこの程度のものしか思いつかないですから、今度、
「こんなのはどう?」
って、お知恵を貸して下さいね。

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2008年5月23日 (金)

木簡に「万葉集」の和歌!

ラ・プティット・バンド at つくば(6月1日)、是非お出掛けになってみて下さい!(リンクしてあります。)



ベルリンの「フィルハーモニー」が20日、火災となりました。被害は最少限に留まりましたが、消防の際の水浸しから立ち直るのにどれだけ時間がかかるのか・・・


定家の記事そのものが進んでいないのに、すみません。定家のカテゴリに含めてしまいました。

取り急ぎ、Asahi.comから転載・・・と19時には思っていたら、そのあとすぐ外出する用事があったので、掲載が遅くなりました。(昨日の記事、つづってあるから、いいか!)
その間に、もっとまっとうな記事がWeb上で毎日新聞にふたつ記事があったので、それをまず引用します。



<木簡>万葉集と違う表記で「安積山の歌」  成立過程に光 奈良・紫香楽宮跡
5月22日19時57分配信 毎日新聞

2008052200000041maiallsociview000写真は、史跡紫香楽宮跡から出土した万葉集の歌が書かれた木簡(「阿佐可夜(麻)」側上部)=滋賀県甲賀市で

奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)の跡とされる宮町遺跡(滋賀県甲賀市信楽町)で出土した木簡(8世紀中ごろ)に、日本最古の歌集である万葉集に収録された「安積山(あさかやま)の歌」が書かれていたと22日、市教委が発表した。万葉歌が木簡で見つかったのは初めて。万葉集とは表記が全く異なっていた。もう一つの面には「難波津(なにわづ)の歌」が書かれており、この2首を歌の手本とする伝統が、平安時代に編さんされた古今和歌集の時代から万葉集の時代まで約150年さかのぼって確かめられた。日本文学の成立史に見直しを迫る画期的な実物史料となる。

「歌木簡」は97年、宮殿の排水路と推定される溝から出土した。長さ7.9センチと14センチの2片に分かれ、幅は最大2.2センチ。万葉集になく、木簡などで残る難波津の歌の一部が書かれていることはわかっていたが、厚さが約1ミリしかなく、木簡の表面を削ったくずと考えられていた。(栄原永遠男さかえはらとわお)・大阪市立大教授が昨年12月に調べ直して見つかった。

両面とも日本語の1音を漢字1字で表す万葉仮名で墨書され、安積山の歌は「阿佐可夜(あさかや)」「流夜真(るやま)」の7字、難波津の歌は「奈迩波ツ尓(なにはつに)」などの13字が奈良文化財研究所の赤外線撮影で確認された。文字の配列などから元の全長は2尺(約60.6センチ)と推定される。字体や大きさが異なり、別人が書いたとの見方が強い。

万葉集は全20巻のうち、安積山の歌を収めた巻16までが745年以降の数年で編さんされたとされる。木簡は一緒に出土した荷札の年号から744年末〜745年初めに捨てられたことがわかり、万葉集の編さん前に書かれたとみられる。約400年後の写本で伝わる万葉集では訓読みの漢字(訓字)主体の表記になっており、編さん時に万葉仮名が改められた可能性がある。

2首は、古今和歌集の仮名序(905年)に「歌の父母のように初めに習う」と記され、源氏物語などにも取り入れられている。筆者の紀貫之の創作の可能性もあったが、古くからの伝統を踏まえていたことがわかった。【近藤希実、大森顕浩】

<難波津の歌>

難波津に咲くや(木こ)の花冬こもり今は春べと咲くや木の花

(訳)難波津に梅の花が咲いています。今こそ春が来たとて梅の花が咲いています

<安積山の歌>

安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに
(安積香山 影副所見 山井之 浅心乎 吾念莫国)

 (訳)安積山の影までも見える澄んだ山の井のように浅い心でわたしは思っておりませぬ

(いずれも「新編日本古典文学全集」小学館より。「安積香山」の表記は、万葉集の原文)

【ことば】万葉集
奈良時代編さんの日本最古の歌集。全20巻に約4500首あり、主に飛鳥時代から奈良時代にかけての歌を収録。歌人としては柿本人麻呂、山上憶良、大伴家持、額田王などが知られる。天皇や皇后などの皇族のほか、東北や関東などの民謡「東歌(あずまうた)」や、九州沿岸の防衛に徴集された防人(さきもり)の歌なども収録し、作者層が幅広いのが特徴。

【ことば】紫香楽宮
奈良時代半ばの742年、聖武天皇が造営を始め、745年に難波宮(なにわのみや)から遷都したが、地震や山火事が相次ぎ、5カ月で平城京に都が移った。公式儀礼を行う中枢建物「朝堂」の跡が宮町遺跡で01年に確認されたが、全容は不明。



<歌木簡>聖武天皇の前で音読、庭で曲水の宴…膨らむロマン
5月22日22時8分配信 毎日新聞

紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる宮町遺跡(滋賀県甲賀市)で出土した、万葉集の歌が書かれた8世紀半ばの「歌木簡」。わが国最古の歌集が編まれる直前、聖武天皇が造営した5カ月の短命の都で、どのような歌の世界が繰り広げられたのか。専門家は、さまざまな場面を想像する。【近藤希実、花澤茂人】

木簡には、万葉集の「安積山(あさかやま)の歌」、もう一つの面には「難波津(なにわづ)の歌」が書かれていた。

安積山の歌の文字を発見した栄原永遠男(さかえはらとわお)・大阪市立大教授(日本古代史)は「聖武天皇のいる場で、手に持って声を出して読んだのではないか」と推測する。歌木簡が2尺(約60.6センチ)と長いのは、読み間違えにくい1字1音の万葉仮名で記したため。大切な儀式や宴会で役人が朗々と読み上げる姿が浮かぶ。

奈良時代の歴史を記した「続日本紀(しょくにほんぎ)」に登場する8首の歌のうち4首が紫香楽宮の時期に集中している。宮町遺跡の「朝堂(ちょうどう)」(公式儀礼を行う中枢施設)の跡で「歌一首」と墨書した土器も出土しており、歌詠みが盛んだったらしい。

歌木簡は溝に捨てられていた。同時期の平城京には池と曲水路のある庭園があり、中国の唐のように、杯が流れる間に歌を詠む「曲水の宴」が行われていたらしい。小笠原好彦・滋賀大名誉教授(考古学)は「紫香楽宮にも歌会をする場所があったのだろう。近くを調査すれば、宮中の歌会や儀式で使われた歌木簡が続々と出てくるのではないか」と期待する。

木簡の2首は「歌の父母」とされた手本。上野誠・奈良大教授(万葉文化論)は「当時の役人は、日本固有の名前を万葉仮名で表記する能力が求められた。2首の手習い歌を人に読んでもらって書き取る練習をしたのではないか」と想像する。

「難波津の歌」は天皇を賛美する「公」の歌、「安積山の歌」は感情を吐露する「私」の歌。中西進・奈良県立万葉文化館館長(国文学)は「役人が公私の歌をきちんと書き留めているということは、紫香楽宮が安定した都だったことを示すとも考えられる」と話す。



上の記事に載った歌は、表のものは、講談社文庫本(底本:西本願寺本)の万葉仮名は毎日新聞の記事の通りです。(巻十六、3807)
歌が書かれていることが判明した木簡での表記の方が簡便なもの(ひらがな一字相当分が万葉がな一字となっている)であるところには、注目したいですね。・・・「万葉集」の方の表記は、この集を編纂したのが、「インテリ」として選ばれた人物であったことを示唆していると言っていいでしょうから。
逆に言えば、最初の記事通り、木簡は「読みやすいように」一字一字を記したのだとすると、当時の宮廷人の、それでも一般よりやや学識があったと思われる連中の「読み書き理解度」も、何となく伝わってくるようです。
  
裏の歌は(日本書紀に載っているのだとしたら・・・しまいこんじゃって今行方が分からないのですが・・・)日本に論語や千字文をもたらした王仁(わに)の歌だとされているようですが(Wikipediaに記載あり)、法隆寺五重塔の落書に次のように記されているものです(一部しか分かりませんでした)。
奈爾波津爾佐久也己・・・
こちらは、法隆寺五重塔のものより、新しく解明したもののほうが、「ひらがな」に近づいて来ているのを示唆しているようです(もっとも、法隆寺落書の現物を見ていないので、この比較が当を得ているかどうかは分かりません)。「爾」に対して「迩」(前者の、「しんにょう」が付いたものの略字、またそれより略された「尓」が使われていますし、もし読みが記事の通りで正しいのなら、tsuの読みに当たる字がすでに「川」から崩れた「ツ」になっているあたりも・・・パソコン上はこれはカタカナですが、おそらく実際の字はひらがなの「つ」に変形する途上の形状である筈です・・・「ひらがな」の醸成が万葉仮名の汎用化と並行して進んでいたことを示す例として、仮名の資料としてみただけでも大変に価値があるものと思います。

二首とも、古今和歌集仮名序には(割書きの部分を省きますが)このように引用されています。

難波津の歌は帝(みかど)の御初(おほむはじ)めなり。--(割書き略)--安積山の言葉は釆女のたはぶれよりよみて、--(割書き略)--この二歌(ふたうた)は、歌の父母(ちちはは)のやうにてぞ、手習ふ人のはじめにもしける。(岩波文庫なら11頁)

古今集仮名序に並んで出てくる歌が表裏に書かれていた意味について、なお面白い考察が出てくることを期待したいと思います。

先ほどのWikipediaの記事によれば、「難波津の」は平安時代には「誰でも知っている歌」であることが常識だったそうで、毎日新聞2記事の最初の記事の方に「源氏物語にもとりいれられている」とあるのはちょっと大袈裟なのです。「源氏」に登場する「難波津」の歌は断片でして、「若紫」の巻で、光源氏がまだ幼い紫上に無茶ともいえる懸想する場面で、紫上の保護者である尼君が
「まだ難波津をだにはかばかしう続け侍らざらめければ」
と、(要するに、まだ読み書きもままならないのに無体なことを、という尼君の気持ちを込める比喩として)なんとか断ろうとする場面にちょこっと引かれているだけです。
むしろそのあとに、安積山の歌を本歌にして源氏と尼君がこんな歌のやり取りをしているのが、難波津の喩えとセットで出てくるところに、当時の常識を踏まえた面白さがあるのでしょう。(但し、安積山は浅香山にすり替わってしまっています。)

(源氏)浅香山あさくも人を思はぬになど山の井のかけはなるらむ
(尼君)汲みそめて悔しと聞きし山の井の浅きながらや影を見るべき

この部分、角川文庫でしたら第1巻の172頁にあります。このあと、源氏は継母である藤壷宮と密かな情事に走り・・・藤壷は大変な後悔をしながらも源氏の子を「桐壺帝」の子として生むことになり、「源氏物語」の暗い世界の面が大きく展開していく・・・のだそうですが、私は途中で投げ出して、そこまで読めておりません。つまり、あとはちっとも知りません。念のため。

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2008年5月22日 (木)

ベルリン「フィルハーモニー」火災(一昨日)

ラ・プティット・バンド at つくば(6月1日)、是非お出掛けになってみて下さい!(リンクしてあります。)


もうご存知の方も多いと思いますが、ネット各誌の記事を掲載しておきます。


<ベルリン・フィル>拠点ホールの屋根など火災 当面閉鎖へ

5月21日10時36分配信 毎日新聞【ベルリン小谷守彦】
世界有数のオーケストラ、ベルリン・フィルハーモニーの本拠であるコンサートホール「フィルハーモニー」で20日午後、火災があり、屋根や壁など約1600平方メートルを焼失した。建物の修復には日数がかかるため、運営主体のベルリン・フィル財団は「当面の間、大ホールを閉鎖する」と発表した。

 消防によると、火元は大ホールの屋根裏部分で、改修工事に伴う出火とみられている。火は約6時間後に消し止められ、ホール内に損傷はなかった。建物内に保管されている多数の貴重な楽器類も無事だった


ベルリン・フィルのコンサートホール燃える

5月21日9時30分配信 産経新聞【ベルリン=黒沢潤】
世界的に知られるベルリン・フィルハーモニーが本拠とするベルリン市内のコンサートホールで20日午後、火災が発生した。けが人はなかった。
 地元警察の調べでは、楽団員が公開リハーサルをする直前に天井付近から出火した。原因は不明という。
 同フィルは、120年以上の歴史を持ち、指揮者カラヤンなどの活躍で知られる。今回の火災で、演奏スケジュールに影響が出そうだ。


ベルリン・フィル本拠地で火災、聴衆・楽団員ら千人が避難

5月21日1時56分配信 読売新聞 【ベルリン=中谷和義】
世界有数のオーケストラ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が本拠とするベルリン中心部のコンサートホール「ベルリン・フィルハーモニー」で20日午後2時(日本時間同日午後9時)ごろ、火災が発生した。

 屋根から出火し、同ホール入り口付近で開かれていた室内楽の無料コンサートに集まっていた聴衆や楽団員ら約1000人が避難した。

 地元消防当局によると、屋根約1600平方メートルを焼いたが、けが人はなく、同フィルが公演を行う大ホール(約2200席)内部にも被害はなかった。しかし、23日に予定されていたクラウディオ・アバド氏指揮のコンサートがキャンセルになるなど、今後の演奏日程に影響が出ている。

 出火当時、屋根裏で溶接作業が行われており、この火が燃え移ったと見られる。同コンサートホールは1963年、東西ベルリンを隔てていた「ベルリンの壁」の西側に完成。ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~89)ら名指揮者の活躍の場となってきた。


Fire Under Control at Home of Berlin Philharmonic (NewYorkTimes)

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By NICHOLAS KULISH and DANIEL J. WAKIN
Published: May 21, 2008
BERLIN ? Firefighters brought a large fire in the roof of the famed home of the Berlin Philharmonic under control on Tuesday, but the full extent of damage to the building remained unclear.

The Berlin Fire Department reported no injuries, and the musicians’ irreplaceable instruments were rescued from the building, the Philharmonie. Nevertheless, the roof, made of metal, was in shambles after firefighters tore through it to get at the flames in the structure underneath, and significant water damage to the building, which is one of the world’s great concert halls, remained a concern.

Pamela Rosenberg, administrative director of the Philharmonic, said, however, that she held out hope that performances might even resume as scheduled on Thursday.

“I am very relieved, but I don’t want to allow myself to become euphoric too soon,” said Ms. Rosenberg, standing in the main concert hall as firefighters unfurled enormous sheets of plastic to catch drops of water falling from the ceiling onto the upper seats.

Officials said they believed that a team of welders working on the roof had accidentally started the fire, but the cause remained under investigation. The fire commander at the scene said that more than 17,000 square feet of the roof was damaged, from the fire and the rescue efforts.

The fire broke out shortly before 2 p.m. and was declared under control five hours later.

Ms. Rosenberg said firefighters would spend the night combing the roof with an infrared light to be certain that not a single ember remained. A spokesman for the Fire Department said it was too soon to determine the full extent of the damage.

The fire took hold just before a rehearsal that was open to the public. Musicians described a frantic evacuation.

Sarah Willis, the orchestra’s second horn, said she had been in the warm-up room when she “smelled something like lunch was burning.”

“A few minutes later, someone burst in and said we have to get out now,” she said, speaking on her cellphone as she watched smoke billowing from the building.

The Philharmonic’s distinctive yellow building, completed in 1963 and designed by Hans Scharoun, lies near the old dividing line of Berlin ? the wall ? in what was once the western sector. It is known for the quality of its acoustics.

Nicholas Kulish reported from Berlin, and Daniel J. Wakin from New York. Alan Cowell contributed reporting from Paris, and Steffen Scholz from Berlin.

ニューヨークタイムズの記事だけ、標題にリンクを貼りました。こちらから各国で取り上げている記事を見ることが出来ると思います。(未確認ですが・・・)

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2008年5月21日 (水)

「黙って見守る、見守られる」

ラ・プティット・バンド at つくば(6月1日)、是非お出掛けになってみて下さい!(リンクしてあります。)



日頃の、お礼です・・・今更ながら、なのですが。

今朝、家族全員、寝坊をしました。
夕べは決して「遅寝」ではなかったのです・・・
でも、気がついたら、8時20分でした。

娘は前日に試験を終え、高校に入って初めて緊張が解けたのでしょう。
息子は、ま、ノンビリやですから。
私は気候の変動で体のリズムが崩れ気味で、昨日は念を入れて早退して来たのですが。。。
娘が、徹夜近いほどに連日勉強したにもかかわらず、試験で思わしい結果が出なかったとの感触でしたので、帰宅後、息子も連れて三人で本屋さんへ出向き、そこで娘の気に合う「英文法の本」、「数学の問題集」、加えて私の発案で英語の初歩的な読み物(月2冊以上読むこと!との命令付き)、「数学物語」という、故・矢野健太郎さんの名著(角川文庫)を買って与えました。それから、すぐ近くのスパゲッティ屋さんでの夕食。
・・・これが、子供たちに休日気分を与えてしまったせいもあるかも知れない。

慌てて子供たちそれぞれの学校に電話を入れ、寝坊した旨伝え、出掛けさせてから、自分は
「午後出社します」
と電話を入れましたが、
「いや、確実に体調を整えるように」
とのことなので、無念ですが欠勤しました。



「なにも、昨日といい今日といい、そんな時くらいブログ休めばいいのに!」
そう、お叱りを受けるかもしれません。
でも、この日課、私は「自分の治癒」のためには、どうしても日々続かなければならない、と、勝手に決めつけています・・・バカです。

家内の生前は、日常会話はともかく、話していない時には、家内と私がお互いに
「黙って見守る、見守られる」
ということで、お互いどこかで安心出来たり、救われたりしていた、と信じています。
これが私の一方的な思い込みだったら、悲しいのですが・・・
今日休んで、でも寝付けませんので、たまたま娘と約束した箇所の整理のチャンスだと思って片付けていたら、家内が娘を保育室に預けていた当時、保育室との約束でやり取りしていた日誌を見つけました。そこに時々(いや、まれに)登場する自分を発見し、
「ああ、少なくともその頃はオレでもヤツの気持ちが安定するのには役に立っていたのかな」
と、ちょっと安心することが出来ました。

同時に、そんな家内がもういないのだ、という現実が、私にこんなブログを続けさせているのだ、ということにも気づきました。
家内の生前には、何も語らなくてもよかった。
どうしても言葉にしなければ落ち着かないときは、話す、という手段があった。
そんなときの話題は、案外非日常的で、いま思い返すと、ここへ綴り続けていることの簡易版のようなことばかりでした。

喋りまくる私。黙って聴いてくれている家内。

いまでは、家内の生前よりも、この場で私はしゃべりまくっている。それも、自分でも分かっていないような難しい言葉で、延々と。

だから、本当は人様に読んで頂けるようなシロモノではない。

それなのに、いえ、それでも、と言った方がいいのでしょう、今ではそんな私の饒舌を「黙って見守って」下さっている友人が、この画面の向こうに何人もいらっしゃる。
ときどき家内が
「それは、そういうことだよね」
とか、
「いや、こんなふうかもよ」
と言葉を返してくれたのと同じように、楽しいコメントを下さるお友達も、家内という一人の人間ではなく、何人かいらっしゃる、という、ある意味で贅沢を味わわせて頂いている。

ところが、片方で、こちらのほうが「黙って見守っている」相手が目の前に存在しない、というのは、「悟りの境地」に達しえない俗人としては、甚だ苦しい・・・

子供たちにとって、いざという時に「黙って見守っている」存在に、果たして自分がなり得ているか・・・というのとは、また別の話として、なのですが、こちらも日々、不安です。父親は母親と同じにはなり得ない、ということも、同じ日誌を読んでいて、痛いほど感じました。



昨日いただいたコメントで、「楽理を勉強なさっているのですね、頑張ってください」という、実に嬉しくも有り難い、汗顔の至りのものがありました。
ですが、ここで綴っているのは・・・専門屋でもないのに専門屋を気取りたいから、でもなく、世の中の理屈に納得がいかないから極めたい、というものでもありませんで、ただ、家内と交わしていた「暗黙の」会話の延長としての<音楽>、私にとって<音楽とは何だろう>という、もしかしたら、とても狭量な、小さな問いの集積に過ぎないのです。

すべては、つい1年半前まで、(楽隊関係に伝えたかったり、お友達と共有したい情報を除いては)語らずとも別段「腹膨ルル」類いのものではなかった。

そうやって見つめ直してみると、私は、ここで図々しくも、「語らなければおさまらない」醜態だけをさらしている気がしないでもない。

それでも、家内に死の直前まで心配をかけてしまった「ウツ」から少しでも立ち直らなければならない、自分自身が何であるかを確かめ直さなければならない・・・たったそれだけの理由で、併せて「子供たちが自立するまで生き延びなければならない」気力を保つために続けなければならない、そんな個人的な事情からに過ぎないにも関わらず、ここで綴り続けて行くでしょう。

10万アクセスに達していたのに気づいたとき、あわてふためいて一旦お礼を綴ったのですが、そもそもの成り立ちがこのような「手前勝手」な事情であることを、あらためて皆様にはご承知頂け、お付き合い頂けるのでしたら、いつかは何らかのかたちで、そんな皆様にきちんと報いられるようなことも、併せて考えて行かなければならないのだな、と反省致しますと共に、お付き合い頂いておりますことに対してあらためて深い感謝を捧げたく、懲りずに駄文のご挨拶を付け加えました次第です。

とはいえ、当面、ブログを綴る上での方針には何の変更もございませんで、当面の課題を申し上げておきますと、
「藤原定家」は、「千五百人歌合」でつっかえ、本文をやっと半分読んだところでフウフウ言っております。和歌は、とくに歌合となると、読み解くのには素人では相当な難物です。必ず続きを綴れるようにしますので、今しばらくご容赦下さい。
「モーツァルト」は、今日のずる休みで「エジプトの王タモス」の方にだいぶ見込みがたちましたので、近日中にまとめますが、深い内容は期待しないで下さい。(劇の、ドイツ語の台本、ヨメマセーン。)
・単独トピックながら、バッハの新発見筆者譜の解析も、今日何とかやっと手が付きましたので、これは少しは早めにまとめられそうです。
「音楽史」「音楽と話す」は、前者は既存の音楽史の書籍ではなく、なるべくその時代の、その地域や国々の、その時代に書かれたものの翻訳(これが必ずしも音楽の本ではないのですが)に目を通した上で・・・そのわりには大した内容にもならず・・・、あるていどイメージがまとまったかな、というタイミングで綴っております。後者は、それと連動しながら<音楽>を私なりに見つめたらどうなるか、がまとまってから材料を漁りますので、より不定期になります。
このあたりを核に、あとは身近な宣伝を中心に続けます。

今後とも、暖かく見守って下さる目を信じて綴っていけることだけが、私の幸せです。
懲りずにお付き合い下さいますよう、あらためてお願い申し上げて、本日はこれにて失礼を致します。

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2008年5月20日 (火)

ラ・プティット・バンド at つくば(6月1日)

きたる2008年6月1日(日)午後3時より、、あの有名な古楽の老舗、

ラ・プティット・バンド

が、つくばノバホールで格安コンサートです!

料金も、ですが、曲目も魅力的です!

料金:A席3,500円・B席2,500円・C席1,500円
    ※学生さんは2階席をさらに超お得な「1,000円」で聴けちゃいます。
     (画期的!
       ちなみに、別の都市の某ホールでは学生券でも2,000円ないし3,000円です!
       調べきったつもりですが、ノバホールが最安値!)

で、その魅力的なプログラムとは・・・

・バ ッ ハ :無伴奏チェロ組曲第1番
       :「音楽の捧げもの」より三声のリチュリカーレ
       :管弦楽組曲第3番
ヴィヴァルディ:リコーダー協奏曲「ごしきひわ」
       :ピッコロ協奏曲
       :「四季」

創設以来変わらぬ新鮮な響きを、是非、親しみやすい、格安の料金で!

(ああん、わたしゃ行けない!・・・自分の本番前の詰めだもの、行ったら怒られる。
  ・・・でも、行きたい!)

で、翌月は、またも魅力溢れる村治奏一さんです。

詳しくは、ノバホールHPで!(リンク貼ってます!)

このノバホール、個人の演奏から大オーケストラの演奏まで、どんな団体がやっても音が均質できちんと響く、大変面白い(興味深い)ホールでもあります。
ですので、「この場所で聴く」ことの付加価値も、たいへんに高い。
そのあたりも味わって頂けたら幸いです。

Nova1_2

*チラシ画像はクリックで拡大します!

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2008年5月19日 (月)

悪印象な「タスキ」は<お粗末本>の印?

昨日、本を買う時に、ちょっと引っかかったことがあったので。

良さそうな本だから、といって、あっさりネット上で買ってしまうと、中身がはずれた時にがっかりしますので、古書で評価の定まっているもの・洋書(これは、出掛けられる範囲の書店では必要なものは殆ど手に入れられませんから)以外は、なるべく手にとってみないと気が済みません。

ですが、私が本屋を覗けるのは、

・昼休み、体力に余力がある時
・帰宅後に子供の用事がない時
・休日に子供が一緒に出掛けている時

に限られます。最後の一つ以外は、20分程度しか時間が取れませんから、それこそ、狙いを定めて、なるべく大きな、その本がおいていそうな店に行きます。

あれば一発で決まり・・・10分も斜め読みすれば、とりあえず
「今の自分の必要としていることが書かれているか、または書かれている可能性があるか」
の判断はつきます。
無い時には・・・せっかく出来た時間ですから、勿体ないので、
「代わりになる価値のある本は無いか」
と、血眼になります。

タスキがついている本ですと、大体、そこに謳われた文句に惹かれて手を出してしまいます。
キンキンさん(杉山欣也先生)が、ご自身が本を出された時には、本のタイトルやカバーのデザインはもちろん、それに合う「タスキ」の色調や謳い文句に相当気をお使いだった、と承ったようにも記憶しています(「『三島由紀夫』の誕生」)・・・これは、私は店頭で衝動的に購入したのではないので、タスキのインパクトを云々する資格はないのですが、少なくともまずその白いカバーにあしらわれた百合と、赤い四角をポイントに入れた漆黒のタスキのバランスの良さが鮮烈で、
「ああ、たしかに、タスキの印象は大事だな」
と思わされました。

大抵の場合、そうは言いながら、私はいったん買ってしまうと、タスキは折り畳んで注釈の箇所に栞として挟んで使ってしまうので、タスキの印象は買ったその瞬間までにしか効力を持たないことが多いのです(今見直したら、数冊の例外を除いて、キンキンさんの本だけですね、珍しくそのまんまにしてあるのは)。

キンキンさんの本のような専門領域のものは、それでもまだ、お値段がお値段ですので、清水の舞台から飛び降りる決心がついたらすかさず、内容の濃さへの期待が消えないうちに購入を決意することになります。
で、専門書のタスキの魅力は(キンキンさんのは本当に珍しく凝った、美術的価値の高いものでして、型破りなのですが、それでも次の基本をはずしていません)、小説の単行本によくあるような、権威者あるいは有名人の安直な献辞が書き並べられているということは稀である、というところにあります。

音楽の本で最近手にした、タスキ付きの「専門書」2冊は、一方は地味なものでした。
「古代劇や叙情詩の表現には欠かせないギリシア音楽を体系的に理論づけた作品。西洋音楽論の古典的名著。」(アリストクセノス/プトレマイオス『古代音楽論集』山本建郎訳 京都大学学術出版会)・・・たったこれだけ。でも、私は長いこと目にしたかったものがすぐそこにあるのを、この地味な売り言葉だけで強く感じてしまい、予算外なのに手を出してしまいました。3,600円も!
罰当たりだなあ。

もう1冊の方も、決して安価ではないのに同じような理由で衝動買いしてしまったのですが、こちらの文句は強烈な一発にころりと来てしまい・・・このときは少し時間のゆとりがありましたので、2、3章分中身を読んで価値を感じ、まだ17章は残っているので、買うしかないと意を決したのですけれど、
「もっと自由な、バッハへ。」(バドゥーラ=スコダ「バッハ 演奏法と解釈」、とっても言いにくいけれど、7,500円。。。)

以上は、よい子はマネをしてはいけません。
ただ、こうやって手を出してしまっても後悔しないで済むのは、専門書の場合、タスキにのせる言葉がその本の中身を著者の立場から適切に示していて、余計な外野が口出ししていないからです。

薄手の単行本でも、価値ある中身だったら、2千円までは衝動買いOK、だとしましょう。
ところが、値段が下がるせいでしょうか、タスキの性質は、専門書とは一変します。
このランクの本には、なぜだか、著名人の「推薦の辞」が羅列されている場合が多い気がします。
統計を取ってみるほどサンプルはありませんし、それ以前に、私はそういうタスキを見ただけで嫌悪感からその本を手にとることさえしなくなってしまいますので・・・いっそ、世の中の本が全部、「推薦の辞」だらけのタスキをかけられていればいいのにな、とさえ思ってしまいます。もしこの思いがかなうなら、私の財布の紐がきゅっと締まるので、浪費癖を直すことができるからです。

で、昨日、そういう幻滅を感じさせるタスキに巡り会ってしまいました。
有名な音楽評論家の本でした。
私の大事なお友達にはこの評論家さんを尊敬している人もいらっしゃるので、あんまり言っちゃいけないのかな、と気が引けているのですが、私はこの評論家さんがモーツァルトの交響曲第39番第1楽章主部のホルンの「ドミソ」とヨハン・シュトラウスの「青きドナウ」のホルンの「ドミソ」をわざわざ並べて
「モーツァルトのほうが耳が良かった」
なることを綴っているのを読んだ子供時代から、実は印象がことごとく良くありません。
その評論家さんのエッセイ集でした。
まあ、好きじゃない人の本だから、買ってしまう心配はもともと無かったのですが、そのタスキに、某オーストリア国の某ウィーン国立歌劇場で大変名誉なご活躍をなさっている指揮者某O氏が
「Y先生は、私にとって最も厳しい先生でした」
なる献辞を載せていることで、(ある地域の音楽活動の隆盛にも力を尽くすなど、その「暖かい」人間性に惹かれていらっしゃるだろう、非常に沢山のファンのかたには大変申し訳ないことながら)・・・吐き気を覚えてしまったのでした。

実際、食欲が失せて、そのあととるつもりでいた昼食を抜いてしまいました。。。

”Takemitsu”の隣にいたことがあるっていうだけで、何の実績も自分では作らず、人様への批判だけで食って来た人が「厳しい先生」だなんて、ちゃんちゃらおかしい、と思う私は、その人が好きではないためその人の功績を公平に評価していないわけで、これはまったく客観的な・合理的な・理知的な話になっていないのは重々承知です。

でも、同じような生業をなさっていても(音楽評論家の類いは古くはハンスリックを含め大嫌いなのですが、それでもハンスリックの美学なんかは非常にいいとはアタマは下がっているのです・・・あ、あまり脱線してはいけない!)、いちおうご自身も棒なんか振り回してみて、人様の批判を甘んじて受けているUさんの方が、じっさい書き物の中身も(真っ当かどうかは別として・・・ひとつだけ、ビックリするくらい真っ当なのがありましたが、極めて短文だったのが幸いしたのだと思います)人間としての暖かみもあるし・・・こちらさんの方は、人様の本のタスキには讃辞を贈っても、ご自分の本には人から献辞を貰って載せることはしていなかった、というだけで、まだ私には受け入れられます。

・・・あ、「受け入れられる」方の話をするんじゃなかった。

今日の狙いは、本の世界が私の財布の紐を固くしてくれるところにあるのでした。

ですから、世の中の本はすべて
「有名人の献辞を明示したタスキなしには出版出来ない」
という検閲を受けるような仕組みになってくれないもんでしょうか?

そうじゃなくても、ウチはヤモメ家庭ですから、父ちゃんに無駄遣いさせることは世の中がうまく抑制してくれないと、困ってしまって「ワン!」なのであります。

値段がまたワンランク下がって「新書」となると、これはこれで、また魅力的なタスキがわんさかですから。新書のタスキの殺し文句には参らされることがありますねー。

あーあ。綴っちゃった。

知ーらね、っと。

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著者:アリストクセノス,プトレマイオス

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2008年5月18日 (日)

TMF:5月18日練習記録

すみません、本日、さまざま時刻に追われまして(練習自体も遅刻で申し訳ありませんでした)、参加した途中からのものですが、簡単に。



<仮面舞踏会>

第5曲「ガロップ」
・練習番号9番〜拍子記号にごまかされず八分音符でカウントして慣れれば大丈夫。
・同15の6小節目以降、Fl、Cl.、Vn1は、前打音の方を強く。19番も同じ。

第4曲「ロマンス」
・全体に、伴奏部がきれいな和音になるように。
・ファゴットのb音、大変ですが音程宜しくお願いします!
・練習番号1木管〜Flは2小節目のアタマを強くしない。Clは1拍目で切り上げ、2拍目から新しく。
 4小節目Cl、次の小節へ繋がなくてよい。5小節目Fl、1拍目で区切り。
・同所は、4小節ずつのまとまり。但し、後半はFlは2小節でも区切りあり。
・練習番号4〜Vn.1、雰囲気だけ。(ナマな音にならないように。)
・練習番号5Vn1、2・4小節目はオーボエを受けて。
・練習番号7、ホルンは2拍目が重要(2拍目始まり)。


<悲愴>第1楽章 ・27〜28小節、Fl〜Vla〜Cl〜VCの繋がり、切れないように(覚えてしまって!)
・42〜49のVn、Vla、大きくなりやすい。ならないように。
・「B」弦は3拍目の入りがくっきりすることを、まずマスターしておこう
・同所、管は「まとまり」がばらけないように、かつ受け継ぎが乱れないように
・74以降、3音へのスラーが付いたパートは、その3音を「押さない」!
・86小節Vla、84小節では既に準備しておいて、チェロから滑らかに引き継ぐように。
・131小節後半ディミヌエンドは次の小節に移して。以下同じ。
 (したがって、133、137小節のディミヌエンドは次にずらせないから、実質上消滅する。)
・「H」Vla、入りを正確にすることを最優先に考える。(そうしないと遅れる)
・「L」は四分音符進行のパートが「揃い」が甘くなるので留意のこと
・(口頭では私にだけおっしゃいましたが)304のフェルマータは、あまり延ばしません。

漏れが多々あるかと思いますが、各位にて宜しくご確認下さい。

以上。

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2008年5月17日 (土)

曲解音楽史:35)音楽にとっての「ルネサンス」とは?

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ
    34)イスラムと西欧の融合


さて、再び西欧に戻って来ました。
マルコ・ポーロがヴェネチアに帰着した1292年以前のイタリアは、それまでのおよそ8百年、およそ3つの領域に区切られた行政下にあったとみていいのかなあ、と思っております。
すなわち、半島の北半分は、ゲルマン人と上手く接点を見いだして力を維持していたローマ教皇が西ローマ帝国の残影とは言いながらもそれなりの高い権威を維持して傘下に置いており、南半分は東ローマ帝国に服属、シチリアは移住して来て治めていたノルマン人がイスラムを受容した結果、ノルマン王朝の衰微後もイスラム圏に組み込まれた恰好でいちおうの安定を見ていました(厳密な史実はさまざまに錯綜していますから、正確な言い方にはなっていませんが、目をつぶってくださいね)。
分立しているように見えながら、シチリアを除けば、もう滅びてしまった、あるいは滅びつつある『古代ローマ」の精神のもとに潜在的な連携意識が存在し、かつシチリアがイスラム圏であることの(客観的に見た場合の)メリットとして、経済的には才知に長けたイスラム商人を手本に、地中海貿易を盛んに展開することで、着実に「商業の重要性」への目覚めの直前まで達していました。

ただ、イスラム商人が主導権を握っていた地中海貿易では、当然、イタリア人が直接手に出来るわけではなく、商業とは何かへの覚醒に近づいていた彼らは、自らが被っている「損」に対しても、意識しだしていたはずです。
『東方見聞録』はおそらく、損に気づきだしたイタリア商人の活動をも記録したひとつの典型例に過ぎませんが、それまで陰に隠れていた「商業上の被害者意識」は、このような書物が出たことで一気に顕在化したのでしょう。
しかし、「被害者意識」の解消を最初に積極的に図ったのは、イスラム勢力への対抗力を増しはじめていたスペインであって、イタリア人ではありませんでした。
イベリア半島のこの王国が先行出来たのは、イタリアとの間で河川を用い貿易していたフランドル地方(現ベルギー、オランダ)が、イタリア経由で手にした富を、フランスと対抗するためにイベリアの2国に肩入れして優先的に分配した結果であって、その証拠に、イスラム圏を経由しないでインド貿易を可能にしたイベリアの利益はフランドルの方をいっそう豊かにしていきます。スペインと同じくフランスと対抗関係にあったイタリアは、結果的にフランドルに漁父の利を与えたのだ、と言えるでしょう。


スペインが独自のインド貿易路を確保した背景には、イタリア中部については、急速に進行した東ローマ帝国の衰微が、北部については西ローマの「帝権」を引き継いだと称する現ドイツオーストリア圏(神聖ローマ帝国)からの圧迫が、かろうじて底流に残っていたイタリアの精神的統一感情を破壊してしまう結果を招いたところにありました。また、南部は、イスラム勢力の隙をついて十字軍後に巧みにシチリア・ナポリに入り込んだフランスが教皇支配圏を踏み越え、実質上の分国としてしまっていました。

その結果、それまで「教皇の国家」とみなすことが可能だった北・中部は、北は主に幾つかの公国(最終的には神聖ローマ帝国のあるじとなったハプスブルク家の支配するミラノ公国が主導権を握ります)に、中部は東側はヴェネチア、西側はジェノヴァ、中央はフィレンツェがリードしたと見なし得る多くの都市国家へと分裂してしまいます。同時に、教皇の権威は、名目的には最上のものであり続けたものの、実利の面では大きな後退を余儀なくされたのでした。

日本の<世界史>教科書では、この時期のイタリアに<ルネサンス>という輝かしい時代が到来した、と明るく語るだけで済ませて来ていました(確かめましたら、今なおそうであるようです)が、はたして、<ルネサンス>というのは、輝かしい<時期>の名称だった、と安易に受けとめることは正しいのでしょうか? なおかつ、<ルネサンス>とは、中世と近世を橋渡しする、全西ヨーロッパ的な<時代>をあらわす言葉として捉えてよいのでしょうか?


ご存知の通り、<ルネサンス>とは「人間の再生」を意味する言葉ですが、最初は歴史用語としてではなく、(この語を時代用語として捉えている目からすればまさにその時代のさなかである)1550年に、画家のジョルジョ・ヴァザーリ(1511〜1574)が用いた言葉に過ぎません。それを歴史用語まで敷衍したのは19世紀のブルクハルトです。

<ルネサンス>を、時代用語にまで敷衍してよいのかどうか、という疑問は、音楽の面から見ると、どうしても強いものになります。
<ルネサンス>の言い出しっぺであるはずのイタリアが、こんにちいわゆる「ルネサンス時代の音楽」と呼ばれているものについては、<ルネサンス時代>当初は全くリードしている形跡が見られないからです。
日本での最大の先学である皆川達夫氏は、かつて講談社現代新書から出版されていた「中世・ルネサンスの音楽」の中で、この時期のイタリア音楽が・・・すっとばしてきてしまいましたけれど・・・同時期に既にマショーを代表としてアルス・ノヴァ(新芸術)の域に達していたフランスに比べ、大きく遅れをとっていたことを示唆しています。

語意からする<ルネサンス>は、イタリアが嚆矢であったことは間違いありません。すでに14世紀にはペトラルカの素晴らしい詩や書簡集、ボッカチォの画期的な「デカメロン」が誕生しており(ダンテの「神曲」がそれらに先行しています)、無数とも言える人々が、伝統を根底から反省する必要性を声高に訴える優れた言葉を残しています。(このあたりについては、素人ですから読みやすいものばかりを数年間当たってきたのですが、岩波の「ジュニア新書」と称しながらも、澤井繁男「ルネサンス」が最も優れていると感じており、これに勝る本は、成人向けでは見つけていません。2002年刊。)


ところが、音楽は、そうした思想界、あるいは政治界の変換への動きとは、イタリアでは全く連動していないのは、先の皆川氏の発言の通りです。<ルネサンス>中期まで、イタリアで大事にされた音楽は、情感の豊かさでは他国に引けを取らないものの、単声の歌曲でした。14世紀の代表的なそれは、ランディーニ作の有名な「涙まなこに溢れ」です。・・・「イタリア歌曲集」の楽譜をお持ちの方なら、その第1集(でしたね?)にこの歌が載っていることを十分ご承知かと思います。

15世紀に入っても、年譜を見ると、ポリフォニー(イングランドにおいてはホモフォニーですが、いったん考慮の外に置きましょう)への道を着実に歩んだ音楽家は、「漁父の利」を手にしていたフランドル地方の出身者に独占されているかのようです。そうしたなかで、かろうじて、まずギョーム・デュファイが1428年から44年まで、ジョスカン・デ・プレが1474年から5年ほど、イタリアの特定の箇所に一時的に場をウツしているに過ぎません。

果たして、デュファイやジョスカンら、いわゆる「フランドル楽派」の音楽の時代を「ルネサンス」と呼んでしまってよいのかどうか、は、今度はイタリアから拡大して、やはりフランドルでエラスムスによって身を結んだ人文主義(ユマニスム)という思想的な動きと、<ルネサンス>という言葉を直結させてよいのかどうかにかかってくるわけですが、その評価は、また別に行なわなければなりません。
そして、この「見直しをされなければならない」音楽の延長線がようやくイタリアにまで至るのは1510年代のガブリエリ(父)の頃が初めてであり、ついで「カトリック音楽の牙城」を築いたパレストリーナがようやく1530年代に生まれ、それからほとんど時を隔てず、30年後にはもう「バロック音楽の創始者の偉大な一人」であるモンテヴェルディが生まれているのです。


こうやってみてきますと、<ルネサンス>を、少なくとも音楽の時代区分をあらわす用語として用いることには、私は無理があるのではないか、との思いを抱かざるを得ません。<時代区分>としてではなく、音楽語法の上で(デュファイやジョスカン、オケゲムという先行する他国人を無視せずとも)人間の内なる「神聖さへの謙虚な帰依」を完成させたのはパレストリーナであり、「人間的な情感の多様さの描法を確立」したのはモンテヴェルディです。
いちおう、パレストリーナは現行の「音楽史」の中では「西欧のルネサンス期の音楽」の後期に位置づけられていますが、本来ならば、あくまで時代用語としての<ルネサンス>にこだわるのであれば、音楽のうえでそれを文学上のペトラルカに対比し得る創始者として位置づけられるのはパレストリーナなのであり、同じくボッカチォに対比しうるのはモンテヴェルディ(こちらはバロック初期に位置づけられている)なのであって、音楽における<ルネサンス時代>は、イタリアにおいては文学からみて200年は遅かったのだ、という仮説を、今回は呈示させていただこうと思います。

したがって、適切な音楽の例を音で示しませんが、ご容赦頂きたく存じます。
音の例は、フランドル音楽のほうを観察しながら、この仮説の検証に用いて行く所存です。

・・・ちょっと、大袈裟な話になっちゃったかな?

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2008年5月16日 (金)

バルトークが試したかったこと〜「ミクロコスモス」第1巻からだけでもみてみましょう

打ち明け話から。

昨日の記事は、自分でも何が言いたいのかよくわからずに終わりました。
・・・頭の中は、5月2日に綴った「古代のカルタゴ=今の日本?(時事ネタにあらず)」に、思いがけず<ズバリ本質>的なコメントを頂戴してしまったところから、右往左往を始めていました。その5月2日の記事の末尾に綴った通り、「古代のカルタゴ=今の日本?(時事ネタにあらず)」を綴ったこと自体は、バルトークの音楽論集を再読し、(その時は述べませんでしたが)彼の記述の上に、自分がこれまで観察して来た音楽の歴史が重なり合い、<どうしても綴りたくて仕方がない>ところまで、何かに追い込まれたような気持ちになったからなのでした。
そもそも、なぜまた、バルトークに啓発されることになったか、から述べましょう。

娘が今度高校から音楽を専攻することになり、そう決まったことで、じつは
「これは、自分もいつかは初歩的な曲くらい娘の伴奏ができるような程度にはピアノを覚えたいな」
と、つまらぬことを考えてしまったのが、今思えば運の尽きでした。

そこで独習用に選んでしまった教材のひとつが、あろうことか、「ミクロコスモス」であったことが、極端に思われてしまうかもしれませんが、
「そもそも音楽にはどんな意義があるのだろうか」
という問いに結びつき、それがストレートに音楽への問い、というところに収斂するのがどうも不可能だ、ということに気づき、
「であれば、音楽が奏でられているこの世界、というのは、どんな成り立ちをしているのか」
と、そちらの方向へ顔を向けざるを得なくなった。
すると、話の筋は、どうしても「ご時世」というものを無視しては通り過ぎられないのです。
ですので、
「時事問題にはあらず」
と逃げを打ちながら、記事をしたためました。

ところが・・・後になればなるほど納得がいくのですが・・・はからずも
「コメントなんか入りゃあしないだろう」
と思っていたこの記事に、最も信頼するかたたちから、揃いも揃って、
「Ken、逃げるな!」
みたいに直裁なコメントを頂いてしまった。

いちおう、意図的ではなかったとはいえ、読み返すと「無難な」お礼を綴って、そこはそれで収まりました。

が、そのお礼にも記した通り、音楽史の観察を続けつつ、お礼の後にさらにその地理的範囲を広げて行きはじめましたら、また「5月2日の壁」の前に立ち戻されている自分に気づかされました。
それを整理しきれずに、昨日の記事に至った次第です。(ここで採り上げた中世から近世の過渡期については、昨日の記述でもかなり限定された局面についてしか言い及んでいません。ですので、もう悪あがきはやめて、音楽史のひとつひとつのトピックとして観察するという原点に立ち戻りましょう。)

歴史の脈絡を追いかけると、「音楽」は、どうしても、少なくともその音楽が作られた当時の「時事」と無縁には、「音楽なりの世界」を形作ってはいない。
私が、仕方なく「現在」を引き合いにしながらも、できるかぎり興味のゼンマイを「過去の確認」にまで巻き戻してしまっても、今日読み返すと、趣旨がまとまっていません。

やはり、私の過ごしている時間はどこまでいっても「今」なのであって、「過去」の「事実」を(今目にしうるものだけで)評価は出来ても、「過去」の時間の中でそれをしていない。「過去の時間」に自分の身を置き直す、ということ自体が、幻想に過ぎないのです。

バルトークを再読すればするほど、それを思い知らされます。



前に綴ったことがあった気もしますし、そうでなくても、ご存知の通り、バルトークはコダーイと共に東欧圏、さらにアラブ世界までの民謡を精力的に収集した人物です。
そうしたフィールドワークを経て、バルトークは、実に重要な発言を、いくつかしています。
(すべて、岩城肇 編訳「バルトーク音楽論集」【お茶の水書房】から引用)

・・・私たちの芸術音楽にも、民俗音楽に根を下ろす権利があるのではないでしょうか? 芸術における主題の発明ということを、かくも重要なことと考える考え方というものは、実は十九世紀に流行しだしたもので、それはすべてにおいて個別性を追求しなければならないという、現実にはありえない考え方に過ぎません。(46頁)

ところで、民俗音楽が他のいかなるものによっても補いえないほどの重要性と役割を発揮するのは、主として、他の音楽の伝統がほとんどないような国においてか、あるいは、そのようなことがあったとしても、全然問題にならないような国においてです。東欧および南欧の大部分がまさにこうした国に該当し、ハンガリーも当然その中に含まれます。(47頁)

(綴り手註:そうしたことから民謡を収集してみた結果が極めて豊富な成果をもたらしたことから)
私が問題にしている東欧各国が、領土的には取るに足りないほど狭いものである(全人口を総計しても4、5千万)ことを考えるとき、民俗音楽のこの多様性は全く驚嘆に値するものです。・・・十分な資料がそろえられた時、ようやく解答が与えられました。その後、これら各民族の民俗音楽を比較することによって、東欧では多くの曲が絶えず交換され続けているということ、つまり、異種交配および再交配が絶えず繰り返されているということが明らかになりました。
 ところで、ここでたいへん重要なことを強調しておかなければなりません。それは、この種の異種交配が、多くの人が考えるほど単純なことではないということです。
(296〜297頁)
 
それぞれに性質の異なった音楽相互の接触は、ただ単に曲の異種交配をもたらしただけではなく、それにもましていっそう重要なことですが、新しい音楽様式の誕生を促進しました。もちろん、同時に、それまでの古い様式も生き続け、こうして、それらが音楽の豊かな富をもたらしたのです。(298頁)

音楽教育がどうあるべきか、という問題についても、創作と同様の重きをおいて考え続けたバルトークは、こうして彼の中に積み上がった民俗音楽と伝統音楽の「歴史」を、実用を通して生徒に知らしめるために「ミクロコスモス」全6巻を完成させたのではないでしょうか?



・・・と、ここでいきなり、私の頭を悩ませる発端となったこの優れた教本を持ってくるのはせっかちに過ぎますので、「ミクロコスモス」の構成について簡単にまとめますと、

・全6巻が1年から2年で習得出来ることを目標にまとめられており(でも私は10年かかるかも知れない!)
・第1〜3巻で、対位法までを含めたピアノ奏法の基礎技法と音楽の基礎語法をマスター出来、
・第4巻で、基礎技法・語法が「芸術作品」として昇華し得るための応用が身に付き
・第5、6巻で作品の仕上げ方を体得出来る(とくに第6巻は最後の6曲を「ブルガリアのリズムによる舞曲」の、いわば組曲として仕上げ、通常のピアノ教本と違い、<音楽の教本>であったことを明示して締めくくっている)

極めて大雑把にいうと、こんな構成になってます。
「ミクロコスモス」ならではの個性が誰にでもはっきり分かるようになるのは第2巻以降で、それは各課題曲に付けられたタイトルによるところがもっぱらなのですが・・・

実は、タイトルに目くらましをされなければ、第2巻以降の課題の基礎は、すでに第1巻の、しかも第1曲から、周到に準備されていることが分かります。

先日、あるかたが、思い出話に、
「音大でピアノ専攻の子が、つくことになった先生に『ミクロコスモス』第1巻から取り組むよう指示され、それに屈辱を感じて先生と大喧嘩になってしまった」
と教えて下さいました。
たしかに、第1巻第1曲からしばらくは、私でも初見で弾ける程度の「簡単な」ものです。なんの説明もなしに「それから始めろ」といわれたら、それなりにキャリアを積んできたと自負している学生さんは腹を立ててしまっても、致し方ないと思います。

ですが、このところ立て続けに出た「ミクロコスモス」の解釈あるいは指導法の書籍は、第1巻第1曲について、必ず「大切なスタートだ」と重んじて述べています。
譜例は掲げませんが、第1巻は、21番までが「調号なし」(つまり、世の中にもし長旋法と短旋法しかなかったとしたら、ハ長調とイ短調だけ)の、しかも右手と左手が同じ音(高さは1、2オクターブ違いますけれど)あるいは並行した音を、左右同じ動きで弾くだけの曲です。
ところが、ここまでにバルトークが音楽史の「エッセンス」を盛り沢山にしている事実が、たとえば山崎孝「バルトーク ミクロコスモス 演奏と解釈」(春秋社2007)で明らかにされています。バルトークの無二の友人コダーイの弟子であったフランク・オスカーも、わざわざこの第1曲について、レガート奏法や休符の役割、フレーズの認識についての重要な教材であり、なおかつすでに、バルトークの重んじた黄金分割の構成において作り上げられていることに、筆を費やしています。以後、第21番までのあいだに、歴史的に鍵盤楽器の技法として重要であり続けて来た「鏡影進行(対位法の基礎)」やフレーズごとの対照的な語法、フレージングについての認識の強化が企てられている点を、山崎氏の著書ではひとつひとつ丁寧に説明してくれています。22番以降については・・・従来の教本とは違い、かつバッハとも違い、極めて初歩的なところから・・・対位法への取り組みが始まります。

第2巻以降では「ハンガリー風」だの「ユーゴスラヴィア風」だの、さらには「バッハを讃えて」とか「シューマンを讃えて」なるタイトルが現れ、(ついでながら、日本の古謡・童謡も3曲現れます!)学ぶ生徒はいっそう興味をひかれるようになっているのですが、第1巻においてすでに、長短2種ではなく、(エオリアを含み、ロクリアは含まない)教会旋法、すなわちある意味で過去から連綿と東欧世界の人、いや、それにかぎらずどころではない、世界各国の人がその要素で歌って来た多様な旋法が取り入れられ、たとえば「これはリディア旋法だよ」と言った具合に、タイトルと音階で練習曲の前に明示してあることにも注目しなければなりません。

これがまた曲者(くせもの)で、33番などはエオリアとフリギアの2つの旋法を用いているのを明示しているので、まだ「そうなのか」と納得しやすいのですけれど、22番が「ドリア旋法だよーん!」と示されたとたん、さっそく
「え、なんで?」
とツボにはまります。
ドリア旋法は、階名称では「レミファソラシドレ」にあたり、22番の左手は調号なしで素直にそう読めるんですが、右手はそれではしっくりきません。・・・じつは、左手よりも終止音を五度上げたドリア旋法になっているのです。これは、試しに22番の右手を五度下に移調して弾いてみると、はっきり分かります。
これと同じことを、いろいろな旋法でやっているのが、26番、29番、30番です。(こういう類いのことは、本には書いてありませんから、自分で試して発見するしかありません。肯定的にいえば、自分で発見出来る楽しみが残されているところもまた、「ミクロコスモス」の魅力なのです。)

また、リズム面でも、第1曲のヴァリエーションから、練習する生徒は(真面目すぎると)戸惑わされることになりますが・・・これは実際に楽譜をお手にとられる方のお楽しみ、です。

25番の調号の位置も、ビックリネタです。#は1個の場合、「F」の位置に付くのがロマン派までの常識ですが、バルトークは「Cis」の位置に付けています!・・・これで旋法を「長・短」いずれでもないものに変貌させてしまっています。
第1巻の最後の2曲も興味深い作りです。
35番の「コラール」は4拍子で書かれていながら、じつは3拍子を内蔵しています。山崎氏によれば、それは演奏者は認識しておかなければならないが、聴衆の耳にはそう聴かせてはならないものだそうです。
36番の自由なカノンは、上声始まりで下声が追随、という部分と、その逆とを、最終的には巧みに入れ替えますが、それまでに2回、フェイントプレーをしていたりします。

・・・いずれにせよ、これは音譜が読めないと無理だという制限がありますが、「ミクロコスモス」は、最初から「聴いて」ではなく「弾いて」楽しむように作られていますから、是非、この際、お手にとってみて頂ければと思います。



「ミクロコスモス」のことばかり長くなりましたが、これはバルトークが試みたかったことのうちのなかの一例に過ぎないとはいえ、彼が「音楽」を熟考した上で
「なにをしてみたいか、何をして行くべきか」
を明確に示してくれる貴重な作品であることは間違いありません。

で、それを目にした私がそこから受けとめた、「バルトークが試したかったこと」というのは、

<音楽とは、決して単純に「世界の共通語」なんかじゃない。所変われば個性が違う。それが当然なのだ。言語と同じなのだ・・・だが、音楽によって知覚される対象は、幸いにして「音」のみであって、語彙が理解出来なくても意思を伝えるには充分、である可能性は非常に高い。それを列挙し、違いを感じてもらうことはもちろん、それでもなおかつ人間として心に残る共通の深いメッセージがあることを明示出来るのであれば、そのようなことを実現させてみたい>

というものなのではなかったのかな・・・と、これはまた勝手な妄想ですが、斯様に感じた次第です。
(バルトーク自身は考えても見なかったでしょうが、私はふと、現代のコンサートのあり方に新機軸をもたらすヒントが、こうした彼の発想の中から派生して来るように感じているところです・・・余談。)

バルトークが試したかった、と私の推測した音楽のあり方は、私たちの「今」とは絶対に切り離し得ない性質を持ったものだ、ということにも気づかされました。・・・戯言を続けてしまったのは、このことで受けた大きなショックによるものでして、あらためて深くお詫び申し上げます。

まだまだ整理しきれませんけれど・・・一応、本日はここまで。

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・・・「ミクロコスモス」の最も良い校訂譜は春秋社版のものかと思いますが、他に音楽之友社版もあります。ただ、ピアノにお詳しくないと、どちらもある意味、とっつきにくいところがあります。
最も価格が安く上がるのがドレミ楽譜出版のものですが、編訳者の清川美也子さんがひとつひとつの課題に注釈をつけている親切な楽譜でもあり、「入門用」としては最も優れていると思います。(独学の素人には巻末注や校訂報告より、楽譜の脇に簡潔に適切なアドヴァイスがあった方が助かりますから、私はこれを選びました。Ⅰ〜3巻と4〜6巻という、良い区切りでの分冊になっている点でもあり難いと思っております。)

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2008年5月15日 (木)

あるべき「問い方・答え方」?

日常考えていることから派生してきた、ささやかな疑問です。

音楽はどう発生し、どう受け入れられてきたのだろうか、ということ(すなわち、一口で言えば音楽史)を考え、調べるようになって、中世にまで達したところで、はた、と手が止まる思いがしました。

単に「音楽」の観察からだけではなく、今の世の中をその観察と重ね合わせてみたとき、地域によっての思潮の傾向の落差は、どうも5,6百年前に根ざし、現代にまで引き継がれているのではなかろうか、との印象がぬぐえなくなってきました。
このことについては、これから観察していくことですから、
「結論はこうだ」
と断言できるお話は、一切ありません。

いつもの通り、「時事」の話ではありません・・・と先に申し上げても無効なのは、ゴールデンウィーク前に重々承知はしておりますが、「時事」の「時」は「(今の)時」という限定が入り、それだけ主観的要素にも左右されやすくなります。
もともと極めて主観的な人間である私は、「『時事』の話ではない」とお断りしておかないと、どう暴走するか分かりませんので、これによって自分自身に足枷を嵌めているのだ、とご了解下さい。(手かせまで嵌めちゃうとキーボードが打てなくなるので、そこまではしておりません、ハイ。)

先に、こんな疑問を抱いた背景には、このところ立て続けに起こった、東・東南アジアでの大地震と、その救援についての世界各地の申し出方の姿勢・それを受け入れる側のそれぞれの政府の姿勢があります。なおかつ、私の中で悶々とくすぶっているチベット問題もなくはないのですが、こちらにまで範囲を広げますと、現代だけでもイスラム問題やパレスチナ問題にまで話が広がってしまう上に、それぞれの問題の起源を遡って行けば行くほど、それらについて何かを語る資格は私にはないと思っておりますから、「地震」の例だけを出発点に据えます。(それだけでも、採り上げない問題についてどう考えていくべきかのヒントは得られるのではないか、とも思っております。)



最初に事例を挙げますが、これは本論ではありません。

まずミャンマーで、続いて中国四川省で起きた地震は、日本で最近最大規模だった阪神淡路大震災の4〜5倍に及ぶ被害を引き起こしました。
大陸部では「地震」という経験自体が殆どなく(これは発生メカニズムの関係で、海溝から隔たった陸地では地震が起きる確率が非常に小さいことによるのでして、過去も地震での大被害は大陸内部が圧倒的に多いはずです)、建築物に耐震性など求める習慣がもともと存在しないためであり、まず「被害の大きさ」自体には、それぞれの国あるいはその国の住民の方には何の責任もない、ということは認識しておくべきでしょう。

被害が起きてしまった・・・その先の、(これは国家単位でしか考えられないところがイタイのですが)ミャンマー、中国に対する他国からの救援支援の申し出を受けた側の「答え方」、さらにそれに対する、申し出た国の「問いかけの仕方」を、ちょっと見ておきましょう。

中国については、まず、援助を臨機応変に受け入れるのはやぶさかではないという姿勢で、紛糾する点がまったくありませんでしたね。これは(民族問題は災害よりも後回しでよい、という、「人命尊重」の基本的な優先順位にはかなっているためにでしょうか)中国が「経済成長政策」に転じて以降、国家運営のバックボーンとなる「基本思想・主義主張」を引っ込めてでも他国への門戸を開いておいた方が良い、との判断をしてきたことが、救援を申し出た側から見れば「実を結んだ」ものでして、中国側から見ても、外国資本を取り入れても自国に経済損失はなかった、むしろ大トクをしたという実績を築いたうえでの自信が、受け入れ申し出に特段拒絶する必要を感じなくなったという、この国の、ここ四半世紀ほどの「変質」が大きく関与している点は、(当事者側の中国はどう考えているかは分かりませんが)他国側はほとんど意識していないものと思われます。
(16日付記:この記述、私自身世の中に疎いので、中国が必ずしも「援助受け入れ」に積極的ではない・・・四川省はチベット系を含む少数民族も多く、事情はそう簡単ではない、という点について認識漏れがあるようですが、ミャンマーとの対比の上ではそれでも「緩い」事情は間違いではなさそうなのでこのままとします。)

一方のミャンマーは、各国の救援の申し出をかたくなに拒絶したことで、現在の国家運営責任者である軍事政権は、手始めにフランスという、地理的にはるか遠くにある国からケチョンケチョンに非難され(すなわち「なぜ受け入れないのか」とキツい口調で問いかけられ)、その他の諸国もほぼその非難に同調している状況です。結果的にミャンマーの軍事政権は、「親善国」であるタイ・インド・バングラデシュ・中国からのみ支援を受け入れる、と表明しました。これは、他の国から受けた非難に屈したからでしょうか? そうではないでしょう。
「国家」という単位でなければ、現状、ミャンマーは日本のNPO法人からの支援などを受け、現地の人たち自体も支援を受けるにあたって、拒否的ではなく親善的な態度で臨んでいるとのことでもあります。
ですから、軍事政権の「拒否」は「国家対国家」という(正体としてはヴァーチャルな)視点での話に過ぎず、人と人、という対話の上に決定されたものではない、というのは、案外、盲点になっているのではないでしょうか?
軍事政権でなければ、民主国家を標榜する政府になっていれば、ミャンマーは他国全ての「救援」申し入れを受け入れたのでしょうか?・・・軍事政権以前にもミャンマー(ビルマ)が非常に長期間にわたって鎖国を続けていた理由は、ここでは等閑視されています。

「今」に目を奪われると、そこに至ったプロセスは等閑視される。
今回はほぼ同時期に起こった地震による甚大な被害に対し、それぞれの「国」がどう対応したかで、それぞれの「国」が辿って来た過去のプロセスの差異や本質も浮き彫りにされた、という点を、本来は他国は<接し方をより深く考えるために>注目して然るべきかと思われますのに、そういう視点からの報道ないしコメントは、少なくとも私の耳目にし得る限りの狭い世界では全く見当たらない、というのが・・・長くなりましたが・・・私の「疑問」の出発点です。



隣近所との交流、というのは、別に現代でも、いちいち記録される習慣は存在しません。
これが、離れた土地同士の複数人の交流、となると・・・文字に書きとめられるようになるのは、その必要性を人々が感じるようになって初めてのことですから、いつから始まったか、を特定することは困難です。すなわち、こちらについても、もともと記録する習慣はなかった。

話題が逸れるようですが、中世後期から、音楽は、おおまかには東洋では無記名のままで、西洋では記名性をもって作曲ないし演奏される、という区分が生じてきます。
これは、私の身近でルネサンス以降の音楽にもお詳しいかたに言わせれば
「文字文化と印刷文化が西欧では発展した、そのことによる影響が大きいのだそうですよ」
とのことでしたが、そのお話を伺ったときに私の方から言ったのは、
「いや、西欧では音楽家も宮廷の支配者の<ステータスシンボル>としての価値を持つようになったからなんじゃないでしょうかねえ」
という、やはり素朴な疑問でした。
いま、そのことの真偽を調べたい、と思って読書を続けております。

関連して、薄手ながら興味深い本を読みました。未知だった異文化圏との交流に関する、ヨーロッパでも早い時期に属する記録のひとつだと見なしてよいものではありますが、標題が、驚愕モノです。
「インディアスの破壊についての簡潔な報告」(ラス・カサス著 柴田秀雄訳 岩波文庫)
という書名で、コロンブスの中南米<発見>以後、現地に赴いたスペイン民間人が、その地のインディオたちを如何に謀略にはめ、隷属させ、殺戮の限りを尽くしたか、を、同じ中南米に赴いたスペインのカトリック司教が国王に対して告発した文書です。(ついでながら、インディオの殺戮の不当を訴えたこの司教も、黒人奴隷については是認していたらしい痕跡がある、とのことですが、アフリカの黒人達をヨーロッパ人が奴隷として使役するようになった起源についての明確な記録は、私は目にしていません。)

この本からは、自分たちの目から見れば未開である民が、無尽蔵のお宝を有する土地でその価値にも気づかず暮らしていたことが、「征服者」にとっていかに好都合であったか、を読み取ることが出来ます。その目を蔽うばかりの残酷な記述は「偽りであって欲しい」と祈りたくなるものですけれど、現実に、それまで南米に存続していた「帝国」は、征服者に太刀打ちできる外交について全く未経験であったためもあるのでしょう、この本が書かれた頃には風前の灯となり、まもなく滅亡してしまっています。

かつ、この本のその後の経歴も、解説で知られる限り数奇な運命をたどっており、17世紀にはフランドル地方の独立のために「スペイン人とはこれほど残虐なのだ」というプロパガンダ構築に利用され、19世紀には、今度は南米に移住した白人の子孫により、同様に先祖の国の束縛を逃れるために、支配者スペインの冷徹さを裏付ける史料として用いられたのでした。

本来は、「このような憂うべき事実を、スペインの国王に阻止してもらいたい」との主旨で書かれた本書は、当初、スペイン国王(実際に着手したのはカルロス1世=神聖ローマ皇帝カルル5世)が自国民の南米での無謀を阻止するために・・・時既に遅しではありましたが・・・活かされたのでした。「事実」を為政者が確認し、「事実」に対処するために、という、元来の目的に答えて欲しいが為に本書は書かれ、それなりに効果も発揮したのです。
ところが、時を経ると、こんどは本書の救済の目的であったインディオとは全く別の集団が、彼らの都合のいいように本書を解釈し、利用するようになったのですから・・・それによってもたらされた結果の良し悪しは別として・・・実に皮肉なものです。



日本の高等学校の「世界史」教科書がいまなおそうなのかは知りませんが、私の高校時代の教科書では、「インディアスの破壊・・・」の書かれた時代は、<大航海時代>と<ルネサンス>という二つの定型句によって、西欧の最も輝かしい時期であった、と称揚されるだけでした。おかげでインディオの帝国が滅亡した、などという側面には、ひとこと程度しか触れていませんでした(ひとことあっただけでも幸いだったのでしょうかね)。東側に目を向ければ、西欧が<大航海時代>なるものを迎える以前に、すでにイスラム商人の活発な活動でインド洋諸国は交流を深めており、しかもこの時代にはインドにはムガル、中国には元〜明という強力な帝国が存在したこと、かつ、これらの帝国は(幾度もの争乱は避けられなかったものの)近隣の小王国に対してはそれを滅亡させる、というまでの発想はなかったこと、かつ行き来した商人の主流もイスラム教徒だったとは言っても、相手国の宗教に対しては干渉しなかったことなどもあって、インド洋諸国の交流は西欧の介入後に比べると、ずっと平和なものだったのです。


「財宝を我が物に」
に最大の価値観を置く点では、西洋・東洋の差は、それまではなかったと感じております。

「財産家には名誉を」
というふうに集約してしまっていいのかどうか分かりませんが、早期に絶対王権(帝権)を確立していた東洋世界では、個人に特定された名誉というものは助長されようがありませんでした。

西欧の<大航海時代>は、それまでの芯であった「ローマ帝国」が、まず西、その千年後に東、と崩壊しており、とくに東ローマ帝国滅亡後は「神聖ローマ帝国」という抽象的な理念の元で誰が<帝国>を再構築するのか、に最大の関心が払い始められ、同時並行で<いまさら、帝国よりも、我々自身の富・名誉だ>という、まずは富者中心の<個人主義>が蠕動し始めた時期でもありました。
それが、西欧の活動が東は既存のインド洋貿易、西は未開の中南米征服というかたちで外向けに展開されたとき、これは良心的に解釈して、ではありますが、大帝国未確立の状況下では自らのステータスシンボルの新たな獲得と明示を急務とせざるを得なかったため、自分たちの故地ヨーロッパで「名を売る」ことに熱中した結果、自分たちでも思いもよらなかったほどの残虐さを発揮する結果をもたらしたのではないか、と、およそ今時点での私には、そのようなヴィジョンが脳裡に浮かんできて、抑えようがありません。

かつ、このように考えると、この時代以後、東洋世界が西洋世界に対し順次「鎖国的」政策をとるようになって行ったプロセスも明確になるのではないか、という<妄想>さえ抱いております。(さらには、日本が「開国」後、なぜ無反省に西洋世界の「帝国主義」を受容したのか、まで筋道をつけて見通せる気さえしているのですが、そこまで話を拡大するのはやめておきましょう。)
音楽においても、このような文脈の中で「高い名声を誇る音楽家」個人がステータスシンボル足りえる価値を獲得したが為に、以後、作曲活動も演奏活動も、先ずは宮廷の、続いては資産階級の「特にふさわしい地位を示す財産」となることを前提に、「記名性」が重要視されたものへと変貌していくことになったのではないか?

ここまで記述してきたことは、最近起こった事実から、私が連想し、私が私に問い、私に仮説としての答えを出してみたものです。

これが「あるべき『問い方・答え方』」に成りえているのかどうか・・・さらに慎重な検討が必要なのではないか、とも感じ、考えている最中です。



ここで、16世紀の西欧人の手になるものですが、こんな私に熟考を促す恰好の著作物があります。
著者をエラスムス、書名を『痴愚神礼讃』といいます。
<愚かさを司る神を礼賛する>という書名にも関わらず、内容は古代ギリシア・ローマの古典を豊富に典拠として引用し、比喩に用いているため、私たち(いや、これではどなたにも失礼なので、私だけ、と言っちゃって構わないのですが)には適切な注釈なしには読解することが出来ません。
そのためでしょうか、ずっと以前には文庫本化もされていたのですが、今では新訳で読むことが出来ません。(中央公論新社から、渡辺一夫氏の旧訳が再発刊されています。)
それでも、この書物、インディアスを破滅に追いやっている同国人を告発した人物と同じ、いや、それ以上の精神で、国家レベルから個人レベルに至るまでの「人間の愚かさ」について、典拠をもって白日の下にさらしていく、外野として読む分には痛快な、自身のものと捕らえて読むには非常に酷なエッセイです。
中に、このような言葉があります。

「善い法律というものは、疑う余地もなく悪い風俗があってこそ生まれるものですからね。」(渡辺一夫 訳)

これに、今、はた、と考え込まされているところです。

煩雑な文にお付き合いさせてしまい、恐縮でした。

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2008年5月14日 (水)

BWV1128について (バッハ新発見オルガン曲)追記

初めてこの曲について記載したとき、お詳しいCurraghさんから内容豊かで有益なコメントを頂戴することが出来ました。
あらためて御礼申し上げますとともに、前回記事につきまして最小限の修正を加えるべくお約束申し上げます。とくに、そちらでは楽譜そのものの読解について修正をするようにしたいと考えております。(まだ出来ておりません。本来は、本記事と連動して検討する必要があるのですけれど、手が回りきれませんでした。連動できるようになった際には、その旨こちらへも記載します。)

ここでは、予定している修正の下準備として調べたことについてまとめ、解消した疑問、残った疑問を記したいと思います。

前回記事で、私の既存の印象で綴ってしまっていたことが真なのかどうか、三つの面で確認する必要がありました。

1)「オルゲルビューヒライン」以前の、初期のバッハが、コラール編曲(短い編曲から、パルティータ等の長大な物までを含む)の際に、「コラール旋律単独で、しかもそれを和声等の修飾無しで呈示したことが「なかったのではないか」と思い込んでいたことについて、実作品に接して検証する必要がある。

2)同じく、バッハのコラール編曲が、彼の他領域のオルガン作品と同様のコーダを持つことは「ないのではないか」という私の印象が適切かどうかの確認も並行して行なうべきである。

3)さらに、当時のバッハに強い影響を与えた作曲家、特にベーム、ブクステフーデの作品との対比を行なえるのであれば、それもすべきである。

残念ながら、私の物理的な条件(財政!)から、3番目については実行しえずにおります。
・・・ボーナス出たら、出来るかなあ。。。今年は減るっていう話だからなあ。。。

で、最初の2つについて、検証をしました。

なお、前回、DTMソフトで復元してみた音声を、念のため再掲します。

(ここを右クリックで、別ウィンドウで聴けます。)


1)初期のバッハが、コラール編曲(短い編曲から、パルティータ等の長大な物までを含む)の際に、「冒頭からコラール旋律単独で、しかもそれを和声等の修飾無しで呈示したことはあったのか?

結論から言えば、「あった」と思われます。(つまり、私は誤認識をしておりました!)

J.S.バッハにはオルガン作品が(偽作・疑作も含め)330曲近くあるようですが、その実に7割が「コラール」の編曲ないしコラール旋律によるパルティータや変奏曲です。
しかも、作曲年代の特定は、完全には出来ません。

ある程度作曲年代の推定できるものは、曲集にまとめられています(おそらく教会での使用に供するためにまとめておくのが便利だったからなのでしょうね・・・あ、あんまり主観的な推測はやめとかないと、またドツボにはまってドッピンシャンだな!)。
・「オルゲルビューヒライン(オルガン小曲集)」BWV599〜644、1713年以降
・「6つのコラール(シューブラ−・コラール)」BWV645〜650、出版1748〜9
・「18のコラール」BWV651〜668、1740年代半ばの手稿。(初期作品を含む可能性はある。)
・「21のコラール」BWV669〜689、出版1739(クラヴィア練習曲集第3巻の一部)

この他、BWV690〜713の「キルンベルガー・コラール」は偽作とされていて、私の入手し得た音源(ついでながら、オルガン作品の楽譜を入手するいとままではありませんでした・・・フトコロも、時間も!)には収録されていませんでした。
同じく、後年発見の「ノイマイスターコラール」BWV1090〜1120についても、聴けていません。(
これも聴けていたら、もしかすると、さらに見解を変えなければならない可能性もあったかもしれないので、不本意ではありますが、ご容赦下さい。)

以上から、BWV1128を捉える上で、それが1700年から1710年の間に作られたものであるとすると(今回の発表での推定では1705年が最も早い作曲時期のようですから)、のこるBWV714からBWV771までのコラール編曲58作品が参考とし得るものとなるのですが、実は数は更に減ります。BWV741〜765の25曲が、偽作の疑いがあるということで、私の入手した音源に収録されていませんでしたから。
したがって、結果として、33作品について
「コラール編曲(パルティータ等を含む)に、コラール旋律が単旋律で現れる曲があるか」
ということを確認しました。
(なお、これらは、聴きとおしてみると・・・またまた主観で恐縮なのですが・・・最初の方に挙げた4つの曲集に比べると早い時期にかかれたもの、あるいは遅くとも「オルゲルビューヒライン」と同時期までには書かれたのではないか、との印象を受けました。印象のいちばんの決め手は、「シューブラ−コラール(6曲中5曲が、教会カンタータ楽章を編曲したものですから、当然といえば当然なのですが)」ほど<凝った>作風を、BWV714以降の作品は示していなかった、という点です。

<信頼できない>耳で、なのが申し訳ない限りですが、こうして絞り込んだ作品の中で、コラール旋律単独で曲が開始されたものは、以下の通りです。括弧内は、おおよその演奏時間(分:秒)です。

BWV.714(01:20)
BWV.716(02:40)〜Fuge
BWV.719(02:40)
BWV.720(03:40)
BWV.724(02:00)
BWV.761(00:00)〜Fuge
BWV.762(04:40)〜Fuge
BWV.765(02:30)
BWVナンバーなし"O Lamm Gottes, Unschldig"(06:30)
計9作、約30%

したがって、前回「コラール旋律単独で始まるところはバッハとしては怪しいのではないか?」という私の見方は、大枠では「ハズレ」でした。
ただし、殆どが短い作品であること、長めの作品はBWVナンバー無しの1曲を除いてはフーガであったこと、BWV1128が「7分程度」の作品だ、と発表されていることを鑑みると、なお私の胸の片隅に疑念を残す結果となりました。
この点では、BWVナンバー無しの"O Lamm Gottes, Unschldig"が真作であれば、もしかしたらこの作品と同時期にバッハの頭の中に芽生えた作品だと考えられなくもないかもしれません。
あとは書法の問題が絡みますから、これは前回記事を訂正するための読み直しが必須だということになります。



2)BWV1128のコーダは、コラール編曲には類例がないものではないか?・・・これはBWV1128がバッハの真作であることを疑わせる材料にはならないのか?

という点について。

やはり、「(広い意味での)コラール編曲」のコーダの中には、BWV1128のような、ある意味で「ドラマチック」な締めくくりをするものは、耳にしえた限りでは巡り会うことが出来ませんでした。
ただし、これは前回も綴りましたとおり、バッハの真作であるかどうかを疑わせる決定的な要因には出来ないな、ということを、あらためて感じております。
といいますのも、とくに長めの作品ではコーダはその前までの部分の「文脈」を引き継ぐかたちで作曲されるものであり、BWV1128全体の(推定される7分という時間の長さからいえば)、おそらく10分の1にも満たない、今回発表されたコーダ部分の楽譜からだけでは、果たしてこれで全てのコーダが示されているのかどうかも判然としません。作りを再確認すると、公開された最終頁は、コーダのさらに2分の1から3分の1、すなわち「下げ」の部分に過ぎないのではないか、というふうに、見え方(聞こえ方)が私の中で変わったからです。
すなわち、BWV1128と類型的であると見なせるコーダとは出会えなかったのですけれど、「類型」ではなくとも、どの作品のコーダにも、コーダとしての「入り口」と「中間部」と「下げ」が明確に存在しているように聞き取れるのです。
そうすると、7分ある作品のコーダとしては、BWV1128のものは、今回公開された部分だけで成り立っていたとすると、ちょっと唐突なつくりであることは否めない気もします。
コラール旋律を元にした、おそらくは3つないし4つのセクション(第1葉から推定するに、各セクションは演奏に1分30秒から2分程度を要するのではないかと思われますから、1分30秒4セクションとしても2分3セクションだとしても、コーダ分の残りは1分・・・これはしかし、バッハの音楽上ではまだ後の時代のようには確立されていたとは言えないコーダというものの規模として、過大かもしれません)がBWV1128の本体部だとしますと、上の括弧内に記した理由からも、復元してみたコーダ部分の長さはその半分程度に過ぎません。

・・・そんなわけで、素人の推測は「怪我のモト」でしかないんだろうな、と実感、痛感、いたく反省している次第です。

全容の発表を目に出来る日が、切に待たれます。

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2008年5月13日 (火)

クラシックで「アピール」するということ

あるアマチュア楽団の練習風景です。

演奏する曲は、20世紀の作曲家の手になるものですが、素材はその作曲家の故国に古くから伝わる民謡です。

民謡、という言葉から、私たちは普段「唄」しか連想しませんが、世界各地の研究家がどう言おうが、本来は、
「民謡は舞踊と切り離せない」
ことが多い。日本で言っても、たとえば<田植唄>と称するものなどは、田植えという労働をする時に唄われるものだ、と思われがちですが・・・実際に田植えをやりながら唄おうと試してみて下さい、とっても唄えるものではありません。
屁理屈を言えば、<田植唄>は平安期にはすでに記録の見える<田楽>と密接に関係のあるものです。その後の日本芸能史を追いかけてみれば分かることですが、<田楽>は元来は動きの激しい踊りを伴ったものと想像し得ます。しかも、それは「田植」という労働に際して、ではなく、あくまで「豊穣の神を楽しませて豊作を得るために」、ムラが大きく発達すると、さらに芸能化して「人間自身が普段のストレスを発散するために」、さらに都市が成立すると(といっても、日本の場合は京だけでしたが)「農民以外の階層を抱腹絶倒させるために」唄われ、同時に踊られ続けたものです。
(「田楽」から、純芸術的な「能楽」が発展したのは特殊なことですが、そう言う特殊化はどんな国にも見られることです。ですから、「能」の仕舞の落ち着いた舞いぶりに「田楽」の名残を見ることは誤りでしょう。)

思わず余談から入ってしまいましたが、最初に戻りましょう。

このアマチュア楽団が練習していたのはフランスの民謡です。
民謡である以上、本来、「舞踊」を伴っていたはずです。
そう思って音楽を感じ取り直してみれば、話はごく簡単に分かります。
この民謡、「ジーグ」のリズムを持っています。
クラシック音楽がお好きな方なら、「ジーグ(ジグ)」というのが舞曲のひとつであることは端からご承知でしょう。イギリス由来で、ルイ14世時代にフランス王室を中心に洗練されたものではありますが、リズムの躍動性から言えば、決して、上品でおとなしい舞曲ではありません。(また話をそらして恐縮ですが、そんな<粗野な>舞曲であったからこそ、西欧のバロック期の音楽家たちは、ダンス用の組曲のいちばん最後で会場のみんなに「それまでの窮屈な踊りのストレス解消」をさせてあげるために、ジーグを終曲に持って来たに違いない、と、私は想像しております。)

ところが、指揮者が楽団にこの曲を演奏させてみると、ちっとも躍動感が出ません。
・・・そりゃそうだ、アマチュアで、しかもクラシックの楽団なんかにはいる人は、照れ屋さんが多い。ヒップホップやブレイクダンスがもってのほかなのは、まあ、当然だとしても、およそダンスなんて名の付くものを踊ろうと思うだけでもどぎまぎしちゃう。社交ダンスでも、異性と手をつなぐと思うととたんにダメ。いいおっさんメンバーの中には、バーでママとチークダンス、なんてことにでもなろうものなら、ママに抱きつかれたとたん卒倒するほど、内気だったりする人も少なくないかも知れないのです(・・・いや、まさか!)。

(うーん、どうしたら、彼奴らを踊らせることができるのか・・・)
思い悩んだ指揮者さんが打った手は、こんなものでした。

「チェロ以外は、みんな立って! 楽器を演奏しながら、リズムに乗って体を動かしてご覧!」

楽器さえ手にしていれば、みんな、ほんとうは自分の中の躍動感を引き出す魔法の杖を持っているのと同じです。・・・でも、ここの人たちは、じっと坐っていただけでは魔法は使えないんだな・・・どうやれば魔法を使えるかに気が付かせればいいんだな。

いい思いつきです。

あとは、
「魔法も、使いすぎたらやばいからね・・・自分にまでかかってしまって、元に戻らなくなる」
・・・そうなんです、魔法の掛け方を覚えるまでは出来たとして、魔法からいかに「ごく自然に抜け出せるか」には、また別の方法をマスターしなければなりません。
でも、そんなのは、まだ先のことでいい。
まずは、魔法の杖の、本当に効き目のある一振りを覚えることが大切なのです。
音楽で使う魔法の杖は、自分を損なってしまうような悪い魔法をかけることは出来ないようになっています。人にお聴かせするのでさえなければ、まずは「魔法を掛ける」までの使い方を、存分にマスターした方がいい。

ところで、ここで、あるメンバーが言い出しました。
「なぜ、20世紀の人が書いたジーグじゃなきゃ行けないんですか? なぜ、17世紀や18世紀や19世紀じゃいけないんですか?」

「それはね・・・」
正体は魔術師である指揮者さんは言いました。
「あなたたちがまずマスターしやすいのは、近い時代の魔法だから。自分の見たことの無い時代が<見える>魔法を使えるところまで身につけてくれれば、あたしゃ別に時代は問いませんよ!」

優しいようで、厳しい答えでした。
だいたい、照れ屋さんのアマチュア楽団のみんなは、今ここでやっと魔法の使い方・・・すなわち、ここでは<20世紀なりの>ジーグを自分の心の底から<踊り>に変える魔法を、やっと手にしたばかりなのです。それも、
「これで本当に20世紀なりの踊りかたになっているのか?」
みんな、アタマの片隅に「??????」が無限に続いたままなのです。
謎を抱えたままで、かつ、内気なままで、この先、時代を遡るタイムトラベルをして、その時代の人たちまで巻き込んで楽しく踊りまくる魔法を、果たしてマスター出来るのでしょうか?

童話的で、ある意味では抽象的な「例え話」になってしまいましたけれど。
この先は各位にご思索頂ければ幸いに存じます。

本日は、雑談でした。失礼しました。

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2008年5月12日 (月)

曲解音楽史31-32補遺:スマトラ島の音楽

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 補遺:スマトラ島
    33)東アフリカ



マルコ・ポーロの元からの帰路に沿った世界の音楽を巡る旅は、いちおう前回で終わっていたのですが、その中で素材が見つからず断念していたものの一つに、なんとか触れることが出来ましたので、「補遺」として簡単に掲載します。

東南アジア島嶼部の「スマトラ島」です。

結論から言えば、触れ得たのはこの島の西部、すなわちインドネシアの中では歴史的におそらく最も初めにイスラム文化と接触した一帯に残されていた音楽なのですが、想像とは全く異なり、実際には「イスラム教的」というよりは、より東南アジア伝統そのものに近い(分かりにくい言い方ですみません)ものでした。

耳にしえるものは、この島に何種類も残っている伝統音楽のひとつに過ぎないのかもしれませんが、それが「銅鼓ガムラン」でもなく、イスラム的、あるいはヒンズー的な撥弦楽器でもないものであったところに、大きな意味を感じます。

西スマトラの音楽は、「竹笛を伴奏とした歌唱」なのでした。

これは、(今まで採り上げていませんが)ビルマ残っており(ちなみに、ビルマ【ミャンマー】の古典音楽はタイの宮廷音楽を18世紀に輸入したものとみなされているのですが、竹笛についてはどれくらい遡るのかは不明です)、バリ島ではガムランの中にも取り入れられており、さらにフィリピンの土着音楽にも定着しているものですから、インドやアラブの影響以前の「東南アジア世界」の音楽の原型を最も忠実に引き継いでいる可能性があります。

念のため柘植・植村著「アジア音楽史」(音楽之友社 92頁)を確認しますと、以下のように記述されています。

「東南アジアの音楽においては、外来音楽を取りこみはしたが、それが音楽の構造と様式を決定づけるものではなく、基層文化の要素を自ら発展させて独自の文化を作り上げたということができるのである。」

かつ、面白いのは、この竹笛文化、(いつごろのことかは突き止めなければなりませんが)、響きを聞いていると、日本の尺八と、調べの上で非常に似通った印象を受けます。・・・これは、是非、洗いなおしてみたいところです。wikipediaの記事には鎌倉時代以降の移入とありますが、東南アジアとの交流史が必ずしも明確ではなく、典拠を知りたいと思っております。

また、竹笛文化は、パプア=ニューギニアの音楽にも引き継がれています。
パプア=ニューギニアの音楽の例は前に上げていますので、そちらをまたお聴き頂ければ幸いに存じます。

さて、西スマトラの音楽(アルバム「ミナンの風」KING KICW 1080に収録されているもの。現在、入手困難)は、前口上を伴う歌唱が主体で、歌い回しが非常に魅力的なのですが、歌を伴うのは長いものばかりですので、恐縮ですが「サルアン(スリン)」と呼ばれる竹笛の独奏曲の方を聴いて頂きます。

(パウア村の太鼓)

興味深い点が2つ。
西欧音楽ですと管楽器では(「管弦楽法」の教科書以外では明確に意識されることが無い)フラジョレットの技法が多用されていること・・・それによって標題音楽的な効果を狙ったのでしょうか・・・。これはタイの擦弦楽器ソードゥアンでフラウタート(弦楽器で多様なフラジョレットを用いるのは非常な困難を伴うため、弓を糸に浅く当ててオクターヴ上を出す奏法、すなわちフラウタートを用いているのだと思われます)を多用するのと同じ発想から生まれた様式ではなかろうかと推定されること。
もうひとつは、音程です。
西欧音楽で言えば「ドレミファソ」に当たる五音の中に収まってしまっていますが、それでいて単調に陥りません。
なお、音程は西欧式の平均率に慣れていると
・「ド」が低く、それに伴い「ソ」も低く聞こえ
・「ド」に対して「レ」が高く、従って「ミ」が低く聞こえ
・「ファ」が西欧音楽で言うところの微分音的な音程に聞こえます
・・・が、「ド」・「ミ」・「ソ」の関係は純正調、すなわちピュタゴラスの発見した音程関係になっているのであって、「レ」・「ファ」の音程の位置も、その中で決めているもののように聞き取れます。すなわち、モノフォニーであるために、音程関係を人工的に調整したものを「是」としていない点は、実はある意味では高度なことなのだということは、銘記して頂いてよいと思います。
(但し、今回上げたサンプルは短音階的な旋律、したがって上で採り上げた旋法とは違っていますので、「(ソ)ラシドレミ」で受けとめると「シ・ド」の音が高く聞こえる、という風になっています。旋法によって音程関係を変えているのは、響きを考慮してのことかと推測しております・・・装飾的な冒頭部を除き、音楽本体で実際に使われているのは「ソラシド(=ドレミファ)」の四音で、終止音が「ラ(=レ)」です。「3)音程から音階へ」をご参照下さい。)

なお、スマトラ島には、この他にオーボエ系の「スルネ」、両面太鼓「ゲンドラン」などの楽器もあるそうです。(若林「世界の民族音楽辞典」・・・残念ながら詳しい記載に欠け、民族分布と楽器の関係についてはこの本だけでは分かりませんが、それでも手元に置いておくと、民族音楽について最も簡便に調べることの出来る本ではあります。若林さん自体のHPなども参照すると良いでしょう。)

ほんのわずかな補遺で、スミマセン。

世界の民族音楽辞典/若林忠宏著Book世界の民族音楽辞典/若林忠宏著


著者:若林 忠宏

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2008年5月11日 (日)

家内との思い出リンク

・・・つい、こんなものを作ってしまいました。先月まで綴って来たなかで、家内、もしくは家内がまだ元気な間の子供たちが登場するものです。
自分自身の備忘用でしかないのかもしれませんので、おつきあいは適当に。

雷:2006年5月20日 (土)

非常ベル事件:2006年5月22日 (月)

優しい声、優しい響き:2006年5月31日 (水)

ひばり:2006年6月 2日 (金)

頭カラッポはむずかしい!:2006年6月 6日 (火)

なぜ『響き」あわない?:2006年6月14日 (水)

ウチに来るノラネコ:2006年6月18日 (日)

「見直す」ということ(5):2006年6月21日 (水)

バランス:2006年6月27日 (火)

ゲームばっかりの我が息子:2006年7月21日 (金)

ブラスバンドの練習を聴いて:2006年7月30日 (日)

秋の声:2006年8月18日 (金)

パリ管ブラス・クィンテット:2006年9月 3日 (日)

のだめのいいとこ:6)うらやましいな、シンクロ泣き:2006年11月20日 (月)

日本トロンボーンコンペティション於洗足学園:2006年11月24日 (金)

忘れ得ぬ・・・クリスマス:「メサイア」:2006年12月24日 (日)

のだめのいいとこ:最終回のはずだったが残念!(付:家内死去):2006年12月25日 (月)

ものさし:2007年4月 6日 (金)

『象さんの子守歌』:2007年4月 7日 (土)

好物:2007年4月10日 (火)

今日を過ぎれば:2007年4月12日 (木)

百箇日を十日過ぎましたが:2007年4月14日 (土)

いちばんたいせつなこと:2007年5月12日 (土)

「損か得か」と説得力・・・それが大事なのでしょうか?(付:グリーク「春」):2007年7月 5日 (木)

家内のクラリネット:2007年7月16日 (月)

家内の百合:2007年7月23日 (月)

娘の浴衣と家内の「夏祭特賞狙い」:2007年7月25日 (水)

花火:家内とストラヴィンスキーとドビュッシー:2007年7月26日 (木)

忘れ得ぬ音楽家:3)江藤 俊哉:2007年8月 1日 (水)

音の力:管弦打、そして声を超えて:2007年8月10日 (金)

回想:ウイーン・リングアンサンブルin埼玉県松伏町(2007.1.6)2007年9月 7日 (金)

忘れ得ぬ音楽家:4)ロストロポーヴィチ:2007年10月 3日 (水)

「影をなくした男」のご紹介を兼ねて:2007年10月21日 (日)

祥月命日:十ヶ月:2007年10月26日 (金)

全ての哀しみは自らが作る2007年10月29日 (月)

「充分じゃん」:2007年10月30日 (火)

夫婦喧嘩と子供の躾け:2007年10月31日 (水)

あまねくひろがるように:2007年11月 1日 (木)

笑えた「火事」〜6年前の記録から:2007年11月17日 (土)

言葉:2007年11月28日 (水)

表(あらわ)す:2007年11月30日 (金)

感じあえる?(共に聴くということ):2007年12月10日 (月)

苦しみの時は幸福のとき:2007年12月11日 (火)

JIROさんがわざわざ:2007年12月18日 (火)

超え得るか、カフカを。(狂人のたわごとです):2007年12月21日 (金)

I wish your merry X'mas:2007年12月23日 (日)

クリスマス:優しい歌〜「メサイア」の思い出:2007年12月24日 (月)

家内、一周忌:2007年12月26日 (水)

音楽と話す:いりぐちのおはなし:2007年12月27日 (木)

ほんとうのやさしさに出会いたい:2008年1月23日 (水)

なくしたもの:2008年1月27日 (日)

雪景色・・・ラフマニノフ:2008年2月 3日 (日)

「好き」ということ〜アマチュアの「協奏曲」練習を通して:2008年2月 7日 (木)

寄り添う(1)〜ソロ楽器とピアノの場合:2008年2月 9日 (土)

音楽と話す:「想う」心:2008年2月12日 (火)

ライネッケ「フルート協奏曲」〜<撰ばない>勇気:2008年2月14日 (木)

家内が置いて行った宿題:2008年3月 2日 (日)

時間は止まる:2008年3月 5日 (水)

キンピラの味:2008年3月11日 (火)

生甲斐の喪失は父母の死よりも重い(いつか、子供達へ・・・):2008年3月12日 (水)

のらねこ。:2008年4月12日 (土)

自立していく、離れていく:2008年4月25日 (金)

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2008年5月10日 (土)

DVD「のだめ」ヨーロッパ編来たる!

「のだめカンタービレ in ヨーロッパ」のDVD、昨晩届きました。

昨晩は見る時間がなかったので、今日の午前中、とりあえず1枚目を見終わったところです。

・・・んなこたいいや。放映時に見たかた、録画したかたは、お話の中身はとっくにご承知でしょうから。

で、パッケージの中身だけご紹介しておきます。

DIsc1:指揮者コンクールで千秋が優勝し、シュトレーゼマンの計略で拉致されるところまで。
Disc2:・・・というわけで、Disc1の続きから終わりまで。

(何と不親切な紹介だ!・・・我が家の鬼娘のせいで、コミックとの繋がりがわからないんです)

本編はここまでで、特典ディスクが1枚付いて来ます。
内容は、
・指揮者コンクールの場面・シュトレーゼマンが「ポロヴェツ人(ダッタン人)の踊り」を指揮する場面・千秋とRuiがラフマニノフの第3ピアノ協奏曲を共演する場面・のだめがお屋敷でキラキラ星変奏曲ともうひとつのソナタ楽章を演奏する場面のを取り出したもの
・出演者のクランクアップ時の喜びの表情
・「のだめ」(上野樹里)クリップ映像

この他に、
・主要登場人物紹介付きの28頁の写真集(小冊子)
・初回生産限定「のだめトラベルケース」
・「ロケ地マップ」の宣伝を印刷した空箱!
  (くれぐれも、中身があると勘違いなさいませんように!危なく問い合わせするところでした!)

これだけ中身があるので、ボックスの厚みは、日本編のときの5分の4ほどあります。
けっこうぶあつい!!

ファンの方は楽しんで下さいねー!

のだめカンタービレ in ヨーロッパDVDのだめカンタービレ in ヨーロッパ


販売元:アミューズソフトエンタテインメント

発売日:2008/05/09
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こちらは先行別発売なのでした・・・4月11日だったんですね・・・(T_T)

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発売日:2008/04/11
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追伸・・・

役者さんは、みんな、あいかわらず、いいです! とくに、この編で初めて参加したメンバーも、きちんと「演技の進歩の過程」を見せて下さることには、心から敬意を表したいと思います。

不満なのは、音楽。指揮の指導・上手下手の区別がつかない音楽の付け方は・・・日本編でもそうでしたが、作品の魅力を半減させかねません。また続編があるなら、音楽面で<原作の面白さ>をきちんと浮き出させる努力を、スタッフのかたにお願いしたいと思います。たとえば、指揮の中間拍でだらっと腕がのびても構わない、とする程度の中途半端な指導なら、指導後におそらく玉木さんご自身が試行錯誤を重ねて演じた指揮のほうがよっぽど本職さんよりマシです。後の二人については、収録期間も短かかったでしょうし、お気の毒でした。また、のだめの初見演奏でのつっかえかたは、本当に「出来ない」人のつっかえかたとは違います。・・・「指導する」と称する側に、そういった点のご研究が足りないのではないでしょうか?

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臨時:10万アクセス御礼:偶然ですが満2年目のその日に

寝ようと思って,「変なログが無いかどうか」チェックしようと思って,ふとカウンタを見たら,カウンタの数字が「100000」・・・10万、ですか? 10万なのでした。ビックリしました。慌ててログを確認したら,10万アクセス目は時刻00:42:27にasahi-netから見て下さっている方でした。ありがとうございます。

実質上は,私がこのブログを始めたのが2年前の5月11日でしたから、ブログ上で2年の大晦日を迎えたその日に当たります。バックナンバーでしか確認出来ませんが,最初の記事は、その4日前にクリスチャン・バッハの伝記をまとめたもので、所属するアマチュアオーケストラ、東京ムジークフローのメーリングリストに載せたものの単純な転載でした。まだ、どうしようかか迷っていたので。
3年前にかかった「うつ」を、薬の減らしかたを失敗して再発させ,また数ヶ月休むことになるかならないか,という時期でした。ですので、当初の最大の目的は,自分が「うつ」に埋没しないためでした。でも、何をどう綴るのかには迷いまして,結局、自分にはクラシック音楽のことしか分かりませんので,意を決して「イタリア風シンフォニア」について綴ってみることから始めたのが,先に申し上げた日付です。以後,素人の浅薄な記事ではありますが,殆どクラシック音楽に限って綴って来たものです。
その後,3ヶ月の欠勤を経て職場に復帰するも、通常勤務が出来る状態にはなかなか戻らず,年末にやっと
「もうすぐなおるよ」
とお医者に言われ,それを喜んでくれた矢先に、家内が急死する、などということが起こってしまいました。以後,治るはずだった「うつ」は慢性化し,薬は「一生だよ」と宣告されてしまいました。
その直後から,私のブログを読み続けて下さった何人かの方が、まだお会いしたこともなかったのに,ここに見えるかたちで、あるいは見えないかたちで,まさに「どん底」に陥った私を激励し続けて下さいました。その中の何人かの方とは,その後お目にかかることもできました。
アクセス数だけで言えば1日に平均だいたい135、実質見て下さっている人数は(私の手直しのためのアクセスを除けば)アクセス数の6割程度くらいかな,と思います。それでも、延べで6万人のかたが,こんなにマニアックで,こんなに偏っていて,こんなに話題の狭い、しかも最大の目的は私個人の精神の立て直し,というだけのブログを愛して下さったのですね。
薬は一生ですが,幸い,体のどこかが悪いからではないし,効きの弱いものにして頂いているので,精神安定に欠かせない,というだけのもので、いまではおかげさまで,日常生活には支障がないところまで立ち直らせて頂けました。

この日に,カウンタにふと目が行った自分が、何か見えない力に支えられているのだ,と感激しました。見えない力、といいましたけれど、それは神秘的な何かではなくって,ほんとうに、この場で皆様から頂いたお気持ちの、巨大なプラズマであるかのように感じております。

深く御礼申し上げますと共に,これからも私の大切なお友達でいて下さいますよう,どなたにも心からお願い申し上げます。・・・別段,数がどうだから,という話では,本来は決してないのですけれど。

ありがとうございました。

すみません、いらん記事を挟んでしまいました。

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2008年5月 9日 (金)

曲解音楽史:34)マルコ帰着(コンスタンチノープル)

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ



マルコ・ポーロも、とうとうヨーロッパに帰着します。
ですが、彼がヴェネチアに帰る前に、私たちは彼とお別れしましょう・・・彼の今後の健康を祈りながら。
どこでお別れするか?
ヨーロッパの玄関口、コンスタンチノープル(コーンスタンティノポリス、現イスタンブール)です。

コンスタンチノープルを首都とする東ローマ帝国は、マルコの時代まではよく勢力を保ちましたが、既にイスラームに対する劣勢は否めず、縮小の勢いは加速的に増していき、陥落直前の領域は、コンスタンチノープルそのものだけに限られてしまっていた、と言っていいほど狭まっていました。
それでも海上貿易の重要拠点だっただけに、華やかな文化は衰えることがなかった、との印象があります。

歴史上の東ローマ帝国の盛衰についてはしかるべき史書もありますし、悲劇的なコンスタンチノープルの陥落については、それをトピックに取り扱った研究書のほかに、塩野七生さんの小説でも生々しく(もちろん、フィクションを交えて、ではありますが・・・征服した側のメフメト(マホメット)2世の器の大きさも髣髴とさせてくれる点で歴史書にはない魅力があります)描かれています。
・・・なお、このオスマントルコの帝王を主人公にした歌劇を19世紀のロッシーニが作曲しているのは興味深いことです。地中海圏では、ホスロー1世と共に、ながいあいだ忘れ難い恐怖を与え続けた人物だったのでしょうか?

目をもっと西に転じると、しかし、一方ではイスラーム勢力はほぼ同時期にイベリア半島から退却を余儀なくされています。
(コンスタンチノープルの陥落は1453年、グラナダ陥落は1492年です。)

マルコの当時は勿論、それまでのほぼ2百年間は、地中海周辺の音楽は、イスラーム的なものと南ヨーロッパ的なものが入り混じった、一種独特な・・・というより、ヨーロッパ内陸部の吟遊詩人だとかグレゴリオ聖歌だとか、やや固定化しつつあった類いの歌に比べると、多様な展開を見せていたと思われます。

惜しいことに、その復元の試みは、決して多くなされているようではありません。

ただ、数少ない復元演奏をざっと眺めただけでも、

・ユダヤ系の歌唱がユダヤ教徒に限らず広範囲に行き渡っていたであろうこと
 (26でご紹介した「セファラド」〜そちらで述べましたように、スペインを表す言葉ですが、そこで採り上げた曲のタイトルを見て頂ければ分かりますように、このユダヤ系の歌唱は東欧圏にまで広がっていたようです。こちらにご紹介したブルガリアの歌唱も、再度お聴きになってみて下さい)

ペルシア系の古典音楽も、地中海世界の西端にまで達していたであろうこと
(今回はそれをお聴きいただくつもりですが、おそらく何らかの形で記譜されたか、口承で伝わっていたものが後年採譜されたか、で、これも27でご紹介した本来のペルシア古典よりも自由度の低い、すなわち演奏者による違いの少ないものに変化してはいます。)

という、2つの大きい潮流は確認出来ます。

マルコが家族との再会に胸を躍らせながらコンスタンチノープルの港を出発した頃には、この港では、上記のような、東西世界のあい混じった響きの世界が、彼の背中を見送ったのではなかろうか、と想像しております。

「セファラド」でご紹介したのとは別の復元演奏で、その名も「コンスタンチノープル」という団体の録音から、どうぞお聴き下さい。(ATMA classique ACD 2 2314

ちょっとだけで恐縮ですが。


  〜ペルシア発祥の「ラディーフ」が固定化した様子がうかがえます。


  〜これは、ルネサンス期のものとされるヨーロッパの舞曲に繋がっていくことが明らかですね。
   スペインを経由し,フランドル地方に潜伏したもののようです。(「テレプしコーレ」など。)
   さらに言えば,「コプト聖歌」のなどを参考にしたとき,この系統の音楽は、
   エジプトやチュニジアあたりに起源を発するリズムを持っている気がしないでもありません。

この系列の音楽は、しかし、メフメト2世のコンスタンチノープル攻略とともに、イスラーム世界、ヨーロッパ世界双方で、以後、影の存在(別の言い方をすれば地下化した存在)となってしまい、芽生えだした「芸術音楽」は東西に分離していくこととなります。
それでも、音楽世界はユーラシアでは本来「ひとつ」だった、と言いうる鉱脈が、各地方の民族音楽に、こんにちまで保たれる結果をももたらしたのは、15世紀中葉までの音楽が、およそ「芸術音楽」などという「ステータスシンボルに付随するもの」にならずに、民衆という地下世界の中に深く潜っていてくれたおかげでもあるのかもしれません。

そのあたりは、また引き続き観察してみましょう。

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2008年5月 8日 (木)

モーツァルト:やっぱり他人作? ヴァイオリン協奏曲第7番

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。



ヨーロッパの、中世までの文献には、「偽プラトン」だの「偽デメトゥリオス」だの(名前は適当に付けているので、本当にそんな呼び方でよかったのかどうか記憶していませんが)、別に「偽」がついても、現代の研究者にとって重要なものも少なくない、と伺っております。
音楽にしたって、その頃までは作者がどうであっても、あんまり気にされず、「美しければいい」ということで享受されています(こちらは文献の世界に比べると、ずいぶん最近になって芽生えた傾向ですが)。

けれども、近代音楽になると、作曲者の真偽が大きく問われることになる。
19世紀に入って、作曲家全集が盛んに刊行されるようになると、
「果たしてこの作曲家の<全集>におさめていいものかどうか」
ということが検討され、次第次第に許容範囲も狭まって、「偽作・疑作」はどんどん除外されて行くようになります。

その中でも、ハイドン作とされた「セレナード」四重奏曲や、小品のなかでは「モーツァルトの子守唄」・「シューベルトの子守唄」なんてのは、辛うじて出版楽譜としても録音としても、コンサートナンバーとしても生き残っています。
が・・・大多数は、「偽作」すなわち「ニセモノ」であることが分かった時点で、楽譜として出版も演奏もされなくなり、それがさらに「疑作」すなわち「アヤシイ」となっただけでも同じ運命をたどるところまで拡大されて行く。・・・あんまり新しい話でなくて恐縮ですが、ベートーヴェン生誕200年のころ、「もしかしたらベートーヴェン若年時のものではないか」と話題を呼んだ交響曲があったことをご存知ですか? あるいは覚えていらっしゃいますか?
「イエーナ交響曲」と称されたその作品、今のようにCD化が早い時代だったらもっと広まるチャンスもあったのでしょうけれど、CD時代が到来する前に「偽作」だと判明したため、とうとう私たち素人の耳に届くことは(FMで放送されたものをしっかり録音していた人以外には)ありませんでした。・・・でも、騒がれたくらいだから、決して「駄作」ではなかったんですけれどね・・・

モーツァルトの第6番、第7番と称されていたヴァイオリン協奏曲も、前者は「偽作」として、後者は「疑作」として、演奏されなくなってしまったもののひとつです。



モーツァルト関係の「偽作」や「疑作」も、決して少なくありませんが、
「あ、これってモーツァルトじゃないの!」
って分かったり怪しまれたりしたとたん、それまで大事に弾かれていたものが急に顧みられなくなるのは、なんだか寂しいですね。
それがたとえ真性でないにしても優れた作品かも知れないし、優れていないにしても美しかったら、「ニセ」であること、「アヤシイ」ことが分かった上で、その美しさを大事にする、というのが本来の音楽の愛されかただと思うのですが・・・人間の愛情と同じで、チャップリンの<街の灯>で、相手の女性が目が見えないうちはチャップリンは聴覚だけで彼女に「金持紳士」だと信じ込ませるのに成功し、愛されていたのに、彼が必死に集めた手術資金で彼女の目が開いたとたん・・・チャップリンは「放浪紳士」としての正体を知られてしまう。ただし、それが大きな悲劇ではないことに、人間として救いを感じますけれど。

第6番(K.268)についてはまた別途触れることになるかどうか分かりません。ただ、言えることは、これは確かにモーツァルトの作品ではないでしょう。それでも、明らかに1780年代前半のウィーンで流行だったスタイルに敏感、かつ熟練した腕の持ち主の作品だということまでは、耳にするとはっきり感じ取れます。本来は、楽譜を参照し、スタイルをきちんと検証して述べるべきですから、聞いただけの印象で述べるのは誤りなのですが・・・



1777年に限って、ということで、この年7月に完成されたとするヴァイオリン協奏曲第7番K.271aについて、第6番よりやや突っ込んで、しかしやはり簡単に触れるに留めます。

アルフレート・アインシュタインは、第7番について、次のように述べています。

(第7番が少なくとも)モーツァルトが書き下ろしたときの姿で保存されていないことは絶対に確実である・・・それも彼が仮の総譜の草案以上のものを書き下ろしたとしての話である。

さらに、第7番(第6番とカップリング)は、疑作や偽作としては幸いにして、演奏の録音が入手しやすいので、そうしたなかのジャン=ジャック・カントロフのCDにあるライナーノートから、これも少し引用しましょう。

・・・写譜と称するものが二つある。ひとつはオーストリア、ウィーンの資料蒐集家アロイス・フックスが1840年頃に写譜したとされる総譜であり、他はフランスの指揮者、作曲家でヴァイオリン奏者でもあったフランソア・アブネック(私註:ベートーヴェンの第九を、1stViolinのパート譜だけでフランスで初演した人物)。原譜のパート譜にはモーツァルトの自筆で「ヴァイオリン協奏曲、ザルツブルク、1777年7月16日」と記されていたという。

「パート譜に自筆で」というところに、ひとつひっかかりがありますね。パート譜は通常は写譜の担当者が作成した(と私は理解しています)ので、モーツァルト自身がパート譜を作成し、そこに署名をした、ということは、ちょっと信じ難い。いかがでしょうか?

さらに、作品のスタイルを検討してみます。
第1楽章のアレグロ(ソナタ形式ですが、あとで述べるように、この時期のモーツァルトでは考えられないスタイルの作りになっています)は、楽譜がないので、呈示部についてのみ耳でカウントしてみたのですが、まずオーケストラ総奏が52小節あるのに対し、ソロヴァイオリンの第1主題呈示が45小節あります。最初のオーケストラ総奏は、古典派の協奏曲では第2主題が現れても原調(この作品ではニ長調)に留まるのが通常ですが、それに対しソロが登場すると、第2主題に入る遥か前であっても、なるべく早めに属調(この作品ではイ長調)に転調するのが常套手段です。で、転調するまでに、あまり長い間を・・・これはきちんと統計的に見なくては行けませんから、こんな直感だけで言ってしまってはいけないのですが・・・長い間を置くことはない。ですのに、この作品では延々と45小節も原調のニ長調に留まるのです。これは、第5協奏曲まででさまざまに斬新な様式をトライしたモーツァルトの、彼自身が明言している「作曲の名人」であるという自覚と矜持からは全く信じられない<安易さ>です。当然ながら、作品の印象も単調になります。

第3楽章のロンドが、やはり先行する第2から第5までの工夫の積み重ねの痕跡が全く見られない(協奏曲ではありませんが、せいぜいK.136〜K.138の通称ザルツブルクシンフォニー【ディヴェルティメント】程度のウィットを延々と引き延ばすことでつまらないものに陥れてしまってさえいる)ような平板なものであることも、モーツァルトの真作ではないことを確信させます。

では、誰の、とまでは言わずとも、どんな人の作品か、ということを推定する上で、3つのヒントがあります。

ひとつ目は、第1楽章の展開部が、呈示部で示された第1主題、第2主題とは全く別種の、第3主題とでも呼ぶべきものを持っている点で、これはクリスチャン・バッハのシンフォニアなどにもみられるものですが、イタリア系の(かつ、面白いことに、ベートーヴェンが「エロイカ」で復活させた)古式な「ソナタ形式」です。

ふたつ目は、第2楽章のピチカート伴奏。これも、本当はモーツァルトと同時代のヴァイオリン協奏曲と比較したいところですが、有名な例ではヴィヴァルディ「四季」冬の中間楽章に見られるように、やはりイタリアの系譜を示しているものです。

3つ目は、全曲を通じて、ソロヴァイオリンのパッセージが、モーツァルトのしたように、ではなく、ごく普通のヴァイオリン名人がいかにも考えつきそうな、「主題に変形を加えないまま高音域に持って行くことで華やかさを演出したり、旋律の原型が崩れない程度の装飾を定型的に繰り返す手法」で書かれているところです。

以上から、「第7番」は、やはり残念ながらモーツァルト自身の作だとは、私にも思えません。
イタリア在住であった保証はありませんし、そう考える必要もありませんが、最低限オーストリアに進出して来ていた人物だとしても、かつ、それがモーツァルトに近い人物であったとしても、おそらく純正の<イタリア人ヴィルトォーゾ>の手に成ったものなのではないでしょうか?

ただ、素人ヴァイオリンを弾く一人として、だからといって私たちの耳から遠ざかった作品になってしまうのは甚だ残念です。
すくなくとも、Viottiの協奏曲に比べれば、ずっと面白い気がするからです。

・・・あまり、モーツァルトの生涯そのものには直結しない観察になってしまいました。
・・・アブネックが見たと言うパート譜の日付があてになるかどうか分からない以上、モーツァルトのこの時期の環境と結びつけることにも、あまり意味がないと考えたからです。

こんなところで、ご容赦下さい。

モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第6番・第7番Musicモーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第6番・第7番


アーティスト:カントロフ(ジャン=ジャック)

販売元:コロムビアミュージックエンタテインメント

発売日:2002/06/21
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2008年5月 7日 (水)

ご紹介:「これで納得!よくわかる音楽用語の話」

完読してからご紹介するつもりでしたが、本日、体調不良のため、途中まで読んだところでのご紹介になってしまいます。ごめんなさい。(・・・読み終えていようが途中だろうが、あんまり変わらないか!)

これで納得!よくわかる音楽用語のはなし―イタリアの日常会話から学ぶBookこれで納得!よくわかる音楽用語のはなし―イタリアの日常会話から学ぶ


著者:関 孝弘,ラーゴ・マリアンジェラ

販売元:全音楽譜出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

娘の師匠に
「これ、面白いですよ!」
と勧められて手にしたのですが、確かに!でありました。

要は音楽用語の説明書の一種なんですけれど、変わり種中の変わり種です。
・・・というのも、「辞典」類ではつかめない語彙のニュアンスが、ひとつひとつ、感覚に直接訴える「エッセイ」として綴られている。
イタリアに長く在住したご主人と、イタリア人であるその奥様の共著ですから、記述がほんとうに活き活きしています。

読み終えた範囲でも、どれを選ぼうか、迷うくらいに面白い。

ですが、最初に登場する"Allegro(アッレーグロ)"の例が、何と言ってもご紹介には最適かと思いますので、一部抜粋します。

タクシーで先を急ぎたい二人連れのお客の会話と、それに対する運転手さんの反応です。

「ねえ、”速く”って、なんて言ったっけ?」
・・・というわけで、この二人、やっとの思いでアッレーグロにたどり着いたようです。
「運転手さん、アッレーグロ、アッレーグロ!!」
ところがこの運転手・・・二人がこんなに急いでいるのに、どこ吹く風。一向に速く走ろうとする気配すら見せません。
「そうか、もっと速くって言わなければダメなのね。ピュー・アッレーグロ!(もっと速く!)ピュー・アッレーグロ!」
すると運転手は歌いはじめたり笑ったり・・・。あなたは、ますますボルテージを上げ「モルト・アッレーグロ(すっごく速くぅ)!!!!」と絶叫します。ここまで言われると、さすがのイタリア人運転手も、あなたが置かれた状況に気づかないわけがありません。でも、勘違いしないでください。彼が気づくのは、あなたがとっても急いでいることではなく、あなたが自分に恋心を抱いているんじゃないか、ということです。・・・
実はアッレーグロには”速い”という意味はないのです。

じゃあ、なんなんだ?

続きは是非、本書をお手に取って楽しんでみて下さい。

本当は娘に買い与えるつもりで手にしたのですが、こんな調子で突拍子もなく話が展開するのについ引き込まれ、実は私が未だに抱え込んでいます!

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家内へ墓前への花の御礼

大事なことを綴り忘れていました!
昨日、家内の墓の掃除に行ったら、ゴールデンウィーク中にも関わらず、2、3日前だろうと思われる可愛らしい花を、すでに手向けて頂いておりました。
このブログをお読み下さっていらっしゃる方でしたら、心から御礼申し上げます。
そうではなくても心当たりがある、というかたには、そのかたからご本人に私の感謝をお伝え頂ければありがたく存じます。・・・なにとぞ宜しくお願い申し上げます。

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2008年5月 6日 (火)

私の新しい、ささやかなたからもの

BWV1128の記事、Curraghさんのご指摘に従い、楽譜を再読して訂正しなければならないのですが、時間の都合できちんと手が付けられずにいます。ちゃんと読まねば、と思いますので、もう少しご猶予下さい。訂正でき次第お知らせ致します。



そのかわり、同じ大バッハ関連で、私が最近手にした、ささやかな新しい宝物の中の一葉をご披露致します。

「オルガン小曲集」自筆譜のファクシミリから、「人みな死すべき定め」BWV643の頁を選びました。

この小曲集、横長で、ファクシミリ版は縦16.7センチ、横20センチと小振りなものです。(現物はもう一回り小振り、ということになります。)
五線が空白のページがたくさんありますが、そんなページにもタイトルが付けられていて、バッハがもっとたくさん書き続ける意図を持っていたことを示しています。ヴァイマル時代に大多数の完成作が作られたと推測されていますが、曲集のプラン自体はヴァイマル時代前に芽吹き、作曲はケーテンに移るまで続けられたものの、ケーテンでは宗教作品よりもその地の宮廷楽団向けの作品に注力することになったために中断し、晩年に再度着手しようと試みたものの、計画していた164曲(すべてルター派のコラールで、バッハが着手した時期には、すでにこの曲集で取り組んだものとはコラール旋律が変わってしまったものもあるそうです。が、バッハは幼年期からなじんでいた方の旋律を用いて作曲した由)のうち、完成し得たのは45曲のみに留まっています。

BWV643は、現物では掲載する画像の前ページに正式タイトルが記されていて、その頁は五線が空白のままですので、研究者さんには「作曲中」、すなわち未完成品として取り扱われています。

(画像〜クリックで大きい画像で見られますが、実物よりかなり大きくなります。)
Bwv643

オルガン用の作品であり、印刷譜は三段譜(ペダルの段が分けられている)で出回っていますが、ご覧の通り、バッハ自身は2段で記しています。

オルガニストの解釈によって使うストップ(音色)が違っていますが、このあたり、どうして人によって考え方が違うのかは、お詳しいCurraghさんにご教示を請いたいところです。(色の変わったタイトルを右クリックすると別ウィンドウで聴けます。)

(1977〜81年頃)ADD 223499 321

(1979〜81年頃)Decca UCCD3231

で、
(聖ジョーンズ聖歌隊)Decca UCCD3231

歌詞の和訳は次のとおりです(杉山 好 訳)Decca UCCD3231

     人はみな 死すべき定め
     肉なる者はみな枯れ草のごとく朽ちゆく。
     生きとし生けるもの、ひとたび滅びてのち、
     はじめて新しき生命に甦るなり。
     この肉体もまた、腐れ果つべし、
     しかしてこそ、そは永遠の医しに浴して、
     信ずる者らに備えられし、
     かの大いなる栄光にあずかるを得ん。

・・・この曲、私がまだ惑いの中にいる頃に、一度採り上げたものでしたので。

高価ではなかったので入手を決めたファクシミリ冊子は、心の支えとして、いつもパソコン机の脇に置いて、時折取り出しては眺めています。

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2008年5月 5日 (月)

TMF:合宿の「感傷的」総括

前回記事へのコメントあらためて申し上げます。
御礼文は整理中ですので今しばらくご容赦下さい。



TMF(東京ムジークフロー)の今年の定期演奏会は6月22日(日)14時からです。
場所は品川区の「きゅりあん大ホール」(京浜東北線、東急大井町線「大井町」駅からすぐ)です。
またあらためてご案内申し上げます。是非お越し下さい。


ここから、団内の人向け・・・でもない、2008年5月3〜5日の合宿の記録です。

感傷的な「総括」としたのは、今回については練習内容のまとめは必要がないほど、団員の皆さんが、参加中にいろいろお考えになっていたことが明確でしたし、それに重ねて(とくに誤ったことを)綴ってしまう必要はないだろう、というのが理由です。

むしろ、個人的な過去の回想と、親は練習ばかりでほったらかしにされるのが分かりきっていてなお、私の合宿参加につきあってくれた子供たちの今回を眺めていての感慨から、自分の気持ちを綴ってしまうことになるでしょう。



練習が一段落しての、2日目の宴会で、幹事さんが「家族の近況報告」コーナーを設けて下さったことに、まず深く感謝申し上げます。
長い1年4ヶ月でしたが、おかげさまで、上の席上で申し上げました通り、今の私は
「幸せです」
と、心から思っております。
家内の口癖が「万事塞翁が馬」だったことは、過去何回か綴ったことがあるかと存じます。
家内が倒れて、そのまま1日も経ずして急死したことは痛恨の極みでしたが、仮にあのとき名医さんに巡り会えて生き延びたとしても、子供たちの胸の中に残っている「明るいおかあさん」で彼女が生き続けられていたかというと、必ずしもそうではないのだ、ということに、最近ようやく思い至りました。心臓の病気ですから、一命を取り留めても仕事は継続できたかどうか分からず、ペースメーカーなんかを入れて、辛い気持ちで日々を過ごすことになってしまっていた確率の方が高い。
仕事の現場で、自分の挟持を最後まで保って倒れ、苦しむ時間も短く、現職できれいさっぱりと命を終えられたことは、死に方としては幸せだったか知れない。
そのおかげで、子供たちの中ではこれからもずっと「明るいおかあさん」で通せるのだ、ということも、家内と子供たちの両方にとって幸せなのかも知れない。
かつ、家内を失ったことで・・・団外の、とくにネットを通じてそっと私を支えてくれた大切な方達を含めて、になりますが・・・私が楽器を弾き続けられるように、こんなにたくさんの団の皆様が陰で支え続けて下さり続けて下さっているのだということを悟らせて頂けたことも、いまさらながら、日常を普通に過ごしていたら気が付けなかった幸福です。
本当に、
「塞翁が馬」
なのだなあ、ということが、自分なりに理解でき始めたところです。

1日目、2日目と、多くのメンバーの方にとんでもないお遊び(1日目はろくろく練習もできていない上に元々センスがないのを省みず協奏曲の伴奏をして頂き、2日目は持参したオーケストラ曲1曲をまるまる演奏して下さった)におつきあい頂けて・・・こちらの思惑では「みんなに楽しんでもらえれば」と知恵を絞って持って行った企画のつもりでしたが、やってみると、実は「みんなが僕に<楽しい>という感覚を思い出させて下さったのでした。途中駆けつけてくれたY嬢(素晴らしいヴァイオリニストです)のおかげもあって、最後は菊地先生を交え、私はヴィオラを弾かせてもらって、もう十年以上ぶりに弦楽四重奏も「楽しませて」頂きました。先日まで「所詮四重奏はもう無理かな」と思い込んでいた(こちらの記事に理由を綴っていました)私には、偶然の僥倖とでもいうべき出来事でした。

ベテランのメンバーとは、楽器の種別を選ばず、適切な楽器奏法とはどんなものかを気さくに話し合うことが出来、若手が前向きな姿勢でご自身達で計画した弦楽四重奏の練習では、アンサンブルがきれいに響くコツ(という内容でのお話になっていたかどうかは確信を持てませんが)をめぐってしばし考えてもらえる場面も持たせて頂けましたし、中堅メンバーとは思い出話に花が咲きました。すべてが「楽しく」って、つい、お酒も度を過ごし、二日連続3時間睡眠の二日酔い(ということは実質三日酔い)に陥るというていたらく。



2日目のお昼に、宿の人におにぎりを握ってもらって、大勢で宿の下を流れる川の岸辺でお昼を食べられたことも嬉しゅうございました。
先輩のお子さん達も、我が家の子供たちも、この川辺でビショビショになるほど遊びまくって、育ってきましたから・・・子供たちのことも含め、自分自身も、原点に帰らせて頂いたように感じております。


帰宅してからしばらくして、娘がベソをかき出しました。理由は訊きませんでした。元気な母親に見守られながらのびのび過ごした、以前の合宿を思い出したのだな、ということがすぐにわかりましたから。
でも、泣き止んでから、娘は言いました。
「ああ、帰って来たくなかったな。楽しいときって、どうしてこんなに早く過ぎちゃうのかな。後3日は帰りたくなかった」
父親が放っておいている間、娘も息子も、他の子供たちと思う存分、遊びたい放題、好き放題だったようです。
「だけどな」
と、私は言いました。
「大人だって同じ気持ちなんだぜ。ポツンとしたお休みの日が続くのだったら辛いけれど、ここへ来たら、練習は厳しくても、仲間とホンネで過ごし合えることがとっても楽しいって思ってるんだ。」
そう言う場所がない人たちから見れば、どの大人たちも<自分たちは幸せだ>、って思わなくちゃいけないんだろうけれど、わざわざそんなことを考える必要もなく、自然に「幸せに浸れる」から、ここで健康を回復して、また普段の生活に帰って行ける。明日からまた訪れてくる「業務」という荒波を、苦痛に感じないですむ活力を取り戻して帰って行ける。

私の大事な、団内の皆様が、そしてネットを通じ、あるいは顔見知りにもなって頂いた皆様が、私の心に活力を取り戻させて下さったことへの有り難さを、あらためて実感して戻りました。



ですから、私の大事な皆様が、一人残らず、私に下さっているだけの大きな幸せを、ご自身にも持ち続けて(あるいは回復して)頂けますように、心から祈っております。

ちっとも、タイトルにそぐっていませんね。

でも・・・ありがとうございました。
これからも、宜しくおつきあいのほどを!

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2008年5月 2日 (金)

古代のカルタゴ=今の日本?(時事ネタにあらず)

明日から三日間は、合宿の手短かなまとめになるでしょう。
その前にひとつ、(ここ数日綴ったことの幾つかをも考慮しつつ)、私的な思いを綴っておこうと思います。



しかしまずは、旧約聖書の「コヘレットの書(伝導の書)」から、幾つもの引用を並べます。
(内容が日本仏教に似ていることに驚かれるかもしれませんが、その驚きに対してなんらかの答えを出すのが目的ではありませんので、ただ引用だけを行ないます。)

     太陽の下に新しいものはない。
     これは新しいものだ、ごらん、といえる何かがあったとする。
     ところが、それも、先の世にすでにあったものだ。
     ただ、昔のことは記憶に残っていない、
     私たちののちの人々のすることも、
     それよりのちの人々の記憶に残らないだろう。
(1-9〜11)
     
     曲がったものをまっすぐにはできない
     足りぬものは数えられない。
(1-15)
     
     知恵者は自分の前を見る、
     愚か者は手探りで歩く。
(2-14)
     
     人間の行く末と獣の行く末とは同じものだ、
     人間も死に、獣も死ぬ。二つとも同じ息をしている、
     人間が獣にまさるというのも空しいことだ。
     二つとも同じところに行く。
     二つとも ちりから出て ちりに帰る。
(3-19-20)
     
     知恵は人の顔を輝かせ、
     その固さを和らげる。
(8-1)
     
     風に気をつけている人は種がまけない。
     雲を見ている人は刈り入れをしない。
(11-4)

     朝から種をまき、
     夕方も手を休めるな。
     なぜならあなたは、これか、あれか、そのどちらが
     実るかを知らないからだ。
     二つともよいかも知れない。
(11-6)


      以下、史料などを手元に用意して綴るわけではありません。すべて、私の主観です。
話は大きく出ますが、申し上げたいのは、人間というものの、生の営みの消長とは、いかに定型的であるか、という、最終的には個々人レベルへの比喩に(ご自身で)落とし込んでお考え頂きたい事柄です。
現在の日本について、大きく三つの実態があります。

*人口は、確実に減る。
*従って、流通は確実に規模縮小する
*しかし、いったん定着してしまった私たちの「消費速度」は、慣性の法則と心理的重力の弱さのバランス故に、容易には落ちない

これに対して、なにゆえでしょうか、非常に矛盾する4つの振る舞いを、私たちはしています。

・企業は、バブル崩壊経験を忘却し、第2次大戦以降身に染み付いた「市場拡大」幻想を元にしか事業計画を立てていない。
・国家運営は、そうした企業活動を前提に税またはそれに準じるものの徴収増額をもって、慢性化した金銭上、精神上の「赤字」を解消する以外に別の手段を見いだす能力がなく、それに賛成する側も反対する側も、おしなべてみな、新機軸を提案しようという主体的感性を失っている。結果的に、税収を上げるだけの運営とは企業のもくろむ市場規模拡大にブレーキをかけるだけでなく、ギアをバックに入れるのだ、ということへの自覚がない。
・こうした事態を公平に評価できる実践的「知識人」は、自己の獲得して来た視野をなるべく客観的に見据えながら、上記の矛盾がもたらすであろうこの国の「後退局面」について警鐘を鳴らし、次世代を守ることに懸命である(と私は信じています)が、一方で上記2項の橋渡しをする上で影響力が大きいのはあくまでマスメディアであり続けている現状、なおかつ、自らも営利企業であるという特質から、マスメディアは知識人の警鐘の本質よりは(口先は別として)自らの営利に繋がるのであれば、たとえば(マスメディアではない)企業が破綻しても国家運営系から収益が入れば良し、逆に国家が破綻しても企業が利潤を確保しうるかぎりそれでも構わないのであるから、結果的に、危機の本質には目を向ける努力は怠っている。
・一般人は、マスメディアからの情報への依存度がまだまだ高く、従って、根底に起こっている、また確実に起こっていく事態について統括的に理解しないまま、その日その日のニュースや「感動エピソード」・「卑劣エピソード」にスポット的な反応や批判をするレベルにとどまっている。

・・・すべて、私の主観に基づく一般論です。ですから、「例外のない法則」としてはお読みにならないよう、心からお願い致します。

で、私が主観でまとめてみたこの状況は、古代のカルタゴに非常に似ている。

商才だけで大きな版図を築き、荒削りなローマに対抗し得て来たこのフェニキア人の「平和国家」は、最終的に「力による支配」を是としたローマが(こちらには、まだ経済が未開であった、故に発展する余地があった、というメリットもあったので、長い目で見ると実はカルタゴと似た道筋をたどって行くことになるのですが)「押し」に入り込んで来たとき、ハンニバルと言う一個人にのみ責任を押し付け、たったひとりの人間の「武術戦術の才能」のみに依存しておきながら、バックアップを何も行なわず、結果的にハンニバルを見捨てることによって延命を図る、という連帯無責任を演じ、仮の平和を取り戻したかに見えながら衰退の速度を早め、最後はローマの武力によって制圧されてしまったのでした。

今の日本と似ているのは、「連帯無責任」という、その体質です。
「国家」がそうなのではありません。「企業」がそうなのでもありません。マスメディアには・・・連帯無責任を助長して来た責任はあると思います。しかし、以上の三つは、あくまでその実態は「仮想的」な存在に過ぎない。属している人はそうは思っていないかも知れないけれど、「○○大臣」とは紙切れに「○○大臣」と書かれていることだけが根拠で「大臣」として存在しているのですし、マスメディアを含む「企業」とは、おおもとはこれも、極端な場合は「登記」という手段で「法人」という仮想の人格として「法的」に(この「法」もまた、成文化されている場合には紙の上だけのものです)「人間」に成り済ませば、実際には実態としての人間なんか一人も存在しなくても(その場合には休眠という扱いにはなりますが)いい、ヴァーチャルなものでしかありません。
であれば、それに目くらましされている私たち個々人こそ、実は「連帯無責任」の根源なのではないか。

果たして、私たちはカルタゴの人々と、あるいは帝国化した古代ローマの人々と、またあるいは、無数の消え去ったオアシスの人々と、同じ運命をたどりたい、だなんて思っているのでしょうか?

「そんなことは思っていない」

でしたら・・・個々人のためのたとえ話としてはあまりに大袈裟になってしまいましたが・・・まずは、私の、あなたの、私たち一人一人の、日々「いかに生きるべきか」ということへの内省から始めていかなければならないのではないか。内省、とは、すなわち、「当事者」としての責任意識をどう持つべきか、を自身の中で見極めていかなければならない、もしかしたら死のその日まで結論が得られないかも知れない行為ではないのか。



なんで結びつくのかは全然納得して頂けないかもしれませんが、私がこんなことをまとめてみたいと思った最大のきっかけは、バルトークを読み直したことに端を発しています。

私の内省は、「音楽」という行為から始めるのが、もっとも私自身にとって分かりやすかったからに過ぎないのです。

ですから標題に記しました通り、この記事は
「時事問題にはあらずして」、
私の内省の方法がこれで良いのかどうかの確認のためであり、そのことを通じて(お読み下さった方と直接会話はできなくても、あるいはコメントでのやり取りなどせずとも)、一人でも多くのかたと、ほんとうに「心を前向きに接しあいたい」という表明なのです。

あまりに複雑怪奇な文で、
「脳ミソの具合でも悪いんじゃないの?」
と仰られてしまいそうですが、あえて掲載させて下さい。

脳ミソの具合は、たしかに、家内の不在以来、よくはありませんから。

繰り返しますが、
「時事問題にはあらず」
です。くどくてすみません。
     

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2008年5月 1日 (木)

モーツァルト:楽器を知りつくしたオーボエ協奏曲(ハ長調K.314)

昨日の記事もお読み頂ければ幸いです。



ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。

・・・まるきり感慨から綴り始めて恐縮ですが、この作品のスコアを見て
「管楽器はうらやましいなあ・・・」
と思ってしまいました。

管楽器なりの難しさを承知しての上で、ですので、ご容赦下さい。
でも、この協奏曲のソロ・オーボエパートは、ヴァイオリンだったら、比較的ラクに弾けるんですよね。
だから、
「オーボエ奏者は(四重奏は大変ですが、この協奏曲については)モーツァルトの距離が近くて、いいなあ・・・」
そんなふうに僻(ひが)んでしまいます。

実は、これが僻みである証拠に、最高音のDを伸び伸び吹くには、オーボエのかたは、相当きちんと基礎ができていなければダメなはずです。
それでもなお、協奏曲全体の長さも、よく演奏されるヴァイオリン協奏曲第3番以降に比べて短いですから、
「やっぱり羨ましい」
・・・ピアノ奏者に比べれば、こんな僻みは贅沢なんですけれどね。ピアノ協奏曲は、ずっと長くて、難しい。



構成を先に見ましょう。

オーボエ協奏曲 ハ長調 K.314
第1楽章:Allegro aperto,4/4,188小節(ソナタ形式)
第2楽章:Adagio non troppo, 3/4(F),90小節(二部形式)
第3楽章:RONDO Allegro, 2/4,285小節(これは第4ヴァイオリン協奏曲の終楽章よりは小節数は多いです。)

大変いい曲だと思いますし、もともと有名な上に、「のだめカンタービレ」でもテレビドラマでは第8話(原作コミックでも第8巻だったっけ)で採り上げられましたから、モーツァルト作品としては認知度も高いと言えるでしょう。ただし、形式上に際立った特徴は無いため、お詳しいかたにとって目新しいことは綴れません。敢て特筆すべきことがあるとすれば、第2楽章が前半部と後半部で全く同じ主題(複数の要素があるためサイクルが長い)を用いながらも、単調になるどころか素晴らしいアリアを聴くような出来に仕上がっている点でしょう。声楽作曲家としての成熟度が、そのままオーボエの音域を有効活用する面でも活かされている事実に注目しておきたいと思います。

と言いつつ、またも個人的感情で申し上げますと、私にとっては、この協奏曲は、必ずしも好きな作品ではありません。
アマチュアでありながら、過去2回か3回、伴奏に参加しました。ひとつ以外は忘れましたが、覚えているその1回のときのソリストは、ある町のアマチュアオーケストラの仲間内で「腕のいいオーボエ奏者」と自他共に認めていた人でした。・・・でも、最高音がキツくて、なんぼアマチュアとはいえ
「これじゃあなあ」
と思った記憶があります。
で、打ち上げの席で、私ではなく、彼に身近だった誰かがそのことを指摘したら、真っ赤になって怒ったのでした。品がなかった。
このときの印象が尾を引いているのでしょう。
なおかつ、日本のプロ奏者のソロないしは伴奏でも、「これならいいなあ!」と感激できる演奏に巡り会ったことがありません。あるソリストは歌い込み過ぎだし、あるソリストは解釈に一貫しがなかったり。伴奏は、どちらも、別に一流ではないヨーロッパのオーケストラに比べても、どことなくモーツァルトの演奏らしくなかった。・・・「のだめ」で(映像に出てくる役者さんに成り代わって音声だけで登場なさったのですが)お吹きになった、某女性ソリストの「ソロ」が、日本人の演奏としては、これまででいちばんいいものを耳にしたような気がします。・・・ただし、このときの伴奏には、どうも物足りない印象が残っています。
まあ、自分たちがやったら、もっと悲惨になるのも目に見えるようですから、いっそう、この曲には日本人としてコンプレックスのようなものを感じてしまうのです。



無駄話はともかく。

この作品、長い間、フルート協奏曲(ニ長調)として演奏され続けて来たことは、年輩のかたほどご記憶かと思います。
アルフレート・アインシュタインが「モーツァルト その人間と作品」(1945年)で既に言及しているにも関わらず、私の子供時分(1970年代前半)には、少なくとも日本で手に出来るレコードで、この作品をオーボエで演奏したものはひとつもなかったと思います(事実を調べたわけではないので、「いや、その当時に、もうあったよ」という情報があれば、是非お知らせ下さい)。

K.314が本来オーボエ協奏曲であることが判明したのは、ザルツブルクにオーボエ独奏パートの筆写譜が存在するのが確認されたためで(NMA第14分冊に写真版がⅠ葉だけ掲載されています)、それによると、同じ曲(調は違う)のフルート協奏曲の「作曲日付」が1778年の1月ないし2月(マンハイム滞在中)とされているよりもさらに1年早い、1777年4月1日作ということになるので、「オーボエ協奏曲」の方がオリジナルだ、と判定された経緯があるようです(NMAの解説やアインシュタインの記述では、これ以上詳しい経緯は分かりませんでした)。
ザルツブルクでソロを吹いたと想像されているのは、ジュセッペ・フェルレンディスという人物です。
翌年フルート協奏曲に編曲された経緯は、アインシュタインが記述した当時も、モーツァルトに幾つかのフルート作品を注文したド・シャンという人物に急かされての苦肉の策だった、とされていましたが、現在はこの話は怪しまれています。海老澤敏さんの近著「モーツァルトの回廊」(立読みしかしてません、ゴメンナサイ)では、「仮説」とまでお考えではないのでしょうが、「(マンハイムに行ったモーツァルトがべた惚れしてしまった)アロイジアの気を引きたくて編曲したのではないか」なる、実に気になる推測がなされています。かつ、海老澤氏は、モーツァルトがフルート嫌いだたt、という通説をも否定しています。これは、モーツァルトが、ト長調協奏曲(K.313)だけでなく、交響曲や室内楽に魅力的なフルートパートを書き続けたことからして、充分説得力のある見解です。私たちは、モーツァルトが書簡で父に
「あのいまいましい楽器(=フルート)のために作曲しなければならないなんて!」
と書いていることに惑わされ続けて来たと言えるでしょう。これについては、管楽器にお詳しいかたが、べつのところで、「フルート奏者にはピッチを正しくとれる名人が少なかった」と述べることで、海老澤氏の見解を先取りしていましたが・・・こちらは当時、とくに協奏曲を演奏するのであれば宮廷音楽家でしたでしょうし、宮廷に採用される楽員は(もともと供給過多の中から厳選されたのですから)、あまり安易に首肯していい意見だとは言えないでしょう。



もうひとつ、モーツァルトのオーボエ協奏曲には、未完で終わっているヘ長調の第1楽章の草稿がのこされていまして(K.293)、1778年11月にマンハイムで手がけ、何らかの事情で中断してしまったもののようですが、楽譜を見るかぎり(NMA第14分冊695頁、Serie V "Konzete" werkgruppe14の付録、167頁)、主題は「ハ長調協奏曲」より柔らかめでありながら構想が「ハ長調協奏曲」と似ていること・でありながら、充分に独自性を持っていることが窺われ、未完であるのが非常に惜しまれます。オーケストラ呈示部の48小節までは出来上がっており、49小節からのソロが(62、63小節に補助的に第1ヴァイオリンをはさみ記している部分を加え)70小節の1拍目まで書かれています。
・・・これは、補作して仕上げられるシロモノでは無いでしょう。残念です。

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著者:浅井 真男,アルフレート・アインシュタイン

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