曲解音楽史:36)神意・俗権・民衆〜ブルゴーニュ・フランドル楽派
前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
4)言葉と音楽 5)トランス 6)古代メソポタミア
7)古代エジプト 8)古代インド 9)古代中国 10)古代ギリシア
11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
13)ササン朝ペルシャ 14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
15)中世前半の西ユーラシア 16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ
34)イスラムと西欧の融合 35)ルネサンス?
<ルネサンス>問題の延長です。 この言葉が「人間の再生」を意味することは前回も触れた通りですけれども、ヨーロッパ史上の時代区分用語としてしまうと、<ルネサンス>期は、むしろ「混乱と破滅」が横溢していました。 言葉を生んだイタリアが、はるか昔の西ローマ帝国崩壊を未だ引きずった内乱状態にありましたし、アルプスやピレネーという峻険な山脈を挟んでいながら、イタリアを囲む大陸部各地も、常に戦乱の坩堝でした。
よくよくたどってみますと、これはヨーロッパ(東西とも)が「ローマ帝国」世界の最大版図を幻影として引きずり続けていたことに根ざすことのようです。
まず、滅亡したはずの西ローマ帝国は、その後もヒスパニヤ・フランク・ゲルマン民族が混在したままの(カエサル『ガリア戦記』の舞台となった、現スペイン・ポルトガル、フランス、オランダ及びベルギー、ドイツ・オーストリア・チェコ・ハンガリー、ブルガリアあたりまでを包括した)広い地域でその皇帝位が神聖視されつづけ、紆余曲折を経て、西暦800年にカール大帝がローマ教皇から戴冠を受けたことにより、名目上の再生を遂げました。
ところが、この帝国もカール大帝が死ぬとすぐに崩壊し、現代の国境とは一致しませんが、ほぼフランス・フランドル・ドイツ地域に分断されてしまいます。
分断の後、今度はローマ教皇がカール大帝を戴冠した、という実績から(これも複雑な諸々がありましたが、省きます)、のちに「カール大帝の意思を継ぐ」明確な意思表示をしていた東フランク国王オットー1世が961年にやはり教皇からの戴冠を受け、以後、「ローマ」を象徴する「皇帝」の称号はドイツ・オーストリア圏の国王に継承されていくこととなりました。(現在ではオットー1世の戴冠以後、ナポレオンの登場による帝国崩壊まで、さらに体面上は20世紀初頭のハプスブルク家引退まで、ドイツオーストリア圏のこの帝国を、一貫して「神聖ローマ帝国」と呼んでいます。実質はそれほど単純ではないのですが、詳しいことは歴史専門の書籍で確認して下さい。)
「皇帝位」は、のちにまた名目上のものでしかなくなるのですが、ヨーロッパ世界にとっては神聖なものでありつづけ、時代が下り、かの「太陽王」を名乗ったルイ14世がこの称号を欲したものの、許されませんでした。
東に目を転じますと、こちらは以前から瀕死状態だったとはいえ、16世紀半ばまで「東ローマ帝国」が存続しつづけていました。存続しえた最大の要因は、首都コンスタンチノープルが、政治的には末期にはイスラム教を奉じる大国オスマントルコとすぐ向かい合わせにあった不利を抱えたものの、経済的には(まだスペインがインドとの直接交易路を持っていませんでしたから)東西貿易の重要拠点であり続け、富を保ち得ていたところにあったのではないかと思います。
その東ローマ帝国が滅びると、こちらの「皇帝位」は、東ローマから逃れてきたキリスト教徒たちを庇護したロシアが自主的に名乗りだすこととなります。かつ、それを妨げる何者も存在しませんでした。地理的にも、東ローマ帝国滅亡後のロシアは西ヨーロッパとの接点はしばらくの間無に等しく、「神聖ローマ帝国」皇帝との間に「正当性」を争う必要は全くありませんでした。
・・・そんな次第ですから、ロシアについては、しばらくは目をつぶっておきましょう。
再び、西です。
イベリア半島(ヒスパニア)は、レコンキスタと称してイスラム勢力を完全に駆逐し、航海に巧みな連中を雇い、スペイン・ポルトガル両王国が、地中海経由を必要としない、インドとの直接貿易経路を開拓して巨富を得ます。さらに、中南米へも進出し、新奇な物品でなお裕福さを増していきます。・・・このことに伴って中南米に何が起こったかは、また観察することになるでしょう。
それに先立って、フランスは、教皇のお膝元ローマに最も近い、という地理的な利点から、教皇との結びつきを確保することに躍起となり、ついには自国南部のアヴィニヨンに教皇を強制移住させる(第2バビロン捕囚)など、対外政治では強圧的な姿勢の堅持に努めます。
「ローマ」を継いだはずのドイツ圏が、政治・経済面では最弱でした。というのも、帝国を称していたとはいえ、その内実は有力な貴族(皇帝は貴族達の選挙でえらばれる、というのが建前でしたから、その選挙権を持つ彼らは「選挙公」と呼ばれました)が各々の自領について多くの特権を有したままであり、とても「統一されている」とはいえない状況下にあったからです。そのため、皇帝の代替わりの度に新たな勢力争いが生じ、内乱が絶えませんでした。(これが結果的に、音楽面では18世紀にドイツ音楽を多種多彩な優れたものへと育成していくことになったのですから、世の中、何が良くて何が悪いか、分かりません。)
歴史そのものの話としてはかなり大雑把なのですが、以上からまず明確になるのは、まず、宗教上、カトリックの伝統が最もよく保持されたのはフランスだったということです。
実際に、カトリック聖歌の最初の発展は、フランスを舞台としています。
ペロティヌス・レオニヌスの世代にノートルダム寺院を舞台として萌芽した、複声化(ポリフォニー化)した音楽は、アルス・ノヴァ(新芸術)と称し、14世紀を代表する音楽家ギョーム・ド・マショーを世に送り出します。
それが次には、フランス王国内のブルゴーニュ伯領に引き継がれ、「巨星」と称されるギョーム・デュファイを生み出し、より美しい響きへと昇華していきます。
さらに、その伝統は、東洋貿易によるイベリアの富と、地中海貿易によるイタリアの富が、海と川の両方から集積されるという、地理的に非常に有利な位置にあったフランドル地方へと引き継がれ、代表例としてはオケゲムの敬虔な音楽へと結晶することになります。
<聖界>の音楽は、おおまかにはこのようなものですが、実はデュファイなどはミサ曲の作曲に際して民衆の間で有名だった流行歌を下敷きにしたり、と、このころから、音楽は<神意>の中に<民衆>を取り込むようになっていきます。
それが最も明確になるのは、ジョスカン・デ・プレの作風です。
ジョスカンの音楽は、宗教曲においても、師のオケゲムよりも明るい、開放的な色調を帯びます。また、彼自身の作曲した世俗曲も、16世紀初頭までにはほぼ西欧に定着した印刷術の助けもあり、幅広い支持層を獲得したと思われます。
それぞれの活動拠点から、デュファイは「ブルゴーニュ楽派」、オケゲムやジョスカンは「フランドル楽派」と呼ばれますが、系統的には<アルス・ノヴァ>からまっすぐに繋がっていると思ってよいでしょう。すなわち、西欧音楽の流れは、<人間の再生>という方向からではなく、<神意>をより輝かしく飾る方向へ進みつつ、そこに「民衆音楽」を組み込むことで、伝統を断絶させることを回避しながら発展してきた、と言っていいのかと思います。
実際にお聴きになって、確かめてみて下さい。
・マショー :ノートルダムミサから
(アルス・ノヴァ)〜デラー・コンソート
・デュファイ:イムヌス
(ブルゴーニュ楽派)〜テルツ少年合唱団
・オケゲム :
〜ヒリヤード・アンサンブル
・ジョスカン:ミサ「パンジェ・リンガ」から
〜クレマン・ジャヌカン・アンサンブル
デュファイやジョスカンによって、当時の民衆音楽の様子も記譜されたものから推測できるようになるのですが、彼ら自身は宮廷に仕え続けたのでして、その点では、
・創作していたのは<神意>の音楽
・演奏の場は<俗権>の世界
だったのです。
これが、以後の西欧音楽を「宮廷のもの」と「民衆のもの」に分け隔てていく源となります。
その分化の様子は、またしばらくの間窺いにくくなりますが、別途イギリスの音楽を観察することによって、ある程度推測することは可能だろうと思います。・・・これについては、あらためて見ていきます。
フランドル楽派の時代、この地方には思想面でも興味深い動きが現れます。
こちらの面の代表者として、エラスムスを例に出しましょう。
彼の「対話集」の中には、デュファイやジョスカンも曲を付けている伝統的なカトリック聖歌の効果について、愉快なエピソードが見られます。
<難破>から
アドルフニス 君があの場にいたら、われわれがなんともあさましい場面を演じるのを目撃しただろうな。水夫たちは「めでたし元后(サルヴェ・レギナ)」を唱い、聖母にお助けを請願し、彼女のことを、やれ「海の星」だの、やれ「天なる女王」だの、やれ「世界の女主人」だの、やれ「救いの港」だのと呼び、そのほか聖書のどこを探しても見あたらない称号をやたらと奉ってお追従を並べあってていたっけ。
アントニウス マリアと海とどんな関係があるのかね?たしか彼女は一度も船旅なんかしたことがないと思うがねえ・・・・・・。
アドルフニス 昔はウェヌスが水夫たちの守り神だったんだがな。海から生まれたと信じられていたからね。ところが水夫たちの面倒をみることを彼女がやめてしまったので、この処女ならざる母の役を聖母が引き継いだわけさ。(渡辺一夫訳)
エラスムスがこれを書いた頃は、折りしもルターが宗教改革を断行しようとしている真っ最中で、エラスムスは最初はルターを応援しながらも結局は相互の思想の差に気づいて断交したりしています。
背後ではフランドル生まれのカール5世が、ハプスブルク家の巧みな婚姻政策で、神聖ローマ帝国皇帝となったばかりか、スペインにも君臨する、という時代を迎えています。
輝かしく見えるカール5世ですが、帝王としては苦悩の一生を送った人物でもあり、退位の際には涙ながらに
「これまで、私は皆に良かれと信じることをなしてきたが、結果がそうではなかったのなら許して欲しい」
と発言したそうです。
彼の人生は、西はスペインの中南米支配、東はオスマントルコとの抗争とも密接に関わっていますし、宗教改革運動にも絡んできますので、また別立てで、彼の送った人生に即した「音楽」を見て見たい気がしております。(そのときには、フランドルからイタリアへ、さらにイタリアからドイツへと、音楽が輸出されていくさまを知ることができるでしょう。)
このカール5世の戴冠の時期には、ドイツの画家デューラーが(新帝の関係者から年金の保証を得るため)ネーデルラント旅行に出向いており、道中で片目の見えないラウテ奏者の画像を描いたりしています。デューラーも音楽には大変関心が深かった、とのことですが、残念ながら私にはそれがどの程度のものだったかを知る材料は得られませんでした。ただ、その道中記に、街中での奏楽の様子を書いた文が一ヶ所だけ現れます。
(1520年)8月19日
聖母被昇天節の後の日曜日にアントウェルペンの聖母教会の大行列を見た。(中略)合間合間に華美な大燭台が担がれて通り、それにはフランス風の長い銀のラッパ隊が従った。またドイツ風の鼓笛隊も大勢いた。音楽は高らかに吹かれ、また激しく奏された。(後略。デューラー「ネーデルラント旅日記」前川誠郎訳 岩波文庫 2007年)
屋外では管楽器の演奏が常識だったらしいことが、ここからは推測出来ます。当時にしては国際色豊かなのが、土地柄を表しています。
民衆音楽そのものかどうかはなんとも分かりませんが、出版が栄えていたおかげで、多くの舞曲の楽譜もまた、この地で印刷されています。
最も有名なのはスザートの編んだ曲集やプレトリウスの「テレプシコーレ」で、今の日本でも、中学生くらいからこの曲集のものを金管アンサンブルで楽しんだりしています。
・スザートの舞曲集から 〜マンロウ/ロンドン古楽コンソート
・・・これは、ひょっとしたら、お耳になさったことがあるのでは?
・・・でも、変わった音でしょう? ラケットという楽器が使われています。
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