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2008年5月17日 (土)

曲解音楽史:35)音楽にとっての「ルネサンス」とは?

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ
    34)イスラムと西欧の融合


さて、再び西欧に戻って来ました。
マルコ・ポーロがヴェネチアに帰着した1292年以前のイタリアは、それまでのおよそ8百年、およそ3つの領域に区切られた行政下にあったとみていいのかなあ、と思っております。
すなわち、半島の北半分は、ゲルマン人と上手く接点を見いだして力を維持していたローマ教皇が西ローマ帝国の残影とは言いながらもそれなりの高い権威を維持して傘下に置いており、南半分は東ローマ帝国に服属、シチリアは移住して来て治めていたノルマン人がイスラムを受容した結果、ノルマン王朝の衰微後もイスラム圏に組み込まれた恰好でいちおうの安定を見ていました(厳密な史実はさまざまに錯綜していますから、正確な言い方にはなっていませんが、目をつぶってくださいね)。
分立しているように見えながら、シチリアを除けば、もう滅びてしまった、あるいは滅びつつある『古代ローマ」の精神のもとに潜在的な連携意識が存在し、かつシチリアがイスラム圏であることの(客観的に見た場合の)メリットとして、経済的には才知に長けたイスラム商人を手本に、地中海貿易を盛んに展開することで、着実に「商業の重要性」への目覚めの直前まで達していました。

ただ、イスラム商人が主導権を握っていた地中海貿易では、当然、イタリア人が直接手に出来るわけではなく、商業とは何かへの覚醒に近づいていた彼らは、自らが被っている「損」に対しても、意識しだしていたはずです。
『東方見聞録』はおそらく、損に気づきだしたイタリア商人の活動をも記録したひとつの典型例に過ぎませんが、それまで陰に隠れていた「商業上の被害者意識」は、このような書物が出たことで一気に顕在化したのでしょう。
しかし、「被害者意識」の解消を最初に積極的に図ったのは、イスラム勢力への対抗力を増しはじめていたスペインであって、イタリア人ではありませんでした。
イベリア半島のこの王国が先行出来たのは、イタリアとの間で河川を用い貿易していたフランドル地方(現ベルギー、オランダ)が、イタリア経由で手にした富を、フランスと対抗するためにイベリアの2国に肩入れして優先的に分配した結果であって、その証拠に、イスラム圏を経由しないでインド貿易を可能にしたイベリアの利益はフランドルの方をいっそう豊かにしていきます。スペインと同じくフランスと対抗関係にあったイタリアは、結果的にフランドルに漁父の利を与えたのだ、と言えるでしょう。


スペインが独自のインド貿易路を確保した背景には、イタリア中部については、急速に進行した東ローマ帝国の衰微が、北部については西ローマの「帝権」を引き継いだと称する現ドイツオーストリア圏(神聖ローマ帝国)からの圧迫が、かろうじて底流に残っていたイタリアの精神的統一感情を破壊してしまう結果を招いたところにありました。また、南部は、イスラム勢力の隙をついて十字軍後に巧みにシチリア・ナポリに入り込んだフランスが教皇支配圏を踏み越え、実質上の分国としてしまっていました。

その結果、それまで「教皇の国家」とみなすことが可能だった北・中部は、北は主に幾つかの公国(最終的には神聖ローマ帝国のあるじとなったハプスブルク家の支配するミラノ公国が主導権を握ります)に、中部は東側はヴェネチア、西側はジェノヴァ、中央はフィレンツェがリードしたと見なし得る多くの都市国家へと分裂してしまいます。同時に、教皇の権威は、名目的には最上のものであり続けたものの、実利の面では大きな後退を余儀なくされたのでした。

日本の<世界史>教科書では、この時期のイタリアに<ルネサンス>という輝かしい時代が到来した、と明るく語るだけで済ませて来ていました(確かめましたら、今なおそうであるようです)が、はたして、<ルネサンス>というのは、輝かしい<時期>の名称だった、と安易に受けとめることは正しいのでしょうか? なおかつ、<ルネサンス>とは、中世と近世を橋渡しする、全西ヨーロッパ的な<時代>をあらわす言葉として捉えてよいのでしょうか?


ご存知の通り、<ルネサンス>とは「人間の再生」を意味する言葉ですが、最初は歴史用語としてではなく、(この語を時代用語として捉えている目からすればまさにその時代のさなかである)1550年に、画家のジョルジョ・ヴァザーリ(1511〜1574)が用いた言葉に過ぎません。それを歴史用語まで敷衍したのは19世紀のブルクハルトです。

<ルネサンス>を、時代用語にまで敷衍してよいのかどうか、という疑問は、音楽の面から見ると、どうしても強いものになります。
<ルネサンス>の言い出しっぺであるはずのイタリアが、こんにちいわゆる「ルネサンス時代の音楽」と呼ばれているものについては、<ルネサンス時代>当初は全くリードしている形跡が見られないからです。
日本での最大の先学である皆川達夫氏は、かつて講談社現代新書から出版されていた「中世・ルネサンスの音楽」の中で、この時期のイタリア音楽が・・・すっとばしてきてしまいましたけれど・・・同時期に既にマショーを代表としてアルス・ノヴァ(新芸術)の域に達していたフランスに比べ、大きく遅れをとっていたことを示唆しています。

語意からする<ルネサンス>は、イタリアが嚆矢であったことは間違いありません。すでに14世紀にはペトラルカの素晴らしい詩や書簡集、ボッカチォの画期的な「デカメロン」が誕生しており(ダンテの「神曲」がそれらに先行しています)、無数とも言える人々が、伝統を根底から反省する必要性を声高に訴える優れた言葉を残しています。(このあたりについては、素人ですから読みやすいものばかりを数年間当たってきたのですが、岩波の「ジュニア新書」と称しながらも、澤井繁男「ルネサンス」が最も優れていると感じており、これに勝る本は、成人向けでは見つけていません。2002年刊。)


ところが、音楽は、そうした思想界、あるいは政治界の変換への動きとは、イタリアでは全く連動していないのは、先の皆川氏の発言の通りです。<ルネサンス>中期まで、イタリアで大事にされた音楽は、情感の豊かさでは他国に引けを取らないものの、単声の歌曲でした。14世紀の代表的なそれは、ランディーニ作の有名な「涙まなこに溢れ」です。・・・「イタリア歌曲集」の楽譜をお持ちの方なら、その第1集(でしたね?)にこの歌が載っていることを十分ご承知かと思います。

15世紀に入っても、年譜を見ると、ポリフォニー(イングランドにおいてはホモフォニーですが、いったん考慮の外に置きましょう)への道を着実に歩んだ音楽家は、「漁父の利」を手にしていたフランドル地方の出身者に独占されているかのようです。そうしたなかで、かろうじて、まずギョーム・デュファイが1428年から44年まで、ジョスカン・デ・プレが1474年から5年ほど、イタリアの特定の箇所に一時的に場をウツしているに過ぎません。

果たして、デュファイやジョスカンら、いわゆる「フランドル楽派」の音楽の時代を「ルネサンス」と呼んでしまってよいのかどうか、は、今度はイタリアから拡大して、やはりフランドルでエラスムスによって身を結んだ人文主義(ユマニスム)という思想的な動きと、<ルネサンス>という言葉を直結させてよいのかどうかにかかってくるわけですが、その評価は、また別に行なわなければなりません。
そして、この「見直しをされなければならない」音楽の延長線がようやくイタリアにまで至るのは1510年代のガブリエリ(父)の頃が初めてであり、ついで「カトリック音楽の牙城」を築いたパレストリーナがようやく1530年代に生まれ、それからほとんど時を隔てず、30年後にはもう「バロック音楽の創始者の偉大な一人」であるモンテヴェルディが生まれているのです。


こうやってみてきますと、<ルネサンス>を、少なくとも音楽の時代区分をあらわす用語として用いることには、私は無理があるのではないか、との思いを抱かざるを得ません。<時代区分>としてではなく、音楽語法の上で(デュファイやジョスカン、オケゲムという先行する他国人を無視せずとも)人間の内なる「神聖さへの謙虚な帰依」を完成させたのはパレストリーナであり、「人間的な情感の多様さの描法を確立」したのはモンテヴェルディです。
いちおう、パレストリーナは現行の「音楽史」の中では「西欧のルネサンス期の音楽」の後期に位置づけられていますが、本来ならば、あくまで時代用語としての<ルネサンス>にこだわるのであれば、音楽のうえでそれを文学上のペトラルカに対比し得る創始者として位置づけられるのはパレストリーナなのであり、同じくボッカチォに対比しうるのはモンテヴェルディ(こちらはバロック初期に位置づけられている)なのであって、音楽における<ルネサンス時代>は、イタリアにおいては文学からみて200年は遅かったのだ、という仮説を、今回は呈示させていただこうと思います。

したがって、適切な音楽の例を音で示しませんが、ご容赦頂きたく存じます。
音の例は、フランドル音楽のほうを観察しながら、この仮説の検証に用いて行く所存です。

・・・ちょっと、大袈裟な話になっちゃったかな?

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