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2008年4月 9日 (水)

浄められた<三島由紀夫>:杉山欣也「『三島由紀夫』の誕生」

今日から音楽の話題に・・・と申し上げておりましたが、前からご紹介したい本がありましたので。
ただし、私は(他のこともそうですが)ズブの素人につき、誤読もかなりあるかも知れず、その点はご容赦いただきたく存じます。

人事異動の時期も過ぎ、今朝、会社の定年間近の先輩と、ちょっとした雑談をしました。
「家庭や自分に何にも抱えない人って、いないんだよなあ」
「そうですねえ」
「おまえんとこもそうだったかも知らんけど、うちもそうだしなあ」
「まあ、そうでしたねえ」
「でもさあ、それって、誰か他人のせいで抱えるもんじゃあないんだよなあ」
「はあ・・・」
「だのにさあ、自分が定年延長してもらえないのを、会社のせいにするヤツとか、いるんだよなあ」
「そういう自分は、会社のせいにしてないんですか?」
「まあ、したいとこだけど、しちゃいかんわなあ。制度だもんなあ。それをあえて、というなら、あらかじめちゃんと筋を踏んだ相談をしなくちゃならん。だのに、それをやってないで、ただ『会社が悪い』って、今ごろ言ったって、そりゃ筋違いってもんだ」
「なるほど」
なんて話から・・・まあ、定年問題はさて置いて、今度の異動の問題点やら、それをめぐって異動の前後に起きたさまざまな出来事のことやら、それがまた
「こんな結果になったのはあいつに昔こういう目に合わされたからだ。あいつは絶、一生対許せない、って、言う人もいたりしてなあ」
「そうなんですか・・・」
「これも、おかしいやなあ。昔、悪いところや欠けているところをを正してくれた人がいるから、今からはもっといい仕事が出来る、それを幸せだ、って考えられれば、なにもやっかむことはないはずなんだけどなあ」
「・・・なるほどですねえ」



会話の是非はともかく。

うまくいかなかった結果から<マイナス>にモノを考えるのは、人の常ではあるようです。
いい結果であれば、逆に、それまでの全てが<プラス>だったと思えるのも、また人の常のようです。
でも、<プラス>思考にせよ<マイナス>思考にせよ、つまるところ「現実にあったこと」に対し、主観的に自己評価・他者評価しているという点では相違がありません。

自分の身の回りに起こることから始まって、縁のない他所で起こるさまざまな事柄は、いつでも<プラス>ではないでしょうし、いつでも<マイナス>であることもないでしょう。
そこには、本来、「事実」というものがあったに過ぎません。
しかも、その「事実」が、「事実」どおりに受け止められる、ということは、それを観察する目が複数存在し、それを感じる心がまた複数存在するならば、事後に誰かがそれらを何らかの方法で総合して見直す以外に、「事実」そのものに(限りなく)近づくのは不可能に近い。目が、心が、外からひとつも向けられなければ・・・「事実」は、あったことさえ即時に忘れられる。
とりあえずは、複数の目と心で見つめられた「事実」を、如何にそのものに近づける試みができるか、というのが、「不可能に近い」とはしても、なんとか私たちにできる努力です。

今日ご紹介するのは、真っ向からそうした努力をし、高い成果を上げた、とある本です。
(ただし、以前の記事でも断片的に触れましたから、覚えていてくださる方もいらっしゃるかと存じます。)



Mishimatanjo杉山欣也「『三島由紀夫』の誕生」

です。(写真は私が読み込んだものを撮ったので、きれいでなくてすみません。)

三島事件ゆえに(ご存じない方はリンク先記事をご参照下さい。この記事では、ことさらにこの事件については触れません)、とかくその死に方を前提として、近親者からも評論家からも評価されてきたこの「三島由紀夫」という人を・・・というよりは、三島由紀夫の「作品」を、純粋に「作品」として評価し直すにはどうしたら良いか、ということを、考え抜いた上で書かれたものです。この点を、著者自身の言葉をそのまま引用してご紹介します。

「思い詰めた人間は自らの生が大きな目的に向かってひとすじに営まれたと考えることを好む。その過程で、自らの履歴に対して取捨選択の操作を行なうのである」(p.10)

三島由紀夫、という作家が、とくにそうした取捨選択に熱心であったことは、生前の彼がマスコミ(今と違って雑誌と言う媒体が強力なメディアでした)に対し自己を高頻度で「露出」してみせ、それゆえ知名度も人気も高かったことからうかがわれます。杉山氏は、しかし、そのことには特に採り上げていません。その必要を感じなかっただけでなく、論を混乱させる原因を作ることを避けたためである、と推察しております。

一方で、受け手側について、氏はこのように記しています。

「私たちは作家像なり作品像なりにある種の型を作り、その型に基づいて作品に接する。私たちがこれを安易に受け入れるのは、膨大な作品群を前にしたとき、その方が楽だからであろう。しかし、それは私たちの自由な読解、おおげさに言えば自由な精神の飛翔を妨げ、作家の固有名のもと作品を単純なイメージに塗り固めることと同義である。」(p.5〜6)

三島自身と読者の関係については、この作家の「三島事件」という劇的な死の選択ゆえに、
「いわば、血塗られた記憶、心の傷としての先入観が『三島由紀夫』という名前には与えられているのだ。」(p.6)
という表現で繋げてみせてくれています。

そうした中、三島自身は『私の遍歴時代』に「学校内の文学活動はしばらくおく」(注:「学校内の文学活動」とは、学習院在学時代の活動をさします)として語らなかった自分を「見せ消ち」にしていることに着目、
「さまざまな資料に刻印された言説を傍証に、<三島の語らなかった三島>(注=平岡公威、三島由紀夫の実名)の場から「三島由紀夫」の誕生を捉え直そう」(p.15)、というのが杉山氏のもくろみであるようです。

実は、今回のご紹介は、どのようなかたちをとろうか、と迷ったのですが、いままであげてきたのは「序論」の部分です。

以下、魅力的な本論が、「三島由紀夫」としての初期作品、『花ざかりの森』、『苧菟と瑪耶』(いずれも新潮文庫の、前者は『花ざかりの森・憂国』に、後者は『岬にての物語』におさめられています)論をひとつの山場に置くべく周到な順番で具体的に資料を検証しながら展開され、終章に至ってこう述べています。

「当の三島が・・・(中略)・・・「森鴎外(一)」の解説で・・・次のように語っている。(以下、三島の文。前半部省略)『・・・鴎外は、あらゆる伝説と、プチブルジョアの盲目的崇拝を失った今、言葉の芸術家として真に復活すべき人なのだ。』 本書の最後に至って三島由紀夫の発言に依拠することは<三島の語る三島>に対する筆者の敗北だろうか?」(p.308)

私の読後感としては、杉山氏は、決して敗北しているのではない、(記述の順番としては逆ですが)最後に引用した三島発言を発見したうえで、<三島の語らなかった三島>を追い求めることの正当性を裏付けた点で、むしろ、勝利したのだ、と、私は受けとめております。

本文のなかにちりばめられた、作品ばかりでなく書簡や学校記録等の資料を縦横無尽に駆使しつつ文学論としては(全うな)歴史研究家のように冷静に・整然と・しかも実に美しい展開を見せる核心部については、お読み下さるかたの楽しみにとっておく方が妥当だと判断し、額縁だけをご紹介するかたちをとりました。
それ以上、私が語ることは無意味だからです。

この額縁に、私は、今後の私たちが持つべき健全な<方法論>を見いだした気がしております。

三島作品についてよくご存知の方も、そうでないかたも、杉山氏のこの本に是非接して頂き、<ものごとを客体として見る目>はどうしたら養えるか、を、存分に追体験し、学習して下さったなら、そうした<方法>自家薬籠中のものとするヒントを、必ず得られるもの、と確信しております。

最後に、これは杉山氏の意図に反する表現かもしれませんが、この書によって初めて、「三島由紀夫」は、その魂を清められた、と言っても差支えないのではなかろうか、と・・・実際のところは三島作品を殆ど全くと言っていいほど知らない私にそこまで言う資格はないのですが・・・そのようにも感じている次第です。

Book「三島由紀夫」の誕生


著者:杉山 欣也

販売元:翰林書房
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コメント

著者の杉山氏より連絡頂いたとのこと、おめでとうございます。という言い方も変なのですが!

このご紹介、私などでも「読みでみたいっ」と思いました。

投稿: sergejo | 2008年4月12日 (土) 00時29分

sergejoさん、ありがとうございます

知名度が先行して、突然著述家になってしまういい気な人もいて、タレント気取りになってしまって、それ以後、そういう人の本の中身はどんどん空虚になっていくのには辟易することがあります。(近々1冊悪口言ってやろうかと持っている本があったりして・・・私もひねくれ者ですから!)
が、杉山さんは(sergrjoさんと同じくらいのお歳かしら、違ったらゴメンナサイ)地道な研究を集積した上で初のご著作をなしただけでなく、研究は今もコツコツと続けられていて・・・専門家だから当然、と思う方も多いかと存じますが、決して当然ではないのです・・・、頭が下がります。
「三島由紀夫」という名前から連想されるものがもしおありなのでしたら、それを払拭して読んで頂くのが宜しかろうと存じます。

ただ、残念ながら専門書ですので書店店頭ではなかなか見かけません。こういう本こそ店頭で、誰にでも手にとって欲しいのですが・・・たしかに、内容が高度ではありますから・・・

投稿: ken | 2008年4月12日 (土) 09時19分

三島に関しては、『作家論』と『文章読本』程度で、翻訳家として大成したなぁなどというやわな感想で・・・

文化、文学の視点で、というところに興味が湧きます。

>そういう人の本の中身はどんどん空虚になっていく

脳関係の方ではないかと下衆の勘ぐりをしてしまいました!
どうしてこの人から、グレゴリー・ベイトソン Gregory Batesonの名前が出てこないのか、いつも不思議です。

投稿: sergejo | 2008年4月13日 (日) 07時17分

すでに仰るような「三島」観をお持ちなのでしたら、それを原点に帰って考え直すには、杉山さんの本は、他には全くないと断言してよい「必読書」です!
・・・ほんの少し、安くして下さるそうですから、宜しかったらお声がけ下さい。
・・・あ、あんまり言っちゃいけない話なんだけど。

そうそう、悪口は、やめました。
悪口言うには、悪口言いたい本をも熟読しなければならんわけで・・・底までの価値なし。(ご想像の線に限りなく近い類いの本が対象でした!)

投稿: ken | 2008年4月13日 (日) 19時00分

>・・・あ、あんまり言っちゃいけない話なんだけど。

ありがとうゴザイマス!既にkenさんのアフィリエートで購入してますので大丈夫でっす。

>ご想像の線に限りなく近い類いの
やっぱり~♪

私はnegativeコメントは、mixiの日記や友人とのメールです。本であれなんであれ、その時「あれっ?」と思っても、後で思い直すことも多いですし、また、世評が高すぎて「なんで???」という疑問はやっぱり確かめたいですし。

古い友人は慣れているので、私の言葉もテキトーに流すところは流して読んでくれるし、結構+αの返事をくれるのでありがたいものです(輪を掛けた罵声の演技に、こっちが穏やかになる・・・という高等な技巧を使われたり。)。

・・・他人に賢くしてもらっているのを自覚せざるを得ません。

投稿: sergejO | 2008年4月14日 (月) 03時02分

あれまあ。
お買い上げありがとうございます! (^^;

>他人に賢くしてもらっているのを自覚せざるを得ません。

ホントですねえ。。。

投稿: ken | 2008年4月14日 (月) 07時15分

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