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2008年4月 3日 (木)

忘れ去られたこと・・・

私は、本は一度に1冊を集中して読むタイプではありません。
本当は、集中力がないから、かも知れません。
でも、本人は、
「1冊に集中してしまって、その世界に引きずり込まれるのには怖いから」
などという、訳の分からない理由で、そのような読書の方法をとっています。

ただし、普通、数冊の本を読むのでも、1つから3つくらいの「テーマ」らしきものを持って読書をしている「つもり」ではあります。・・・本人が自己申告しているだけですから、信じるかどうかはお任せします。

そんなテーマのひとつ・・・うーん、具体的には何をどう言うふうに、と、まとめていいのか分からない(この辺でいい加減さがバレますが)・・・で、数冊読んだうち、1冊はこちらへコメントを下さったふねさんにご紹介頂いて、姫野翠『芸能の人類学』(春秋社1989)というのを、他には友人にお借りして、吉田禎吾監修「神々の島 バリ」(春秋社1994、2006新装版)を読みました。

どちらもいい本です。

それだけに、・・・音楽に限っても、ですが
「あれ、こういうこと、僕の子供時代までは日本でもあったよなあ・・・」
と連想されることがいくつかあり、
「そうか、この場所ではこういうものがなくなっているのか、日本と似ているなあ」
と感傷的になる箇所もいくつかあり、えも言われぬ気持ちになりました。

ふたつ、ご紹介します。

まずは、『芸能の人類学』に出ている、台湾のアミ族の話から。

「・・・今やどこに行ってもテレビが見られる。最近ではパラボラ・アンテナを取り付ける家もでてきて、NHKの衛星放送を楽しんでいる人々が多くなった。一昔前であったなら、夕食後必ずどこかの家に何人かが集まって、酒をのんだりしながら歌う声が聞こえたものだが、今は皆各自の家でひたすらテレビを見ている。家庭内での対話もなくなってしまった(注:これには台湾の複雑な言語事情が絡んでいますので、日本と同じ理由からではありません)。・・・以前のアミ族の生活は大変オープンで、逆にいえばプライバシーが無きに等しかったが、今では全くその逆で、皆自分の家に閉じこもってしまう。いきおい、近所同士のつきあいかたが変わってきた。またラジオ、レコードなどの普及と相まって、西洋音楽を基礎にした流行歌がどんどん浸透してきた。その結果、ほぼ純正調で歌っていた歌は平均率に近くなり、発声も・・・ポピュラー・ソング的発声になった。」

ノンプライバシーが良かったかどうか、は別として、アミ族を覆ってしまったのと類似した閉塞感は、ここに記されたのが20年近く前のものでありながら、現代日本人が、たとえば職場で感じる窮屈感・・・「ほっといてもらうのがいい」という派と「ほっとかれると寂しい」派が分離して溶け合いようが無い状態を、私に連想させたりします。
私が子供の頃は、父親の職場に社内旅行がありました。
今でも社内旅行をなさる会社は、まだ無くなっていません。いや、決して減ったというほど大きく減少はしていないのかもしれません。
が、その場合でも、今の社内旅行と、私の子供時代の、父親の会社の社内旅行には、大きな違いがあります。・・・当時の社内旅行は、家族同伴が当たり前でした。それで、よそのお姉さんと席を並べて、お姉さんが「山寺の、オショさんが・・・」と楽しく歌って聞かせてくれて、おかげで小さかった私もこの歌を覚えた、という、楽しい記憶があります。

今の日本は、娯楽は基本的に「個々人のもの」であり、会社は「家族とは別に存在するもの」です。
・・・どこもかしこもがんじがらめに繋がってしまうことには問題もあり、私は思春期には家庭の事情に右往左往させられながら過ごしましたから、当時が必ずしも良い思い出だけを呼び起こしてくれるわけではありません。
ですが、窮屈さはあっても、それを補ってくれる「楽しさ」や「柔らかさ」は・・・家内の死という局面を前にし、錯乱していた時には特に違いを感じましたが・・・私の少年時代の頃の方が、もっと自然に訪れてきたし、いつでも優しい目で見ていてくれたような気がしたものでした。

「バリ島」には、台湾とは正反対とも思える発想が、今も生きています。
これは音楽について述べた部分から引用しますので、台湾の事情と単純に比較は出来ないかもしれません。

「彼らは音を単なる空気の振動としてではなく、気配として感じる能力を持っている。リーダーの微妙な挙動の変化で次の瞬間に鳴り響くべき音をメンバー全員が察知できる。それが予知できるかできないかがそのグループの合奏能力の高さを測る基準になる。バリ人はガムランをそのようなものとして捉えている。」(第9章、186頁から)

バリのこの例は、今の私を「失望」に追いやるようなものです。
学生時代、ヨーロッパ音楽をやるオーケストラに入団して先輩にいわれ続けたことは、
「音の膨らみの変化を聞いて、それに合わせろ。タイミングが合わないというのなら、パートのトップの指を見ても合わせろ」
ということでした。すなわち、演奏は指揮者の棒でテンポをとるのでもニュアンス作りをするのでもない・・・指揮者はあくまで、その英語での表現である「ディレクター」なのであって、団体としての合奏は自分たちが主体的に、かつ、上のガムランの話のように、「個人を主張するのではなくて、みんなで揃えるもの」だという教えを受けたのでした。

今の私は、そんなふうには、オーケストラで演奏できているでしょうか?
あるいは、それを分かっているメンバーに恵まれているでしょうか?
メンバーのことは信じたい。・・・とすれば、自分の伝達能力の低さを思わなければなりません。
せっかくオーケストラという場に参加していながら、CDの演奏を再現できればいいのさ、というだけの意識で、他メンバーとは共時性を持たない閉塞感の中で練習や本番のひとときを過ごすメンバーをひとりでも生み出しているのだとしたら・・・それは、指揮者のせいではあり得ません。分不相応でチカラも無いとはいえ、閉塞感に閉じこもるメンバーを生み出しても構わない、という音楽的土壌を作ってしまった、「コンサートマスター」なるお役目を果たしていない私の責任です。

いや、オーケストラのことに話を限りたいわけではなかったのですが。

どのようにしたら、私たちは、柔らかな「楽しさの共有」を、ケースによっては程よく保って行き、ケースによっては失われたところから甦らせることができるのでしょうか?

そのための手段を、現在の私たちは、知っているのでしょうか?

少なくとも、今日、「バリ島」を読み終えた私は、これらの手段を「忘れ去っている」私自身を、切なく思わざるを得ませんでした。

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