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2008年4月 4日 (金)

価値観・世界観(可能性としての)

<悲愴>終楽章の読みについては、紙上の準備は随分前に終わっているのですが、音の例の切り出し作業時間がなく、ちょっと先になります。(読んで頂いているかたには)あらかじめお詫びします。



さて、昨日、台湾とバリの事例を眺めながらいろいろ考えているうちに、また別のことを思い出しました。
「放送・録音・録画の発明と普及で、現代人は価値観・世界観を見失ったり、共有できなくなったりした」、上手い要約ではありませんが、世の評論家(プロ・アマ問わず)はそう嘆いていることが多いな・・・で、この「価値観・世界観の喪失もしくは希薄化」を公理とし、「喪失・希薄化」公理を出発点として、自身の価値観なり世界観なりを開陳し、あたかも非ユークリッド幾何学を構築した数学者達に今更追随を試みるかのように、新「公理」の提案者たらんと<押し売り>をしているケースが少なくない。
たかだかブログ上とはいえ、もしかしたらこれは、自分も同様の尊大さを犯しているのではないかな、とも感じ出しました。

私のブログの主旨から、<クラシック音楽世界>に話を絞ります。とはいえ、この世界に留まる述懐であってはいけない、とは思っております。

<クラシック音楽世界>では、ロマン派の伝統が途切れ始めたころ(年次を明確に区分できません)から、「楽譜どおり」に、ということが、合言葉のように有名演奏家の口に上りだすようになりました。
では、「楽譜どおり」とは、どういうことなのか?

当初はおそらく、印刷楽譜に記された音符の音高・音価・記号等を守る、という単純な発想だったのかもしれません。
が、そこから多様な問題が派生するようになりました。
些事から言えば(馬鹿げた話、と笑ってはいけません)、
「スタカートは、本当に、それのついた音の長さを音符の示す長さの半分で演奏するの?」
とか、
「スラーは続いている間ブレスはとっちゃいけない? スラーが切れている都度ブレスするの?」
みたいなことから始まりまして、
「そもそも印刷された楽譜が作曲者の書いたとおりなのか?」
という疑問に発展して原典版なる新たな校訂譜が権威をもつようになり(これには細かい経緯に面白い話もいっぱいあります・・・でも、面白いと思うのは、マニアだけだろうな)、
「じゃあ、原典版を作曲者の意図どおりに演奏するにはどういう奏法であるべきか」
なることになって、古楽運動が活発化する。
概観すると、<クラシック音楽世界>という限られた「結界」ひとつにも、「楽譜どおり」という<新価値観>が成立するはずだったところから、むしろ大きな混乱が引き起こされている。
この混乱は、昨日引き合いに出した台湾の民情変化よりも深刻かも知れません。
バリのガムランでは変わらずに受け継がれ続けているような<世界観>が、これに伴い、<クラシック音楽世界>では爆発した超新星のように散り散りになってしまっているかに見えます。

一方で、他のジャンルの例に漏れず、CD・DVDというメディアが、放送以外の新たで手軽なメディアとして、大量に出回ってしまっている。このメディアは、しかも、100年前からついこの間のものまで、という、決して短くない期間に収録された多様な演奏様式のサンプルをランダムに提供し、受け手はそれらの中からどれを選択してもいい、という「自由」を手にしている。

何度も引き合いに出して恐縮ですが、ベートーヴェンの「第5」の映像を並べたものを、ここでもう一度ご覧下さい。

単純に「好きだから聴いている」というかたがたにとっては、それらのあいだに見られる(聞かれる)差異が「面白く」もあり、あるいは
「なんだ、演奏様式が違っても、思ったほどの差がないじゃないか」
という印象もあったりするのではないでしょうか?

ところが、とくに玄人さんだったり、自らも演奏する、とりわけ「プロ」の人たちは(まあ、プロの人がこんなブログを目にしているとは思えませんが)、おそらく、それぞれの「差」がどこにあるか、に徹底的にこだわり、自分の立脚点にいちばんちかいところに
「これこそ」
あるいは
「いや、もう少し、違うはずなんだが」
ということを、目くじら(もとい、もしかしたら耳くじらですか?)を立てて、額に青筋を立てて、何らかの理屈のネタにしたい思いに駆られるのではなかろうか、と想像します。
「素人に、何がわかる!」
という感覚が、潜在的にある。
・・・それが悪い、と言いたいわけではありません。別に、<クラシック音楽世界>じゃなくても、いろんな世界に、<プロ>としての矜持をお持ちのかたはいらっしゃるし、ある意味では、その矜持が「伝統」を支えているのですから。

「伝統」・・・しかし、<クラシック音楽世界>が、ロマン派から転換しようと言うときに「楽譜どおり」というテーゼを掲げたときから、本職さんは、じつはこの「伝統」を自ら否定したのです。否定した結果、新しいものをもたらした、と信じているのです。

「新しい」ことが、そんなに重要だったのでしょうか?

こだわらなければ、たとえば「伝統」を絶えず守りつづけているバリのガムランにしたって、実は新しいものを過去からのものに「積み重ねて」いる、というのが、本当のところです。
これは、日本の「雅楽」にしても・・・これは一旦、中絶の危機を迎えたことがあったのですが・・・、同様です。典拠を忘れたのが遺憾なのですが、「雅楽」については、時代が新しくなってから、演奏されるテンポが変化した(遅くなったんでしたっけね?)という報告もあります。

連綿と続いた「伝統」を「否定」したところで、それは一過性のアンチテーゼに過ぎず、一般の享受者にとっては、もたらされた変化があったとしても、それは「面白い」くらいの興味しか呼び起こさないのだとしたら・・・まして、100年間の演奏を、むしろ素人の方が先入観抜きで俯瞰できる立場にいるのだとしたら(いや、まちがいなく、<プロ>よりは素人の方がそういうフラットな目・耳をもっています)、職業として音楽に携わる<クラシック音楽世界>の人たちは、新しい価値観に追随しなければ、ということだけへのこだわりを捨てなければ、いずれ自分たちの地位は、どんな形でかは分かりませんが、別の何者かにとって代わられるのだという事を銘記し、痛切に反省すべきではないでしょうか?

何度も言って来ましたとおり、「古楽」とは<クラシック音楽世界>では、もはや死語に等しいのに、昨年あたり、とある有名なプロさんが「古楽も身に付け、取り入れなければ」と仰っていたので、実に笑止に思いました。
大切なのは、これだけ過去の推移の累積が誰でも手軽に接することの出来る状況下で、固定した価値観・世界観を築こう、という試みは尊大なのだ、ということへの自覚ではないのかと思います。

文化が転換点を迎えた時期(ヨーロッパで言えば「ルネサンス」と称されていた頃など)は、その当時なりの、おおきなメディアの変換があったことが分かっているのですから、似た状況にある現在は、
「時の流れに身をまかせ」
ということが、おそらく、もっとも適切な振舞い方なのかなあ、と、結論ではありませんけれど、今、そんな思索をしている最中です。



なんだか良く分からない文になってしまったかも知れず、毎度ながらお詫び申し上げます。

この記事で考えたかった<クラシック音楽世界>における演奏者の「伝統」からの逸脱あるいは接近については、専門書ですが、非常にいい本が出ました。
今日、娘のレッスンに出掛けて待っている間、レッスン場のある店舗で見かけ、思わず夢中で第4章の頭まで読みふけってしまいました。・・・金欠病なのに、買って帰りました。

♪バッハ 演奏法と解釈全音楽譜出版社
「バッハ 演奏法と解釈(ピアニストのためのバッハ)」パウル・バドゥーラ=スコダ著(全音楽譜出版社2008.3.15、7,500円+税)です。

ピアニストのための、と称しながら、ピアノ曲(クラヴィア作品)の音構造を他の楽器での奏法から類推して適切な弾き方を見いだす試みを数多く行なっていますし、「バッハ」の本でありながら「バッハ」だけを取り上げたのではなく、ヘンデルを初めとしたバロック期の音楽との比較、古典派(主にモーツァルト)との比較から、「伝統」がどう引き継がれてきていたかにも深い考察が施されていて、興味の尽きない本です。2005年刊の橋本英二著「バロックから初期古典派までの音楽の奏法」は例示が多い好著でありながら考察の根拠に触れる点が浅く不満が残っていましたが、バドゥラ=スコダはひとつひとつへの考察が丁寧です。なおかつ、日本の学者さんはクヴァンツとエマヌエル・バッハの、各自の著書での奏法に対する記述の差を「フリーとリッヒ大王からの信任度の差」に起因する、ということで片付けてしまっているのに対し、そうした主観的評価ではなく、奏者(ピアノだけでなく、弦楽器や管楽器の立場へも臨機応変に視点を変えます)の立場から両者を比較している点に、目からうろこが落ちる思いでした。
なお、バドゥラ=スコダは、グールドのバッハ演奏の「不適切さ」にもきちんとした根拠を持って評価していますから、グールドファンであっても冷静にお読み頂けるなら、グールドの本質を掴む上で参考になる、ということを申し添えておきます。

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Ken様のところにて興味深い本が紹介されていたので、調達予定としてのメモ。 「バッハ 演奏法と解釈(ピアニストのためのバッハ)」 パウル・バドゥーラ=スコダ著(全音楽譜出版社) [続きを読む]

受信: 2008年4月 5日 (土) 03時30分

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