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2008年4月 7日 (月)

怒らないことによって怒りにうち勝て

すみません、本日が決算の(現場での)ピーク日で、昨晩も通勤時も記事を思いつきませんでした。帰宅しても、頭カラッポです。

ですが、ひとつだけ、悶々と悩んだことがありましたので、それを、人の言葉を借りて綴っておきたいと思います。政治を語らない信条なのですが、やむを得ませんので、前半では政治的なことを「例として」採り上げます。けれども、主眼は、後半部です。



チベット問題は、起こったときから私も非常に気になっていましたし、その後の推移を熱心にご覧になっている日本人のかたには、(チベットが仏教国であるゆでに、でしょうか)
「なぜ宗教界が動かないのか」
と不審に思っていらした、と述懐なさる方がいらっしゃいました。
かつ、実際に、日本の仏教界で長老格のかたが、チベット問題について「政治的な」言及を・・・もの静かに、という、聖職者として尊敬に値する静かなお声とお振る舞いで、ではありますが・・・なさったかたもいらっしゃいます。

ですが、私個人としては、政治の問題に宗教が関与することは望ましいことではない、と思っています。あるいは、宗教でなくてもいい、哲学がそうであったとしても、同様です。

「では、誰が責任を持つのか」
と仰られるのでしたら、やはり、あくまで当事者のかたたちである、と思います。

兵器を豊富に保持する側が、貧しい側を押さえ込む姿勢、というのは、納得できないやり方であることは否みませんが、それは今回のチベット問題で初めて起こったことではありません。
第2次大戦が終わったあとでも、どれだけ同じことが、これまで繰り返されてきたでしょう?
そのとき、(これは特に日本に目だつことだと感じていますが)その都度、世論と言うものは
「その騒動・その戦争」
で、自分たちのモラルに近いほうを支持し、それが「持たざる」勢力の側であれば、なおいっそう支持を強める。
ですが、そういう言動をとることに、ご自身の命をかけようとまで、深くお考えでしょうか?
「支持をする」ということは自らの命をそのために失っても構わない、という前提が、本来はあることを、私たちはナチス時代のドイツや、ナチスに支配された人々の事例で、さんざん見てきたはずです。
日本国内であっても、東京裁判の前と後での日本人の豹変ぶりは実に見事でした。
「国際裁判」
であることに権威を見いだしたからでしょうか、責任を問われる立場に無かった大半の日本人は、自分の中にあった「日本軍隊への支持」から一挙に鞍替えし、GHQの胸を撫で下ろさせたのでした。
そのことへの「歴史的反省」が、どうも、この国にはないように思っております。

まして、「チベット騒動」に関しては、たまたまチベット「自治区」が仏教圏だということで、ことさらに仏教界の関与を求める意見も出てくるのでしょう。

しかしながら、世界の、とある地域が、どんな宗教を信仰しているかは、それほど単純な話ではありません。同じ仏教でも、大きくは大乗仏教と上座部仏教があり、それぞれにまた、その国・地方・民族の土着信仰に起源する要素が取り入れられた独自世界が築かれています。同じキリスト教でもカトリックとプロテスタント、イギリス教会、ギリシャ正教などがあり、それらもまた仏教と同様の傾向を持っているのは、昨日ハチャトゥリアンのことを述べた際に若干注記した通りです。

宗教にしても哲学にしても、たしかに、人間の歴史の中では「国家の形成」に強い影響力を持ってきたことはご存知の通りです。古くはプラトンの『国家』やアリストテレスの『政治学』に始まり(実際の影響は中世に始まりましたが)、近代から近世にかけてはヘーゲルの歴史哲学がファシズムを、マルクスの経済哲学が共産主義的独裁を、発意者の本来は平和的な意図に関わらず、助成してしまった事実があります。(慣用句として使われる「政治・経営哲学」とか「人生哲学」とかいうものは、じつは哲学でもなんでもないので、混同なさらないようご注意下さい。)

いずれも、それがある『完成型』を作り上げてしまった段階で、発意者の意志の源泉など「どこ吹く風」と化してしまったことも、御承知の通りです。

そう言う点で、遺憾なのは、歴史研究者が、その客観的な研究成果の蓄積を第三者的に呈示する機会(機関)が国際レベルで存在せず、冷静な討議の場が持たれることも無く、・・・かつ、仮にそこまでのものがあったとしても、「国家」はそれに客観的に耳を傾ける、というかたちで運営されることは無いであろう、ということです。・・・こうしたことに関しては、私の感情は常にペシミスティックです。

現世にどんな事象が起ころうとも、宗教と称されるものの果たすべき本来の役割は、
「俗事は起こるに任せよ」
ということであり、(残念ながらコーランの翻訳は所持しないので、イスラムの聖典からの引用はできませんが)この点では世界的に普及した宗教の聖典には必ずうたわれていることです。
・・・それでももし、起こるに任せるわけにいかない場合にはどう振る舞うべきか、は、かつてガンジーによって体現された、徹底した非暴力でした。
あるいは、国家、という枠組みにこだわらず、人間を厳しくも優しく見つめ続けた、マザー・テレサが、そのような人でしたでしょう。彼女は日本人の服装を見て「きれいなものを着すぎている」と言ったそうですね。

むしろ、こうした人たちのしてきたことに、私たちは思いを致し、歩むべき方向を見いだすべきではなかろうか、と痛いほど思う今日この頃です。



まずは、キリスト教の聖典である新約聖書の中の、有名な「山上の垂訓」です。講談社版という、あまりメジャーではない版からの引用ですので、お手元のものと文が少々異なるかもしれません。

心の貧しい人は幸せである。天の国は彼らのものである。
柔和な人は幸せである。彼らは地を譲り受けるであろう。
悲しむ人は幸せである。彼らは慰めを受けるであろう。
正義に飢え渇く人は幸せである。彼らは飽かされるであろう。
あわれみのある人は幸せである。彼らもあわれみを受けるであろう。
平和のために励む人は幸せである。彼らは神の子らと呼ばれるであろう。
正義のために迫害される人は幸せである。天の国は彼らのものである。
(マタイ5章)

・・・これを言ったイエス自身は、抵抗することなく十字架にかけられたことに、思いを致してみて下さい。

さばかれたくないなら、他人をさばくな。ひとをさばけばそれと同じように自分もさばかれ、ひとをはかれば、それと同じはかりで自分もはかられる。なぜ、兄弟の目にあるわらくずを見て、自分の目に梁に気をとめないのか。自分の目に梁があるのに、なぜ兄弟に向かって、きみの目のわらくずをとらせてくれと言うのか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り去れ。そうすればはっきり見えて、兄弟のわらくずをも取ることが出来よう。聖なるものを犬にやってはならぬ。真珠を豚に投げ与えてはならぬ。そうすれば相手は足で踏みつけ、向き直ってあなたをかみ裂くであろう。(マタイ7章)



シャカの言葉は口伝されて、新約聖書のようには明確に成文化されていないのですが、いくつかの書に分かれて文書になっています。その中の「ダンマパダ(真理の言葉)」(中村元 訳、岩波文庫収録)第17章の「怒り」を引用します。

怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることが無い。
走る車をおさえるように、むらむらと怒る怒りをおさえる人----かれをわれは<御者>とよぶ。他の人は、ただ手綱を手にしているだけである。(<御者>とよぶにはふさわしくない。)
怒らないことによって怒りにうち勝て。良いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。
真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらのことによって、神々のもとに至り得るであろう。
(中略)
・・・沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。
ただ誹られるだけの人、また、ただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう。現在にもいない。
(中略)
身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行ないを捨てて、身体によって善行を行なえ。
心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行ないを捨てて、心によって善行を行なえ。
落ち着いて思慮ある人は身をつつしみ、ことばをつつしみ、心をつつしむ。このようにかれらは実によく己れをまもっている。

シャカが「己れをまもっている」という時、それは「個人主義』を意味していないことだけは、申し添えておきます。


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