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2008年3月17日 (月)

多「民族」・多「個人」・多「感情」

このブログは時事問題やそれに対する意見を述べるためには作っておりません。
綴っているのは、クラシックをメインとした西欧音楽のこと、そこから発展した好奇心に基づく、世界中の音楽の「歴史化」のささやかな試み(そして、それは時系列には行かないのだなあ、ということへの実感)・・・そういうことで気を紛らわしながら、私の個人的な感情を述べるブログです。

「なのに、今回のこのタイトルは何なの?」
と、難じられるかもしれません。

折しも、海外ニュースでは一向に沈静化しない「チベット暴動」が採り上げられ、国内政治経済ニュースでは「決まらない日銀総裁・・・ところが一方で米国証券市場への不安からの円高・・・不況への予感」が、ほぼ絶えることなく報じられています。
また、ニュースになっていることではありませんが、とある「カリスマ化」された(確かにそれだけ大きな存在だった)作家に対する、おそらく書籍としては国内初と言ってもいい<原点に帰って見直しをはかる試み>をした尊敬すべき研究に対し、研究者ご当人に「感情的な反発」が直接返されている、というお話も承りました(今日は敢てリンクを貼りませんが、前々日の記事で私の指している書籍が何かはお分かり頂けます。正式には読了後にご紹介します)。
会社生活の中でも、私のような万年平社員が直接どうということはないんですが、ある程度「職権」を持っている人が独断専行でコスト無視・周囲無視で勝手にコトを進めるような事態も目につきますし、かと思うと一生懸命頑張って来た生真面目な重役さんたちが、部下の不祥事、自分の過去の小さな不祥事などを理由に社内の力関係でどんどん経営の背景に追いやられて行く、などということも耳にします(あ、職場関係の人が読んでいないはずですので、ここまで綴っています)。

それらを眺めた結果でこんなタイトルにしたのではありますが、私はやはり、それぞれの事象について意見を述べたい、というのではありません。・・・違うのです。

先日アフィリを貼った、「きょとんチャン」というコミックがあります。
自分のために買ったのに、むごい娘に取り上げられて、いま、どこに隠したものか、直接参照することが出来ません。
ただ、このコミック、何が気に入ったか、というより、何が私を救ってくれたか、と言いますと、主人公が、アセッタさんという、いつも焦っている同僚に、
「ねえ、いちど、いろいろ考えるのやめてみよう。頭をのんびりさせよう。」
そんな意味のことを語りかけ続けていることでした。



この先を申し上げるには、しかし、やはり具体的な事例がいりそうですね。
あくまで、私がこのブログを綴りながら感じて来たことを軸にして綴りますね。

「音楽」という事象は、音楽学者よりも文化人類学者さんのほうが、そのルーツには本質を突いたアプローチをしていまして(最近ご紹介頂いて読み始めた「芸能の人類学」で、初めてきちんと思い知らされた気がしますが)、どうも「呪術起源」もしくは「信仰起源」らしいのですが・・・このブログの「曲解音楽史」というカテゴリでは、あえてそれより遡ってみる主観的な暴挙を冒しています。

で、これを時間という河の流れのままにまかせて下って行くと、これが相当な大河である上に、支流や湾曲が沢山あって、そこを流れる水の質が変わったり、淀んで動かなくなったりして、一筋縄では行かない。それぞれの支流や湾曲で、人々が音楽を掬い上げると、その音楽は「掬い上げた場所」によって内容が全然違うのです。
その多様性を一度に俯瞰出来るのは神様だけでしょう。
俯瞰した時に、
「どの音楽が正であり、どの音楽が誤である」
ということは、しかも、神様には断言ができないでしょう。

ましてや、私たちは、少なくとも同じ澱みで音楽を拾い上げると「これこそ正しい音楽だ」と信じたくもあり、他の澱みで拾った音楽をそこへもって来られたら「なんだそりゃ!」と文句も言いたくなる、狭い了見しかありません。集団においてさえこうです。
もし、たった一人、他の人とは違う「音楽」を拾い上げたとしたら、それだけを特別な宝物だと思ってすがりつきたくもなる。

出来ましたら、世界地図を開いてみて下さい。
現代のものだけ、ではダメです。百年前のもの、さらにその百年前のもの・・・という具合に、せめて10枚から20枚を並べてみて下さい。
完全版は手に入らないはず(高校の世界史の教材にはそれに近いものはあります)ですから、「きょとんチャン」にならって、いっぺん頭をのんびりさせて、時間をかけて、ご自分で描いてみて下さい。

民族音楽も知りたい私には、やはり直視も必要ですから、あえて引き合いに出します。
チベットを論じるなら、その地図の上でチベット人の占める領域の流動性だけでなく、周囲にも目を配ってみて下さい。・・・現在の「自治区」を見るだけでも、その位置は現在の国家で言えば、中国・インド・ブータン・ミャンマーといった多様な国に囲まれていることが分かります。では、周辺にある中国(チベット自治区は現在その一部とされているわけですが)・インド・ブータン・ミャンマーは、百年前は果たして今と同じ位置にあり、チベットと同じ境の接しかたをしていたでしょうか? その前に、チベットと言う領域は、今と同じだったでしょうか? それを確かめたら、また百年、もう百年、と遡ってみて下さい。・・・その流動性の激しさには、ちょっと「きょとん」とは出来ないでしょう!



多くの「民族」、多くの「個人」がいるなかでの、多くの当事者たちの「感情」は、もちろん大切です。ですが、それを<私>がもし外側から見るとき、その特定の何かにだけ感情移入するのか、特定の何かの感情だけを否定するのか・・・そもそも、そんなことが許されるのか? そんなマネをして近年大きな過ちを犯した大国が、どこぞになかったでしょうか?

味方になること・敵になることは、どんなにスケールの小さい場面でも、簡単に、勝手に出来ることです。
でも、味方になる前に、敵になる前に、「争ってしまってお互いに辛い思いをしている」はずの当事者に向かって
「ちょっと頭をゆっくりさせようよ」
とは、誰も言えないのでしょうか?
言えないのでしょうね。
なぜなら、口で言うのは簡単ですが、言うためには、自分の生命に対しても、自分自身が「きょとん」と出来なければならないから。



文学に限らず、最近は音楽でも、
「従来の研究者や愛好家が築き上げて来た<ある種の偏り>を是正してみよう」
という試みが盛んで、スタートはもう3、40年前に兆し始めているのですけれど、書籍になるところまで認知されるようになったのは、ごく最近ではないかと思います。
それでもまだ、冒頭に述べたような事態が起きている。
あるいは、口先で「研究者に心酔」している、と連携した企画を組みながら、結局は「研究者」そのかたではなく、表に出る自分自身をいかに売り込むかに腐心している人がいたりする。

悲しいです。

たとえば、大崎滋生という音楽学者さんがいて、ハイドンのエステルハージ時代の交響曲は、演奏に際してチェンバロが用いられようがなかったはずだ、ということを(書籍には載せていませんが)膨大なデータの裏付けをとり、エステルハージ家のオーケストラの規模から割り出している(もっとも、これは各論のひとつに過ぎず、大崎さんの視点の一小部分に過ぎません)。
大崎さんはこう仰っています。

「(前略)『見る』とは見たい角度から見る、ということでもあり、そして得心はその視野の中で完結してしまう。(中略)そして、見ることができたもののなかから、すなわち、そのときどき手にし得た資料だけで、音楽史は創られてきた。(中略)作成された楽譜集は音楽史資料を充実させることになったが、しかし当然のことながら、そこにはその運動の推進者たちの意識せざる隠された意図によってバイアスがかかった。(中略)過去の一分だけがメディア化されて”音楽鑑賞メニュー”となって、社会に共有されるという点にひとつの歪みがある。なぜそれが選ばれてメディア化されたのかという、メディア化された目的と、それは過去に於いて何であったのかという、メディア化されたものの往時における機能を、分析してみなければならない。するとしばしば、後世がそれを取りあげた目的と、それが往時に果たしていた機能との、ズレが浮き彫りになるだろう。後世の行為は後世の必要によって決定されるからである。」(大崎滋生「音楽史の形成とメディア」47〜48頁、平凡社 2003)

クラシック音楽の研究分野では、こうした「ものの見方」が認知されている(しかし、演奏者が本当にこの言葉を認知しているかどうかには・・・大崎さんと連携、と称したレクチャーコンサートなるものを初めて聴いた時にはなんとなく「いいな」と瞬時は感じながら、結局は比較対象とすべきものの呈示がなかったし、今後も企画されることがなさそうであることに失望と疑念とを抱いているので、私の中では留保がつきます)。それなのに、一方でカリスマ化された作家の研究については未だに「認知の幅」が広がっていないらしい、という事態は、遺憾です。・・・もっとも、私の念頭にある其の研究への評価は、これからなされて行くものですし、時間がかかるほど練り上げられたよい評価が受けられると信じております。

「多」を付すことの出来る語彙は、おそらく、人類滅亡のその日まで、「一(いち)」に収斂されることはないのかもしれません。

ですけれど、なるべくそこへ近づくためには、目先の「多」の、あまり美しくない万華鏡を覗いて
「なんだこりゃ! 作り直しだ!」
と大騒ぎする前に、いったんその万華鏡を目から離し、手に持つことをやめ、
「頭をゆっくりさせようよ」
と我が身に言い聞かせることも、必要なのではなかろうか、と思う今日この頃です。

なお、昨日あげた「ベートーヴェン第5」の幾つかの例は、いちばん最初のかたちはたどり得ませんから仕方ないとして、掲載したものはすべて「バイアス」のかかりかたの時代差を現している、と言ったら、再度ご覧頂くヒントになるでしょうか?
・・・たった百年にも満たない間に、これだけの種類の「バイアス」がある、というのも、また興味深いことですし、大崎さんや、私のいちばんお気に入りの作家論とは別方向に進まなければならないのかもしれませんが(或いは同じ方向なのかも知れませんが)、「ではなぜ、このようなバイアスがかかったのか」を考えるには、ひとつの面白いサンプルだと思っております。

・・・毎度、屁理屈でした。

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