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2008年3月19日 (水)

救い・慰め・幸せ

「毎日欠かさず」が命のもと、というだけの理由で、内容がなくても見栄なのか片意地なのか自分でも分からないまま綴り続けているブログです。
が、昨日はメンテの日で記事の掲載が出来ませんでした。
で、一昨日のうちから、別ネタを用意しておくつもりでした。

ところが、その一昨日、ドジなことに、帰宅してもうすぐ着くというところで、
「ああ、疲れたなあ、なんでやろなあ」
と思った瞬間、転けました。右足を、歩道のアスファルトに強く打ち付けてしまいました。
初めはあんまり痛みも感じず、卒業式を終えた記念のお楽しみでディズニーランドに行っていた娘とその友達を車で迎えに行ったり出来ていました。
それが、夜中が近づくにつれ、激痛に変わって行きました。
朝が来れば、娘が今度入る高校の説明会で、しかも保護者同伴でなければなりません。・・・でも、まともに歩けそうにない。
「明日、おとうさんはいけないかも知れない」
と言ったら、娘にベソをかかれました。で、なんとかしなくては、と思い、家内の妹、友達、娘の友人のお母様、と当たってみましたが、皆さん仕事を持っているかただから、あまりに急な話で、都合が付けられる訳がありません。
「よし、決めた、お父さん、行くから」
だから泣くな、と、娘の頭を撫でて・・・それからお守り代わりに、私と初めて二人で歩いた時に家内が着ていたブレザーを娘に持って来させ、それを抱いて、というよりは、それにしがみついて、布団に入りました。

明けて、足を引きずり引きずり、娘と出掛けました。授業料等の引落しのための手続き、学校用品の購入を含め、一日がかりの説明会を何とか無事に過ごし、帰る頃には痛みがだいぶ薄れました。

帰り道にある整形外科に行って、レントゲンを撮りました。捻挫でもなく、骨にひびが入ったりもしていませんでしたが、お医者曰く、
「なんかありますねえ・・・」
「夕べ出来て、それで傷んだんでしょうか?」
「いや、関係ない、と思った方がいいようですよ」
「っておっしゃいますと?」
「骨腫瘍かもしれない」

お医者があまりにあっさり、たいしたもんでもなさそうに言うので、たいしたもんではないのだろう、とは思いましたが、腫瘍、という言葉には素人は弱いもので・・・子供がしたのヤツまで大学を4年出るとしたら、やつらを不幸にしないためにはあと10年はカアチャンに呼ばれるわけにも行かない。いや、多分
「あんたが勝手にそんなもんになって死んだんだから、こっちこないで!」
って言われかねない。念のため、「たいしたことない」証拠固めのために、親しくして下さっているお医者さんに電話して聞いてみたら、なんのことはない、骨に出来た「コブ」みたいなものらしくて・・・これで生きるの死ぬの、と騒ぐ方がちゃんチャラおかしい、と分かって、
「ああ、これだから素人は悲しいなあ」
と思いました。



ある意味で、嬉しい経験でした。

まずは、娘にベソをかかれたとき、なんだか少し嬉しかったのです。

説明会が終わってホッとした娘と、二人でファーストフードでちょっとだけお腹を満たしてから帰路についたのですが、女房とか(もしこれからあり得るとして・・・希望は殆ど無いに等しいのですが)好きな異性と二人で食事をするときに感じる幸せとは、また感じの違う「小さな幸せ」に浸れました。何を喋ってくれるわけでもなかったけれど、満足そうにフライドポテトをほおばる娘の顔を見ていたときの気分を、どんな言葉にしたらいいか分かりません。・・・これは、息子と二人で別の日に似たようなことをした時にも同じ思いでした。

我が子だから?

そうかも知れません。
そうではないのかも知れません。

不遜に言ってしまえば、目の前でささやかなごちそうを食べているのが、仲良しの野良猫だって、同じ気持ちだったのではないかと思うのです。ペットを思う愛情、というのとは違うんです。やがてはバイバイすることが分かっている相手だ、というのを承知していて、それがいま、小さな「楽しい」瞬間を一緒にしている、というのは、余計な気遣い無しで過ごせる幸せで・・・振り返って見ると、まだまだ自立まで面倒を見なくてはならない我が子相手なのに、こんな感情で接していた自分が奇妙ではあります。
もしかしたら、私は非常識な人間なのかも知れません。

ですが、日々、誰かとさりげなく笑顔を交わせる瞬間などというものは、相手が同じ屋根の下にいても、実に僅かです。
家内を亡くして、お墓の件が何とか決着がついても、まだそのことに気づきませんでした。
娘が高校に合格した日にも、「笑顔交換は瞬間にしか出来ていない」なんて、感じもしませんでした。
息子が「卒業生のお礼の会」に出たときは、涙ばかり流しました。
「家内にも見せたい、と、今の自分が思っているからだ」
その時は、そう信じていました。

違いました。
息子が式で、キリッとした顔をしているのに安堵し、慰められたのでした。・・・なんとか今日まで、この子に母のない寂しさを強く味合わせないで済んだことに、安堵したのでした。・・・これも、思えばその時限りの瞬間だけのことです。

足が痛くて「行けない」と言ったらベソをかいた、その娘に、私はまだ必要だと思ってもらえているのだ、ということに、慰めを得たのでした。・・・これもまた、その瞬間で終わることです。



「つらいなあ、悲しいなあ」
と思う時には、つい「心を強くする本」の類いを立ち読みすることがあります。
それらは、心に「ある姿勢」をずっと続けて持つことを読者に要求しているケースがほとんどで、自分で求めて手にしながら、
「そんなことなら分かりきってる、だからわざわざ手にしたのに」
と、本屋さんには申し訳ないけれど、結局はつい、ポイッと捨てるように、積み重なった新刊書の上に放り投げてしまいます。

永続を求めるから、「幸せ」でなくなる。
「幸せ」じゃないから、慰めなんか得られない。
慰めがないから、救いも訪れない。

ということは、そもそものスタートラインである「永続を求める」ことから捨てなければならなかったのですね。

やっと、そう感じるようになれました。
なんとか、ここまでたどり着きました。

今日は、昼飯に出掛ける時に、
「いってらっしゃい」
と柔らかく声をかけてくれる人がいました。・・・これも、瞬間のことです。その瞬間が、ほんのりと幸せでした。

瞬間の救い、瞬間の慰め・・・瞬間瞬間に、それを見つけるチャンスがあることさえ分かっていれば・・・あとはきっと、幸せなんです。

夫婦揃って健康・健在を続けていたら、このことに気づかせてもらえることもなかったかも知れません。

あらためて、家内は私にそれを教えるために生きて、死んで行ったのかなあ、と、ふと思った3日間でした。

ヘタなアレンジですけれど、1曲だけおつきあい下さい。(こういうアレンジは数年前に勉強したきりで、以来、手がつかないままです。)

マスカーニ

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コメント

とにかく、「なんのことはない」でよかったです!

昨年か一昨年のマリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウの前半のベートーヴェン8番が、古楽テイストでやっていたんだな・・・と思えてきました。

投稿: sergejo | 2008年3月20日 (木) 12時02分

ありがとうござます。
まだ3日目なのに、普通に歩けるようになりました。痛みはあと少しで消えそうです。

ヤンソンス、新原典版を使ったのでしょうかね。
ベートーヴェンの交響曲の自筆譜って、みんなのこっているのかしら。
だったら、ヤンソンスの演奏と、旧スコアと新スコアを比べてみたい・・・なんていう、またつまらん好奇心が涌いてきてしまいました。

いかん! 無駄遣いはしちゃいかん!

投稿: ken | 2008年3月20日 (木) 17時56分

お願いします!

>ヤンソンス、新原典版を使ったのでしょうかね。
もうそういうところは、私の手に負えない世界であります!

私の記憶に残っているところですと、後半のマーラー1番に比べたら極端に編成が少なくて、音もなんかすかすかだったな・・・です。

投稿: sergejo | 2008年3月21日 (金) 01時49分

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