« 寄り添う(2)〜弦楽四重奏 | トップページ | 宮本笑里ちゃんは、やっぱり・・・&日本の素晴らしい若手女流Violinistふたり »

2008年3月28日 (金)

「おしまい」が「はじまり」であってはならない

    自分がしている悪のすべてを知りつくすだけの
    知恵を持った人間はめったにいない

    ----ラ・ロフェシコー「箴言集」269 二宮フサ訳から----



家族を巡るさまざまなことが一段落し、転機を迎え、しばし腑抜けでした。
腑抜けのあいだに、いろんな本を、分かってるんだか分かってないんだか、ちっとも分からないままに「眺め」ました。
クラシックではなくて、民族音楽ばっかり聴いていたりしました。

そんなふうに過ごしてきて、数日前、ふと、
「あ、そうなのか」
と、気付かされたことがありました。



たとえばモーツァルト。
いま、私たちが彼の人生をイメージするときは、未完とはいえ最後の作品となった「レクイエム」のことを、まず思い浮かべている。
・・・私にとっては、最初は「うつ」から脱出するために何か手はないか、というのが、ブログでモーツァルトを追いかけるようになったきっかけです。幸いなことに、取りかかり始めた直後に格安で「新モーツァルト全集(NMA)」を入手でき、おかげで彼が幼い頃に書いた初期の作品から、彼の成長に沿って、年齢を重ねて行くとともに充実して行く技量を目にすることが出来、そうするうちに、作品の背景にあるモーツァルトの心の変化まで「こういうふうに変わって行ったのかなあ」との推測も試みられるようになってきました。
こうして私の中に築き直されつつあるモーツァルト像は、過去には考えてもみなかったものです。
「レクイエム」から遡ってしか見ていなかった頃には、「神童だった彼が、成人して冷遇されたのは、実に不遇だった」・・・極端にまとめれば、そんな目でしかモーツァルトを見ていませんでした。彼の成長過程に、凡人と全く同じ「思春期」があり、「反抗期」があり、「自立心の芽生え」があったとは、意識していませんでした。ザルツブルクを飛び出したことが「職場に対する不満・自分への評価に対する不満」であることは承知していたとしても、それは私たちとは違う特別なものだった、と、神聖視していました。
初めからたどってみると、お門違いな評価でした。
モーツァルトもまた、普通の人だったのです。
それを、音楽に示されている「天才」ぶりと混同していた。

たとえば、バリの 。(一部分ですが、右クリックで、別ウィンドウで聴いて頂けます)
現在の完成された は、バリ現地人ではなく、ドイツ人が1935年頃にまとめる努力をしたものが元になっています。その事実を知ったとき、
「なんだ、他所の人間がしゃしゃり出たんじゃ、伝統芸能でもなんでもないではないか」
そう思いました。まとめあげられる前の の方が、よっぽど価値がある、と考えるようになっていました。(おなじく右クリックで、別ウィンドウで聴いて頂けます)
ケチャは「演劇化」されていますが、サンヒャンは日本で言えば、近代医学が普及していなかった頃、病人を前に山伏や巫女が祈祷をしたのと同じ、「まじない」なのです。サンヒャンの方が原初的であるが故に、ケチャがわざわざそれを<人工的な大芸能>に仕立て上げた、それも外国人が主導した結果だった、ということには、事実を知る前には感じたことのなかった軽侮の念さえ覚えていました。
・・・ではなぜ、ケチャがバリ現地の人に、ここまで愛されるようになったのか、なんて、考えても見なかった。



私の、モーツァルトへの視線とケチャへの視線は、逆方向から向けられているように見えます。

ですが、実は、そうではない。

いずれも、今、「これが最終型であり完成型である」という始点から、線が延びていたのでした。



音楽の例では、まだ具体的にはイメージして頂きにくいかも知れません。
でも、もし私のこの発想が世の中一般とそれほど違っていないのであれば(そう信じているのですが)、このように集約は出来るでしょう?

「私たちは、人やモノや出来事を、まずその最終型から評価し始めている」

人ならば「死に方」が、モノならば「ケースに飾られるべき完成した姿形」が、出来事ならば「起きたことによる結果」が、まず初めにある。そこから遡って、良い評価や悪い評価を下している。

「良い」・「悪い」とはどんな価値観から判断しているのか、については、とりあえず触れません。

ただ、評価をする、ということが、普通は「終点から遡って」なされている・・・私自身もそうしている、ということに気付いたとき、一方で、
「だから、他人のことはいつまでたっても他人のことなんだ」
と、強く感じました。

自分のことを考えているとき・思っているとき(それが喜びであろうと悲しみであろうと)、そんなときは、
「自分だけは例外なのだ」
と、意識せぬままに自分を評価しているのですね。
そう、「私」は、「私」がどんな思いをして成長してきたか、どんな感情を抱いて周囲を愛したり憎んだり、近づいたり遠ざけたりしたか、について、・・・生まれて数年の記憶は曖昧だとしても、少なくとも、育ってきた時間の順番、経験してきた時期の順番で評価している。

これは、世間様に対して不公平なことではないか。
世間様に対して、私たちは(と複数形で述べる非礼を許して下さい)世間様の「おしまい」を「はじまり」として評価している。「はじまり」そのものをきちんと「はじまり」として見つめているのは、自分自身に対してだけなのです。利己主義も甚だしい、と言ってしまったら、大袈裟なのでしょうから、そこまでは言いません。ただ、私個人については「利己主義者」と言って頂いても構わないと思います。



なによりも、いまの私が
「私自身については<はじまり>から見ているのに、愛していると思い信頼していると思う、亡くした家内のことを、家内が死んだその瞬間から遡って思い起こし、悲しみ続けるのは、家内に対して罪を犯していることになるのではないか?」

こう言いつつも、通勤の行き帰りはとくに、生前の家内と歩いた道を必ず通りますから、哀しい思いが消えることは一日たりともありません。それだけは、カアチャンに許しを乞おう。

ただ、もういちど、私は私が家内と夫婦になった「はじまり」に戻って、日々を見つめ直して行かなければならないのだな、と、この数日、切実にそれを思っておりました。

ほんとうの「はじまり」の部分はさておき、まずは我が子たちが生まれたその日を起点に据えれば、
「子供たちのこれからの成長のためには、夫婦として子供たちにどういう未来を、どんなふうに幸せに求めさせようか」
ということは、私と家内が、理屈抜きで、一歩一歩階段を昇りながら話し合い、笑い合い、楽しみにしてきたことです。

子供たちにとって、進学というひとつの節目を迎えたこの春、家内の声はもう聞こえませんけれど、聞いてきた声、それに応じたときの自分、という原点から、家内との会話をやりなおしてみよう。
そうすれば、声ではなくても、なにかが、その都度その都度での答えとして、耳に聞こえてくるのではないだろうか?

そのように思っているところです。

・・・ちゃんと、思い続けられるかなあ???



ケチャとサンヒャンの音の例示は、下記CDから引用させて頂きました。
音の世界遺産 バリのケチャMusic音の世界遺産 バリのケチャ


アーティスト:民族音楽

販売元:キング

発売日:1999/08/06
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 寄り添う(2)〜弦楽四重奏 | トップページ | 宮本笑里ちゃんは、やっぱり・・・&日本の素晴らしい若手女流Violinistふたり »

コメント

>
「私たちは、人やモノや出来事を、まずその最終型から評価し始めている」
>

これ、その通りだと思います。

今は時間がないのでうまくまとめられないのですが、アレントは、この傾向に反して、決して通俗的・凡庸な意味でなく、人間の「始められる」能力、そして「予言不可能」な世界を創り出す能力、さらにはその中でお互いに赦し、約束する能力の大切さを論じています。(『人間の条件』)。

いい文章をありがとうございました。

投稿: イワン | 2008年3月28日 (金) 23時03分

こちらこそ、私の浅い思いを深めて頂き、感謝に堪えません。

アレントの著作は読んだことがありません。ご指摘で、著作を確認してみました。
「人間の条件」は、是非読んでみたいと思いました。・・・他にも興味深い著作があるようですね。・・・彼女自身が、幼くしてお父様を亡くされていたのですね。そういう点からは、彼女の生涯にも、何か学ぶべきものがあるような気がしてきました。
知らなかったのですが、ハイデガーとの対比がされているのが興味深いです。(恋愛関係はともかく、ハイデガーが弟子としてのアレントと時分の違いを明確に認識し、ヤスパースの元へ彼女を送り出した、というのは、ハイデガーの思想の是非を超えて感動的なエピソードですね。)
この点では、日本はハイデガーに相当するのは西田幾多郎だと思いますが、アレントに相当する人物がいたのかとなると・・・見当がつきませんね。

是非、また詳しくご教示下さい。

投稿: ken | 2008年3月29日 (土) 01時22分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/95716/11910957

この記事へのトラックバック一覧です: 「おしまい」が「はじまり」であってはならない:

« 寄り添う(2)〜弦楽四重奏 | トップページ | 宮本笑里ちゃんは、やっぱり・・・&日本の素晴らしい若手女流Violinistふたり »