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2008年3月14日 (金)

曲解音楽史:30)マルコの帰路に沿って-1(日本の「オラショ」)

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」



前回その音楽を聴いた「元」朝は、マルコ・ポーロ(リンクしたWikipedia記事にはありませんが、複数説もあります)が訪ねた頃が最盛期でした。
ですので、『東方見聞録』によって分かる、マルコの帰路に沿って、ヨーロッパ方向へ戻って行ってみましょう。
ただし、生身のマルコと同じ条件でとは行きませんので、物理的時間は立寄先によって相違が生じます。

かつ、まずは実際にマルコが立ち寄ってはいない、伝聞でのみ「莫大な量の黄金があるが、この島では非常に大量に産するのである」と述べたチパング(今では「ジパング」という読みで誤解されています)すなわち日本の・・・しかも1600年ごろを訪問しましょう。



『東方見聞録』の世界では、日本も含め、現在東南アジアと呼ばれている地域の特に島嶼域、インドの沿岸部、アラビア地方、マダガスカル島、エチオピアまで、という広い範囲を「インド」として捉えています。・・・このことは、このトシになって翻訳を初めて読んで、初めて知りました。
すなわち、『大航海』時代を前にしたヨーロッパにとっての「インド」とは、私たちが捉えている「インド亜大陸」よりも遥かに広いエリアを指していたことについては、私たちは認識を新たにしておく必要がありそうです。・・・このことは、たぶん、インドネシアに触れる機会に再度考えることになるでしょう。


さて、話は極力短くしたいのですが、そうはならないようで。毎度すみません。

今日訪ねる日本は、1600年頃。ですから、ヨーロッパ文化はすでに「バロック」期を迎えようとしている最中でしたし、「大航海時代」も始まっていました。で、今日触れる音楽は、「大航海時代」さなかのヨーロッパからもたらされた西欧音楽です。
既に1550年前後には日本に少なからぬポルトガル人が来航し、最新鋭の武器である鉄砲を各地の有力大名に売りつけて「戦国時代」最盛期を煽った陰の立役者となっています。
この機に同時に来航したのがカトリックの宣教師たちで、楽師をも伴っていたと思われ、大内義隆、大友宗麟、織田信長、最後には豊臣秀吉といった有力大名の面前で、当時の西欧器楽(ヴィオール属を中心とした小アンサンブル)を演奏したと推測されています。その推測に基づくCDも近年発売されていますが、実際には曲目も作曲家も一切不明のままですし、あくまで大名に「宣教」の許可を得るためのサービスの一環だっただけで、この事実そのものには、現在の日本人のイメージの中でふくれあがっているほどの意義はないものと思います。

むしろ、「宣教」の許可を得た後、カトリックの指導者たちがはたらきかけて、一時は西日本では定着の道を歩みかけた「教会音楽」の内容の方が、重要です。
孫引きになってしまいますが、故・團伊玖磨氏『私の日本音楽史』記載の年表によれば、西暦1600年ちょうどに、天草で竹をパイプに用いたものとはいえ、本格的なパイプオルガンが日本人自身の手で作られています。これは、この時期までに、大友氏の勢力が大勢を占めていた北・中九州にはカトリックが根付いていたことを現している、と見なすのに充分な材料ではないかと思います。
同じく同書によりますが、信長時代を緻密に捉えたことで有名なフロイスは、こんな記述も残していると言うことです。
「ヨーロッパ人は『様々な音響』の音楽を快く感じるが、日本の音楽は単音がきしきしと響くだけでぞっとする」
「ヨーロッパ人はカント・ドルガン(多声部)の音楽の『協和音や調和』を尊ぶが、日本人はそれをかしましいとして好まない」
團さんは、フロイスのこの記述をもとに、当時の日本人は多声音楽になじめなかったと述べていらっしゃいます。実際に、当時日本で印刷された西欧音楽の楽譜(「サカラメンタ提要」)は、単声部のグレゴリオ聖歌です。最後に触れることになるだろう、長崎県の「オラショ」も、皆川達夫さんを中心とした研究者の努力で、グレゴリオ聖歌が日本風に変化したものだ、ということも、もととなったグレゴリオ聖歌が何であるかも、現在では判明しています。

團さんはまた、1579年に来日して精力的に若い日本人クリスチャンの育成に努めたヴァリニャーノ
「日本人の弦楽器(ヴィオラ・ダルコなど)の演奏は聞くに耐えないので、才能のない者には、今後いっさい、鍵盤楽器を除き、弦楽器を教えてはならない」
と述べたことを受けて、
(團さんの言)「弦楽器は、ある場所を指で押さえることにより自分で音をつくっていく楽器ですが、ドレミという音階自体を把握していない民族にとっては弾きようがないのです」
とお述べになっています。

多声音楽になじめなかったことには信憑性があるかも知れませんが、「弦楽器は・・・弾きようがないのです」という言葉は、琵琶という伝統が既にあり、このあとの時代には三味線音楽が隆盛する日本の状況と矛盾した話です。
これについては、僭越ですが、私の経験を照らし合わせた方が團さんよりも「正解」に近いものが申し上げられると思います。
正式な「専門音楽教育」を受けたことのなかった私は、音程に対して厳しい姿勢で臨んでいたオーケストラに入団したとき、自分の弾くヴァイオリンが「演歌風だ、それでは使えない!」と叱られて、大いに悩む数年間をおくりました。私に身に付いていた音程は、育った環境の関係から、テレビの歌謡番組によるものだったのでした。
「演歌」でも「Jポップ」でもいいのですが、その音程感がアメリカやヨーロッパのものと違う、ということにお気付きですか? 普通は、たぶん、お気付きではないと思います。なぜなら、そうした「日本の」音程の方が、私たち日本人には無意識に染み付いている・・・そして、それを尺度として「洋楽」を聴くことに慣れているので、その際、欧米の音楽の「音程」を私たち日本人のものに「置き換えて」聴いてしまっているのです。

という次第で、50年後には「キリスト教」は日本で完全に禁じられてしまったのですから、たったそれだけの期間で「西欧式」の音程が日本に「自分たちの音程とは違う」と認識されるのは、どだい無理な話だったと言えるでしょう。もし禁教がなければ、事態はまた違ったかも知れません。
ヴァリニャーノは4人の武家の少年を「天正遣欧使節団」としてヴァチカンに連れて行ったことで有名ですが、この使節が1585年にヴァチカンで聴くことになったミサ曲は、パレストリーナの手になるものだったと推測されています。ヨーロッパは、すでに所謂「ルネサンス期」終盤に入っていたわけです。

ですが、日本に残ったのは、西欧から見れば中世期の音楽にあたる「グレゴリオ聖歌」だけでした。それも、禁教のため、残った地域は、かろうじて江戸幕府の監視が及びきれなかった(おそらく幕府もそこまでの必要を感じなかった)長崎県の離島に限られたのでした。

・歌オラショから

この例も含め、歌オラショの原曲とその演奏については、「CD & DVD版 洋楽渡来考」で耳にすることが出来ます。

ヨーロッパ人が、キリスト教と共に、ではなく、武器と共に音楽を伝えていたのでしたら、もしかしたら、日本にも西欧音楽の影響が持続した可能性は、あると思うのです。
というのも、『東方見聞録』にもしばしば現れるのですが、たとえばモンゴル人は戦闘の際、開戦の合図を告げるまでのあいだは撥弦楽器を片手に歌をうたっていたことが明らかです(これは決してくつろいだ場面を演出するためではなく、緊迫感を高めるものだったもののように読み取れます)。振り返ってみれば、「曲解音楽史18:モンゴルと中央アジア北方」「曲解音楽史4:言葉と音楽」で触れてみた中央アジア域の音楽は、中世期まで戦いの場で歌われていた音楽の後裔だったのでしょうね。
また、今後の話題になりますが、東南アジア、インドの古代を反映した神話群にも、戦いと奏楽は密接な関わりを持っていた様子が描かれています。
トルコの軍楽が「ルネサンス期」を前にしたヨーロッパ人に、彼らとの戦闘に際して大きな恐怖感を与え、2世紀経ったクラシック期になるまでユーモアと共に引用されたり真似されたりすることが出来ないほど衝撃的だったことも、併せて記憶しておきましょうか。

こんなところで。

洋楽渡来考―キリシタン音楽の栄光と挫折Book洋楽渡来考―キリシタン音楽の栄光と挫折


著者:皆川 達夫

販売元:日本キリスト教団出版局
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