« ラメント〜悲嘆と哀悼の伝統 | トップページ | 笑里ちゃん、「アイドル本」出しちゃったの? »

2008年2月28日 (木)

音楽と話す:「さりげなく」聴く

私のことですから、後に続く文は、例によって小難しくなってしまうと思います。
ですので、今日あったことを前置きとして、まずお話することをお許し下さい。

昨日最悪だった風邪が、今日の朝も思わしくありませんでしたので、迷いましたが、2日連続で仕事を休みました。
昼間で寝ましたら、昨日までに較べて、格段に元気が出ました。
昼食は、近所の松屋に、いつもどおり豚丼330円を食べに行きました。
食べ終わって、風邪薬と抗ウツ剤を取り出しましたら、カウンタでバタバタしているはずの店員さんが、ひょい、とコップ一杯の水を出してくれました。
あまりにさりげなかったし、こんな経験は初めてでしたので、初めはビックリしました。3人いたカウンタの中のどの店員さんが出して下さったのか分かりませんでしたが、薬を飲みつつ、なんだかほんわりと幸せな気持ちになりました。ありがたく、コップ1杯の水を頂戴しました。
お礼を言えなかったのが心残りですが・・・幸せの余韻に、しばらく浸ることが出来ました。
明日は、無事出勤できそうです。



本題。
「こないだの宿題ですがね」
私は、おずおずと音楽さんに近づきました。
二週間と三日ぶりのことです。
「・・・分かったかね?」
「いえ、あんまり。・・・でも、ちょっとだけ」
「ほう・・・その、ちょっとだけ、を仰ってみて下され」

音楽さんがこのあいだ置いて行ったのは、オーケストラの演奏が華々しく終わった瞬間、拍手が起こる、というものでした。
 はこうでした。(色の変わったところを右クリックで別ウィンドウで聴けます。)
 は、こうです。(色の変わったところを右クリックで別ウィンドウで聴けます。)

「最初の方の拍手は、演奏が終わると同時に、音楽の残響が会場に残る暇もなく鳴り出しました。あとのほうのは、拍手までに、ちょっとだけ間があります。」
「うん、耳の付けどころはいいようじゃな。それで?」
「はい・・・最初の方は、いかにも<終わるの待ってました!、曲はもう充分知ってましたから>ってかんじで。熱がこもっているのは悪くないと思うんですけど。」
「あんたは、<待ってました!>については、どう思いなさる?」
「嬉しくないですね。もしその場にいたら、音の広がりがすっかり消えるまで聴いていたかった。」

音楽さん、笑顔になってくれました。
「いいお答えで!」
私は胸を撫で下ろしました。
「2番目の方も、あっしを演奏してくれたのは、実は同じ人たちなんじゃ。出来も同じくらい良かった。でも、聴いてくれた人たちは・・・このときも、あっしにしてみりゃ、まだまだちょっと早すぎるんじゃがな、いちおう、最後の響きが消えるまで、拍手は待ってくれた。その方が、あっしとしては嬉しいんでさあ」
そうだろう、そうだろう、と、私は、自分が分かってるんだか分かってないんだか分かりませんでしたが、音楽さんの言葉に大きく頷きました。
気を良くしたのでしょうか、音楽さん、こう話を締めくくりました。
「要するにじゃ、聴いて本当にあっしを好きになって下さるなら、あっしが賑やかに終わろうと静かに終わろうと、最後の響きが消えるまで、静かに耳を傾けてもらえた方が幸せなんじゃ。<ああ、このお客さんは、あっしを<お客さん自身の心>だと感じて、あっしと<思い>を一緒にしてくれているのじゃ、と信じることができるからのう」



もっとも、私たちのような、あんまり上手じゃないアマチュア(一緒に演奏して下さっている皆様、ゴメンナサイ、含私自身ですから!・・・「おまえだけじゃないか!」と仰られれば、「はい、そうです」と申し上げます、ハイ)の場合、終わった瞬間に「熱狂的な拍手」を頂戴することはまずありませんし、かといって、音楽さんが(多分)理想としている「最後の響きを感じ取って、残響が消えて初めて」拍手を下さるのと言うのでもない・・・「ああ、ヘタクソな演奏がやっと終わったか!」と、もしかしたらお義理で拍手を下さっているんじゃないか、というケースが、ままあります。・・・これは演奏の質の問題で、「聴き方」を考えている今の段階では問題になりません。ですから、この件については「演奏について考える」段にまで話が進んでから、きちんと考え直すことにしましょう。


コンサートで音楽が奏でられる、というのは、日常から見れば特殊な時間と空間での出来事です。
ですが、「音楽」そのものが望んでいるのは、日常と変わりのない会話、「奏者と聴き手の間の対話」なのではなかろうか、と思います。
ただ、確かに、日常に較べれば、「会話」の内容は「音楽が伝えたいメッセージ」によって制限を受けます。難しい言葉になりますが、音楽との会話は「思弁的」なもの、すなわち、生活とは切り離された、純粋に頭の中で、胸の内で、感性によってのみ交わされるもの・・・少し理想化して言えば、
「ああ言えばこう返ってくるだろう、その時はどうしてやろう」
などといった計算事の働かない、不純物の入る余地のない「結晶」の中で「奏者と聴き手」が一体化することによってなされる。

繰り返しになりますが、ひとことにまとめれば、
「音楽は<奏者と聴き手>の会話の結晶である」
・・・そう表現することがふさわしいのではないかと思います。
ですから、<奏者と聴き手>の間に純粋な会話が成立しない以上、本当に「音楽」を私のものとして持つことも、あなたのものとして与えることも、私たちのものとして共有することも出来ない。

大袈裟なようかも知れませんが、それは「さりげなく」音を出し、「さりげなく」音を聴く、という「さりげなさ」同士が出会わない限りは達成されない。
逆側から見れば、「さりげなさを装うために」どうしたらいいか、という訓練に熱中する者同士では絶対に到達し得ない「会話」でもあろうかとも考えます。
(これは、「演奏者としての技術」の側からみれば、意外に難しいのですが、「聴き手」にとってはむしろ「教養としての音楽」だなんて聴き方を訓練することは、音楽と会話する上では妨げにしかならない点を承知して頂いていることを前提に述べてます。)



最近は分かりませんが、音楽の「残響・余韻」を聴くマナーが過去、日本でいちばん悪かったのは、クラシックファンではないかと思っております。
1970年代から80年代はクラシック界にもカリスマ的存在が結構いました。当時は自分で稼いでもいませんでしたから、大御所のコンサートのチケットはとても手に入らず、テレビで中継や録画を見て我慢したものも多かったのですが、大抵の場合、オーケストラのコンサートは特に、最後に来るプログラムが華やかな音楽ならともかく、静かな音楽でも、音楽が完全に響き終わっておらず、指揮者も棒をおろしきっていないのに、
「ほら、終わった!」
みたいに拍手をはじめちゃう輩がいるのには、ディスプレイ(当時ですからブラウン管、ですね)のこっち側で無性に腹が立ったもんでした。ベーム来日時の映像(ブラームスの第1など)にはそんな有様がくっきり残されていますから、演奏はいいので時々見るのですけれど、曲の最後ではいつも当時の「ガッカリ」を思い出させられてしまい、いやんなっちゃいます。
4543638001422面白いのが、ヨッフムが最後にコンセルトゲボウと来日した際の映像で(昨年やっとDVD化されましたね)、ブルックナーの第7の演奏が終わったとたんに拍手が鳴るのですけれど・・・そして、それは録画で見ると、曲が終わってから少し間があっての拍手に見えてしまうのですけれど・・・、拍手が始まったとたん、ヨッフム氏、楽員に向かってペロッと舌を出してみせるのです。
実は、拍手の鳴り始めたとき、残響はまだ消えきっていないのです。ブルックナーの交響曲は、それこそ「和音のどでかい塊・・・オーケストラのカメハメ波!」ですので、残響もかなり長いのです。ヨッフム氏の「舌出し」の意味は、深いと言わなければなりません。

ポップ系のコンサートは、その点、歌手とお客の距離が近いので、歌が終わらないうちに熱狂してもいいとき、というのと、バラードだから終わるまで静かに耳を傾け、心を傾けよう、という姿勢が初めから奏者と聴き手の間に合意が成り立っていて、中身が私好みかどうかを度外視すれば、コンサートのあり方としては、ずっと好感が持てます。

ジャズバーになると、もっとリラックスした中での、それでいて割合難しい演奏(セッション)があたりまえでなされていますので、慣れない人にはいちばん敷居が高いかも知れませんね。でも、慣れてしまうと、結構理想的な「音楽と日常の、つかの間の共存」を味わうことが出来ますから・・・私は決して慣れていると言うほど出向いたことは無いのですが・・・、「いいもんだなあ」と思います。



長話になりました。

今日の音楽さんとの会話。
音楽さん:「あっしは、あっしが鳴り響く最後の最後まで、お聴きんなって下さるおかたが<さりげなく>耳を傾け、心を寄せて下さるのが、いちばん嬉しいんでさあ。拍手ですかい? 二の次、二の次!」



音楽を「聴く」キホン、は、今日までのこんな会話で、とりあえず充分でしょうかね?

ちなみに、「聴く」ことについての会話は
まず「聴く」
「想う」心
そして今回の
・「さりげなく」聴く難しさ
でした。

毎度お粗末。

|

« ラメント〜悲嘆と哀悼の伝統 | トップページ | 笑里ちゃん、「アイドル本」出しちゃったの? »

コメント

先日、私のところで紹介したリヒテルのシューベルト ピアノ・ソナタ日本公演のCDに、「provoking another raucous bravoくらいすごい」って書いてあって、ちょっと嫌みが入っているんだろうなと思いました。

わたしも実は、コンサートに行きたいと、行きたくないがいつも相克していて、そんなことだったりします。「自分が神経質だから悪い」と暗示をかけますが、やっぱり、最後の最後で同じ思いでなんだなぁと。

先日行ったのコンサートでは、これはフライング拍手ではないのですが、隣の人の拍手がM.M.50-60で、パンッ!!!!!パンッ!!!!!と叩くのが、鼓膜直撃で、実際ツンツンして痛かったので難儀しました。

こういうことって、私の短い経験でも20年来変わってないのが、どうしてなのかな〜と不思議です(多分、ほんとに小さい音が聞こえてないんじゃないかと思ったり・・・)。

似て非なる話ですが、クラシックのCDを買いにいくのもちょっと億劫なのが、人が見ているのに、深刻そうな顔で、大げさに言うと、押しのけるように割って来て、バンバンCDひっくり返しているおじさん・おじいさんの存在。

これもPopの棚ではなかなかない現象かなと思ってます。

p.s.:悲愴の話、毎回楽しみにしております。本番の日を楽しみにしております(練習風景聞きたいくらいです)。

投稿: sergejo | 2008年3月 2日 (日) 07時18分

>クラシックのCDを買いにいくのもちょっと億劫なのが、人が見ているのに、深刻そうな顔で、大げさに言うと、押しのけるように割って来て、バンバンCDひっくり返しているおじさん・おじいさん

あ・・・新宿か池袋の大型店でそういうおっさんを見かけたら、それは私かも知れません! やばいなあ。

音楽の聴き方って、調べて行くと、世界各地でいろいろでして、ヨーロッパはどっちかっていうと音楽に関係なくおしゃべり、っていうほうが「伝統的(?)」ですよね。
音楽そのものに打ち込む、というのはペルシアの宮廷がいちばん徹底していたのではないかなあ、というのが、いまのところの感触で、それに次ぐのが、マーラー以降のドイツ・オーストリアに始まるヨーロッパ、という感じです。
あとは、ヨーロッパでは絶えたのでしょうか、例を見受けないのですが、アジア圏は北から南まで、叙事詩を朗詠するのを聴衆が静かに聴く、という伝統がたくさん残っています。日本でもマイナーになってしまいましたけれど、代表的なのが「平曲」ですよね。能の「謡」だけを聴く、という催しは、よくあります。

ですから、本当は、音楽をいかに「聴く」か、というのは、ここでの仮想的な会話に較べると、現実は大変難しい問題なんではないかなあ、とは思っています。

コンサートの「形態」が、日本ではまだ固まりきっていないのかな。
談笑しながら聴くコンサートもあっていいし、現に催されているんですけれど、「今日は、隣の人に迷惑をかけてもいけない、集中して静かに聴くコンサートなんですよ」という意識付けは、完璧になされているとは思えない。・・・自分が演奏する立場にある人でも、降り番だと客席で平気でビニール袋をごそごそやってるプレイヤーなんかもいますからねえ。。。仮にそれがリハの最中だけだったとしても、練習している連中は不快なんだけどなあ。

むずかしいですねえ。ひとりひとりのモラルにかかっていることだから。

投稿: | 2008年3月 2日 (日) 22時21分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/95716/10815665

この記事へのトラックバック一覧です: 音楽と話す:「さりげなく」聴く:

« ラメント〜悲嘆と哀悼の伝統 | トップページ | 笑里ちゃん、「アイドル本」出しちゃったの? »