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2008年2月17日 (日)

「素直な言葉」を聴きたい

    老い果てて、あなたが、夕べの燭火をともし、
    炉ばたに坐り、糸を繰ったり、紡いだりしながら、
    私の詩を口ずさんで、感嘆して言うことだろう、
    「ロンサールは讃えたのだわ、美しかった頃の私を。」

    ----ピエール・ド・ロンサール、入沢康夫訳----



娘の進学先も辛うじて決まり、息子の中学進学のために制服の手配も済み・・・子供たちのための用事はまだまだこれから山積み、出費もそこそこ、なのですが、幸いにも娘の高校は公立になるので、今日は思い切り、家族で無駄遣いをしてきました。

娘が友だちにプレゼントしたくてもなかなか見つからないで頭を抱えていたのを口実に、都内まで出て、やや高級なネギトロ丼の昼食をとり、友だちへのプレゼントも良いものが見つかって、これでおしまい、ならさほどでもなかったのですが。
お茶休憩を挟んで、でっかい本屋さんに行き、子供たちの本当に読みたいと思う本を好きに選ばせたら、高くつきました。
その上でさらに、息子には「進学祝い」に、1万円弱の、彼が尊敬する「たけし」の3枚組DVDを買ってやりました。
で、とどめは3人で4千円(ひとりずつはたいした量じゃない)のそばを食い、本日の出費、交通費を含め、占めて3万円!・・・ヤモメの家庭のすることか!

いえ、使ったお金の大きさじゃない、頑張って来た子供たちの素直な笑顔が見たかったための、ちょっと自信がないオヤジの、自信がない分の投資だったのかも知れません。・・・反省。

道すがら、姉弟で喧嘩はするし、それで喫茶店ではジュースをひっくり返してトウチャンを切れさせてはくれるし、癪に障ったこともいっぱいだったのですけれど、帰りの電車で、口々に
「今日はありがとう」
自然にそう言ってくれた時には、つい、ほくほくしてしまいました。



人間、人様に見返りを求めて何かをやることくらい、いやらしいことはありません。ましてや、我が子相手にもそれをやっている私は、「人間失格・親失格!」かも知れません。

でも、自然な、素直な、理屈のない言葉で、自分のしたことに対して「喜んでるよ」と伝えてもらえたら、その瞬間、もうそれまでの私利私欲は忘れて、有頂天になっている。・・・単純バカ。

「言葉」で表す、「言葉」を受けとめる、って、本当に大事なんだなあ、と感じました。



ここ数日考えていたのは、この「素直な言葉」を聴きたい、ということばかりだったのかな。

家内というバリアがあるうちは不感症になっていたうえに、なにが自分を欲求不満に陥れているのか、よく分からないままに日々を過ごしてきました。それが、娘の進学先決定とか、今朝息子が友だちに誘われて中学校へ柔道部の見学に行って来たことなどが重なって・・・それから、つい先月、生活の糧は糧として別に持ちながら見事なソロを繰り広げてくれたフルートの団友を振り返ってみて・・・
「我が子や、友人が、素直な言葉をもっている」
ことに、ふと我に帰らされたかのように気づきました。

そうなんです、私は、いつでも、「素直な言葉」を聴いていたい。
そのためには、自分自身が、素直でなくてはいけない。

そのことが分からなくなっていたかもしれない。



家内のいなくなる1年ほど前から、急に、というわけでもないのですが、音楽ってどうして出来たんだろう、ということに思いを巡らすようになりました。私には音楽しかわかることができないから、というのがそのきっかけで、かつ、ブログにそれを綴ることで確認するようにもなりました。

そのために音楽関係の本を前よりもたくさん読むようになって、最近まで「見ても目に入っていなかった」事実に気づきました。良い本には、どれにも、
「音楽、すなわち、言葉である」
と、きちんとかかれている。
ここで言う
「音楽=言葉」
は、歌についている歌詞を指すのではありません。

前から読みたいと思っていながら、今日やっと手にして、一気に読んだ本があります。
・鈴木秀美「『古楽器』よ、さらば!」(音楽之友社 2000年第1刷、2007年増補改訂)

この中にも、次の言葉がありました。
アンナ・ビルスマの言ったものを引用した言葉ではありますが、鈴木氏自身が体感した言葉でもあります。
「バロックの音楽は歌うというよりも、むしろ言葉を語る音楽」
だというものです。(前掲書17頁)

この本、標題にもかかわらず、「古楽器」とは何か、どう演奏すべきか、を、真摯に演奏に臨む一人の音楽家として懇切丁寧に述べたエッセイ集ですが、にもかかわらず、なぜこのような標題にしたかというと、それは
「書かれた音楽との『同時代』楽器、つまり当時の『モダン楽器』は、現在の私たちにとってもまさしく『モダン』なのである」(同書198頁)
からなのです。

すなわち、鈴木氏が言いたいことは、
「古い時代に書かれたものにも、それに接するべき方法を真剣に探し求め、心から向かい合うことができれば、そこからは<今>を生きる私にきちんと伝わってくる<素直な言葉>がある・・・それを確かに耳にできる」
ということではなかろうか、と思います。
これは、アーノンクールが「音話としての音楽----新しい音楽理解への道」(出版時の邦題は『古楽とは何か』1997 音楽之友社)が述べていることとも一致しています。



もはや「古楽」だの「古楽器」だのという言葉は死語だ、とはっきり認識なさっている演奏家の方をも存じ上げていますが、一方で、マスメディアに乗っかるような、あるいは乗っかりたがりたがるような音楽家は、いまだに血眼になって「古楽奏法を取り入れなくては」と騒いでいますし、クラシック市場はもっぱらそれを売りにしています。・・・彼らは表ヅラは学者とタイアップしてみたりしているけれど、本当に勉強しているのかしら?
たとえば、コマーシャリズムに乗っかることしか念頭にない「プロ」さんは、次にあげるような録音を耳になさったことがあるのでしょうか?

(1904)

(1927)

※とくに、後者はワーグナー作品の演奏であるにもかかわらず「ノンヴィブラート」です。お気付き?
 ついでながら、ちょっと前のニキシュの指揮したワーグナーなどもノンヴィブラートですが、
 27年あたりからの録音には、ジークフリート・ワーグナー指揮で残された録音ではヴィブラートが
 かけられていたりして、1920年代半ばが「ヴィブラート」の端境期であったことが伺われます。

あなたたちの言う「古楽」と、これらの演奏の間に、果たして、どれだけの差があるのか?

かつ、スチール弦を前提とした弦楽器、ピストンやロータリーのメカニズムが複雑化した管楽器しか入手出来ない前提で「古楽」のマネをするべきだ、という不徹底さには、ウソがありはしないか?

ついでに言えば、「クラシック音楽は同じ曲の解釈の違いが繰り返されているに<過ぎない>」という、本質を見失った言葉を吐き続けていることについて、音楽家はどう責任を持つつもりなのか?(このことは、各国の伝統音楽を見て行く中で再考することになると思います。POP界にもそろそろきざし始めている危機でもありますし。)

・・・これは、「クラシック音楽界」という業界に蔓延したウソなのでして・・・性質を限ったブログである以上、これ以上の越境はしませんが、物質文明につつまれてしまった私たちは一見豊かではありますけれど、結局は「ウソ」にもころっとごまかされやすい。



子供の素朴な、素直な「ありがとう」に、
「ああ、せめて、この子らの自立のためには、<ウソ>を見抜くための知恵、<ウソ>にあっても動ぜず、あえてごまかされ、なおかつ次の世代のためには<ウソ>を断ち切って行くだけのチカラを与えてあげられるだけのことは、まだしてあげなければいけないのかなあ。ということは、私もまだまだ勉強だなあ」
そう思い知らされた一日でもありました。

・・・といいながら、やっぱり、でも、できるだけ早いとこ、この世での用事は終わらせたい、との思いが捨て去れないのが、私の最大の欠点です。



だけどどうですか? クラシックファンの方、ヨアヒムとムックの演奏にはビックリなさいませんでしたか?
・・・そうでもない?

うーん。
そうでもないなら、次は何をお聴かせしましょうか・・・これは、ネタがないなあ。。。

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コメント

>ヨアヒムとムックの演奏にはビックリなさいませんでしたか?

実は聴いたことがなかったので、ちゃんとビックリしてます!

先日、Kenさんの仰る端境期の演奏家と思いますが、ヴォルフシュタールのCDを手に入れて、これが面白いので何度も聴いていたところで、もっと古いところをいろいろ探そうかと思っていましたので深謝です。

アドルフ・ブッシュが好きなのですが、あの人もノンまで行かずとも、ヴィブラート少なめなのが自分にあっていたのかな・・・

投稿: sergejo | 2008年2月18日 (月) 02時22分

ヴォルフシュタールのお名前は、存じ上げませんでした。貴志康一さんの先生だったんですね。しかも、かなりお若くしてなくなっている・・・

ブッシュはヨアヒムの孫弟子(だったよな)であることもあり、基本はヴィブラート抑制派です。

オーケストラは規模の問題も伴うので、そう言う意味では今回の記事は片手落ちですが、それでも学者さんが「書かれた楽譜・記録・出版事情」優先でしかモノを考えていないこと、安易にそれに乗っかるだけの演奏家が多すぎることは、非常に悲しく思っています。かつ、なんで、その学者たちの想定した「過去の演奏形態」が20世紀中盤になって急激に変化したのか、についての考察は、世の中にはまだ全く存在していません。

ソロや弦楽四重奏は、この点、規模の問題を伴うことは無いので、ブッシュを通じて観察して行ったら、演奏法の変化を考える上で良いヒントがあるかも知れません。
お知恵を頂き、感謝します。
(前に、専門のかたに「ヴィブラートを当たり前に使った最初のヴァイオリニストはクライスラーだ」と伺って鵜呑みにしていましたが、史料を当たりなおしたら、どうもそうではなく、イザイが最初のようです。とはいえ、今回のサンプルでも分かります通り、ヨアヒムも数ヶ所ではヴィブラートをかけています。レオポルト・モーツァルトあたりでも、ヴィブラートは完全否定されているわけではありません。)

投稿: ken | 2008年2月18日 (月) 23時00分

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