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2008年2月 5日 (火)

チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」(2)全体像と読譜上の注意点

まとまったことを綴る前に。
「ウツ」だし、「ヤモメ」だし、職場の人が気を使って下さるので、家事を理由に毎度遅れての出社、夕食や子供の習い事を言い訳に定時での帰宅を許して頂いているだけでも心苦しいのに、対外折衝の出来ない状態ですので、1、2月は仕事が暇です。ですので、繁忙期なら昼休みや電車の中でメモしたものをもとに綴っているブログも、今は職場のPCで下書きしている頻度が高い。何もしないより、頭を動かさなければいけないから、申し訳ないと思いつつ、そうしています。

寛容な職場の皆さんに(このブログのことは殆ど職場では知られないようにしているのですが)深く感謝している次第です。



・「悲愴」が「悲愴」ではない、ということ
・この交響曲の前に、チャイコフスキーは「人生」交響曲を思い描いていたこと

を、既に<前提>で述べましたから、作曲者の精神的背景についての記述は、もう済んだものとして話を進めましょう。

各楽章ともメロディックで明快に聞こえますから、あまり「構造がどうのこうの」ということに立ち入るのは、本来無意味なのかもしれません。
何故か?
「悲愴」が明快な理由は、チャイコフスキーが、音楽をいかにも「部品」で作り上げたように見せることを巧みに避けているところにあります。
ですから、鑑賞する立場であるだけなら、ただ音楽の流れに身を任せ、それによって自己の内面にかもし出される「わが人生への情緒」に、聴き手が浸ることを、この交響曲は無条件に受け入れる。

初演で聴衆の反応が今ひとつだったにも関わらず、この第6交響曲が「最も満足な作品」であるという自信が、チャイコフスキーにとってゆるぎなかったのは、彼が自作のこうした普遍性を良く計算し、理解していたことを物語っているかと思います。


私達(TMF)は、今回は演奏者側に回るわけですから、やはり全体像は一緒に演奏するメンバー同士で共有しておかなければならない。
・・・ただし、そこに主観的な意味付けをすることは、(比喩を使ったほうが分かりやすい場合を除き)可能な限り避けていこうかと思います。
「悲愴」の作曲された1893年の前後は、ショスタコーヴィチの生きた混迷の時代に比べ、(ほんの半世紀前ではありますが)ヨーロッパ情勢も、ロシアも、比較的安定していました。4年前の1889年にはパリ万博が開催されているほどです。・・・ロシア国内にしても、ほぼ10年前に起きた皇帝暗殺事件の暗い影も、この頃には薄れていたかのように見えます。
ですから、チャイコフスキーが描いた「人生」は、人々に共有されるべき強烈な何ものか、であるよりは、個々人の内面に眠っているものを静かに起こして、
「あなたのなかで、あなたと語ってみて下さい」
そうささやきかける類の音楽になっている、ととらえる方が妥当ではないかと考えております。

では、チャイコフスキーの計算した「普遍性」がどうやってもたらされたか。
この交響曲、ベートーヴェン的な意味で、ではない「動機」活用を存分に駆使しています。方法論的には、「積み重ね」方式ではなく、悪口で言われた「パッチワーク」の方が似合う、しかし、そんな表現では済まない、非常に精緻な「縫い合わせ」方式での動機活用であるため、旋律性が損なわれず、調べが如何に悲劇的な部分であっても、聴衆を疲労させることがありません。

「前提」では断片的な特徴についてのみ述べましたが、全般には、この交響曲は大きくは4つの要素を全楽章に一貫して用いることで成り立っています。

1)標準的な全音音階の上昇と下降・・・全体的に、あるいは部分的に
2)協和音程の跳躍・・・完全8度、完全5度、長3度、短3度、あるいはそれぞれの反転
3)同一音による「タタター」というリズム
4)以上3要素の、文脈の中での必要性に応じての非和声音付加あるいは増減音程化

羅列してみると特別なことのようですが、現実の音符を眺めると、「楽典」の教科書の実践に過ぎないんじゃないか、と思えてしまうほど、あまりにも「あたりまえ」な要素ばかりです。

「じゃあ、他にこれだけの単純要素で作り上げられた音楽作品は巷に溢れているんじゃないか?」

・・・いえいえ、そんなことはありません。
モーツァルトにも、ハイドンにも、ベートーヴェンにも、勿論それ以前以後の有名作曲家にも、これだけ簡単なルールだけで一貫した音楽を作り上げた例は、あまりないのではなかろうか、と思います。
チャイコフスキーの4番以降の交響曲に限っても、この4要素に当てはまるかどうかをお考えになってみていただければ分かりますが、
例1)第4〜終楽章の音階下降の主題は、「ドーシーラソ」までは確かに音階のまんまですが、次からは「・・・ミソラシラソファミドミファソファミレミレドシドシラソラソファミレ・ソ・ド!」と、複雑です。
例2)第5〜冒頭のテーマを第6と比較したとき、第6は「3度上昇2度下降」という比較的単純な(1番目の要素しか使っていない)構造なのに対し、第5では「ドードド|レードシ|ドーラー」、と、同音反復・3度下降・3度跳躍という3要素も使っていて複雑です。
6番では、こうした複雑に入り組んだ使われ方で各要素が現れることは、全くありません。

いかが?

以下、括弧の中は、マニアックでない方・・・この記事をまっとうに読んで下さるかた自体、もう既にマニア、だとは思うのですが・・・より程度が高いマニアと言う意味です・・・は、サラッと通り過ぎて下さい。

(旋律については「移動ド」と呼ばれている読み方を採用していますが、ホンネは最近、「移動ド」とか「固定ド」という呼び方は適切なのかなあ、と疑問に思っています。理屈はともかく、私は「移動ド」読みに関しては「旋法読み」という呼び方に変えたいと思います。現在の西欧音楽の場合には、<旋法>は「長音階」と呼ばれているものと「短音階」と呼ばれているものの2種類しかありませんが、それぞれを「長旋法」・「短旋法」と呼んでもいい、と考えています。・・・とはいえ、一般的ではない上に独善的な見方かもしれませんから、「長音階はドレミファソラシド、短音階はラシドレミファソラ、と読みまーす!」と宣言しておくに留めます。)



各楽章は、上記の4要素のうち、どれを前面に打ち出すか、によって、それぞれの章の「色づけ」を決めてあります。

第1楽章:要素1)・・・弱奏の部分は3度上高2度下降、強奏の部分とコーダは音階下降
第2楽章:旋律は要素1)と4)、伴奏部に主部は要素2)、トリオは要素3)。(この絡みが重要)
第3楽章:要素2)。印象付けの素材は要素3)。但し、序奏部は要素1)に要素4を加えたもの。
第4楽章:要素1)、下降系主体。コーダは要素3)

第2楽章がいちばんおしゃれに聞こえる理由は、4要素が豊富に「前面に」押し出されているためだ、ということが、以上から伺えるかと思います。

なお、要素3)は、第4・第5交響曲でチャイコフスキーの「運命の動機」と呼ばれているものと同じものだ、ということは付言しておくべきでしょう。第4楽章をこの要素を用いている意図も、それによって明らかになります。(第4では「ドードドドド|ドー」でした。第5でも始まりは「ドードド」です。

以上、
・「悲愴」は4要素だけで出来ている
点、ご銘記いただければ幸いです。
具体的には各楽章でまた見ていきましょう。



各楽章を見ていくときに、参考の音声をつける所存ですが、それには次の素材を用います。
・カラヤン1954年来日時の、NHK交響楽団を振った演奏
・岩城宏之、最後のN響定期での演奏
この2つを対比します。
おなじN響であることも、なのですが、2つを比較して面白いことに気づいたからです。

1954年のカラヤンは、まだ世界的メジャーではなかったため、この年、N響に呼ばれて何十回も演奏するという、翌年以降では絶対に考えられないことをしてくれています。
で、このときの「悲愴」の録音・・・人格や、残した演奏についてはこんにち様々にいわれてしまう人ですが・・・スコアに実に忠実であることに気づき、私は聴いていて驚愕してしまいました。また、当時N響のメンバーが必死でカラヤンから「アンサンブルの本質」・「音楽の本質」を吸収しようとしている姿勢が鮮明に出ています。カラヤンのモノラルの「悲愴」録音は1949年のベルリンフィルとの物が、なんとダイソーで105円で買えてしまうのですが、日本人はまだまだ拙かったかもしれないとはいえ、54年の演奏では49年のベルリンフィル以上に「熱く」音楽に向かい合っています。
岩城さんとの最後の定期の方は、悪い演奏ではない・・・初めて聴いたときには私は非常に気に入ったのですが・・・、でも、54年の演奏に比べると、N響のメンバーが、大切な何かを忘れているのが感じられます(あくまでこのときの演奏に関しては、ですから、念のため)。岩城さんも、スコアに忠実だとは言えない。音楽も音色も、途切れる個所が多い。これは、54年の演奏と対比してお聞かせしようと考えております。



断片的なサンプルに終始しますが、お聴きになるにあたって、とくに金管群のかたにご注意いただきたいのは、
「主観的な耳で受け止めないで欲しい」
ということです。
特に、ムラヴィンスキー盤をはじめとするロシア系の演奏では、強奏の個所では金管はバリバリに割れた音色で聞こえますが、これは彼らがアパチュアを意図的に狭くして音を鋭くしているためでもあり、肺活量も相当あるために実現できていることです。それが証拠に、第1楽章のコーダでのトランペットのp(ピアノ)は、実に柔らかい音色に変化しています。・・・さらに、強奏部分でも弱奏部分でも、金管セクションとして楽器の違いを超えて音色感を統一させており、和声もきっかり構築している点は、是非、冷静な耳で、かつ、自分はどうしたらそれが実現できるかを考える頭で、聴いていただければと存じます。

打楽器は、出のタイミングでいかに他のパートを聴いているか・・・つまりは音楽の流れを理解しているか、というところに立ち返る材料として聞いていただけるとよろしいかと存じます。音色感もまた然りで、場合によっては、用いる楽器そのものを考えなければなりませんし、予算がなければ(ないですけれど)いまある道具で最もいい響きを出すにはどうするか、再考しなければならないと思います。

木管群はユニゾンでの音程の正確さと、溶け合ったときの音色を学ぶべきでしょう。また、セクション内でいかにお互いのタイミングを読み取るか、また、弦・金管の橋渡し役としてどれほど重要な役割を荷っているか、を肝に銘じて頂くには、この作品は恰好の素材だと思います。

弦楽器は、まず、「大勢いるから一人くらい弾けなくても・・・」という甘えを断つ、という、他セクションに比べると最も基本的なことから考え直していただければと存じます。

最後のほうは僭越を申し上げました。
職責に免じてご容赦下さいますよう、心からお願い申し上げます。



   ・前提
   ・全体像
   ・第1楽章
   ・第2楽章
   ・第3楽章
   ・第4楽章

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