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2008年1月25日 (金)

「間」と「動き」〜落語を例に

1776年にモーツァルトが作った3曲のピアノ協奏曲について、他の作曲家との比較を含めて触れるつもりだったのですが、そのためには「間(ま)」と「動き」について知っておかなければならないことに気づかされました。
ですので、その前置き、の意味も含めて、なのですが、「間」と「動き」は何も音楽に限られた現象でも問題でもありません。



前に「紳竜の研究」のご紹介で、(「間」という言葉そのものは出しませんでしたが・・・DVDそのものでは使われています)漫才でもそれが大切に考えられていることに触れました。
漫才は、残念ながらCDになっているものは少ないので、お聞きいただける材料を用意できません。
ですので、落語から拾ってみました。・・・あとで、サンプルを聞いていただけます。


ついでに、脱線させていただけるなら(って、勝手に脱線していきますが)、「間が悪い」なんていうのは私達にとって日常茶飯事でして、まずは生活の中に・・・人と人のコミュニケーションの中に、「間」というものが既に存在する。
普段の暮らしの中で遭遇する「間」には、決まり事があるようには思えないでしょう?
でも、芸能は、それを意識的に、「芸」のために利用するから、「間」についても公式のようなものがはっきりあります。
恋愛系のドラマ、それも「青春モノ」でよく使われる「間」の公式で、私が大嫌いなのが、
「鈍感な男Aが、好きな女の子Xのためにあるプレゼントを持っていく・・・と、そこには、Xとキスしている別の男、器用なBがいた」
っていうやつでして・・・ドラマだからまだ目に見えるのでマシなのかも知れんけど、私は天性の鈍感で、この公式に当てはまるドジはしょっちゅうやってきた上に(今も、かもしれません)、器用な男Bを目撃できないままミジメな結末を迎える、ということが多々ありましたので、身につまされてしまって・・・
「またかよー、やめてくれよー」
と、テレビで娘が見ているのを消して、顰蹙を買ったりしています。
ドラマで見せつけられるとイヤんなっちゃうこんな公式も、「お笑い」に転化されると、不思議と気にならないのだから、「お笑い」という芸は、すごいもんだなあ、と感じちゃいます。
なので、「自分で自分を笑え」、かつ、「そんな自分が笑ってもらえる」ようになれたら、大したもんなんだがな、なんて思ったりします。
・・・ですが、この例のようなものは、どちらかというと公式の変数に「ネタ」を収めてしまった類に属するもので、項目もヴァリエーションも豊富にある。

この世にドジがいる限り、ネタに不足はござりませぬ。



ネタを濾過した「間(ま)の公式」というのは、多分、そんなに多くはないのでしょうね。

・大きく開ける
・小さく開ける
・まったく開けない

究極は、この3つだけかな?

(こっからしばらく、読み飛ばしてもいいです)ただし、開ける対象は、道具や美術品のように動かないものであれば「空間」ですし、作業する行為や音などのように動くものであれば「時間」であって、「間」の字に付く前の一文字が違います。
「空」と「時」は、本来は切っても切り離せない縁があるようで、物理学が発達してしまった現代では「時空」などという言葉も生まれていますけれど、そんなややこしいことを考えてもきりがないし、だいいち、私はそこまで追いつける脳ミソは持っていませんから、あえてくっつけないでおきます。
何でも「音声付の映像」で見ることのできる世の中になりましたから、映像を材料に使えば、今回こねようと思っているよりも、ずっと大きな屁理屈(ホラ話)を繰り広げることも出来ますけれど、「音」だけに限って「観察」するほうがラクですから、このたびは「空」の方は切り捨てます。・・・ただし、音声の中から、いま、この空間で何がなされているか、を想像する必要には、迫られるかもしれません。その部分は、お読みくださるかたにお任せして、私は逃げておきます。(ここまで。)



「品川心中」という落語の例です。
古典落語ですから、話の定型部分があります。演者が違っても、話は同じ。
同じ話をどう「違って」聞かせるか、というところに、噺家さんの、「間」の工夫があります。

本筋に入る前に話す部分(マクラ)は人によって自由ですから、ここだけは、題材は同じ(品川という場所はどういうところか・品川の遊郭での客引き・引かれた客のその後の次第・吉原との比較、という構成になっています)でも話題の内容が少々違います。この、違うところを、2例聞いて頂きます。

時代が違うので入り口(マクラ)の話題が違っているのは、当然といえば当然なのかもしれません。志ん生の頃にはみんなが知っていたことが、志ん朝の頃には忘れられてしまった、というところにも、志ん朝が話題のつくりを工夫しなければならなかった、ということが、聞き比べるとはっきり分かります。
ですが、耳を傾けていただきたいのは、そこではありません。
志ん朝は志ん生の次男で、親子ですから、お客さんから笑いを取るタイミングをどうするか、ってあたりは、もう少し似ていてもいいんじゃないか、と考えられませんか?
ところが、まったく違う。
志ん生は、始めたすぐのところから、もうお客の笑いを「つかみ」に行っている。
志ん朝の方を聞くと、・・・馬鹿笑いをしているバカな客が約1名いるようですが(私に似たヤツかもしれない)・・・客席が「笑い」に乗り始める前に、入り口の話を終わらせてしまっている。だからといって、お客は「つまらない」と思っているわけではなさそうなムードが、こんな録音からでも伝わってくる。

何が、どうして、こんなに違うのか?

この「品川心中」、25分ほどの落語なのですけれど、実は、そこはやっぱり親子だけあって、本編に入ると、笑いを取る個所は、全編通せば気づいていただけるのですが、二人ともほぼ同じなのです。ただ、笑いの、「つかみ」に行き方が違う。それが既に、このマクラの部分ではっきりしているのです。

・何が=「動き」が
・どうして=「方針が異なるから」
違うんです。

時代の違いに着目して説明した方がラクをすることが出来ますし、たしかに「時代の常識」の相違が語り方の方針を変えさせているのも重要なポイントではあります。
でも、そのことをあえて無視して、どのように「方針が異なる」のか、に耳を傾けてみて下さると、
「ほほう、なるほど」
と思っていただけるものがあるんじゃないか、と、いま、かように考えているわけです。

なにが「ほほう」か?

「動き」です。
・・・なんだ、話が堂堂巡りしてるじゃないか!

いや、本当に、単純に、「動き」の「方針を変える」ことで、取れる笑いの質が違っている。
「動きの方針」は、「間」のとり方をどうするか、で決まっている。そこに「時代」は関係ない。

「間」の数え方は、結構難しい。息継ぎのための間なのか、お客の反応を待つ間なのか、次と連続して聞こえるけれど本当は「間」が挟まれているんじゃないか、等々、複雑です。
で、聞き取った限りの結果を記してはおきますが、私の耳はあてになりませんので、数えなおしてみることをお勧めいたします。

マクラの終わるところ(志ん生は「板頭」の言葉、志ん朝は「白木屋」の言葉の出てくる前)までで、
・志ん生の間:15程度。そのうち5つは、「息継ぎの間」、10が「客の反応待ちの間」
・志ん朝の間:5程度。そのうち1つだけが「客の反応待ちの間」で、あとは殆ど、「間かどうかはっきりしない、瞬間的な<息継ぎの?>間」
という具合です。

「間」の多い志ん生の方が、喋りがゆっくりしている。つまりは、動きが遅い。これは、話し始めてすぐにお客の笑いを「つかんで」しまっておいて、あとは均等な「動き」で喋りを続ける戦略なのでしょう。

マクラでの、志ん朝の「間」の少なさは、「つかみ」への持っていき方がオヤジさんとはまったく違う発想に基づいて設計されていることに由来します。戦略の前提として、話す内容に説明をたくさん加えている。その方が、後の本編が分かりやすくなるだろう、と考えたのでしょう。
ですが、「説明」というのは「理屈」ですから、「間」をあけながら「理屈」をならべたんじゃあ、(この文章と同じように)お客さんが飽きちゃう。ですので、本編の始まるところへ「つかみ」を持ってくるために、わざとマクラは一気にまくし立てるのです。
上手いのは、単純に一気に行くのではなく、息継ぎの間は前半に5つ集中させ、マクラ(「白木屋」という言葉が出る前まで)の3分の2の位のところに1つ目の「仮のつかみ」を持ってきて、お客さんの緊張をほぐし、本編(「白木屋」からあと)で笑える準備をして置いてある。この、たったひとつだけの「客の反応待ちの間」の時間的な位置が、これより前過ぎても、後ろ過ぎてもダメなのだと感じます。・・・前過ぎては本編までにお客さんは飽きますし、後ろ過ぎると、本編との笑いにくっつきすぎて、メリハリが薄れます。
で、本編に入ると、「客の反応待ちの間」(実際に笑いがとれている)の占める割合が圧倒的に増えます。

このあたりに留意して、もう一度お聞き比べになってみて下さい。
今度は志ん生を先に持ってきて置きます。

どうでしょうか?

なお、二人とも、演じた落語がそのまま活字にされて文庫で出版されていますから(筑摩書房。志ん生のほうは、もう古本でないと手に入らないかな?)、より正確に「間」の数を数えたい場合には参考にできます。ついでに、どこの部分をどういう抑揚で語っているかを、赤ペンで波線かなんかで書き込んでみると、速度感だけではない「動き」の面白さについても気がつけたりするはずです。・・・私はやってませんが。
その辺は、お好きにどうぞ。

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