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2008年1月31日 (木)

音楽と話す:「響き」か「言葉」か

    人間には港がなく、時間は寄る岸辺なく、
     時間は流れ、わたくしたちは過ぎて行きます。
       ----ラマルチーヌ「みずうみ」から。入沢康夫訳



音楽と話す:(これまで話してみたこと)
いりぐちのおはなし
なぜ、あなたは私の心を動かすのですか?
どうやったら、あなたに近寄れますか?
そもそもどうやって、あなたと出会えたのでしょうね?


・・・音楽さんとお話してきて、別に計画無しにお話しているので、話が堂堂巡りしているのはともかく、分かりやすい言葉だったかなあ、と、何気なく反省して記録を読み直してみました。
思いのほか、
「むずかしいや、こりゃ!」
でありました。
音楽さんが、こないだ黙りこくってしまったのも、無理のないことだったかもしれません。
でも、もう1回くらいは、難しい話をしなければなりません。・・・まずは、音楽さんへのお詫びから。


「音楽さん、ごめんなさい」
「へ、何が?」
「話を、難しくしちゃったかも知れません」
「いや、なんの」
そうは言ってくれたものの、音楽さんは、いま、あんまり明るい顔をしていません。
少し、様子を見ていました。

ようやくのことで、音楽さん、ぼそり、と口を開きました。
「あんた、あっしがどんな生まれか、ご承知で?」
「は?」
「あっしが、どこでどうやって生まれたのか、ご存知ですかいな?」
「・・・いえ、全然。」
音楽さんは、深い溜息をつきました。
「実は、あっしにも、分からないんでさぁ。。。」
いけない、暗い過去の打ち明け話でも始まるんでしょうか?

「気づいたときには、あっしは、響いてたんで。」
「どんなふうに」
「最初気づいたときは、火山が噴火したときの、ものすごい大きさで」
「それは、とんでもない!」
「でも、次に気づいたときは、鳥の声みたいな、可愛らしい声で」
「ステキじゃないですか?」
「いや、なんで、最初と次の記憶がこんなに違うのか、皆目見当がつかねえんで。。。」
「はあ・・・」
「とにかく、あっしは、ただの<響き>だった」
「ただの、ですか?」
「そうですじゃ。それを、あっしに<音楽>だなんて名前を付けたのは、あんたたち、人間さんなんで」
「ほほう。」
「名前を付けたとき、一緒に、あっしに<言葉>ってものをくっつけた」
「言葉、ですか?」
「<歌>とかいうやつなんでさぁ」
「<歌>ですか?」
「で、あっしの<響き>よりは、<歌>ってやつの言葉で、あっしを分かってやろうじゃねえか、って具合に、話がまとまったみたいじゃな」
「整理がついて、良かったじゃないですか」
「ところが、そうでもねえんで」
「整理がつききらなかった、ってことですか?」
「まあ、そういうこっちゃな。<歌>で満足しねえ学者さんつうのがいて、あっしの<響き>が、どう組み合わせたら人間様の耳に気持ちいいか、なんてことを、いっしょうけんめい調べだした」
「言葉とは、関係なしに、ですか?」
「左様。たとえば、1本の糸を用意して、その半分の長さの別の糸を用意すると、同じ音になる。同じように、3分の2の長さの糸を用意して、元の糸と一緒に鳴らすと、それだけで<音楽>がきれいに聞こえるんだよな、とか言い出しやがった」
「<言葉>がなくても、音楽さんは音楽さんでいられる、ってことになったわけですか」
「そうらしいんでさぁ。」
「まあ、これ以上、ますます話が難しくなっても何ですから、このくらいお聞き出来れば、一応充分ですよ」
「ありがとサン。・・・でも、あっしって、ホントはいったい、何者なんじゃろな・・・」

これまで私を半分せせら笑っていたふうな音楽さんでしたが、結局は、私の方が音楽さんを悩ませてしまったみたいです。



音楽にとって何が大切か・・・人間が考えてきたことには、長くて、複雑な歴史があります。
歴史を辿ることは別にやっていますので、以降、音楽さんとの対話そのものは、

・「音楽」はどういう要素から成り立っているか

・そうした要素が「音楽」に仕立て上げられるには、どんなルールが必要か

という方向で進められればいいのかな、と、いまはふと、思っています。それでいいのか?

ひとつだけ、ある方からご指摘いただいていることですが、キリスト教の「聖歌」で何が重視されてきたか、についてのみ、他宗教との比較も少し挟み込みながら、補足をしておきましょう。

こんにちも歌い継がれている古い(カトリックの)聖歌は、ヨーロッパの場合は、4世紀のアンブロジウスという人がまとめたものが源になっているかと思います。
彼の名前を冠した聖歌は、緩やかながら「リズム」が明確で旋律が豊かですので、アンブロジウス自身は、おそらくは「信者にとって歌いやすい」ことを最優先にまとめあげたのではないかと思われます。
ですが、アンブロジウスその人の功績を評価し、聖歌の重要性を訴え、後世に大きな影響を及ぼした教父アウグスティヌスは、旋律やリズムに酔うことが聖歌の主目的ではない、ということを、口を酸っぱくして述べています。むしろ、その歌の「言葉」によって、歌い手がその信仰を浄化させることが大事なのだ、という見解を持っています。

イスラム場合には(文献は狭い範囲のものしか読んでおりませんが)、コーラン【クルアーン】の朗詠を私たち非信者が聴くと
「荘厳な歌だなあ」
と捉えてしまうのですが、イスラム教徒の人にとっては、コーランの朗詠を音楽と考えることは許されない行為です。そこにたとえ美しい旋律があっても、心惹かれるリズムがあっても、それはコーランの心がもたらしてくれるものであって、音楽とは区別して捉えなければならない、ということのようです。

イスラムは厳格な宗教ですから、上記について異なる意見や見解は存在しないでしょう。
仏教については・・・経文を唱えるときには独特の節回しがありますけれど・・・明確な見解はありません。
キリスト教の中でもカトリックの場合は、宗教音楽についてはテキストが固定化されていきましたから、特にルネサンス期以降は「旋律・響きの豊かさ」の方を重視する傾向になっていったのではないか、と、私は受け止めております。たとえばドイツのプロテスタントのコラールは、すくなくとも草々当時は「言葉重視」です。ですが、こちらも、ある行事で歌われる旋律は固定化されていきましたから、結局はその旋律が「信仰」の象徴になり、言葉不要のオルガン作品に用いられるだけで信仰の象徴ととらえられるようになっていきます。

いずれにせよ、少なくとも、「信仰」に関わる音楽(もしくは韻律)は、信心を促進するためには<言葉>が優先される、というのが基本となるのでしょう。


今日の会話のまとめ

音楽:「あっしは、実は、あっしがどうやって生まれたのか、知らんのですじゃ」
私 :「どういうことで?」
音楽:「あっしを<音楽>と呼ぶようになったのは、人間達なんですがね」
私 :「そうですか」
音楽:「それは、あっしがただ単純な<何か>だったから、じゃあねえんです」
私 :「と仰いますと?」
音楽:「あっしが<音と音の響き合いだ>、っていう人もいれば、<滑らかに流れる言葉で心に訴えかけるもんだ>っていう人もいて・・・いったい、どっちがほんとなんですかのう。。。どっちもホントなんですかのう」
私 :「・・・分かりません」
音楽:「・・・そうでっか。。。」

お粗末さまでございました。

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