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2008年1月 7日 (月)

モーツァルト:集大成!「聖体の祝日のためのリタニアK.243」

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。



最近、関係ない話から入るようになってしまって、すみません。
でも、そうでないと、成人に達したモーツァルトについては、充分入り込んで行けない気がするようになりました。
「モーツァルトの音楽」を全部追いかけてみたい、と思い始めた頃は、半面、一作一作をさらっと眺めれば事足りると思っていました。
が、たどって行くうちに、音符ひとつひとつが
「それじゃあダメだよ!」
と呼びかけてくるようになりました。
アルフレート・アインシュタインや日本の海老沢敏教授などの見解に、歴史の本も併せて読んだりして時代背景を捉えれば、少しは「ダメ」と言われなくなるかなあ、と考え直してみました。
それも、しかし、充分な手段ではありませんでした。
もはや、モーツァルト個人が、というのではなく、音楽そのもの、ひとつひとつが
「僕を、まっすぐに見つめてくれ」
と主張するようになってきました。
「・・・僕は、決して、いつまでも<神童>の音楽ではない!」


引き合いに出すには突飛な例ですが、私の息子はチャップリンが好きです。ですので、DVDでいろいろ揃えてやりました。私自身はなかなかチャンスがないし、息子はたくさん見てはいても、さすがにまだ小学生ですから、チャップリンの映画への捉え方も、大人とは違うかも知れません。
「チャップリンと言えば喜劇」
というのが、息子にとっての入り口でもあり、世間一般の捉え方もそうです。
ですが、そんな息子が最も好きなチャップリン作品は「独裁者」です。私が最初に見せた作品だったせいかも知れません。(昨日は「スクリーンで見たい」というので、上映されている映画館に出掛けてきました。DVDで見るのとは大違いの感激だったと言ってくれました。)
息子曰く、
「チャップリンは、ただ人を笑わせようとしただけじゃなくて、みんなの幸せを願っていたんだね」
自分もそうなりたい、というのが、彼の夢です。
「喜劇を演じたチャップリン」
という像から息子がまだ脱しきれないのは構わないと思います。
ですが、チャップリンが演じたのが「喜劇だけ」ではないことに気が付き始めてくれていることが、私にとっては嬉しいことです。

息子を通じ、私が最も好きになったチャップリン作品は<ライムライト>です。
この作品にも、道化たシーンが豊富に取り入れられています。
ですが、<ライムライト>に登場するチャップリンはもはや素顔です。なおかつ、どうでしょう、<ライムライト>をご覧になった方は、<ライムライト>を喜劇だとお感じになるでしょうか?
私に今言えるとすれば、<ライムライト>は、人生の喜びも悲しみも全て味わい尽くした人が描いた、喜劇でも悲劇でもない、ナマの人間の多くの苦悩と、ささやかな「幸福の孤独」を表現した作品なのではないか、ということです。(チャップリン作品の話は本筋ではないので、内容や、構造の巧みさについては別の機会に触れられれば、と思っております。・・・出来ることならこの作品の主人公カルヴァロのような出会いが私にも出来て、かつ主人公のように死ねたらいいなあ、と思っています。)



脱線、すみません。


モーツァルトは、チャップリンが<ライムライト>で至った境地には、1776年(20歳)時点ではまだ達していませんが、実は、この年に、20年の生涯の集大成とも言うべき作品をモノにしています。
残念ながら、しかし、この作品、モーツァルトのウィーン時代以降の名作に埋もれて、一般に「傑作だ」と認知されるには至っていません(さすがに、アインシュタインは見抜いていますけれど)。

そんな集大成が、この「聖体の祝日のためのリタニア 変ホ長調 K.246」です。

本来、この場で全曲をお聴き頂き、「なるほど」と頷いて頂けるのを是非この目で見たいのですが、判断は読んで下さる方にお委ねすることにしましょう。

文ばかり長くて、そのくせ多くを語ることは出来ないのですが、構成に加えて注記を致しますので、そこからこの作品にかけたモーツァルトの意気込みを少しでも汲み取って頂ければ幸いです。



調は、断らない限り変ホ長調です。また、編成の基本はオーボエ2本、ホルン2本に弦五部と通奏低音(オルガン)で、ヴィオラはときに二部に分かれます。

1.Kyrie(Andante moderato, 3/4,78小節)
〜ソナタ形式を意識した1部(1〜24)・2部(25〜40)・3部(41〜61、ハ短調)・4部(62〜78)の4部構成です。ソナタ形式を彼が明確に創作手段に取り入れたのは、3回のイタリア旅行を終えてからでしたが、その後たとえば交響曲第25番から第29番に至ってひとつの定型を確立していました。同じリタニアでも、前作K.193(1774年、2年前)では、定型を用いています。うまく表現できず恐縮ですが、4部は定型的な再現部となっていますが、2部・3部は並立する「展開部」に相当します。・・・二つの展開部を持つソナタ形式作品など、同時代はおろか、19世紀も末期に至って音楽作品が長大化しないと現れません(ブルックナーなど)。それをたった78小節の中でやり遂げた「気迫」には注目しておきたいところです。なおかつ、この章の第4部は、終曲"Agnus Dei"の後半部で再び登場し、統一感をもって全曲を終了させるのに大きな役割を果たしています。

2.Panis Vivus(Allegro aperto, B, 4/4, 144小節)〜テノールソロの、しかもザルツブルクに居着くようになってからは全く作っていなかった(イタリア旅行をしていた時期には他作していましたが)、きちんとした「ダ・カーポアリア」です。21小節の器楽のみによる伴奏が続くところから「オペラ的」で、ちょっと驚かされます。第1部が22〜70小節、中間部が71〜89小節で、第1部への回帰が90〜144小節、という作りです。(なお、器楽部のテーマが"Requiem"のTuba mirumと同じだ、ということがしばしば「通の方に」「得意げに」語られていますが・・・アインシュタインも書いてたっけ?・・・私は、単なる偶然の一致だと思います。テーマは、次に続くフレーズがどうなっているかまでを考慮して理解すべきでして、3小節目以降は両者はまったく異なっていますが、先の主張をする人たちにこのことが等閑視されているのは疑問です。)

3.Verbam caro factum(Largo, g, 4/4, 12小節)
4.Hostia Sancta(Adagio, c, 4/4, 127小節)
5.Tremenda(Adagio, c, 4/4, 32小節)
〜第4曲を中間部に置いて、3から5まで連携しています。連携を象徴するのは16分音符の「水平な」動きです。3・5曲は、共に、"Requiem"のRex tremendaeを先取りしています。

6.Duicissimo convivium(Andantino, F, 3/4, 98小節)ソプラノ独唱のカヴァティーナ
7. (Andante, g, 2/2, 39小節)ソプラノ斉唱(合唱)のカントゥス・フィルムス
8.Pignus(テンポ指定無し, 4/4, 128小節)合唱による二重フーガ
〜この3曲も一連のものと見なし得ますが、とくに最初の2曲はオーケストレーションに瞠目すべき特徴があります。第6曲はフルート2本、ファゴット2本が、ロココ調の絵画を見るかのように、ソプラノの親しみやすい旋律を飾ります。これは彼の過去のどんな劇作品よりも華やか、かも知れません。第7曲は終始一貫して、弦楽器はピチカートだけで演奏されます。当時としては異様なオーケストレーションだったと思います。定旋律だけが引き延ばされて歌われるのですが、この定旋律は、聖体の祝日のためのグレゴリオ聖歌 です(どちらも、リンクをクリックすると聴いて頂けるようにしておきますので、聴き比べてみて下さい)。この章はトロンボーンが独立で取り扱われている(アルト声部以下を歌わせないための方便だったのだとは思いますが)点にも留意しておかなければなりません。このあと、締めくくりに、この作品のあとで書かれた「ミサ・ロンガ」に向けて気力の充実を図ったかのような二重フーガを持って来ているのです。「私はポリフォニー作家でもある」という、ザルツブルク時代では、最後のアピールの一つだったのでしょう。

9.Agnus Dei(前半:Andantno, B, 2/4, 88小節)〜ソプラノ独唱のカヴァティーナで、オーボエとチェロのソロが一貫して歌を彩る点で、6曲目と関係づけられています。
(後半:3/4, 45小節)〜は、先程述べました通り、第1曲への回帰です。



リタニアはミサ曲のように公的なものではなく、個人の祈願のための楽曲だそうですから、モーツァルトは自由におのれの20年の生涯を振り返り、
「今までの自分を、ここいらでまとめあげ、再認識しよう」
と熱心に創作に打ち込んだのではなかろうか、と想像したくなります。

改めて全体の構造を眺めてみて下さい。

穏やかに敬虔に跪いて祈りを始めたかと思うと、自分の青春の入り口に立ち戻ってイタリアオペラのダイジェストを神への捧げものとして披露し、3〜5曲(短調が基調)では沈痛な表情となって「でも、私はまだ迷っているのです」と訴え、6〜8曲では「迷い」の元はこれなんです、とでも言わんばかりに、最新の技術を手にしてしまった自分の身を、あたかも祭壇の前に投げ出しているかのようです。投げ出した身を以て、このリタニアは、また敬虔な、しかし、間に挟まれた楽曲の数々により、冒頭とは比較にならないほど深く心を込めた祈りへと、立ち戻って行くのです。

この作品の初演については、シーデンホーフェンという人の日記に
「1776年3月31日 午後五時、大聖堂で法廷と一緒に祝日説教師による説教。(中略)モーツァルトの新しい『リタニア』も演奏された」(ドイッチュ/アイブル編『ドキュメンタリー モーツァルトの生涯』121頁、シンフォニア1989年)
と記載があるものに比定されています。

なお、歌詞について、また、音楽の読みについて、こちらに素晴らしいサイトがあります。
ご一読なさってみて下さい。

スコアは、NMAでは第2分冊中にあります。単独ではCarus版が出ていますが、この作品は自筆譜が残っていますので、NMAとの間に差異はありません(詳しくは見ていませんが、編者はそのように言っています)。

CDは、ヴァントの指揮したものがあります。

毎度、マニアックで失礼しました。

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コメント

前回、わがブログで紹介したK339と同様、知られざる名曲です。第2曲目の第1ヴァイオリンのテーマ、レイクイエムの「Tuba mirum」のバスソロで登場しますね。ご指摘の7曲目、グレゴリオ聖歌を改変、美しい和声で大好きです。

投稿: ランスロット | 2008年1月10日 (木) 17時35分

ランスロットさん、いつもありがとうございます。
グレゴリオ聖歌をどう改変したかについては、「音楽の読みについて」リンクを貼らせて頂いた町田さんの頁にきちんと説明されていて、勉強になりました。ご覧になってみて頂けたら幸いです。
それにしても・・・この作品、K.339と共に、完成されたモーツァルトの宗教音楽としては最高傑作なのではないでしょうか?
あまり知られていないのは残念ですが・・・宗教音楽という性質からは、「知られていない」方が健全なのかなあ・・・うーむ。

投稿: ken | 2008年1月10日 (木) 23時03分

こんにちは。
ついに来ましたね、K243。
>リタニアはミサ曲のように公的なものではなく、個人の祈願のための楽曲だそうですから
これは知りませんでした。
モーツァルトのリタニアが彼のミサ曲よりも
(いろいろな意味で)充実している理由はそんなところにも
あるのかもしれないですね。

この曲やニ長調K195を聴いていると、モーツァルトの老成ぶりに驚かされます。
Kenさんもよく仰っているように彼のザルツブルク時代の宗教音楽は
もっと注目されてしかるべきですね。
2、3のミサ曲やK165くらいしか知られていないのは惜しすぎます。

P.S)明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いしますね。

投稿: Bunchou | 2008年1月12日 (土) 17時06分

Bunchouさん、あけましておめでとうございます。
今年もいろいろご教示下さいね!

リタニア(連祷)については、じつはキリスト教関係の文献では、きちんとした記述にお目にかかっていないので、どんなケースでなされる「祈り」なのかは、把握していないのです。但し、ヴェスペレとは違って聖務日課ではありませんし、「ロレトの連祷」の場合には病人の治癒を祈る目的があることが明らかだという点、「聖体の祝日用」であれば、言ってみれば「アヴェ・ヴェルム・コルプス」のようなものの集合体と見なしうるかとも思いますので、ドイッチュ/アイブル編『ドキュメンタリー モーツァルトの生涯』にあった注釈を信用した次第です。

ご指摘のように、この時期になると、モーツァルトの宗教作品は、既に「ドン・ジョヴァンニ」から「レクイエム」にかけての和声法、主題作法を獲得していますし、次に触れようと思っているK.260になると・・・って、これは触れる時に述べて、また是非をご批判頂くことにしましょう!

投稿: ken | 2008年1月13日 (日) 01時14分

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