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2008年1月16日 (水)

「つかめない」苦しみ(96年のC.クライバーの例を通して)

(後半はマニアックな話です。前半だけでお読みになるのをすませて下さっても結構です。)



私の子供たちは、13ヶ月前に母を失いました。
ですが、私より泣きませんでした。いまも、私の目の前では、特別なとき以外は泣きません。

息子の例をご紹介します。

息子は柔道を習い始めました。始めて3ヶ月になったばかりです。
昨日、久々に、その息子が「乱取り稽古」しているのを目にしました。
投げられるときは、実に奇麗な受け身で投げられるので、これは見ていて爽やかなのですが・・・息子自身はとっくに私より背が大きくなっているのに、相手が自分の半分くらいの背丈でも、やっぱり奇麗に投げられてしまう。
昨日は、息子の方が技をかける側での稽古でした。
ところが、足は出ても、体が前に出ていないので、自分のほうが倒れてしまう。技にならない。
「相手をつかめ!」
師匠に何度も言われるのですが、つかまえられない。
帰り道で、柔道も何も分からない私に、さんざん講釈を垂れられました。
「こうやって」
と、息子の襟をつかんで、力いっぱい引っ張りました。
「相手をぐっと引きつけなくっちゃ、つかまえられないんだよ」
「・・・うん」
「足だけ出たって、自分が相手をつかんでなくっちゃ、ひっくり返るのは自分なんだよ」
「・・・うん」
「つかめなくっちゃ、技にならない。何やってんだよ」
「・・・うん」
帰宅して、息子はトイレに駆け込みました。私と一緒に歩いているうちは、初めはニコニコしていたのです。ですが、駆け込んだトイレからは、なかなか出てきませんでした。
しばらくして、晩ご飯を食べるためにテーブルについたとき、見ると、こめかみが濡れています。
「なんだ、これ、汗かいたのか?」
「ううん、顔、洗ったんだ」
トイレの中で、一通り悔し泣きして来たのでした。
で、食卓では、もうケロッとしています。

本当は、「つかめない」悔しさは、オヤジに言われるまでもなく、不器用な息子自身が誰よりも知っているのです。



柔道なら、技をかける前提として「つかむ」ということがあります。
ですが、「つかむ」大切さは、柔道に限るわけではありません。
漫才にも「つかむ」という用語があるのは、最近、若手のお笑いを審査するテレビ番組もあるので、ベテラン陣が
「もうすこし<つかみ>を早くもって来れないとアカンな」
なんて評価をすることがあるのは、ご覧になったことがあるかたも少なくないでしょう。
これは、「お客の興味を自分のほうにグイと引き寄せる」くらいの意味合いでしょう。ただ、柔道着と違って、具体的に「つかむ」襟や袖がない分、どうやったら「つかむ」ことが出来るのかは、なかなか見えづらい。・・・でも、ベテラン陣から見れば、駆け出しは何故「つかめない」のかは、一目瞭然なのです。

ただし、「つかめない」ことに悩んでいる自分を、お客に悟られてはいけない。
これは、柔道で技をかける駆け引きをする場合と、やはり共通しているでしょう。

「つかめない」悩みは、自分だけが、自身の中で抱き続けなければならないのです。でないと、駆け引きに負けてしまう。

これは多分、恋愛も同じで・・・私のような短気者は「つかめない」悩みを自身の中でじっと我慢できないから、若い時分には失敗ばかりでしたし、たまたま拾ってくれた家内・・・そう、家内の方が私を「つかんで」くれたのですから・・・を亡くしてからも、メソメソしっぱなしだし、新たに恋をしようと思っても、うまくいかないのです。

そんな私に比べたら、悔し泣きも人前に見せない息子、また今日は例を上げませんでしたが、娘には、ずっと明るい未来が待っている。それがたとえどんなかたちであっても、悔いのない何かを「つかんで」くれる、と信じてやりたいと思っております。

脱線しました。



どんな世界でも、どのようなベテランでも、「つかめない」悩みからは解放されません。
いや、むしろ、ベテランになるほど、いったん「つかんだ」はずのモノが、ある日突然「つかめない」ことに気づいたとき、愕然とする。まして、昨日まで一流の域に達していたのだったら、「つかめない」瞬間に気づいたとき、即座に引退を決意しなければならない。以前、相撲では横綱千代の富士がそうでした。ブームの中を駆け抜けたいくつかの漫才師たちも、引退を選択しました(先日記事にした「紳助竜介」もそうです)。

この点では、クラシック音楽界の演奏家たちは、歌手を除けば「つかめない」事態に陥っても、潔く引退する例は、稀です。ちょっと特別な世界かも知れません。
・・・それ以前に、その音楽家自身がもともと音楽を「つかめない」でいることに気づいていない、というケースも非常に多くあるのが、また、世界の特別さに「花を添えて」要る気がしないでもありません。



私が知る限り、クラシック音楽の世界で、歌手以外で「つかめない」自分に気が付いて引退をしたと考えてもいいのかな、と思える人物は、作曲家ならばロッシーニくらいです。ロッシーニは、正確には「オペラ作りをやめた」のですが、俗説で言われているように「お金が充分貯まったから」ではないはずです・・・そのことは、感触としては把握したつもりではいるものの、まだ調べきっていません。演奏家には何人かいたかと思いますが、覚えていません。(サリエリの晩年も、ロッシーニに似たところがあります。モーツァルト毒殺容疑がなかったら・・・可哀想な人!)

指揮者では、スウィトナーは病気で引退しましたね。例外中の例外でしょう。

正式に引退を表明したわけではありませんが、カルロス・クライバーは、晩年、「引退」ということを強烈に意識していたのではないかと思います。

80年代後半からは年に2、3回しか指揮を行なわなかった、という話は有名ですし、1999年を最後に公式の演奏活動を行うことなく(病気のせいだ、ということもあったのでしょうが)、2004年にひっそりと世を去ります。

いまはバラ売りになりましたが、以下のタイトルのDVDが5枚組のセットで出ていました。
録音年代順に並べると、
1)ベートーヴェン:交響曲第4番&第7番(1983)コンセルトゲボウ
2)ウィーンフィル ニューイヤーコンサート(1989)
3)モーツァルト「リンツ」、ブラームス:第2(1991)ウィーンフィル
4)ウィーンフィル ニューイヤーコンサート(1992)
5)モーツァルト:33番、ブラームス:第4、他(1996)バイエルン国立

この前後に、公式には1978年の「カルメン」1979年1994年の「バラの騎士」、1984年の「こうもり」の映像もあります。さらに遡って、南ドイツ放送響(現:シュトゥットガルト響)で「こうもり」序曲と「魔弾の射手」序曲をリハーサルした映像もあります。これを年代順に見ていくと、彼の指揮の仕方の変貌が伺えて非常に興味深いのですが、詳細には触れません。

機会があったらじっくり見比べて頂きたいのが、上記のうちの3)と5)です。いずれもモーツァルトとブラームスを指揮したものですが、5)は3)の五年後です。

この二つだけ見比べると、5)の方は、3)よりもいきなり老け込んでいるかのように見えます。「振り」が、うるさくなっている。若い時にはきびきびとスピーディなタクトをとる人でしたから、若い頃に帰ろうとでも意識したのか、と、一瞬錯覚してしまいます。ですが、違うのです。
この二つの録画年次の中間より少し後ろに位置する、94年の「バラの騎士」の前奏での指揮ぶりは、78年の同じ曲の指揮と基本的な「設計」は変えていません。にもかかわらず、78年よりも、全体的に、不必要な部分は振らず、音楽の流れをオーケストラに任せる柔軟さを見せています。
彼がもっとも美しい指揮をしたのは、89年と91年、92年のウィーンフィルを相手にした際のことですが、94年に至っても、それは変化していない。
それが、たった2年後には、彼にとってはウィーンフィルよりも近しい関係であったはずのバイエルン響を相手に、「美しくない」指揮をしている。
96年の映像だけ見ても、気が付かないのです。
91年の、ウィーンフィルとの組み合わせでの映像と比較して初めて、
「え? カルロス、こんなに老けてしまったの?」
そのように、初めて印象づけられます。
オーケストラの性質の違い、という要因も、実は大きいのですが(オーケストラ内部でアンサンブルを築き上げてしまう、という技量もプライドも、ウィーンフィルの方が遥かに高いですから)、それにしても、若い時と比べると、ずっと保守的で、流麗さに欠ける指揮をしている。
表情を見ると・・・そうでなくても、残っている映像ではあまり柔らかい表情をするところを見せない人ですが・・・いつにもまして「硬い」。

「つかめない」
それがなんだか分からないけれど、自分には、もうつかめなくなってしまった何かがある。
カルロス・クライバーは、96年の時点では既に、そんな思いを抱いていたのではないか。
それは、大変に、晩年の彼を苦しめたのではないか。。。

先日、ウィーン・リング・アンサンブルを聴いて来て、つい懐かしくなって、クライバーの振る「ニューイヤーコンサート」の映像を娘に見せましたら、
「こんなに奇麗な指揮をする人は見たことがない」
そう言って感心していたのです。
そのあとで96年のクライバーの映像を見ると、なんだか苦しげに見えて仕方ありません。

YouTubeから、上記の各DVDに対応する映像をリンクしておきますので、私の抱いた感想が合っているかどうか、是非、その目でご検証頂ければと存じます。

YouTube上にある彼の映像は、こちらのリンクから全てご覧頂けます。(「ボエーム」や、来日公演時の「こうもり」序曲の映像などもあります。

長々失礼しました。

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コメント

音楽ではない前フリへだけの反応で済みません。
私も中学の時に柔道をやっていたので、ついつい懐かしさ半分で。(^^;

息子さん、始めて3ヶ月ですか。普通はまだまだ構え(体さばきやら腰の高さやら)がしっくり来ない時期・・・だったような気がします(誰のことだ?・・・笑)。
具体的なことは道場(部活?)で指導してくれていると思いますし、何より息子さんは「口惜しがる」ことを知っておられるようなので、途中でやめる事さえなければ、結果が出る時が来ると思います。

投稿: D | 2008年1月16日 (水) 23時55分

Dさま、コメントありがとうございました。

まあ、ほんとうにどこまで「悔しがっている」んだか、このあとも飄々としていて、つかみ所がないんですけれどね。
本人がなにかを自覚しているなら、あんまり過分にとやかく言ったりしたらいかんのでしょうね。

気を配ってあげられればいいんですけれど。

心から御礼申し上げます。

投稿: ken | 2008年1月17日 (木) 19時24分

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