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2007年12月11日 (火)

苦しみの時は幸福のとき

さて、脇道に気をとられず、ほんとうに、「生」の方を向いて行かなければなりません。
亡妻の骨を埋めてやり終える前に。

だらしのないことに、私は先週末以来、「ウツ」ぶり返し状態です。御者(=家内)不在になってから抑制が利かなくなった、いろんなつまらんこだわりや感情で、折にふれ自分で自分をそういう方向に追い込んでいるのですから、大馬鹿者です。今日も午前でダウンしました。
でも、後ろ向きに、そのことをウダウダ考えるのはやめておきましょう。もう4年、引きずっていることです。そのときそのときの引き金が違っているように見えても、根っ子は同じ。一度陥った「心のバランス崩壊」から回復できないでいるだけです。

「頑張らないでいいんだよ」
家内は毎朝そう言って出掛けてくれたのでした。今は、それを自分で自分に言わなければなりません、もとい、「なければならぬ」はマイナス思考ですから、自分で自分に言えばいいし、言いたくない日は言わないまんま出掛けたっていい、ということにしておきましょう。

家内曰く、
「人間万事、塞翁が丙馬(ひのうえうま)だからさ、ハハハ」
「それを言うなら、<塞翁が馬>だろうが! 丙午じゃ、向田邦子だよ」
「あれ、そうだっけ」
「そうだったような気がするけどなあ」
・・・掛け合う相手のいない今、これを一人漫才でやるのは、さすがにちょっと恥ずかしいですけれど。
家内は向田邦子の『父の詫び状』が大好きなのですが、なにせ散らかし魔なので、買って来てやったはずなのに
「あのさあ、無くしちゃった」
「しゃあないなあ」
って、買って帰ってやると、
「ごめん、またどっかいっちゃった」
最低、3冊は買ってやったかなあ。でも、いまだに、1冊も見つからない。持って行っちゃったのかな。



信仰の話を、というのではなく、純粋に、今日、心に響いた言葉を記しておきます。

仏典や旧約聖書が有象無象なのに対して、新約聖書は大変に良く編纂された書物だと思います(※)。
叔母が修道女だった話を、前にチラとしましたが、私自身はキリスト教徒でもないのに、叔母の面影をみるようで(残っている写真は写りが悪いのですが、私の家系には珍しい、大変な美人でした)、子供の頃から福音書や使徒行伝を読むのは好きでした。
ですが、パウロの手紙となると、難しくて手が出ず、少し大きくなってから、かじる程度に眺めただけでした。
ですので、この言葉を知りませんでした。

どんな文脈で出てくるか、については省略します。
ですが、「弱っている<生>」に向けて、これほど強く正面から呼びかけてくれる言葉があったとは。

「私は弱い時に強い」・・・(コリント人への第2の手紙、12-10)

・・・私は、というと、
「弱い時には弱い。強い時は、あるのかなあ・・・ありゃせんなあ」
なのであります。

ですから、せめて、パウロのこの言葉を糧にしましょう。

さて、明日こそ早退しないですむように、ZARDでも聴きながら早寝しよう!
彼女の残した歌の言葉も、素晴らしいものばかりですものね。



(※ 外典の問題は旧約聖書同様に存在しますが、そんな話は野暮なのでよしました。)

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