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2007年12月25日 (火)

まっすぐにみつめる

年明け1月5日にTMFの演奏会を致します(無料)。上野や浅草から近いので、お時間がおありでしたら是非どうぞ。こちらをご覧下さい。



おとといの「クリスマスプレゼント」は、こちら。

昨日の分は、こちら

クリスマスパーティは、もうお済みでしょうけれど、今日(12月25日)が本当のクリスマスですね。
音楽の、3つ目のプレゼントをさせて頂きます。

調べもので適当な資料に巡り会えず、やっと昨日見つけた「アンブロジウス聖歌」の中からのものですが、難しい話は今日はしません。
思いのほか、日本の「わらべうた」に似た素朴な味わいであることに、驚きました。
敬虔な「祈り」とは、本当は、大変に素朴で、素朴だからこそ厳かなのですね。
少年合唱のように聞こえるかもしれませんが、歌っているのは成人女性たちです。
(NAXOS 8.553502)



私は、「人を直視できない」性格でした。
子供の頃から、親の目をまっすぐに見られませんでした。妹が二人いますが、その目をまっすぐ見ることが出来ませんでした。恋する人の目を、まっすぐに見られませんでした。
また家内の話になって恐縮ですが、家内には「恋した」という思いを抱いたことがありませんでした。その分、すぐに彼女の目を、最初からまっすぐに見ることが出来ました。
以来、親の目をも、妹たちの目をも、まっすぐ見られるようになりました。
まっすぐ見られる、ということが、「心が爽やかに開ける」ことなのだ、とは、それで初めて知りました。

でも、その「まっすぐ」が、1年前の明日、家内が天に召されてから、どうも、思っているのとは違う方向にばかり向いてしまっている気がします。
先日の埋葬完了までは、迷う自分に振り回されつつ、それでも「まっすぐ」見なければ、という思いを捨てずに来たつもりでいました。
・・・でも、何かが、私の目の前のプリズムになってしまっていて、私の目の光は、そこから「屈折」してしまっているようなのです。

素直に発したつもりの言葉が、素直に通じません。
素直な言葉を受け取ったとき、そのときに限って、言葉は曲がってしか私の耳に届きません。

死だとか、埋葬だとか、法要だとか、生活のリズムの回復だとか・・・いろんなことに振り回されて、それはそれでたいへん貴重な経験でしたし、家内の去り際があまりに急だったことで一層迷いも深かったのですから、今となっては人間として感謝すべき日々を送らせて頂いて来たのだ、と信じています。

ですが、ひととおり表向きの形式的なことが終わってしまってみると、体験を充分に昇華させられない自分には、ただもどかしさを感じ、愚かしいと自虐の念を抱くばかりです。
「自ずと変わって行くものですよ」
尊敬するカウンセラーの先生が、この間仰って下さった言葉です。
だのに、「自ずと」の訪れが待てない短慮な自分に、毎朝毎夕直面する。



このところ「宗教書」からの引用が多かったかと思いますが、本当の意味での宗教書は<人に優しく>ありません。
たてまえは、昨日あげた歌の通り
「主(神・仏)は甘い慰めを与えて下さいます」
であることは、ごく一般的な、心の救いを求める人向けの分かりやすい新書の類いが「優しさ」にばかり触れていることから、「まあ、そうなのかな」と思わされがちです。
ですが、例えば聖書中のイエスの言葉にせよ、シャカの言葉にせよ、それそのものにストレートに対峙すると、「優しい」どころか、目にするのも耳にするのもイヤだと思いたくなるほど、厳しい。もちろん、一般の人に向けたときの言葉には、優しさに満ちあふれたものもないわけではありません。しかし、彼らが一度大衆の前を離れ、個人とのみ向かい合った時には、言葉の表情は一変します。

いくつかあげましょう。



まず、イエスの言葉から。「マタイによる福音書」からに限っておきましょう(講談社版)。

「私に従え。死人は死人に葬らせておけ」(8-22)

「医者が要るのは健康な人ではなく病人である。<私が望むのはあわれみであって、いけにえではない>とはどんな意味かを学びに行け。私が来たのは、義人を招くためではなく罪人を招くためである」(9-12-13)・・・前半は一見「優しく」見えますが、そうではありません。

「私よりも父や母を愛する者は私にふさわしくなく、私よりも息子や娘を愛するものも私にふさわしくない。自分の十字架をとって私に従おうとせぬ者も私にふさわしくない。自分の命を保とうと努める者は命を失い、私のために命を失う者は命を見いだす」(10-37-39)

「人は自分の言葉によって義とされ、また自分の言葉によって罪とされる」(12-37-38)

「あなたたちは空のけしきを見分けられながら、時のしるしを見分けられぬ」(16-3)

・・・これらは、理にかなわぬ、主観的な言葉でしょうか?



では、シャカ(ブッダ)の言葉の方は、どうでしょうか?
中村元訳「真理のことば・感興のことば」(岩波文庫)の前者(ダンマ・パダ)から、いくつか。

「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。・・・車を引く牛の足跡に車輪がついて行くように」

「ああ、この身はまもなく地上に横たわるであろう・・・意識を失い、無用の木片のように、投げ捨てられて。」

「憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪(よこしま)なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。」

「<私には子がある。私には財がある>と思って愚かな者は苦しむ。しかしすでに自己が自分のものでない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。」

「悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼりたての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟する。)その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう」

「物事が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、物事が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。」

「<その報いはわたしには来ないだろう>とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴り落ちるならば、水瓶でも満たされるのである。」

「物惜しみする人は天の神々の世界におもむかない。愚かな人は分かち合うことをたたえない。」

・・・これくらいにしましょうか。。。

二人とも、違うことを言っていない点に、ご着目頂ければ幸いですし、これらの言葉が決して「道徳」から導かれたものではなく、背後に強烈な論理を芯としてもっているらしい気配をも感じて頂ければ幸いです。



家内が夢に出てくるときのパターンが決まっていまして(前にも綴ったかな?)、家内の方は明るい光の当たったテーブルのところで、私のお会いしたことのない大勢のお友達と楽しそうに大笑いしているのです。私はそのとき、必ず、左の隅っこの、真っ暗な場所にポツンとすわらされています。
それは、家内を霊安室に預けた翌朝、多分家内の声だと思うのですが・・・でも人間の声ではなくて、まるでガラスかなにかが喋っているような透明な響きでした・・・
「見えるよ。見える? 外、見えるよ。」
私の耳にはっきりそう聞かせてくれた意味を、まだまだ私が悟れずにいるからなのでしょう。
本当に不思議な体験で、夢ではなかった、と断言出来るのですが・・・いまだにこの言葉の意図が分かりません。それを、もう一度考え直して行こうと思っております。


今年のクリスマスは、以上をもちましてお祝いしたいと存じます。
長々失礼しました。

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