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2007年12月21日 (金)

超え得るか、カフカを。(狂人のたわごとです)

文面が複雑怪奇に抽象的になります。ご容赦下さい。

家内の死から1年のこの時期に・・・というのは世間的にはあまりふさわしくない言い方ですね。

クリスマスのこの時期に、であっても、しかし、次のカフカのメシア観を
「彼は何故このように?」
と問うことの重さには、全く差がありません。(原文どおりではありません)

メシアは、くるだろう・・・最後の日から一日遅れで。とどのつまり、いまわのきわに
(岩波文庫、池内紀訳「カフカ寓話集」収録の超短編より)

「いまわのきわ」が、何故、最後の審判より1日遅れなのか。
生の尽き果てる日が、何故、最後の審判より1日遅れなのか。

ちょうどモーツァルトのミサ曲を集中的に読んできたこともあり、一段落してみたら、ふと、記憶の中から、カフカのこうした表現が胸に浮かび上がってきた次第です。(今日はカウンセリングも受けました。カウンセリングの後は、反動でしょうか、ショック状態のような、やや苦しい気分に自分がとらわれますけれど、それがむしろ明日への回復には良いのです。)


難解ですので目を通したことはおありではないかもしれませんが、キルケゴール(19世紀のデンマークの神学者)の著作の、次のタイトルだけはご存知かもしれません。

<死に至る病>

この書でキルケゴールが執拗に言っていることは、
・「死に至る病」とは絶望である
・「絶望」が、死にいたる病なのである(=逆もまた真)
・而して、この病は普遍的である
に尽きるかと思います。


カフカの「メシア」観は、果たして、彼が「死に至る病」に罹患していたことを物語っているのでしょうか?
というのも、文字通りにカフカの言葉を捉えれば、キルケゴールがしつこく追求した命題に照らし合わせますと、カフカのいう「最後の日」が<いまわのきわの1日前>・・・すなわち、死の前日とされていること、すなわち、「絶望」と同一、もしくは近似した意味を与えられているものと読み取れるからです。
そう読んでしまうと、カフカの書きつづけた小説もまた、キルケゴールに負けず劣らず、「絶望」への飽くなき追及だった、としか思えなくなります。

キルケゴールも、カフカも、恋人がいながら、自己の「良心」なるものから結婚に躊躇してしまった人なのではないか、と、私は思っています。
この点では、愛する対象を側に置かぬまま生を送った彼らの方が、結局は私より幸せだったのかもしれない、と考えたい衝動に、どうしても駆られてしまいます。

「死に至る病」に罹患して初めて、カフカは「いまわのきわ」を迎えられるのだから。

・・・そのような「生き方」が、しかし、ほんとうに彼のような純な人の選択すべき生き方だったのかどうか。
カフカには逡巡があったのではないでしょうか?
彼の短編が、他のものも極めてぶっきらぼうで、長編は(「変身」は中編だと見なして除外するならば)ことごとく未完だったところに、彼の手首のためらい傷を、私はどうしても見てしまいます。


たとえ「最後の日」から1日遅れであったとしても、
「メシアは来る」
カフカは、そう言わざるを得ませんでした。

問題は、カフカが自覚的に「メシアの到来」を否定しえずにいたのか、それとも無意識的に「メシアは来る」と待望していたのか、いずれなのか、というところにあるのではないでしょうか。

クリスマスは
「メシアが来た」
ことを喜び祝う祭典です。
今年以後、私はその意味を真摯に考えること抜きにはクリスマスを考えられない、見られない、というくびきを、天から与えられてしまいました。

もしカフカが無意識的に「メシアは来る」と言ったのだとしたら、私は意識して「メシアは来る」と言うでしょう。
もしカフカが、自覚の上でそう言っていたとするならば、
「メシアが来るのは<絶望>よりも前である」
と断言できるように・・・そのように私は生きられるでしょうか? そこは、私とカフカの静かな「戦い」になっていくのかもしれません。

家内の臨終のベッドの脇で、それまでサンタを信じていた息子にはじめて、
「サンタはお父さんだったんだよ」
と打ち明けました。前日、息子は「今年もサンタさんが来てくれたよ!」と夢中で喜んでいた。
私は息子の喜びを打ち砕いてしまったのでしょうか?


今年は子供たちがプレゼントを欲しがりません。・・・そのくせ、ケーキは絶対食うそうです!

いくらそれがまだ薄いものであろうと、子供たちの辞書に絶望の文字がない限り、私も子供たちと同じ辞書に手を伸ばさなければなりません。

我が子たちにも、変わらず「メリー・クリスマス」を言ってあげましょう。
私の大好きな人にも、変わらず「メリー・クリスマス」を申し上げましょう。

家内が職務を全うして天に召されたことを・・・本来は仏教での供養でしたのでよろしくない、と叱られるかもしれませんけれど・・・神が彼女に与えた最高のプレゼントであったと信じましょう。

どうか、私の「生」も、家庭のささやかな照明器具でいい、せめて小さなリビングの小さな蛍光灯で、夜は照らし続けて頂けますように。

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