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2007年12月 1日 (土)

信じる:モーツァルト:「ミサ(・ロンガ)」K.262

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。


思考に決着がついたわけではありませんが・・・もともと知恵の無い頭でいくら考えても、理解が深まることではありません。いい加減諦めて、作品そのものに首を突っ込みます。抽象的な屁理屈が先行しますが、お読みになってどうお感じ頂けるかは、お委ね致します。


簡単なようで簡単でないのは、「信じる」ということです。 自分自身の内側でだけでも、「自分を信じる」心を保つのは容易ではありません。 まして、「他人」相手であれば、相手の頭の中、心の内には、「私」は絶対に入り込めません。ですから、その人の自分に対する「そぶり」やら「ことば」から、信じて良いかどうかを常に疑いつつ眺めるのが常であります。 では、仮に「自分が」「自分を信じてくれる相手を」間違いなく信じられるようになったとして、「心底信じているよ」と示すことはまた、至難の技です。 「こんなそぶりを見せたら、疑われるのではないか」 「あんなことを言ってしまったけれど、せっかく持ってもらった信頼を崩すのではないか」 内気を自負する人なら、心配につきまとわれることでしょうし、 「もう信じてるんだから、これ以上やりようがないがないじゃない」 と決めつけられる割り切り型の人は、果たして「信じること」が本当に継続できているのかどうか・・・ふとある瞬間におのれを省みると、実は、もう「信じていようがいまいが」関係なくなっている、などということが、ままあります。 果たして、「信じる」心を持たないで、私たちは自己の充実を、生涯の最後まで保つことができるのでしょうか?

「狂信」・「妄信」という危険も、「信じる」ということの中に含まれる危うさです。
「信じる」べき対象は姿もかたちも絶対に変わらないものなのだ、という錯覚が、そこにはつきまとっています。世間に出回る小説や劇の類いは、どれをとっても、この「錯覚」のある側面を捉えたものばかりで、それを巧みに表現しきったものがロングセラーになっている、と受け止めて差支えないか、と思います。
本来なら、この間まで「冗談まじり」でやったように、日常に即した表現で、このことを突っ込みたいのですが、まだそこまですることが私には出来ません。自分自身が「迷える子羊」であり、「煩悩の申し子」だからです。で、小難しくなりますから、以下、適当に読み流して下さい。



「信じる」ということを対象にして綴りながら、宗教や信仰に限定して話したくはないのですが、たとえとしてやむを得ずあげるとするならば、一神教・多神教を問わず、「神は永遠不変のものである」という断言は、かなり特別なケースに初めて言葉にされることでして、ここで言われる「永遠不変」は、実はその「神」が姿かたちを「変えないまま」存在することを意味しているわけではありません。字面でなく、聖典の類いを少しでも深読み(あるいは「捻れ根性」読み)してみれば、そのことは明々白々です。日本人にも分かりやすい「聖書」の例をとっても、「唯一にして絶対の神」が、旧約の世界で様々な姿形で<奇跡>を顕現しながら、その姿は「見えざるもの」である、と主張し続けている点には注意しておくべきです。また、原始仏典の中では、釈尊は「永遠不変」とはいかなるものか、といった類いの門弟の問いに対しては沈黙を保つのが常であったことも、「信じる」とはなにかを示す上で重要な事実です。
以前にも綴ったことですが、新仏教と呼ばれる、今日に繋がる宗派を創始したとされる鎌倉時代の坊さん連中は、ある意味、実際には宗派を超えて同じことを言っています。
「信じることの要諦は、唯、信じる、ということにある。そこには姿も形もない」


そうは言いながらも、「表現者」は、何らかの形で「信じる」・「信じている」ことを「表現」しなければなりません。「表現」には、(私のような小者の例を、ここ数回綴ってきたわけですが)その「表現者」のもつ器の大小に合わせて、ではありますが、小さい器の者は小さいなりに、大きい器の者は(うらやましいことに)大きなスケールで、「信じている」表現の一字一句、一音一画に心血を注ぎます。「信じる」心が間違いなくおのれに根差している限り、出来上がったものがたとえどんなにいびつであっても、完成した暁には、「表現者」自身はその仕上がりに付いて大いに満足もし、また、満足の喜びを経験して少し経った後には、
「ああ、もう少し・・・まだまだ自分は浅い」
真摯に反省もするでしょう。


モーツァルトの一作品を採り上げるのに、なんでこんなに長々と前置きしなければならなかったか。
K.262は、3年前(後で述べますように、実は2年前だったことが判明しました)のK.167のミサ曲以来、久しぶりに彼が書くことの出来た「荘厳ミサ」、つまり、「短く切り詰める必要がなく、伸び伸びと、存分に信仰告白を書き留めることが出来たミサ曲」です。
この時期(1775-6年)の他のミサ曲はみんな短いのに、なんでこんな作品を作り得たのかも不思議だし、それを把握するのも課題ではあるのですが、何より考え込まされたのは、この作品をじっくり観察し、聴いてみた後、私の中に、こんな感想が芽生えたからです。それは、モーツァルトファンからご覧になったら、とてもピンぼけな感想かも知れません。かつ、一見、K.262には何の関わりもない感想です。
「後年の未完の<ハ短調ミサ>は、やはり、モーツァルトにはもはや<作り上げられなかった>のだろうな・・・」

<ハ短調ミサ>というのは、モーツァルトファンには知れ渡っている有名作で、ザルツブルクを飛び出してしまったあとの彼が、父の反対を押し切って妻コンスタンツェと結婚したときに書かれ、父になんとか妻を認めさせるためにザルツブルクへ帰郷した際に(未完のまま)披露されたものです。
書かれた経緯には諸説ありますが、事情はともかく、彼は、このミサ曲をもって、自己の「人間としての」真実の信仰を、父にも兄弟にも郷里の人びとにも何とか示そうと苦悩したのではないか、と思われてなりません。そのとき、しかし、彼はそれまではすらすらと書けていたミサ曲が、じつは条件反射的に作れる技術が身に付いたおかげで完成し得ていたことに、あるときはた、と気づいたのではないのかなあ、と、K.262を聴くうちに、ふと私には思えたのです。いわば、技と才能では、本当に自分の内側にある「人間性」は表しきれない・・・そういう壁に、モーツァルトは結婚して初めて、創作面でもぶつかることになったのではないか。

いまはK.262(長い、かつ下記のように入り組んだ構造をしているために「長いミサMissa Longa」と呼ばれています)を採り上げるべく綴っているのですから、<ハ短調ミサ>についてふと抱いた感慨に付いて記すのはここまでとします。



といいつつ、前置きばかり長くしてしまったのは恐縮なのですが、K.262そのものの、本当はもっと触れるべきであるところまでの深入りは、しません。際立った特徴がないから、というのではなく、この作品でのモーツァルトの姿勢には、言葉にし難いほどの一貫性があるからです。ここに、迷うことのない彼の「信じる」心が表現されていることが、逆に先程述べたような<ハ短調ミサ>への感慨を私に及ぼした次第です。

まず、作品の成立年月ですが、従来(NMA【新モーツァルト全集】)の解説でもアインシュタインやド・ニの記述でも)1776年5月、とされています。
ですが、第二次大戦の際にベルリンからチェコのクラカウに避難していた大量の文化財が1980年に再発見され、その中にモーツァルトの自筆譜も数多く含まれていて(その中から「エクスルターテ・ユビラーテ」や「ジュピター」の自筆譜も見つかっているのですが)、このK.262のミサ曲の自筆譜も姿を現わしました。新全集の校訂譜が1775年に出版された5年後です。
自筆譜の鑑定の結果、実はこのミサ曲は前年1775年の6月から7月にかけて既に作曲されていたのではないか、との見解が有力説として出されており、コンラートの作品表(および西川「モーツァルト」【音楽之友社】)にはその年月を記し、「もしくは1776年?」と注記をしています。
1775年に作曲されたとなると、アインシュタインが本作について述べている次の記述は、アインシュタインの発言とは異なり、<確実>とは言えないことになります。
「(1776年5月という作曲の)日付は外的ならびに内的理由から推して、かなり確実なものである・・・(中略)長さと楽器編成は、このミサ曲が本寺(註:ザルツブルク宮廷カテドラル)での使用に予定されたものではなく、おそらく聖ペーター教会のためであったことを立証しているのである。当時出来上がったばかりの豊かなロココ建築は、この曲にふさわしいものであった。(白水社訳書p456)」

自筆譜に基づき、2005年に出版されたCarus版では、新全集には加えられていたトロンボーンパートが削られ(但し、演奏上はトロンボーンが合唱を補強した点は否定していません)、アーティキュレーションや通奏低音標記に変更が施されていますが、比較してみると、自筆譜未発見のまま作成された新全集版に本質的な影響がある部分は皆無と言ってもいいほどで、むしろ新全集版の校訂作業の確かさに感心させられます。(Hosanaの語のみは、Osannaと、表記が変わっています。)

各章の構成は以下のとおりです。明示しない限りハ長調です。

Kyrie:Allegro(4/4)、呈示部1-42、展開部43-56、再現部57-81、コーダ82-83のソナタ形式
    冒頭が器楽だけの序奏である点は74年のK.192(小クレドミサ)の手法を踏襲しています。
    合唱は序奏部のテーマの短縮型を基本として作られているのは新手法です。
    かつ、合唱は二重フーガ(密集フーガですが)として開始されます。
    
Gloria:以下のセクションが「切れ目なく」演奏されます。
(Gloria):Allegro con spirito(4/4)1-39(独唱部分は二度上、二度下開始のカノンを含みます)
(Qui tollis peccata):Andante(3/4)40-69ト短調-ニ短調
=主題は全曲を締めくくる"dona nobis"のもの
(Quoniam tu solus Sanctus):Primo tempo(4/4)70-130=Cum sanctum以下はフーガです。

Credo:以下のセクションが、「各箇所独立して」演奏されます。
(Credo):Allegro(3/4)1-84(主題の異なる3部の構成)
(Et incarnatus est):Adagio ma non troppo(4/4)85-108
ヘ長調のカノン的手法をとった四重唱に始まり、
「十字架につけられ」からハ短調のフーガによる劇的な合唱となる
(Et resurexit):Molto allegro(4/4)=キリストの復活を輝かしいホモフォニーで歌い上げる
(Et in Spiritumu Sanctum):allegro(3/4)109-281、
=ソプラノのソロと合唱の掛け合い。田園的な雰囲気
ただし254小節からはハ長調、最後の2小節間は4/4でAdagip、ハ短調をほのめかす。
(Et vitam):(テンポ不明記ですが、アラブレーヴェの速い、長大なフーガです。)282-405

Sanctus-Osanna:Andantino(3/4)1-40
Benedictus(Osanna):Andantino(3/4)41-60へ長調
=ベネディクトゥスとホザンナが合体している、珍しい作りですが、そのことにより
 伝統的な素朴な「田園的雰囲気」に留まることを回避している点に注目しなければなりません。

Agnus Dei:以下のセクションが、「各箇所独立して」演奏されます。
(Agnus Dei):Andante(4/4)1-29
(dona nobis pacem):Allegro(4/4)、
呈示部30-49、展開部50-64、再現部65-84、コーダ85-106のソナタ形式
驚くべきことに、単一主題ですが見事なソナタ形式になっています。

以上、機械的に記すと何の変哲もないようですが、Gloria第2部の主題が全曲の最後を締めくくるのと同じ動機を用いている点や、Kyrieおよびdona nobisでソナタ形式を用いるということによっても、音の表面だけには現れない「統一の試み」があるのに注目しておきたいと思います。

また、Sanctus楽章は極端に言えば「交響詩」の先駆的な試みとみなせないこともありません。
Credoに至っては、独立した5部で構成されていることにより、この章のみ耳にしますと、一種のカンタータ、あるいは小規模なオラトリオを味わっているような感触があります。

再びアインシュタインの記述に戻りますと、
「この作品は、その規模にもかかわらず、荘厳ミサ曲(ミサ・ソレムニス)の種類に入るものではない。それはやはり略式ミサ曲(ミサ・ブレヴィス)であり、独唱部によって活気を与えられた合唱ミサ曲なのであって、アリアを持っていない。(前掲訳書p456)」
・・・これは、上のような構成を見、かつ、「荘厳ミサ曲」と認識されているK.167と比較したとき、正当な評価ではありません。私はやはり、この作品は「荘厳ミサ曲」である、と感じております。
アインシュタインに重ねて反駁するならば・・・彼はこう述べています。
「このミサ曲は(中略)心のこもらぬ、冷たい、非個性的な曲でもある。(前掲訳書p456)」
これは、全く当を得ていない評価で、この作品に単独で触れる機会が私たちに恵まれないことを、非常に残念に思います。

アインシュタイン(初めてお読みになってくださある方のために申し上げておくならば、このアインシュタインは「相対性理論」を打ち立てた人物とは別の人です)のように、モーツァルトを深く愛した人でさえ、モーツァルトの「信じた」ものを汲み取りきってはいなかったのではなかろうか、と思うと、私たち凡俗はなおさら、「信じる」ことが如何に難しいかを思い知らさざるを得ない気さえしてきます。


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