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2007年12月20日 (木)

モーツァルト:捨てて、得たもの~「クレド・ミサ」K.257

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。


「自分」を失ったら、失いっぱなしの人が多い。
かくいう私自身も、そんなひとり、です。だらしないけど、それだけの器なのですから、仕方ありません。
見かけはそうではなかったにせよ(あ、怒るなヨ・・・)家内という有形の天使が側を離れてしまった後、「きっとまた自分を支えてくれる天使が、もうそこにいるはずだ」・・・可視不可視を問わずその存在を信じることでかろうじて命を支えている。
が、モーツァルトは違った。19歳の彼は、まだ見えてなかったとしても、天使の存在を疑うことはなかっただろう・・・と感じます。
今日採り上げるのは、その証拠となる作品です。
・・・今回の作品は、伝記では明確ではありませんが、モーツァルトが苦悶の上に「捨てるべきものは捨て」て、新しく獲得した世界を繰り広げたものだ、と、今、私はそのように感じています。もっとも、この先まだ十数年を生きなければならない彼には、新たな苦悶が、よりあらわな姿で待ち受けているのですけれど。。。


上記の結論に到るのに、私用で立て込んだり、気分がパニックだったり、ということに甘えてしまったことを抜きにしても、ずいぶんと難儀してしまいました。(Bunchouさんに、とくにお詫びします。)
K.258K.259K.262と、一連のミサ曲を先に読んでから「クレド・ミサ」を読み始めて、頭を抱えてしまわざるを得ない特徴に突き当たったのが、最大の理由です。
楽譜を読む前も、読んだ後も、聴くと他の三作に比べて華麗かつ荘厳、という表現が最も当てはまることに変わりはないのですが、楽譜の特徴は、見ようによっては他三作よりも、あまりに単純です。
メモをとった段階では、各章の特徴につき、「単純な要因」をうだうだと綴ってみたのですが、どうも、それを記事にしても、あまり意味がないようです。「単純な要因」は、細目を見るまでもなく、次の二点に集約されてしまうからです。

<あまりにも器楽的・・・合唱も独唱も、楽器と一体化している>

<対位法の使用は実質的に皆無・・・一見それと見える個所も実質は和声の転回>

・・・読みの名人、アインシュタインは「対位法を放棄したわけではないが」云々していますが、私の目はその点節穴かもしれません。それでも、カノン、フーガはK.258259には若干痕跡がある気がしていましたけれど、この「クレド・ミサ」には、そうした陰がまったくないのは(アインシュタインも暗黙には認めている)事実です。 すなわち、K.262を例外としてK.258、259とだけ比較してみても、K.257は純度の高い「ホモフォニックで管弦楽組曲的」な作品なのです。

これは・・・モーツァルトの「後退」なのか?

考えあぐねてしまいました。


Gloria、Sanctus(いわゆるモーツァルトの「クレド」主題【ドレファミ】は、この作品ではこちらに出てきます)については、特記すべき事項はありません。割り切って、突っ込まずにおきましょう。
他の章には、見るべきものがあります。たとえば、Agnus Deiは主部はゆっくりの三拍子、終結部は速い4拍子ですけれど、基本となる主題(メロディ)は同じです。
詳細に触れすぎると煩雑度がましますので、以下、KyrieとCredoについてのみ、<屁理屈>をこねさせていただきます(初歩的な楽典をご承知でないと意味不明かもしれません。また、曲を実際にお聞きになるか、スコアを実際に目の前にしていただかないと、同じくイメージが湧かない話かもしれません。そこはお許しください)。・・・面倒な場合は、次の下線のところまでは飛ばして読んで下さい。以下の主旨は、
・Kyrieではベートーヴェンの第1交響曲の先駆けとなるような、当時としては革新的な工夫をしている
・Credoは一見自由な形式、とみなされていますが、複雑な言葉に、実に上手く統一感を持たせるような仕上がりにしている
・・・また、副次的なことですが、このミサ曲はクリスマス用だったかもしれない、という話を、少しだけしています。


Kyrieの冒頭部~8小節という小規模なものでありながら、革新的なのです。これが「クレド・ミサ」に一気に聴衆を引き込む最大の要素となっています。全曲の基調であるハ長調の主和音で始まるように見せかけながら、じつはこれがト長調の下属和音(移動ド読みで「ファラド」にあたる和音)であるのがミソです。コードで言うとCですが、次の小節の和音もコードネームでAm、ト長調のⅡの和音に相当し、これも下属和音です。三小節目で属和音へ持っていき、6小節目で初めてト長調の主和音が現れる。残り2小節は、最後をト長調の主和音(G)で終えます。で、この序奏の最後がまた、ハ長調の属和音であるところが、二番目のミソです。序奏を聞いているうち「あれ、このKyrie、どうなるんだろう?」と戸惑う聴衆を、主部に入ってCのコード(ハ長調の主和音)で本編に突入することで安心させる。
・・・わけわかんない説明でスミマセンが、この仕掛けは、当時においても極めて斬新であると思います。
似た雰囲気のKyrie序奏で有名な例は大バッハのロ短調ミサですが、こちらはモーツァルトのような転調は行なっていません。
かつ、私が知っている(まだ狭い範囲の)序奏付きモーツァルト作品の中でも、これは初めての試みであるはずですし、使用する技法は違いますが、そのもたらす荘厳な雰囲気には、ずっとあとの「プラハ」交響曲まで、再び会うことが出来ません。(交響曲なら「リンツ」の序奏も思い出してみて下さい。このKyrieの序奏に比べると、「厳かさ」よりも「情緒的」であることが主眼になっていて、別の線上にあるものだということが明確になるはずです。)
技法的にベートーヴェンの第1交響曲の序奏(こちらの方が最初の転調の仕組みは複雑ですが、結果的にはモーツァルトより単純に仕上げています)の先駆けとなっていることを、重視しておくべきかとも思います。

Credoについては、カルル・ド・ニは「自由なロンド形式」と言っていますが、これは決して「自由」に作られた章ではありません。
このミサ曲が「クレド・ミサ」と呼ばれる理由が、この章で「ソミ・|ラソ・」という動機("Credo, credo"という言葉が充てられています)が反復して与えられ、聴く人に強い印象を与えているところにあるのはご存知のかたはご存知のとおりです。その強烈さに耳を奪われると、あいだに挟まれた全ての「主題部」の意味がみうしなわれてしまいます。
先に中間部について見ておきましょう。
"Et incarnatus est(【主の御子が】うまれたもうた)"の言葉の部分からはシチリア-ノ(8分の6拍子の舞曲ですが、イエス・キリストの生誕を表す手段として常套的に用いられます)になっており・・・このミサ曲は、もしかしたらクリスマス用だったかもしれないことをうかがわせます・・・、しかも、「生まれたことが苦難の始まりであった」ことを象徴するような短調になっているところも見事です。かつ、このシチリアーノは、そのまま自然に「シチリアーノではない」重々しい6拍子に転じ、"Crucifixus(十字架に懸けられ)"へと一気に突入する。この"Crucifixus"が、また、これまでの彼の常識から言えば劇的に作られるべきところなのですが、ドラマ性よりも、「半音階的下降」モチーフによって「厳かな」雰囲気で一貫させることで、むしろゴルゴタの丘へのイエスの重い足取りを聴衆に明確に想起させるようになっています。
・・・このように作られた中間部の中に、"Credo"の動機が一切現れない。・・・ここが重要です。
実は、中間部を挟んで、前後は基本的に同一の構造をしています。
第1、第2、第3の主題群がそれぞれ"Credo"動機を登場させた後に現れる構造です。ついている言葉が違うために、ただ聴いていると違っているような感じを受けるのですが、終結部の処理法を除けば、中間部の前、中間部の後は、どちらも同じ造りです。
すなわち、クレド楽章全体は、中間部をBとすると、大きく見てA-B-Aという形式になっている。決して、「自由なロンド形式」ではないのです。モーツァルトは、章全体の統一感を保つために、以上のような工夫を凝らしている。


「カノン」や「フーガ」といった、職人芸的な要素は一切捨てた思い切りの良さは、「クレド・ミサ」を、メロディラインで出来上がった音楽、ではなく、「陰影に富んだ響きを持つ」傑作に仕上げたのです。この点は、あらためて私なんぞが言うまでもなく、アインシュタインもド・ニも認めているところです。

「技術の披露」を放棄して、彼ははじめて「平易な力強さ」を獲得したのです。
人間、こういう思い切りは、なかなか出来ることではありません。しかも、ちゃんと成果を上げている。あらためて、頭の下がる思いがします。

ただ、背景には、良く知られている「(ヒエロニムス【コロレド】大司教は45分以内でミサを終わらせることを要求していた」ことに沿って作曲しなければならなかった苦悶は、このサイクルで見てきた4曲の作曲順を次のように想定してみると、浮き彫りになるのではないでしょうか?(ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」は、式典の分を省いても2時間かかります。モーツァルトの要求された条件がいかに厳しいかを類推するには、ちょっと不適切な比較対象かもしれませんが・・・)

K.262(ミサ・ロンガ)K.258K.259(オルガンソロミサ)~K.257

K.257はK.258,259より後に作られたであろう、との推測は、Carus版スコアの解説でも述べられています。 新しい、かつ、これ以後のモーツァルトの作品に特徴的になっていく、それゆえに彼の音楽が誤解される元ともなった「整ったホモフォニー」は、K.257「クレド・ミサ」を嚆矢とする、と見てもいいのかな、と、今のところそういう感触を持っております。 ただ、「整ったホモフォニー」はモーツァルトが心から望んでいた「音楽の姿・あり方ではない」ということもまた同時に、いたましく感じられます。晩年、最後の年(1791年)に残した代表的な宗教曲が、
・整ったホモフォニー=「アヴェ・ヴェルム・コルプス」
・対位法との最後の葛藤=「レクイエム」
と捉えれば、モーツァルトの「ゆらぎ」もまた、この「クレド・ミサ」に端を発するものとみてもよいのではないでしょうか? ・・・うがちすぎですかね。

CD: アーノンクール盤(中古)
  :クヌッペン盤

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