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2007年11月25日 (日)

「自分」という壁、「ジャンル」という柵

屁理屈ですので、お好みでなければ通り過ぎて下さい。


クラシック音楽を中心に、との方針で綴っているブログですから、今回の標題のようなことも音楽をめぐって綴るしか能がありません。・・・これがまず、私が目の前にしている「自分の壁」であるかもしれません。本当は、絵の話でも、劇の話でも、スポーツでも、釣りや料理の話でも何でもいい。だから、題材を置き換えてご一考頂けるなら、なお有り難いと存じます。


ポップでも演歌でもイケるよ、というかたには信じ難いことかもしれませんが、私は15の歳からアマチュアオーケストラの団員として活動していて、こんな経験をしたことがあります。

まずは、あるオーケストラでは、団員の半分以上が
「クラシックだけが最高の音楽。演歌? あんなもん、許せないよ」
そう明言したのを耳にしています。

あるいは、別のオーケストラで、演奏会の打ち上げにカラオケへ行こうということになったとき、
「え、わたし、カラオケはじめてなの」
と誰よりも喜んで入った女性団員が、ボックスの中に入るなり
「なによ、ここ!」
と、はじけ跳ぶように出ていって、慌ててあとを追いかけた時にはもう姿が見えなかった。

逆に、サラリーマンとしての日常の中では、私が会社生活を始めたばかりの頃は、クラシックやるやつなんて変わりもん、という評価があって、話題を共有できる友人が出来ず、そのうち職場では音楽の話そのものに一切触れないようになったりしました。とくに大学4年間はクラシック漬けの生活を送らざるを得なかった(「ロックバンドに入らないか」という誘いを受けてOKしたのですが、初めてそのバンドにいくことになった直前に、バンドは仲間割れで空中分解してしまったのでした)ので、4年間のギャップが大きく、ポップの最先端がもう分からなくなっていたせいでもあります。
今はクラシックの話題もそれほど変種扱いは受けることが無くなりましたが、それでも、いざ自分の属するオーケストラへ職場の人を招くとなると、どうしても抵抗感が抜けません。また、お招きしたい相手の方の方でも、まだまだ二の足を踏まれることは少なくありません。

常々、私はこういうことが残念だし、悲しく思っております。
「出来ることなら、自分の属するオケで、ロックもジャズもやれたらなあ、合間に演歌ショーみたいな剣劇も入れられたらなあ」
そう切なく思ってしまうこともあります。


ですが、ものごとにはそれぞれの流儀というものがありまして、今のクラシックのコンサートでは、ロックのように会場中が立ち上がって手拍子するとかいうことは(原則として)認められません。曲の名前も、ポップのコンサートのように1曲ごとに紹介されるわけでもなければ、あいだに「思いを語る」などということも、稀な例外を除いては、許されません。

じゃあ、そうしないですむ団体でも作ればいいんじゃないか、と言われるかもしれません。
けれど、それはまた、間違いなのではないか、と思います。
「ジャンル」という柵が、音楽を明確に種類分けしているからです。柵によって種類分けされた音楽には、なおかつ、先述したように、演じられるにふさわしい「流儀」があって、これを一緒くたにすることは、おそらく不可能だろうと感じるのです。

「ポップ(広い意味での)」は、「思いを語ること」を前提とした音楽です。ですから、語りなくしてコンサートが成り立つことはありません。抽象的ないい方で恐縮ですが、語りへの共感が会場に広がってはじめて、「ポップ」は本来の意味を発揮する。

「ジャズ」はどうか? 白人ジャズが生まれて以降は、ポップの要素も混在するようになりましたから、一見、ポップと似たように見えますけれど、ビッグバンドやヴォーカル主体の場合を除けば、ジャズのコンサートはいちいち曲の紹介なんて必要としません。いや、コンサートよりは、パブで、静かに語り合う老夫婦や、物思いに耽る一人のためのバックグラウンドミュージックとして、心の憂愁を演出する方が似合っている。

クラシックは、18世紀までは、劇音楽や宗教作品でさえなければ、今日のジャズに近い享受をされていたはずです。19世紀いっぱいは、それが「ポップ」的なコンサートで演奏されるものへと変じていきます。で、20世紀前後に、とくにオーストリアでマーラーによって、現在のように、ある意味「音楽という閉空間」に浸ることを「強いられる」演奏形式へと変貌して今日に至っている。

世間で一般的に聴かれている音楽は、舞台の上でのあり方は、かように異なっています。

ただ、クラシックのコンサートのあり方が時代と共に変わって来たように、ポップやジャズもまた、この先、どのようにあり方を変えていくのかは、分かりません。
音楽における「ジャンル」という柵は、柵であるだけに破れば通り抜けられる空間があります。


そのひとつが、「録音」という手段の発達だったのではないでしょうか?
「録音」の発達のおかげで、私たちは、「クラシック」を聴きたい気分の時には「クラシック」、そうでないときには「ポップ」あるいは「ジャズ」と、自分の耳に直接触れる音空間を自在に変更する方便を手にしました。

これは、ですが、私たちが「ジャンル」を超え得るようになった、ということを意味することは絶対にありません。
先に述べたところに戻りますが、「ジャンル」は仮に一時的な、長い時間の中では臨時の境界でしかないにしても、・・・音楽に関して言えば・・・耳を傾ける際に聞き手に要求する「静粛」の質に違いがあるのです。
「録音」は、往々にして、この「静粛の質の違い」を忘れさせ、結果的にそれぞれの音楽が伝えたい本当のメッセージから、むしろ私たちを遠ざけてしまう。

とはいえ、聴くにあたって、あらかじめ「ジャンル」を問う必要はありません。
いや、出来るだけ、違った「ジャンル」の音楽を、それぞれの要求する本質的な「場」に自ら出向いて耳にしてみるべきなのです。

「語り」への共感がないポップなど、すなわち、個人によって録音を通して聴かれ、閉空間化されたポップやロックは、例えばジョン・レノンを殺した男のような狂人を、これからも生み出すでしょう。

「哀愁」を忘れたジャズは、表面的な音の遊びに過ぎなくなり、存在意義自体が問い直されるでしょう。

そして、「静粛」という「間(ま)」のないクラシックは、精神の浄化を、もはや私たちにもたらしてくれることは無いでしょう。


境界すれすれにある作品や演奏が、このことを明らかにしてくれるでしょう。

イギリスンロックミュージシャン、スティングが、5百年前の作曲家ダウランドの歌をうたったものも、すばらしい。(最近、映像も出ました。)

山本直純フォーエヴァー」というCDでは、<ピーターと狼>の語りを名落語家、古今亭志ん朝がつとめている(これ以上楽しい<ピーターと狼>は、その後生み出されていません)。

本田美奈子と言う人は、存在そのものが「ジャンルという柵を超えるための人生」でした。デヴュー当時は流行だった「アイドル歌手」という路線で売り出されたものの、反発してロックに走り、やがてミュージカルに目覚めて「ミス・サイゴン」日本語版で名演を残し、死の直前にはクラシックとされる歌を中心に歌いました・・・純正クラシックマニアにとっては、彼女の歌唱は決してクラシックではありませんが、そのことがまた、大事な何かを示しているのではないでしょうか?

なお、「ジャズ界」ではバロック作品を中心にジャズ的に演奏したものがいくつもでていますが、本音を言えば、私には違和感がありますし、拒絶したい気持ちもあります・・・これは、私のもっている「壁」のせいでしょうか?


どうしても軸がクラシック中心になってしまいますが、お許し下さい。

いずれにせよ、様々なあり方を見せている音楽を、その柵の内側にいる素直な羊のままで受け入れるためには、私たちは私たち自身の中にある
「音楽はこうじゃなくっちゃ私には聴けない」
という壁を取り払わなければなりません。
(「音楽はこうあらねばならぬ」という本質論とは、また別のものであることには、留意が必要です。)

壁を取り払ってみて初めて気づくことのなかに、音楽ならでは、の「素晴らしい」コミュニケーション技術が共通してあることにまで話題を広げたかったのですが、毎度ながらあまりに長文となりましたので、次を期すことと致します。

さわりだけ述べておきます。
「音と音、音と仕草がピッタリ合う」
技術、もっと一般的に言えば
「阿吽の呼吸」
というものだけは、「ジャンル」を問わず共通した方法によって得られます。
それを、歌舞伎や民族音楽なども交えて比較して例示できれば嬉しいのだけれど。

ずっと昔、片思いしていた音大生がドイツに留学する前に、上で述べたことを知らせたくて、その子を歌舞伎に誘ったことがあります。
彼女はさすがに、本質を見抜いて、感動して帰ってくれました。
いま、彼女はドイツでばりばりに活躍しています。

家内ともこんなやりとりをしていました。
「歌舞伎に連れて行ってやる」
「子供が大きくなってからでないとねえ」
「そうかあ・・・」

残念ながら、永久に、一緒に行けなくなりましたけれど。

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