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2007年11月 1日 (木)

あまねくひろがるように

字そのものを記せば何てこともないのですが、記しません。ご斟酌下さい。

家内の名前の一字は、中国に何千年も前からある楽器の名前を元にしたものなのだそうです。石の板で出来たその楽器は、石であるにも関わらず、叩くと
「かーん。。。」
と、非常に澄んだ音がします。

で、この楽器を表す字は上と下のふたつの部分に分けられます。
もともとの字は、下半分には楽器の作りそのままに、「石」が割り当てられています。
ですが、時代とともに、良質な石も採取されすぎて少なくなったのでしょう、楽器は金属で作られるようになりました。ですので、それ以後は文字も、「石」に代えて「金」が割り当てられるようになりました。

いろいろな経緯で、この字は、楽器の名前を表す本来の意味のほかに、「音が遠く限りなく、世界にあまねく響きわたる」ことをもあらわすようになりました。

家内の名前に使われていたものの下半分には、でも、楽器の名前や音ではなく、「かおり」を表す字が割り当てられています。ですから、
「かおりが遠く限りなく、世界にあまねくゆきわたる」
という意味になります。

戒名を頂くとき、和尚さんが悩みに悩んだ末、
「こんないい字なんだから」
組み込んでおかなくちゃならん、と、1ヶ月かけて考えぬいて下さいました。
ですから、家内の生前の名前は、霊となってもその中に「生かされて」います。

俗世では「澄み切った」人間なんてものは稀にしかいないでしょうし(マザー=テレサはそうした稀有な例のお一人だったかもしれません)、家内だって普通の「濁りもある」人間でした。ですから、こんなにいい字をこの世でも名前に頂いていて、霊になってもなお頂けているということは、「生身の家内よりも一層濁っていた・・・今も濁っている」私から見れば、妬ましいことでもあります。
妬んでいるくらいだから、どうやら私は「極楽」やら「天国」やらに行ける見込みは無いようです。

家内のことで伝え聞いている子供時代から独身時代にかけてのエピソードにも愉快なものがいっぱいあるし、ましてや、一緒になった前後となると、本当に、忘れられないことは様々、尽きることなく、私の思いの中にあります。

ただ、それも、私が死んでしまえば、一緒に消えてしまうことでしょう。

臨終の時には、側に子供たちも、義妹一家もいてくれましたから、何も考えられませんでした。
しばらくすると、しかし、「子供たち」と生きるべきだ、という理性と、「私も死んでしまおう」という感情が、ない交ぜになるようになりました。
でも、子供たちを成人させるまでは、という思いを優先させるべきなのは当然ですから、ここは自分が「お前は既に死んでいる!」と思い定めなければならないのだ、と今日、なんとか思い立った次第です。

変な表現かもしれません。綴り手である私は、肉体を持っているからこそ、こうしてこんなつまらんこともダラダラ綴り続けられているんですから。・・・「死んでも死にきらん」半端な浮遊霊でいるのでしょうか?
そうかもしれません。

でも、ここいらで一旦、後がどうなるかは考えず、「自分は死んだ」と、しっかり認めておきたいと思います。足元はまだまだふらつくにしても、それは「死人」である私の振る舞いです。ふらつく私を、私は「生きている私」だとは思っていたくない。

絶望に溺れて沈んでしまう為に、そうするのではありません。
「死んだ」と自覚しておかなければ、生き返れない。生き返れなければ・・・それがたとえ忘れ去られ、消え去って然るべきものであったとしても、たとえつかの間の「人間というかたちでの夫婦」という仮の姿で神仏に「ふたりの約束」にさせられたのだったとしても・・・、大事にしてきたはずの、いちばん尊い「命の本当の大切さ」という宝石を見失ったままで、私は丸山応挙の幽霊絵の中に閉じ込められてしまいそうだから。

当分の間、私は仏教で言う「中陰」とか、キリスト教で言う「煉獄」とか、そういうあたりをふらつくかも知れません。そうしている間の私は、今日からは「死人」です。

*****

話が、したいことから逸れてしまいました。

「かおりが遠く限りなく、世界にあまねくゆきわたる」

意味を始めて知ったとき、
「これは、すごすぎるなあ。耳が聞こえなくても、目が見えなくても、関係ないもんなあ」
なにせ、「かおり」ですから。嗅覚障害のかたにだけはご迷惑をおかけするのですが、他の感覚が少しでもはたらいているなら、「心を救ってあげられるかおり」を発しようと願えば、家内は世界を救える、ということになる。
「いやあ、とんでもないカアチャンになっちまったなあ」
ぶったまげてしまいました。
これはもう、私一人の、いえ、子供たちを含め、親族を含め、私たち家族の独占できる「ほとけさん」ではない。

いちおう仏式の供養ですから、仏教にのっとりますと、俗説では「成仏までには霊魂は何日修行しなければならない」とかいう話がいっぱいあり、種類によって日数も違います。短くて数十日から数百日、長くて数十年からほぼ無限に近い時間。
ですが、私は、そうした俗説は、全部「うそっぱち」だと思っています。

鎌倉時代に、
「一念すれば即座に<ほとけ>になる」
そう言い切ったお坊さんがいます。
勝手な解釈で、この「一念」を軽く考えて、「死ぬ間際に<なむあみだ>って一言となえればいいのさ」と触れまわった弟子も出来てしまい、そのおかげでこのお坊さんも八十歳になって島流しの目にあったりしているのですが、それでもいちど断言した信念は変えませんでした。
いや、個人の信念だから変えなかったのではなくて、真実なんだから変えようったって変えられっこ無かった、それだけのことだったのでしょう。

私が最後に目にした「生身」の家内は、家に置いてあった鎌倉の大仏さんのミニチュア(私が小4のときお土産に買って帰っていらい、何故だか身近に持ちつづけていたものでした)に向かって、懸命な顔で手を合わせていました。
あの懸命さが、通じていないはずはありません。文字通り、「命を懸けて」念じたのだから。

悔しいけれど、私には永遠に「勝てない」どころか「かなわない、頭が上がらない」カアチャンになってしまいました。それでも、
「そうだよ、こんどはあんたは世の中みんなを、いいかおりで幸せにしたげなヨ」
こんなことくらいは、言ってあげて置けたらなあ、と思います。

でもって、自分はまだしばらく、宙ぶらりんの幽霊です。

さてさて、この幽霊、どのようにして「起死回生」を果たせるのでしょうかね。

・・・って、べつに、誰にもそんなこと、楽しみでもなんでもないですね。

失礼しました。

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