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2007年11月19日 (月)

モーツァルト:ミサ(・ブレヴィス)K.258

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。


1775-76年の作と位置づけられている一連のミサ曲は、その頂点となるのはアインシュタインの記述のとおりK.257の「クレド・ミサ」ではありますが、
「K.258(シュパウル=ミサ、と呼ばれるミサ曲に比定されているが、K.262の方がそうではないか、との異説あり)やK.259はその高みには達していない」
といった見解は、アインシュタインのようにモーツァルトを調べ尽くし味わい尽くした人に初めて許されるものです。
実際には、主観的な評価にも関わらず、K.262(ミサ・ロンガ)を含む4作には作曲技法上にも創作精神上にも、これらより前のミサ曲とは一線を画する「自立志向」が反映されている・・・これはとくにBenedictusの表現に反映されている・・・、そのように見なすべきかと思います。

西田尚生さんのまとめられた日本語の作品表上では、K.258が最も早い時期の作品として位置づけられていますから(音楽之友社 作曲家○人と作品「モーツァルト」)、上記の点をこのK.258から1曲1曲観察していこうと思いますが、実はNMAの前書きを見ても、K.258の作曲時期はK.259(オルガン=ソロ・ミサ)と共に、1776年暮れではないか、との異説があり、元来はこの異説の方が通用していたようです。アインシュタインはK.258、259とも76年12月に位置づけています。
たしかに、作品そのものは、雰囲気が異なるにも関わらず、双生児のようです。K.258が男の子だとすると、K.259は女の子・・・そういう双子です。

が、K.259のほうについては、とりあえず措きましょう。

時期が明確でない以上、作品上演の背景についての推測は避けておくべきかと思います。
他の3曲も観察して後、「もしかしたら」と感じられる何かが見つかったら、その時に述べましょう。

なお、K.258もしくはK.262に「シュパウル・ミサ」のニックネームを与える試みがされている背景には、レオポルドの書簡に、おそらくこのいずれかのミサ曲の「キリエ」を巡って
「ヴォルフガングのオルガン=ソロ・ミサを演奏したが、キリエだけはシュパウル・ミサのものにした」(1778.5.28)
という記述があります。76年には、のちにザルツブルクの主任司祭となるシュパウルのためにミサ曲を作曲したことが分かっているのですが、それがどのミサかが不分明なので、混乱しているのです。
ですから、これ以上、このことに触れる必要は、いまのところなさそうです。

かいつまんで、K.258の特徴を記します。

編成はオーボエ2、トランペト2、ティンパニ、ヴァイオリン2、バス、それにアルト以下の声部を補強するトロンボーン。
全ての章がハ長調で統一されており、かつ、フォルテの主和音の非転回型(つまり、Cを根音とした基本形)で開始されています。
各章とも同じ和音で、同じディナミークで始まる、という点だけ見ますと、
「なんだ、平板な作品ではないのか?」
と思われてしまうかもしれませんが、そうは問屋が卸していない、というのがK.258の素晴らしいところです。
また、トランペットはこの時期の通例通り倍音だけを演奏するのですが、随所で非常に効果的な使われかたをしており、とくに「グローリア」では属調(ト長調)に転調した箇所でも最高音とその導音を高らかにならすことで、輝かしさを強烈にアピールしています。・・・従来のモーツァルトにはなかった用いかたです。
トランペットとティンパニの効果、および多用されている弦楽器のユニゾン(和音を構成せず、ヴァイオリンからバスまで同じ音型を同じ音程で奏でる箇所が非常に多い)により、弦楽器の方が、ユニゾンの合間に対位法的な絡み合いをみせることと巧みに組み合わさって、バロック期的特徴さえ付与されている点は、傾聴されるべきです。

で、各章が基本形の主和音で始まりながら、それが「グローリア」ならば輝かしく活発な器楽伴奏により、「クレド」ならば伴奏は一転して荘重となることにより、「サンクトゥス」は器楽が声楽の裏方に巧みに回ることにより、そして「アニュス・デイ」では和声そのものが低く沈み込むことにより、各章にふさわしい装いを見せる。
ですから、どの章も同じ「ドミソド」の和音で始まっているとは、ヘタをすると聴き手は気が付きません。(上手く言葉に出来なくてすみません。)

また、各章とも、言葉の意味を尊重し、たとえば"eleison"や"miserere"には訴えかけるような、かそけき短調を割り当てています。

特筆すべきなのは2点。

まずは、通常は田園的雰囲気をもって、あるいは歌手の美しく伸びやかな見せ場として作曲されることの多い"Benedictus"が、この作品では、先行する"Hosanna"の雰囲気をそのまま受け継いで、決然とした音楽となっていることです。(これはこの期の彼のミサ曲にわりあい共通する特徴にもなっています。念のため、75年より前に作曲されたミサを再確認しましたが、こちらではモーツァルトは伝統的な「田園的音楽」をつけていますから、K.258での"Benedictus"の作曲法は新機軸だったことが確認出来ます。)

もうひとつ、より重要なのは、"Credo"中間部(三部構成で作曲されています)、Et incarnatus est以下のAdagioで、テノールソロで歌い出されたあと、Crucifixus(十字架にかけられ)をバスの合唱が歌い、独唱がその上に不安げな表情で乗っかっているところ・・・K.258の最大の聴きどころです・・・が、「ドン・ジョヴァンニ」を予見させる響きをもっている点です。ただし、後年の名作歌劇は結果として主人公は地獄に引きずり込まれる冷徹なものですが、K.258のこの箇所は深い哀悼の雰囲気をたたえ、かつ、このあとには輝かしい「救い主の復活」が待ち受けているのです。

小節数等記しませんで、本当に概略ですみませんが、少なくとも「雀のミサ(SpatsenMesse)」などよりはこちらの方が一聴の価値があるミサ曲であるように、私には感じられます。

他の3曲も順次見た上で、ミサ曲はあらためて総括しなければならないかもしれません。

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コメント

いや、深い洞察いつも勉強になります。やっぱりCredo 58小節目Adagioからですね。何故かbassが半音で上昇してくる。65小節目にSopがいち早くでてtutti。そこには神の音。

投稿: ランスロット | 2007年11月24日 (土) 21時21分

ランスロットさん、ありがとうございます。
ついさっき、K.259の方について綴りましたが・・・こっちは曲の中身にはあまり突っ込んでいませんで。。。
なんにせよ、この年のミサ曲は絶対に「傑作ぞろい」だと信じて疑わずにおります、ハイ。

投稿: ken | 2007年11月24日 (土) 21時58分

ご無沙汰です。久々にコメントさせていただきます。

この記事に触発されて久しぶりにこのミサ曲をじっくり聴いてみたところ、いろいろと工夫が施されていてかなり楽しめましたよ。Kenさんもおっしゃっているように、一番の聴きどころはクレドの中間部ですね。バスだけが合唱、というのは珍しいですが、これがかなり効いてます。半音上昇なのはおそらくラメントバスの応用なのでしょう。ただ、一方でそれらの「ひねり」が直接、作品の魅力につながっているとは言いがたい印象も受けます。例の半音上昇にしても、K167の方がより凄まじい効果をあげていたように僕は思います。魅力という点では、K257やK259と並べられるといかにも分が悪い感じです。でも少なくとも凡作ではないと思うので、もっと聴かれてしかるべきですね。交響曲第1番K16にあれだけ注目するくらいなら、この分野にも目を向けて欲しいものです。

投稿: Bunchou | 2007年12月 1日 (土) 02時52分

Bunchouさん、いつもありがとうございます。
お変わりありませんか?

K.167は「荘厳ミサ曲」ですので、この作品と同列には論じられないのではないか、と思っています。従って、ご指摘の効果についての差は仰る通り、という認識はしております。
ただ、時期的に(たった2年の差ではあるものの)、モーツァルトの心の中に描かれる「劇」の性質は、どうも変貌していっているようにも思います。
もうすこし、各曲のフォローをしてみないと、はっきり断言はできないでしょうけれど。
「ミサ曲」というものは、性質上、一般に親しむチャンスもないし、キリスト教徒でない私のような人間が突っ込むのも、考えようによっては異例なのかもしれません。
ですが、彼の精神の結晶は「宗教曲」にこそ収斂されている気がしてならず、やはり、モーツァルトファンには最低限ミサ曲全曲だけでも聴いて欲しいなあ、と思う昨今ではあります。
また有意義なコメントを下さることを、心待ちにしております。
ありがとうございました。

投稿: ken | 2007年12月 1日 (土) 23時20分

返信、ありがとうございます。

≫彼の精神の結晶は「宗教曲」にこそ収斂されている気がする
同感です。ザルツブルク時代の宗教曲は、ウィーン時代の3曲+αのように「凄み」を表立たせてはいないですけど、やはり一曲々々のクオリティーの高さ、それに表現への意欲で以って同時期の他分野の作品を大きく上回っていると思います。(その差は年々縮まっていきはしますが)

あれからK258をまた聴いてみたのですが、それまでのミサ曲に比べると、全体的に何か風格のようなものが感じられます。歌謡性にあまり頼らない曲作りが影響しているのでしょうか。小さいのに大きい、というような印象を新たに持ちました。

それにしても毎回、Kenさんご自身の意見や推測を交えつつのものすごい情報量の記事、いつも感心していますよ。すごいです。モーツァルト好きの一人としても勉強になります。

投稿: Bunchou | 2007年12月 2日 (日) 03時40分

Bunchouさんに誉めていただけると舞い上がってしまいます!
いや、クオリティの低い記事を綴り続けているんじゃないか、と冷や汗を流しつつ綴っております(いちおう、メモ程度の下書きはしてから綴ってはいるのですが)。
懲りずにお付き合い下さいませ。

赤面しつつ、重ねて御礼まで。

投稿: ken | 2007年12月 2日 (日) 10時53分

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