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2007年11月 5日 (月)

モーツァルト:K.213〜手抜きの無い「お仕事」

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。

あるひとりの人が、他の人のために何かをするには、段取り・下準備・作業(製作)・仕上げ、と、いくつもの過程(プロセス)を経なければなりません。
ですが、他の人に見てもらえ、評価してもらえるのは、あくまで「結果」だけです。
プロセスのひとつに、たとえどれだけの手間と時間がかかろうとも、「結果」が他さまからご覧になって<よろしく無い>のであれば、叱責や非難を受けるしかありません。
「こんなに頑張った、こんなに苦労した」
を大事にしましょうよ、という掛け声論は何度も聞かされましたが、今になっても、
「結果は悪かったがプロセスは良かった」
などという評価が世の中でなされたのは、少なくとも私は見たことも経験したこともありません。

「あなたは、いったいどんな理由でそういう<理屈>でものを進めたのか。私には納得できない」
「こんなに時間がかかってしまって、連絡も一度もないのはどうしたものか」
等々。
そうした叱責を受けるのは、仕方がない、他の人が望む結果に到れなかった自分の「プロセス」のありかたが問題なのであって・・・それが自分にとって不可避だったとしても、やはり責めは「受ける」しかない。

やがて実質的にはザルツブルクから「蹴り出」されることになるモーツァルトが、1775年、19歳当時、どの程度こうしたことに思いを致していたか、は分かりません。
ただ、
「僕はこんなに一生懸命やっているのに・・・」
という、青春にありがちな(そして人生では往々にしてその終わりまで避け得ない)制限された視野の中で悶々としていたのではなかろうか、という推測は、前にヴァイオリン協奏曲について触れた際に、ちょっとだけしてみました。

この年モーツァルトが創作した作品で、まだ触れていないのはアリア3曲とヴァイオリン独奏を伴う管弦楽のロンド、そして、行進曲K.214と「管楽のためのディヴェルティメントK.213」です。

今回は、この中の、

・管楽のためのディヴェルティメント ヘ長調 K.213

について、かいつまんで見ておきましょう。

作品を実際にお聴きになっても、この年の「牧人の王」ヴァイオリン協奏曲4曲K.222の荘厳な響きに比べると、きっと「あまりに軽すぎる」としか聞こえないかもしれません。

ただ、申し上げたいのは、オーボエ、ファゴット、ホルン各2本の編成で4楽章からなる、この小規模なディヴェルティメントも、上にあげた大規模な作品に比べて、決して「手を抜いた」仕上がりにはなっていない、という点です。編成も小さいながら、響きは既に「十三管楽器のためのセレナーデ」を髣髴とさせる部分もあります。
ですから、お聴きになるには魅力は薄いかもしれませんが、アマチュア演奏家にとっては、楽譜を手にとってみる価値が充分にあるのではないかと、私は感じております。
「小規模」なのは、注文主がそうであることを要求したからでしょう。ここでたとえばK.203やK.204、K.250のような大規模な「セレナーデ」に近い作品を作ってしまったら・・・モ−ツァルトは、おそらく散々に叱られ、けなされたことでしょう。
「こんなものを頼んだ覚えは無い!大仰過ぎる!金は、払わんぞ!」
という具合。

かつ、管楽器だけの作品ですから、「屋外での演奏用」だった、と見なしてよいと思います。
名称こそディヴェルティメントとなっていますけれど、これはハイドンの伝記に出てくる、ハイドンがその独立したての頃に道端で演奏していた「セレナータ」そのものです。(こちらの記事に記したことがあります。・・・ハイドンの作品表には、しかし、管楽のための「セレナーデ」という作品はやはり見当たらず、管楽器だけによる作品は、モーツァルト同様、「ディヴェルティメント」と称されています。サリエリ作品には、「木管合奏のためのセレナータ」が現存しています。)
K.213は7月の作品ですが、私の目に出来る資料では、どういう場で演奏されたのかは分かりません。ただ、何らかの屋外での催しで吹き鳴らされたのではないか、という徴証らしく感じられるのは、終楽章がコントルダンスである点です。宴会の最中、この楽章になったところで、その場にいた人びとは、もしかしたら賑やかに踊り出したのではないでしょうか? そして、そんな踊りに似合うのは、芝生の上。

なお、この作品の自筆譜は幸いにして、クラカウで再発見された一群の楽譜に混じって現存しています。NMA第17分冊に冒頭部(1-15小節)の写真版が掲載されています。

I. Allegro spiritoso 4/4, 72小節
II. Andante 2/4, 28小節
III. MENUETO(24小節)& Trio(24小節)
IV. CONTREDANSE EN RONDEAU Molto allegro 2/4(79小節)

小節数から見ても、この作品が如何に小規模であるかが分かります。
が、これは実際にお聴きになって見て頂かないと分からない「手抜きのない作品」です。
「手抜きがない」ことが如何に特別か、ということは、演奏された場に居合わせた人には別段評価されることは無かったでしょう。むしろ、「手抜きがない」ことによってもたらされる自然な音楽の流れが、人びとには「空気をちょっと新鮮にしてくれる芳香剤」程度にしか認識されなかったはずです。

作者自身の自負がどのようなものであれ、作品そのものの価値と言うのは、得てしてそんなものなのではなかろうか、と思います。・・・感じようによっては切ないですけれど。みんな、そうやって自分の「なすべきこと」をなしているのですよね。

この他の器楽作品2つについては、「手抜きなし」という点ではK.213にひけをとらないのですが、創作や演奏の経緯がK.213よりも伺いづらいので、その推定を含め、また改めて触れましょう。

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