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2007年9月21日 (金)

移動した笑いの「場」(万歳〜漫才)


小沢昭一の「新日本の放浪芸」〜訪ねて韓国・インドまで〜

この前は敢えてリストからはずしたのですが、「新猿楽記」の中に、笑いをとったかもしれない演芸がもうひとつ載っています。

「万歳」です。

但し、他の演目同様、名称が載っているだけで、内容は分かりません。

雅楽に「万歳楽」が残っていますけれど、関係があるかといえばあるかもしれませんし、ないかもしれません。とはいえ、少なくとも神事と関わる「祝い言」ではあったでしょう。で、平安期の朝廷は未だ、天皇のみならず、貴族階級全般が、神話の神々とのかかわりを失っていなかったはずです。

貴族全盛のこの時代は、荘園制の時代でもありました。神社も荘園(御厨【みくりや】と呼ばれました)を、特に東日本以西にかなり領有していたはずです。

で、その御厨に出向いて貢納物を収集してくるのが、神人(じにん)という、流動的に神社に所属していた連中でした。わざわざ現地に赴くからには、自分が神社の正式な遣いであることを証明せねばならず、そのためには現地の民の前で、神事を演じてみせるくらいの事は、したのではないかと思います。神事は、「古事記」のアメノウズメノミコトに象徴されるように、日本では卑猥で滑稽なしぐさをするのが通例だったかもしれません。

「太平記」に描かれたような混乱期、さらには応仁の乱を経て、中央権力が衰え、地方に有力者が割拠するようになると、荘園制は崩壊してしまいました。それとともに、「神人」という言葉も、文献から姿を消します。それでも神社は何とか、これまでの収入を維持しなければなりません。どうしていたのでしょう?資料漁りをしていないので、私にはそのあたりの事情は掴めておりません。

ただ、面白い映像資料を見ました。小沢昭一氏による「新・日本の放浪芸」というDVDです。続とあるからには旧編もあるのですが、こちらはCDで、かつ私はとうとう入手し損ねました。映像が見られるなら、ま、いいか、という感じです。

で、この「新−」の映像は<尾張万歳>で始まります。この万歳は、滑稽さよりは祝儀性を前面に出しています。古形とみなすべきでしょう。

続いて現れるのが伊勢の「三曲万歳」です。三味線・鼓・胡弓を携えた三人組が、めでたい言葉をネタに、その言葉を洒落にしていき、「何々とかけてなんと解く」「その心は」式で面白おかしく漫談を展開していくものです。(音声の例を添えられず残念です。)

演じ手のかたへのインタヴューも収録されていて、これが非常に興味深いのです。

昭和の中期までは、このかたたちは農閑期になると五ヶ月かけて伊勢・志摩・奈良方面のお得意さん廻りをしていて、ある年に行くのを欠かした家からは、翌年出向いてみると、「去年あんたらが来いへんかったから、うちの誰々が死んでしもたわ」と、よく叱られた、というのです。彼らの万歳は、単純に娯楽として享受されていたのではなく、「めでたさをもたらすもの」と考えられていたわけです。

演芸場に持ち込まれた「漫才」も、こうした万歳と無縁のものではなく、近代に入って、やはり地方回りをしていた万歳師が大阪の演芸場に常連となったことから、寄席に定着して行ったものなのだ、ということも、またこのかたたちがお話になっていました。「漫談」の要素のほうが強調されて、表記も「漫才」に変わってしまったものの、「万歳」と神のつながりは、<笑うかどには福来たる>という慣用句の中に、今も生きているとみなしてよいのでしょう。

さて、万歳師は、こうして推測してみると、神人の後裔ではなかろうかと思われるのですが、先に「流動的に神社に属した」と述べましたように、おそらくは、やはり奈良・平安期の「傀儡子」や「私度僧」「高野聖」と類似した流浪の民であり、それがたとえば伊勢神宮からフランチャイズを受けて「伊勢神人」として営業して歩いていたと考えてみたら、はずれているでしょうかね。

貢納物収受の手段だったろう「万歳」(私の勝手な想像ですけれど)が、中央権力の失墜とともに移動の芸と変じて近代に至り、ふたたび中央集権化した世の中に「寄席」という定着の場を得て行った過程には、時代時代の人々が、どのようにして<楽しみ>、<安らぎ>を得ようとしたかと密接に関わっていたのではないでしょうか? また、その時代の経済生活のありようとも、つながるものがあったのかとも思われますが、どうでしょう?

なお、「神人」と呼ばれてはいながら、彼らはどうも無頼の徒であったらしい形跡があり、その姿がよく現れる、鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」の中に、現在の埼玉県にある久伊豆神社で、隣接する大河戸御厨の人(武士階級か?)との間で喧嘩狼藉をはたらいたという趣旨の記事が残されています(建久五年六月三十日条、ただし「伊豆神社」となっている)。・・・明治初頭まで神社の護衛を買って出ていたのは博徒と呼ばれていた人々ですが、これはおそらく博徒たちも神人の後裔のうちで、出稼ぎ演芸をしない留守部隊が転じていった姿なのだ、などという推測をしたら、これも間違っているでしょうかね。。。

新猿楽記・雲州消息
小沢昭一の「新日本の放浪芸」〜訪ねて韓国・インドまで〜

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