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2007年9月30日 (日)

「うつ」の方へ・・・お勧め2冊

私自身の「うつ」歴は3年で・・・その間に家内を失う、という、最大の哀しみを経ることになり、あらためて、自分のウツで家内に相当負担をかけたのではないか、と思うと、未だに悔いられてなりません。

が、そんな私でも、職場を中心とした周りの方々のご寛容で、なんとか回復しつつあります。

ネットでお知り合いになり、励まして下さったご友人たちにも大変感謝をしております。
・・・ですが、人を励まして下さりながら、ご自身がやはり「うつ」でお苦しみ、お悩みの方もいらっしゃいます。



世の中は、「うつ患者」が決して「暗い性格なやつ」であるわけではなくて、「病気の人なんだ」とうことを、ようやく認知し始めたばかりです。
ただ、困ったことに、これが「うつ」に関する本の種類・出版数を無尽蔵と言えるまで増やしてしまい、「うつ患者」自身にとっても、「うつ」の人が側にいる環境にいる人(多くは家庭と職場)にとっても、かえって

「ウツとは何か」

を分かりにくくし、患者本人、患者と対峙しなければならない人が「うつ」の本質を知ることを妨げている気がして、非常に危うく思っておりました。

ですが、患者本人も、周りの方も、「うつ」とは何か、については、やはりよく知っておくべきだと思っております。

「うつ」が病気だということが「常識化」しなかった背景には、ネット社会の到来前には、少なくとも企業や行政にとって重要視しなければならなかったほどの患者数がいなかったことがあります。

なるほど、週休2日が普及し(未だに恩恵を受けていない人も実際には多数にのぼるのですが)、商店が夜遅くまで開いているなど、ネット社会到来前に現役を退いた方々から見れば
「ラクで、いい世の中になったねえ」
という見方が固定化しているのでしょう。

ですが、本当は、社会が、バブル経済破綻を境目に「自分の縄張りだけで仕事を考えればいい」という環境から「外へ目を向けなければやっていけない」状況へと変貌したことには、案外目が向けられていませんし、半面、業務は分業化が細かく細かく進んでしまっているために、家庭からは家族の仕事が見えない、仕事をしている本人も自分の仕事が見えない・・・そんなことが当たり前になっています。
「うつ」とは精神がにっちもさっちもいかない状況で、ノイローゼとは違って「精神そのものがおかされてしまう」病気だ、ということは、かなり以前(少なくとも百年前)には明らかになっていましたが、文献は専門的なものしか無く、一般人の需要もありませんでした。
ここで、現在の、関連書籍の増加に目を向けて下さい。・・・これこそ、今という時代が、「うつ」の解決法を一般人までが必要としなければならなくなった現れです。社会は確実に変貌してしまったんです。
まずは、そのことに思いを致して下さい。



ただ、需要と比例して供給の絶対数が増えるのは当然としても、供給される書籍の種類が多すぎるのは、「質的供給過剰」です。私は、自分が「うつ」になるとは予想もしていませんでしたが、学生時代の専攻の関係で、30年前には「うつ」に関する本を読みました・・・今出回っている本で、病気の知識そのものについては30年前の本よりも進化した本なんて、断言しますが、1冊もありません。
ただ、「分かりやすいもの」・「社会復帰支援を目指したもの」が現れていますから、それは是非、ご一読頂くのがよろしいかと存じます。


苦しみから救われたければ、あまり多くの知識を詰め込みすぎることは逆効果です。

・なるべくやさしく「うつ」が分かる
・「うつ」から社会復帰するために考えるべき手順がきちんと記されている

この2点に絞り、それぞれ1冊ずつ、私が推薦できると思ったものを下に掲載しておきます。

「うつ」に陥っているあなたへ (健康ライブラリーイラスト版)Book「うつ」に陥っているあなたへ (健康ライブラリーイラスト版)


著者:野村 総一郎

販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する


私自身は購入していないのですが、肝心のことは網羅しており、知らなくていいことについてはくどくど突っ込んでいない、良い本です。部下に「うつ」患者を持った上司にも(実はそのものズバリ、そう言う上司が読むために、と書かれた本もありますが、それよりはむしろこっちをお勧めします)読んでもらいやすい、イラスト豊富な点がポイントです。

「うつ」からの社会復帰ガイド (岩波アクティブ新書)Book「うつ」からの社会復帰ガイド (岩波アクティブ新書)


販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する


私が最初の復職をする直前に、信頼する侍医さんが薦めて下さった本です。「ウツ患者」の方は、ある程度回復基調にあるか、調子のいい日でないと、読むには若干辛い内容であるかもしれませんが、いま自分が覚悟しなければならないこと、いざとなったらどこにどう救いを求めるべきかということについても、手にとった限りでは一番良い手順でまとめられている本です。


私とお知り合いであるかそうでないかに関わらず、一人でも多くの、私の大切な「同時代に人生をともにしている仲間たち」が、
・・・「うつ」の方は一日も早く「うつ」であることに不安を感じなくなれますように
・・・「うつ」でない方は、「うつ」とは何ぞやを知ることによって、本当の思いやりの心をもって下さるように、
そして互いによりよい日々を過ごしていけましように。
心から祈っております。

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2007年9月29日 (土)

ハイドン観察:交響曲(3)第1番

さて、エステルハージ家奉公前とされる19曲の「初期交響曲」をじっくり(?)見ていこうと思いますが、今回は第1番のみにとどめ、次回から6曲ずつまとめて観察しようかと思っております。
理由としては、
・ハイドン自身が「私は自分が初めての交響曲を作ったときのことを鮮やかに憶えている」と語っており、ガイリンガー(=ロビンズランドン)も、それ以降の研究者もハイドンの言う「最初の交響曲」が<第1番>であることに特段異論を立てていませんから、まずはこの作品をハイドンの交響曲のプロトタイプとしてみておこうかと考えたこと
・より重要な課題として、通奏低音問題があること
の2点を挙げておきます。

後者について少し述べておきます。

遺憾ながら私は直接にその言葉を読みも聴きもしておらず、実演や録音も耳に出来ずにいるのですが、ホグウッドが「ロンドン交響曲(第92番以降)」以外の初期・中期交響曲は通奏低音無しで演奏しているそうで、その理由としては
・エステルハージ家で通奏低音奏者(=チェンバリスト、でしょう)を採用した形跡は無い
・ハイドンはオーケストラをヴァイオリンでリードしていた
・通奏低音無しで充分に美しい
との論点を掲げているのだそうですね。(誤りでしたらご指摘下さい。)

果たして、ホグウッド(またはザスロウ説かとも聞いていますが、これも誤解でしたら教えて下さいね)見解は本当に正しいのか・・・正しい部分が大きいとしても、それを初期・中期の全交響曲(とりわけエステルハージ家以前とされる作品)全体に敷衍することまでが正しいといえるのか
・・・これを、ハイドン自身の音符から確認し得ないだろうか、との素朴な疑問が、私にはあります。

さらには、通奏低音が、(発生にまで遡るのは私にはとても手におえませんから)どんな過程を経て消滅していったのか、について、ホグウッドの見たハイドン像では解せない部分もあります。
ホグウッドは、ロンドン交響曲以降についてはピアノフォルテで通奏低音を弾いてリードしています。これは特にザロモンセットが演奏された当時の記録に基づくもので、間違いではありません。ですが、これも「ロンドン交響曲」全体に敷衍してよいのかどうかとなると、曖昧です。初期・中期交響曲の「通奏低音無し」演奏と同様の「非厳密性」を、そこに感じずにはいられません。

日本のハイドン研究の第1人者、大崎滋生氏が、ご著書「文化としてのシンフォニー 1」の中で指摘されているとおり、(本文どおりではありませんが)エマヌエル・バッハの「全ての演奏に通奏低音が入れられるべきである」との発言は、そうではない場面があったことを反映しているのは間違いなかろう、とは思います。
でしたらいったい、それは具体的にどういう場面で、いつからそうであったのか、という探求も、この際してみたいと思っております。そしてそれは、大崎氏が同書で
「シンフォニー上演の場合には、一般にヴァイオリン奏者の楽師長が演奏をリードするのであるが、演奏の統括者がチェンバロの前にすわるケースがないわけではない。また楽師長がヴァイオリンでない宮廷楽団の場合や、演奏統括者が何らかの理由によりヴァイオリンでの統括を選択しない場合などもあり、それは、地域的な演奏の伝統や、演奏場所の条件などに左右され、変化したのである」(123-124頁)
と仰っていることの、ハイドンという「現象」を通じての、しかも素人の手によるささやかな検証には過ぎませんが、そこはすくない手持ちで室内楽曲などにも手を伸ばしながらでも、きちんと確認したい。
(ちなみに、大崎氏は
「ハイドンのエステルハージ宮廷におけるシンフォニー演奏にチェンバロが加わっていなかったのは確実である」と、そのご研究成果から断言していらっしゃいます。前掲書124頁)

また、モーツァルトの場合とは違い、ハイドンを扱っていくに当たっては、最初から「交響曲」という用語を用いますが、これは、
「ハイドンの念頭には、最初から<序曲>としての「シンフォニア」は念頭にはなかったのではないか」という私の主観的な仮説によります。
観察を進めていくに従って反証が出てくれば、それはそれで面白かろう、と、楽しみに進めていきたいと存じます。


で、第1番を見ていきましょう(1756頃作曲)。今回は通奏低音云々はしません。

ニ長調をベースとし、真ん中の第2楽章を下属調(ト長調)とした3楽章構成です。

全集でも買わないと聴くチャンスが無いと思いますので、今後も最初の部分は出来るだけ音をリンクしたいと思っておりますが、第1番のみについては全曲をお聴きになってみて下さい。
なぜなら、「第1番」は、すべて、とは言いませんが、多くの作曲家にとって大きな記念碑であるからです。
モーツァルト然り、ベートーヴェン然り、シューマン、ブラームス、マーラー、ショスタコーヴィチ・・・みな然りです。

107曲もの交響曲が残っているハイドンにとってもそれが例外ではないことを、是非知って頂きたいのです。
しかも、ハイドンは既に第1番で「大人の作曲家」として現れます。書いた時の年齢が、もう26歳か27歳だったので、当然と言えば当然です。


さわやかに舞い上がる主題が斬新ではありませんか?
これは「マンハイム・ロケット」と呼ばれた技法だそうで、当時最も評価の高かったマンハイムのオーケストラでシュターミッツ(父)が使用し、大好評を受けたことに由来すると言われています。
が、これが本当に「マンハイム・ロケット」なのかどうかについては、シュターミッツの作品を確認していませんので、断言を避けます。(シュターミッツの交響曲は、昔、何曲も弾いたのですが、一つも覚えていないのです、ごめんなさい。)
明確なソナタ形式を最初の交響曲からを示している点で、エマヌエルやクリスチャン・バッハより進んだ・・・「交響曲」の概念が何かの影響で確立した後であった・・・ことを示している一方で、「第2主題」は第1主題の延長で出来ている点では、まだモーツァルトの「第1番」第1楽章ほどには「ソナタ形式」は成熟していなかったことを示しています。
ただし、第1主題自体が大変緻密に出来ていて、「1〜9小節」・「10〜13小節」・「14〜22小節」・「23〜28小節」の4部分で構成されています。主題のこうした「複構造」はモーツァルトにはあまりなく(2部構成が多い)、むしろロマン派以降の作曲家に引き継がれていきます。
かつ、そのあとに現れる短い第二主題はニ短調で現れ、「大人の心の陰・憂い」を<チラッと見>させてくれますが、この手法は続く第2楽章でも用いられている上に、ハイドン初期交響曲中でどんどん発達していく技術でもあり、「短調のモーツァルト」と単純に対峙する、明快なハイドン、という図式は全く成り立たないことが明らかです。・・・ハイドンの「短調」については、いわゆる「シュトルム ウント ドランク」期を待たず、初期交響曲観察中に言及すべき機会がめぐってくると思います。
呈示部は第二主題までの39小節間で、ここで演奏例は反復演奏しています。
そのあとの繰り返しの始まりが、「展開部」です。これが19小節(呈示部の50%)もある、というのは、この時期としては長大だ、といっていいと思います。展開部の締めくくりも「短調による翳り」によってなされ、その後59小節目から再現部です。再現部は第1主題が18小節(呈示部では28小節でした)、第2主題が7小節(同じく11小節でした)と短縮されている点に留意して下さい。最後の3小節は、実に気っぷのいいコーダです。


2つの主題から構成される28小節までの前半部、同じ2つの主題を用いた78小節までの後半部からなり、後半部が長いのは前半部の主題の展開を含むからなのですが、これが実に細やかです。第1楽章で細かく綴りすぎましたので、詳述はしませんが、「翳り」の技法の多用の他に、素朴ながらカノン風に見せかけた2度上ずつの積み重ねの技法(これは遥か後年にモーツァルトが有名な第40番【大ト短調】で活用することになります)を随所に用いているところにご傾聴頂ければ、この楽章が、ただ聴いただけでは分からない「複雑さ」に満ちたものであることをご理解頂けるでしょう。


拍子だけ見るとイタリア系の「シンフォニア」をハイドンも意識していたかも知れない、と思われるのですが、ちょっとトリッキーではあるものの、ハイドンがここで作っているのは「ジーグ(6拍子が普通)」を崩したものであることが、根底にあるリズム(四分音符1+八分音符1)から判明します。ハイドンのいたずら心のなせる技だったのでしょうか。。。「ジーグ崩れである最大の証拠は、この楽章が単一主題からなっているところにあると思います。(イタリア風なら、ロンド形式系で作曲していたはずです。)
この楽章は、お時間があったら、是非、J.S.バッハの「管弦楽組曲第3番」終曲と聞き比べてみて下さい。

以上、音楽はドラティの全集盤によりました。
私のヘタな説明で、お楽しみを妨げているようでしたら、心からお詫び申し上げます。

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2007年9月28日 (金)

これで楽譜が読める!?(グレゴリオ聖歌前説のはずが・・・)

(曲解音楽史グレゴリオ聖歌前説なのですが・・・そんなことは無視!)

音楽は好き!
・・・でも、楽譜は読めない。。。
そんなお声をいくつか伺っていました。

で、お悩みの方のために「親切に」綴るのか、というと、実はそうではないのでして (^^;)
そこまで優しい心はないのであります。実は・・・

(ここからは忘れて下さい。)
ヨーロッパの音楽史には必ず採り上げられ、しかも確かに重要度の非常に高いのがグレゴリオ聖歌です。
それをブログでも記述するには私ごとき素人には手におえないほど深ーい知識が要りそうなのですが、無謀といわれても「音楽史」に取り掛かったからには「さらっと」だけでも触れないわけには行きまん。

特に「調と旋法」という問題を考えるとき・・・あ、さっそく面倒くさくなってきたゾ!・・・、ヨーロッパ音楽の方が教育上身近になってしまった日本の私たちには、東洋の複雑な体系よりも「グレゴリオ歌」を通じて触れた方が分かりやすいのですから、やはり避けては通れないのであります。。。
で、調べている途中経過での副産物です。
(ここまで、ハイ、忘れましょう! 忘れましたね?)

歌い方についての細かい決まりごとを除けば、「グレゴリオ聖歌」の楽譜は、読みやすい!

下の図例をみて下さい。

1.
C1_3

2.
C2

この例から、「歌い方はどうするのか」なんてことまでは、考えないで下さい。
細かい記号にもあまり気を取られないで下さい。
ただ、次のことだけ、憶えておいて下さい。

・線の数は4本(これは普通に売っている楽譜より線が1本少ないですね。その分ラクです。)
・線の上に「C」のマークが付いているところの音が「ド」。

もうひとつ、

・線の上に「F」のマークがついているところが「ファ」
(訳わかんなくなるといけないので、こっちは例をあげてません。)

<ドレミファソラシ=CDEFGAB=はにほへといろ>
を知っていれば、
「あ、Cだからド、Fだからファなのね」・・・当たり前じゃん、という次第。

これだけを目安にすれば、あとは、基本的に
「何にもついていない四角い音符(菱形でも、棒があってもなくても)はみんな同じ長さ」
「右脇に点(・)がついている音符だけ、テキトーに長く歌えばいい」
ということを知っているだけで、いちおう「グレゴリオ聖歌」っぽく歌うことは誰にでもできます。

では、上の図例、歌ってみて下さい。「C」の位置がずれているのに注意!

1.
C1_3

2.
C2

・・・歌えましたか?

答え!
1.ミレソラドシラー|ドシラファソラソミー|ソファドレミレドレー|ファラソファソファレミー|

2.ファソラソファミソー|ラソファミソラー|ソファラソファミーミー|

実は、現行の五線譜も、ハ長調、イ短調の楽譜はこの単純な応用ですから、
「やーい、リズム音痴!」
とイヂメられても「関係ねー!」と胸を張れる人は、この理屈が分かっちゃえば、楽譜を読める第1歩はもう卒業です。

簡単な譜例を3つあげます。答えはつけませんヨ!

・ト音記号=「G」の字の形に飾りがついたもの。五線の下から二番目の線から、記号が始まっているところがミソです。記号の「始点」が「ソ」、すなわち日本音名の「と」なのでト音記号というわけです。
G

・ヘ音記号=「F」の字が変形したもの。二つの点が、「F」の横棒2つに対応します。ということは、この二つの点に挟まれた、上から2番目の線の上にある音が「ファ=(日本音名の【ヘ】」です。
F_3

・ハ音記号=「C]の字に飾りがついたんですが、これだけは派手ですね。しかも、実際にはいろんな場所に移動します。異動されると面倒くさいのですが、要領はグレゴリオ聖歌の楽譜と同じです。

でも、ここでは代表的かつもっとも多く見られる例をあげておきましょう。
C_2
・・・これだけ、画像が崩れているので、答えを記しておきます。
上:ミファソ・ソ・|ラ・ソー|ド・ソ・ソ・|ラ・ソー
下:ドレミ・ミ・|ファ・ミー|ソ・ミ・ミ・|ファ・ミー
って感じ。これを3拍子で歌ってみて下さい。あ、リズムの説明をしていませんから、「それっぽいかな」くらいの感じで。

(こっからは、また忘れて下さい。)
この位置にハ音記号がある場合は「アルト記号」と呼ばれます。
上に線1本分ずれると「テナー記号」と名前を変えます。
そのほか、もう一本分上にずれて「バリトン記号」、下にずれて「ソプラノ記号」・・・まあ、どうでもよろしいですが。
(さ、忘れましたね?)

どうですか? XXXさん、これで読めるようになりましたかー?

なんですって?
「リズムとかシャープとかフラットとか、まだ全然わかんないんだけど」?
最初から贅沢言うもんじゃありません!
ご健闘を祈ります。
この記録は、私がボタンを押せば瞬時に殲滅されます。。。
(はやんねー。)

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2007年9月27日 (木)

スコアを読もう:ドボルジャーク:交響曲第8番(まず全体像)

10月はスケジュールを拝見すると、TMFの練習に参加が出来そうにありません。
関係各位には大変ご迷惑をおかけいたします。
(12月も、時間帯的・家庭事情的にはほとんど・・・直前の練習も参加不能です。すみません。)

せめて、お役目を果たすべく、スコアの読み方と個人練習のヒントだけは綴っていこうと思います。
9月中に先生から受けたお話を極力思い出しつつ、数回にわたって述べてまいります。
ご参考になれば幸いです。

本来はライネッケがもっとも馴染みも薄く、「読み」のお話を最優先ですべきものかとは考えていたのですが、スコア未入手(先々も見込み無し)ですので、ソリスト主導に期待するにとどめさせていただきます! m(_ _)m


先ずはドボルジャークの「交響曲第8番」から取り掛かろうと思いますが、作曲の経緯・伝記的事実等については触れません(分かりやすい伝記も出ていることですから)ので、あらかじめご了承下さい。

構造的には一見明快(実は、やはり明快!)なのですけれど、和声作りを怠ったり、転調の読み間違いをすると、みっともない仕上がりになります。逆にいえば、この2点に成功すれば、あとは(莫とした言い方で恐縮ですが)ニュアンスをどう把握するか、のみに留意すれば、補強メンバーのいない今度の演奏会でも、なんとか「まっとう」な演奏は出来るのではないかと思います。
(この点では「フィンランディア」の方が高い難度をもっています。なぜなら、「フィンランディア」は徹頭徹尾<和音の音楽>であるのに、旋律の美しさで見事にそれをカムフラージュしている。そのことに気づいている演奏例も演奏者も、非常に少ないのが実態ではないかと思っております。)

ただ、日本語版スコアでも解説(私は音楽之友社版を新たに購入しました)は極めて大雑把で、演奏上の参考にはほとんどならない上に、いちばん肝心のことについて記されていないのではなかろうか、と感じました。

今回は、そのことのみに触れます。すなわち、交響曲の全体像について、です。

この交響曲は、4つの楽章が非常に緊密に結びついている、という事実はご承知でしたか?
であれば、以下はお読みいただく必要はありません。



第1楽章のフルートのテーマにご注目下さい。
移動ド読みだとこうですね・・・
A:「ドーーーミーーー|ソ・ミラ・ミソ・ミラ・ミ|ソーミー・・ミー|ソーミードーレミ|ソーーー」
ってなもんです。これは、長ーい第1主題の2番目の要素です。
同じく第1主題の要素で
B:「ラシ|ド・ド・ド・:シドレ・レ・レ」
というのが、ヴァイオリンにある。

第2主題の最初(の後半)は(クラリネット)
C:「み・み|ミーレドシレドシ|ラーーー」
第2主題を締めくくるのは(第1ヴァイオリン)
D:「ミーレー|ファーミー|ソファ#ラソ|ドーシラソファミレ」
ですね。

この第1主題・第2主題の各要素が、他の3つの楽章をも支配しています。

第2楽章の開始部は、第1主題の中でもフルートのテーマの方の変形です。
「・ミファソ|ラーソファ|ソー」
は、
第1主題のAの一部、「ミー|ソーミードーレミ|ソーーー」
に対応しています。(第2主題にも準じる要素があるので探してみて下さい。)
途中の明るい主題の伴奏部の下降する音階は、明らかに第1楽章第2主題の締めくくりの部分Dを敷衍したものです。

第3楽章の主題は第1楽章第2主題のD末尾「ドーシラソファミレ」と関係していますし、トリオの主題はフルートの主題の方のAの3セクションめ、「ソーミー・・ミー」の部分のが逆行型を基礎にし、第2主題の「み・み|ミー」
の動機の応用型でもあります。

第4楽章の、チェロに始まる主題は、第1楽章のフルートの始まり方と同じ音
「ド・ミ・|ソ」
で開始されています。

その他、第1楽章の各要素は第2楽章以下に頻繁に現れます。

こうしたことに伴って、たとえば第4楽章冒頭のトランペットのファンファーレも、第1楽章の、序奏的な部分の直後のクレッシェンド部で伴奏を吹くトランペットと近親関係にあったりします。

まず、そのような目で、スコア全体を見渡しておけば、この作品の「本当の」面白さに迫ることが出来るはずです。
どうぞ、一度俯瞰的にご覧になってみて下さい。

これを理解した上で、第1楽章の冒頭部から、誰がどういうバランスで演奏したら、少しでも望ましい響きになるかをお考え頂ければ嬉しく存じます。

楽器全てを知悉している、とは、私はとても言えるような人間ではありませんから、不適切なことも申し上げる場合があるかもしれませんけれど、演奏技術をスコアの読みにどう対応させればよいか、についても、なるべく具体的に触れていきたいと考えております・・・が、どこまで出来るか。

とりあえずは、音楽の構造の概略ヒントのみ綴りました。
こんなところで。

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2007年9月26日 (水)

間奏:笑いと暴力

過去数回、「笑い」そのもの、というよりは、「笑いが演じられる場」を、日本に限って、どちらかというと歴史の断片を拾ってみてきました。

それは「神社の境内」という結界の中で生まれ、「神人」という一種の流浪の民の手で固定された場から開放されたのでした。

他に、おそらく仏僧の説教、あるいは僧崩れの聖(ひじり)たちによる説教節から派生したであろう「落語」において、寺院が似たような「起源の場」であったでしょうし、はなから流浪の民であった傀儡子集団(彼らがどのように登場し、どのように消滅したかも興味深いところです)が荷った「笑い」もあったはずです。

「場」については、こんなところで概ね分かった、としましょう。

では、肝心の「笑い」はどうやってもたらされたか・・・本来、「笑い・コメディ」の演芸そのものを楽しもうと設けたカテゴリですのに、思わぬ脱線でスタートしてしまいましたが、「楽しむ」ためには「楽しめる」ための前提条件はある程度把握したい、という屁理屈根性がここでも先に芽吹いてしまったため、つまらん話の連続になったことを心からお詫びしつつ、かつ、つまらんかったら読まんでおいてくださることを切に願いつつ、もうちょっと屁理屈に浸らせて下さい。

本題に戻ります。

これまで「笑いの場」を考えながら、自然と脳裡に浮かんだのは、「笑い」と「暴力」のつながりの深さです。

いくらなんでも「暴力」だけが笑いの要素だとすることは大間違いなのでして、それは徐々に見直していくことになるはずですが、それにしても、「暴力」が観客に「笑い」として許容されてきたことには、小さからぬ意義を、何とはなしに感じるのです。

殴り、殴られ、蹴り、蹴られ、は、少なくとも私が子供時代に見ていた演芸では「笑い」を取る最も手軽な方法でした。

ただし、どの程度までの暴力なら「笑い」として許容されるのか・・・これは、考え出すと大変に難しい。

一つの例として、北野武監督の一連の初期映画作品についてみてみましょう。

鮮烈な印象を人々に与えた彼の初期監督作品は、「暴力もの」が圧倒的に多い。しかも、それは漫才師ビートたけしが演じていた「笑い」を取るための「暴力」とはまったく異質のものでした。その道徳的、あるいは美的・芸術的意味は、今は問いません。この場で問うことが無意味だからです。

そうした一連の「暴力もの」の間に、他に特異な一つの例外を除いて、彼は二作だけ、「笑い」主体の作品を制作しています。

お下劣に徹した「みんな~やってるか!」

彼にしては珍しい人情ものである「菊次郎の夏」

「みんな~やってるか!」の方は、それまでの数作での集中に疲労した北野監督がおもいきりハメをはずして精神的起死回生を図ったものではなかったか、と、私は勝手に考えております。内容は漫才時代の暴力ネタ・下ネタ・汚物ネタてんこもり。そのため評価は高くなるはずはありませんでしたが、特段悪口も言われませんでした。

「菊次郎の夏」は、一般家庭でも安心して子供に見せられる(とはいえ、競輪とか変態オヤジが登場します)穏当な内容です。ところが、北野ファンには、こちらは猛反発を食らったのでした。芸人の中でも北野氏を畏敬してやまない松本人志が「菊次郎の夏」だけは徹底的にこき下ろしていたのが、私には大変印象的でした。どういう理由でそこまでこき下ろしたのか・・・は、しかし、あまり理解できていません。言えるとすれば、「菊次郎の夏」は暴力シーンが少ないか、他の作品よりも緩められた間接表現になっている(ただし、間接表現でも凄みがある、というのは、代表作「HANABI」で北野氏が観客に強く印象付けることに成功しています)・・・それは「笑い」をとることを重んじたためであったとしても、北野武という人物の持っている価値観からすれば「逃げ」だったのではないか、と、松本には切なく感じられたのではなかろうか、という推測のみです。

で、この「推測」の松本感情に、この先具体的に見ていく「笑いの起こし方」の重要なキーが隠されているのではないか。

あまり囚われてはいけませんが、そのあたりを考慮しながら、今度は「演じられる笑い」に目を移していきたいと考えております。

お粗末さまでした。

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2007年9月25日 (火)

曲解音楽史20:日本固有(?)の古歌

前の回:1)音という手段  2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽   5)トランス   6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド   9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ  12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ    14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア   16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
     18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア



日本の音楽については、東アジア、特に中国との関連で、器楽としての「雅楽」に触れたのみでした。

「雅楽」の中には、しかし、日本固有と見なされる「歌謡」も含まれています。
しかしながら、それが純粋に日本固有なのか、やはり中国や朝鮮の影響を受けたのか、は、明らかだとは言えません。とはいえ、中国も朝鮮も伝統音楽が時代を経て変貌してしまっているため、おおもとは日本に影響を与えていたにせよ、こんにちそれを伺うことは、まず不可能でもあります。

ですので、神楽歌・久米歌・催馬楽などの雅楽歌謡は、
「現時点では日本にしか存在せず、日本でしか聴けない音楽」
になっている、ということは断言しきれます。但し、その成立を平安時代より前にさかのぼって確認することは、いまのところ出来ていないようです。

しかも、私たち一般人がそれら「日本固有の古代歌」を直接間接に耳にする機会は、大変まれです。
音楽の教育課程が変わり、日本伝統音楽も中学の授業に取り入れられることにはなりましたが、三味線か琴あたりを除けば、実際に和楽器に触れるようなカリキュラムを組むことは、非常に困難なのではないかと思われます。
まして、古代歌謡は口承口伝の世界のものです。その微妙な世界を垣間見るのは器楽以上に困難なのではないでしょうか。

一方、「神楽歌・催馬楽」を読み物として読むことは、入手しやすい日本古典文学全集にたいていこれらが活字化されていますので、遥かに容易です。そこから、日本人がどのような歌を歌い継いで来たか、「ことば」の面で伺うことは充分に可能です。

神楽歌や催馬楽の解説、起源についての諸説は、ですので、「古典文学全集」の類いに掲載されているものをお読みになり、正確な知識を得て下さるようお勧め致します。

一つだけ、私が大変面白いと思うのは、催馬楽には「露骨にセクシャル」な言葉のものが多数みられるのに、たとえば、源頼朝の時代に摂政をつとめた九条兼実の日記「玉葉」には、長子の良通が藤家流(呂旋)の催馬楽を師の大納言宗家に付いて熱心に習っている様子がしばしば記されていることです。

極端な例ですが、こんな歌詞の催馬楽もあります。(18歳未満は読み飛ばして下さいな)

 陰(くぼ)の名をば 何とか言ふ 陰の名をば 何とか言ふ
 つらたり けふくなう たもろ つらたり けふくなう たもろ

(あ、18歳以上でも意味分かんないですね! 私も注釈がないと、ちっとも分かりません!)



神楽歌の方は、一式歌われると非常に長いので、その前に「おととり」をするための
 Columbia「雅楽の世界 下」COCF-6197収録
をお聴き下さい。

催馬楽は、
 Columbia「大和朝廷の秘歌」COCF-10012収録
という歌を掲載しました。

「蓆田」の言葉は次の通りです。

 蓆田の 蓆田の 伊津貫川にや 住む鶴の
 住む鶴の 住む鶴の 千歳をかねてぞ 遊びあへる
 千歳をかねてぞ 遊びあへる



神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集 (新編 日本古典文学全集)


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2007年9月24日 (月)

モーツァルト:Misericordias Domini K.222

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。

ベートーヴェンの第九も聞きたい、あ、でもモーツァルトのレクイエムも聴きたいな、
時間がない、どうせならいっぺんに聞きたいんだけれど。。。

そんな贅沢なあなたには、恰好の曲があります!

いい曲だと思うのですが、なかなか出回っていないようですので、せっかくだから全曲聞いてしまって頂きましょう。いつもの「デタラメ分析」は、そのあとで。


ケーゲル/ライプツィヒ放送響、フィリップスの全集盤によりました。

歌詞は、次のたった一行によります。

(詩篇89【88】-1)
Misericordias Domini cantaobo in aeternum
主の愛を永遠にうたおう(講談社1980年訳)

作品自体は、大まかに五つの要素から成り立っています。()内が、最初の登場小節です。
A. 訴えかけるような、弱音の半終始カデンツからなる2小節間の合唱(1)
 Misericordias Domini
B. 厳粛な、しかし凝縮されたフーガ(3)
 cantaobo in aeternum
C. やや哀願調の、4度のカノン(11)
 cantaobo in aeternum
D. 光を当てたような二重カノン、長調(17)
 cantaobo in aeternum
E. 敬虔な、4小節間の斉唱(23)〜ベートーヴェンの「歓喜の歌」と同主題
 Misericordias Domini
なお、DはCの、EはAの亜型だと見なすことが出来ます。

以上が、次のように繋がれています。()内が開始小節です。
たった7分程度の作品でありながら、高度に入り組んでいる様子が分かります。
A(1)-B(4)-C(11)-A(15)-D(17)-E-(23)-
B(27【29小節目と35〜36小節目に下行半音階を活用】)-A(37)-C(39)-E(49)-B(53)-A(64)-B(67)-A(71)-C(73)-B(76)-E(89)-
A(97)-B(100)-A(110)-B&D(112)-E(130)-D(134)-Coda(A&B,139-158)

AとEの位置をキーとしてみれば、その間にB、Cを主に挟み込み、最初と最後の盛り上がり部分にのみDの二重カノンを置くことで、全体がほぼ三部(26小節まで、96小節まで、と最後のセクション)に聞こえるよう工夫をしていることが伺えます。(BのフーガとC、Dのカノンが半々の割合で使用されていることにも注意して下さい。)
それにしても、いい曲ではありますが、うつむいて合掌(A,E)しては顔を上げて神を賛美し手を大きく広げる動作が11度も繰り返され、コーダではさらにそれが入り組みますので、礼拝としてはかなりせわしない・・・これには、創作の経緯〜タイトだったタイムスケジュールがかんでいるのでしょうか?
(いえ・・・詩篇のたった1行をこれだけの長さの曲に仕上げた努力の方を思って下さい。)

この曲は、非有名曲の中では珍しく、比較的高い割合で、モーツァルトの伝記に作曲の経緯まで述べられています。

1775年2月にバイエルン選帝候に注文を受け、ミュンヘンを去るほんの2日前の3月5日に初演されたのでした。

この作品について、モーツァルトはイタリアでの師マルティーニ神父に総譜を送り(散佚)、評価を乞うていますが、このときの書簡が、「ザルツブルクではミサの時間制約がうるさくて良い曲が作れない」旨を訴えたのと同一の書簡であることについては、不思議なくらい諸書には言及されていません。「偽の女庭師」でもミュンヘンへの転職を獲得し損ねたモーツァルトは、なんとか新しい境遇を得たい一心でマルティーニ神父をも頼ったのではなかろうか、と私には思われるのですが。

(このときの双方の書簡の原文はベーレンライターのモーツァルト書簡全集第1巻に掲載されています。【モーツァルトの出したものは323、神父からの返事は325】"Mozart Briefe und Aufzeichnungen Gesamtausgabe Band 1" イタリア語です。読めねー。マルティーニ神父のものの方は尻切れとんぼの印象がありますが、断片しか残っていないのでしょうか?)

マルティーニ神父の反応は、おそらくモーツァルトにはピンとこなかったのではないでしょうか?
この点は、アインシュタインが、正鵠を得たコメントを残しています。
「マルティーニ神父の判断ははなはだ意味深いものである。彼はこのモテットの中には---<現代音楽が要求するいっさいのもの、良い和声、豊かな転調、ヴァイオリンの現代的な動き、自然で良い声部進行がある>と答えている。<現代音楽>とは! モーツァルトが教会音楽を純正な、古い厳格な様式で作ったと信じているのに、16世紀の多声音楽の傑作によって訓練されたマルティーニ神父の微妙な耳には、現代音楽と聞こえるのである。」(訳書211頁)

NMA(1963年)、Calus版(2002年)ともヴィオラを含む弦楽合奏を伴奏としたスコアを採用していますが、残されたパート譜数種からは、この作品がオーボエ、ホルン、トランペットをともなって演奏されたこともあれば、やはり管楽器付きながらヴィオラ抜き(ヴィオラはバスパートのオクターヴ上を弾いたと推定される。ザルツブルク同様、アウグスブルクにも教会音楽ではそのような習慣があった由)で演奏されたこともあるのが判明しています。

とまれ、この曲をダシにマルティーニ神父への書簡が翌年出されるあたりに、モーツァルトの「巣立ち指向」が伺われる点には、1775年という年の彼の活動を考える上で非常な重みを感じます。

なお、ミュンヘン滞在中には「ファゴットとチェロのためのソナタ」K.292があるとされているのですが、研究上は「疑作か?」とされているので私は採り上げるのは断念しました。
ランスロットさんのサイトで音が聞けます。いい曲です・・・疑作、なの?

付言)コメントを頂いて、漏らしていたことに気づいたのですが、この作品で、モーツァルトはザルツブルクでの恩師エバーリンという人の「主よ、御身は祝し賜い」から主題を借りている、とのことです。また、マルティーニ神父への書簡では、自分は(対位法的作品の習熟に於いて)地元のアドルガッサーやミヒャエル・ハイドンの恩恵を受けている旨、明言しています。

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2007年9月23日 (日)

これでいいの? 音楽書のタイトル

Howtoheartheorchestra子供と散歩がてら、本屋さんに立ち寄りました。
子供はてんでに好きな棚へ走り、私は自然と「音楽」のコーナーへと足が向きました。

で、・・・はなから眼中に無いものは別として・・・
「え? こんなタイトルで、本当にいいの?」
と首をかしげてしまったものに出くわしました。

2つあります。

・青柳 いづみこ「ピアニストは指先で考える」中央公論新社 (2007/05)

実際には、リンク先のレヴューから伺える通り、ピアニストだって「アタマで考える」ことをきちんと書いた本です。
音楽の演奏だって、スポーツと同じように「体で覚える」フォーム、ヒットを放てるための肉体的技術の習得は必須ですが、それは「頭で考えて欠点を矯正する」ことで初めて可能になるわけで、そうした思考無しには「体で覚える」ことだって永久に不可能なのです。本文の記述は、明らかにそれを知悉したかたのものです。・・・著者がなぜ、こんなタイトルで良しとなさったのか、理解に苦しむところです。

・もうひとつはアフィリが貼れたので画像もつけられますから、無精しますけれど・・・



音楽革命論―クラシックの壁をぶち壊せ!!


Book

音楽革命論―クラシックの壁をぶち壊せ!!


著者:玉木 宏樹

販売元:出版芸術社

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帯に永六輔さんの推薦の言葉まで入って、内容も「当然」であるべきことがいかに世の中にまかり通っていないかを力説してやまない「良識の訴え」になっているのですが・・・著者の仰りたい点はアマチュアでも持論にしている方が結構いらっしゃるのです。所詮、「<プロ>は<プロ>の動向にしか目が向いていないのかなあ」と残念に思います。スポーツ界とはえらい違いだなあ。
かつ、いま「当然」という言葉を使いました通り、論点とされていることはむしろ「あるべき常識」であって、「革命」的ではありません。「革命」というからには「常識がひっくり返らなければならない」のであって、おつけになったタイトルでは、このあたり、誤解を招く恐れが多分にあります。
有名人の推薦の言葉付きで、タイトルは出来るだけ大げさな方が、本というものは売れるのでしょう。
ですが、売れたとたん、読者は無反省に「そうね。そうよね!」と記述の表面に安易に共鳴するだけで終わってしまうのでして、著者が本当に訴えたかったことは、せっかくの気合いにも関わらず、思ったほどには訴える力を持たずに終わってしまうのではないでしょうか? せめて「還ろう、音楽の原点へ!」くらいのタイトルだったら、納得がいったのだけれどなあ。。。

タイトルが内容にそぐわない本は、決して「ボロボロになるまで大切に読もう」とは思えないものだと思います。
ずっと昔、近衛秀麿さんが「オーケストラを聞く人へ」という良書を出しましたが、購入当時、私はほんとうに繰り返し繰り返し読みふけり、最後はとうとうとじ目がばらけるほどになってしまいました。最近復刊されました。
紹介されている指揮者やオーケストラに関する情報は古びてしまいましたけれど、近年やたらと「誰でも分かるスコアリーディング」だとか、譜例もなく恣意的に選曲された「名曲案内」ばかりがはびこり、つまらない思いをしてそれらを読むしか、オーケストラの知識が得られないことを考えますと、近衛さんのこの本程度には良心的な「入門書」のでることをも、また切望する昨今です。

そういえば、せっかくの五嶋さんの「アホンダラ、くそくらえ」も、版が新しくなったら帯から言葉が消えてしまって・・・経緯は推測できるものの、かわりに「天才を育てるコツ」みたいな文句に置き換わってしまって・・・五嶋さん、内心、忸怩たるものがおありではないかしら。


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2007年9月22日 (土)

曲解音楽史:(補遺)新しい「中世」を生きる

中世の西ユーラシアについて考えていく中で、上手く組み込めなかった題材が残りました。

「カルミナ・ブラーナ」

です。

20世紀の作曲家、カール・オルフの作品のタイトルとして有名ですが、オルフ作品をご存知の方は、「カルミナ・ブラーナ」はもともと1803年にミュンヘン近郊で発見された、中世の詩歌集につけられたタイトルであることは、ご承知のことと思います。

で、19世紀に発見された本来の「カルミナ・ブラーナ」については、音を聞いて頂いた後で、ごく簡単に触れます。

今手軽に手に入る、オリジナルの方の「カルミナ・ブラーナ」のCDは、ピケット/ニュー・ロンドン・コンソートの出した、元々4集からなっていた録音をダイジェストしたものです。
この中に、1曲だけ、オルフが曲を付けたのと同じ詩の音楽があります。これを、オルフの作品と聞き比べて見て下さい。

同じ詩の、オルフ作曲のもの

タイトルから判明するとおり、歌詞はラテン語です。
・・・ということは、この歌、9~13世紀の俗謡でありながら、そこそこ正当な教育を受けた人物の手で作詞されたのだな、ということになります。

「カルミナ・ブラーナ」原書は、研究の結果、ゴリアールと呼ばれた人々の手によるものだということが分かっています。Wikipediaでは彼らを吟遊詩人に含めていますが、詳述していません。ピケット盤記載の、今谷和徳氏の説明では、ゴリアールは
「将来聖職に就こうとしたり、あるいは学校の教師になろうとして、大学などに学び始めたものの、将来の社会的地位に疑問を抱き、自ら出世ルートを外れて、自由な生活をして行ったものたちのことである。」
とされています。ところが、このゴリアール、いくつかの啓蒙書を見ましたが、トルバドゥールやミンネゼンガーと異なり、一般の史書にも音楽史の本にも登場しない。なんとか見つけたのはWeb上にあった「媒介者の系譜」というPDF文書で、これを読むと、彼らについては、そこそこ専門的な、高価な書籍を手にするしかなさそうなので、それはあきらめました。
このPDFを掲載しているかたは、ヨーロッパ中世史の文献の紹介に努めてメールマガジンも発行していらっしゃるようで、私も早速トップページから登録させていただきました。

また、「酒場にいる時は」の歌詞は大変愉快なのですが、結構長いので、ここでのご紹介は断念しました。代わりに、せめて訳詩の掲載されたサイトを、と探しましたが、発見できませんでした。

原書関係のご紹介はともかく、上の、中世そのものの歌とオルフが作曲した歌を聞き比べて、どんな印象をお受けになりますか?
私は、最終的には「案外似ているなあ」という結論に至っております。
何故か。
それぞれの音響を生み出した精神に、共通するものを感じ取れるからです。

中世ヨーロッパは、ローマ帝国などの大きな政治的動きを除けば言葉の記録不要な「均質な時間」が人々に許された古代が、十字軍運動やモンゴル侵攻によってかき乱され、バランスを失ってはじめて「誕生」した世界です。そこに、ゴリアールを含め、既存の価値に拘束されない、ある意味では疎外された流動的な階層が登場する。
これは(細かくは言いませんが)日本でも同じでした。

オルフの20世紀に目を移しましょう。
彼が「カルミナ・ブラーナ」に作曲した1934年は、ナチスが台頭し始めた年でもあり、背景には、第1次世界大戦をいちおうのピリオドとする、「帝政の完全崩壊」がありました。時がたち、とくに民間の動向を見ますと、海外には疎いのでよくわかりませんが、日本では「終身雇用」にこだわらない若者が続出し、発想・価値観の転換は着実に進行してるように思われます。
成人してある程度たってしまった人は、旧い価値観の中にとどまっている。そこに現れてきた、「拘束に疑問を感じる」新思潮には、完全についていけていない。かといって、学生時代には新思潮の先端にいたはずの若い世代も、結局は「就職」という過程を経て、自分がどういう「信念」のもとに生きていかなければならないのかを迷い続けることは極力忌避しようと努める。忌避の決断に至れなければフリーター、という図式は、もう騒ぎはじめられてから15年以上たつのですけれど、どうも変わって行っているようには見えない。

・・・なんとなく、中世の人々と状況が似ている気がするのは、私のアタマがどっか変だからでしょうかね。。。

ともあれ、私たちは、いま、「新しい中世」の入り口に立っている。
「中世」とは実は社会が揺らいだ状態を表す代名詞なのかもしれません。
次世代の子供たちは、その入り口から一歩中へ進んでしまったところから人生をはじめていかなければならない。

そのことに充分意を用いながら、既存の価値観に凝り固まった「ご年配」連中は、隠居を考えている場合ではなく、また従来の「経営学」などというものもきっぱりと捨て去って、臨機応変だったはずの自らの処世術をよく見直し、そのなかから若者にも使ってもらえそうな術をよく協議し選別していかなければならない。

私たちはみな、「新しい中世」を生き始めているのに違いないのです。

・・・この見方が、一ウツ患者の妄想でないことを、いま、私は祈るばかりですが。

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冷やかしたい方限定7:久々に、サボっていた課題をやりました。人物スケッチ、というやつなんですが、なるべく知らない人を、という制約があります。「難しいもんだ」と、二人ばかり軽いスケッチをしてみて、次に誰を・・・と見回しても、イメージをとらえる頭脳が貧弱で、あてを見附損ねていました。それが、ふとしたきっかけで眼科に行くはめになり、それが面白い経験でしたので、その眼科医さんをターゲットにさせてもらいました。例によって読む方法が分かるかたにだけ読めます! ・・・まあ、読んでも面白くも何ともないかもしれませんけれど。
でも、「ものをどう見るか」という訓練は、やはり大切だなあ、とつくづく思わされた課題でした。
ここにひっそりとリンクしておきます。

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2007年9月21日 (金)

移動した笑いの「場」(万歳〜漫才)


小沢昭一の「新日本の放浪芸」〜訪ねて韓国・インドまで〜

この前は敢えてリストからはずしたのですが、「新猿楽記」の中に、笑いをとったかもしれない演芸がもうひとつ載っています。

「万歳」です。

但し、他の演目同様、名称が載っているだけで、内容は分かりません。

雅楽に「万歳楽」が残っていますけれど、関係があるかといえばあるかもしれませんし、ないかもしれません。とはいえ、少なくとも神事と関わる「祝い言」ではあったでしょう。で、平安期の朝廷は未だ、天皇のみならず、貴族階級全般が、神話の神々とのかかわりを失っていなかったはずです。

貴族全盛のこの時代は、荘園制の時代でもありました。神社も荘園(御厨【みくりや】と呼ばれました)を、特に東日本以西にかなり領有していたはずです。

で、その御厨に出向いて貢納物を収集してくるのが、神人(じにん)という、流動的に神社に所属していた連中でした。わざわざ現地に赴くからには、自分が神社の正式な遣いであることを証明せねばならず、そのためには現地の民の前で、神事を演じてみせるくらいの事は、したのではないかと思います。神事は、「古事記」のアメノウズメノミコトに象徴されるように、日本では卑猥で滑稽なしぐさをするのが通例だったかもしれません。

「太平記」に描かれたような混乱期、さらには応仁の乱を経て、中央権力が衰え、地方に有力者が割拠するようになると、荘園制は崩壊してしまいました。それとともに、「神人」という言葉も、文献から姿を消します。それでも神社は何とか、これまでの収入を維持しなければなりません。どうしていたのでしょう?資料漁りをしていないので、私にはそのあたりの事情は掴めておりません。

ただ、面白い映像資料を見ました。小沢昭一氏による「新・日本の放浪芸」というDVDです。続とあるからには旧編もあるのですが、こちらはCDで、かつ私はとうとう入手し損ねました。映像が見られるなら、ま、いいか、という感じです。

で、この「新−」の映像は<尾張万歳>で始まります。この万歳は、滑稽さよりは祝儀性を前面に出しています。古形とみなすべきでしょう。

続いて現れるのが伊勢の「三曲万歳」です。三味線・鼓・胡弓を携えた三人組が、めでたい言葉をネタに、その言葉を洒落にしていき、「何々とかけてなんと解く」「その心は」式で面白おかしく漫談を展開していくものです。(音声の例を添えられず残念です。)

演じ手のかたへのインタヴューも収録されていて、これが非常に興味深いのです。

昭和の中期までは、このかたたちは農閑期になると五ヶ月かけて伊勢・志摩・奈良方面のお得意さん廻りをしていて、ある年に行くのを欠かした家からは、翌年出向いてみると、「去年あんたらが来いへんかったから、うちの誰々が死んでしもたわ」と、よく叱られた、というのです。彼らの万歳は、単純に娯楽として享受されていたのではなく、「めでたさをもたらすもの」と考えられていたわけです。

演芸場に持ち込まれた「漫才」も、こうした万歳と無縁のものではなく、近代に入って、やはり地方回りをしていた万歳師が大阪の演芸場に常連となったことから、寄席に定着して行ったものなのだ、ということも、またこのかたたちがお話になっていました。「漫談」の要素のほうが強調されて、表記も「漫才」に変わってしまったものの、「万歳」と神のつながりは、<笑うかどには福来たる>という慣用句の中に、今も生きているとみなしてよいのでしょう。

さて、万歳師は、こうして推測してみると、神人の後裔ではなかろうかと思われるのですが、先に「流動的に神社に属した」と述べましたように、おそらくは、やはり奈良・平安期の「傀儡子」や「私度僧」「高野聖」と類似した流浪の民であり、それがたとえば伊勢神宮からフランチャイズを受けて「伊勢神人」として営業して歩いていたと考えてみたら、はずれているでしょうかね。

貢納物収受の手段だったろう「万歳」(私の勝手な想像ですけれど)が、中央権力の失墜とともに移動の芸と変じて近代に至り、ふたたび中央集権化した世の中に「寄席」という定着の場を得て行った過程には、時代時代の人々が、どのようにして<楽しみ>、<安らぎ>を得ようとしたかと密接に関わっていたのではないでしょうか? また、その時代の経済生活のありようとも、つながるものがあったのかとも思われますが、どうでしょう?

なお、「神人」と呼ばれてはいながら、彼らはどうも無頼の徒であったらしい形跡があり、その姿がよく現れる、鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」の中に、現在の埼玉県にある久伊豆神社で、隣接する大河戸御厨の人(武士階級か?)との間で喧嘩狼藉をはたらいたという趣旨の記事が残されています(建久五年六月三十日条、ただし「伊豆神社」となっている)。・・・明治初頭まで神社の護衛を買って出ていたのは博徒と呼ばれていた人々ですが、これはおそらく博徒たちも神人の後裔のうちで、出稼ぎ演芸をしない留守部隊が転じていった姿なのだ、などという推測をしたら、これも間違っているでしょうかね。。。

新猿楽記・雲州消息
小沢昭一の「新日本の放浪芸」〜訪ねて韓国・インドまで〜

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2007年9月20日 (木)

ヴァイオリンが弾けなくて泣いた話

ネタにしようとしていることが、どれもまとまりきりませんので、ちとばかし笑ってしまう、自分の昔話を。

高校生になって以降、大学まで地元の学生オーケストラでずっとヴァイオリンを弾いていた私ですが、上京して就職してから3年はセールスに携わりました。
その当時は、夜は帰りが夜中の12時、つまり午前0時を過ぎるのは当たり前。ワンルームマンションなるものはありませんでしたから、入居したのは集団生活の社員寮。
ですので、3年間はヴァイオリンを手に出来ませんでした。
全くそうだったわけではなく、水曜定休でしたので、半年くらいかけて水曜が練習日のオーケストラを探して入団したりしました。それに、寮で、金属製の重いミュートをつけて・・・こうすると、サイレントヴァイオリンの音をヘッドホンをつけずに聞いた時ほどの音量にはなります・・・こっそり弾いては叱られたりしながら過ごしました。
でも、定休日は有って無いようなもの。練習にも殆ど参加できず、それでもお情けで2回ほどは演奏会に乗せてもらった記憶があります。本番2回前くらいがやっと初見で・・・何を弾いたのかは殆ど覚えていません。
こんな具合ですから、殆ど練習らしい練習をしたことがありませんでした。

3年経って、諸事情が幸いして、3年の年限付きでしたけれど、故郷へ異動をさせてもらえました。
異動して、喜び勇んで出かけたのは、大学時代に通っていた練習場。

誰もいませんでした。ワクワクしながらケースを開いて、ミュートもつけずにすむので、思い切り音を出そう、としました。

・・・出ませんでした。
「あれ? オレ、いくら何でも、もう少し弾けたはずなのに」
弾けたはずの独奏曲が弾けません。
どんどん難易度を下げて、数曲試しましたが、やっぱり弾けません。
最後は鈴木メソードのキラキラ星変奏曲(モーツァルトの素晴らしい作品ではありません)を弾いてみました。
音に、輪郭がつかない。ふわふわばかりする。で。無理矢理チカラを入れてみる。今度は一音一音引っかかって、とても「音楽」と言えるものではない。それどころか、ただの雑音。
とにかく、どう表現していいのか分からないのですが、まず音そのものが満足に出ない。
管楽器なら、数年も吹いていないと、もうアンブシュアが崩れて元の勘を忘れてしまって音が出ない、ということはありますでしょう?・・・弦楽器を弾くというのは自転車をこぐのに似たところがあって、いったんコツを覚えれば、数年空けても、前のように、いえ、場合によっては前よりずっといい音で弾けるようになるものです(ちなみに、これはこの話の数年後になってやっと悟ったことです)。
「いや、違った! 弦楽器も管楽器と同じなんだ」
初めて気が付きました。

あまりの情けなさに、大泣きしてしまいました。
本当に、童話に出てくる、ひどい泣き虫と同じように、おーん。おーん、と声をあげて泣きました。
周りに誰もいないので、平気でそうやって泣けたのでした。

ふと気が付いたら、目の前に大きな鏡があります。
思い出しました。この鏡の前で、大学オケの連中は、入れ替わり立ち替わり自分のフォームを確かめながら練習したものでした。私もそうしていたはずなのに、なんで・・・?

その上、鏡に映った自分の顔が、まさに浜田広介の「泣いた赤鬼」でしたので、今度はつい照れくさくなって、頭も冷めて、以前やったようにフォームの確認をしてみました。

弓の描く線は直線ないし緩やかな円弧でなければならないのに、見事にV字を描いていました。
「これじゃあ、音になるわきゃねえや」
で、やっと音のでない原因の一端を思い出しました。それまで、寮で身を縮めて弾いていたせいで、右手が萎縮していたのでした。

1週間かからずに、とりあえず、「就職前のヘタさ加減」までには勘が戻りました。
左手は、当時まだ、今よりもとんでもなく基本が出来ていませんでしたから、もう少し時間がかかりました。

私が練習熱心になったのは、このときから結婚直前まででして、結婚後は家で弾くと怒られるので、1週間ごとのオーケストラの練習日以外は、また練習しなくなりました。

でも、おかげさまで、今度はイメージトレーニングってやつが流行り始めていたので、それに則って練習をして、何とか今日に至っております。

という次第で、やっぱり、上達だけはまだまだ望めない状況なのであります。

をするのも、怠惰な練習態度の故でして・・・

お笑い界でヴァイオリン漫才でもやる方向で、ちょっと考え直しましょうかね。
・・・真面目な方は、ミスの要因について記しましたので、お役に立てて下さい。

上記のへまをやった時の演奏会の音は、すべてこちらでお聴き頂けます。
http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/44_36e0.html
まわりには上手な人も多いので、こんなヤツでも随分助けてもらっているのがお分かり頂けるはずです。

恥ずかしいお話ながら、ご参考までに、披露させて頂きました。

お粗末。

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2007年9月19日 (水)

ハイドン観察:交響曲(2)エステルハージ時代以前の交響曲-1

ハイドン観察:交響曲(0):前説
ハイドン観察:交響曲(1):交響曲以前(成長過程)


エステルハージ家に仕える以前に創作したとされている交響曲は、ロビンズ=ランドンの研究を踏まえたガイリンガーの記述によると,以下の19曲です。
今回は、ガイリンガーの記述をそのまま受け入れ、ランドン(およびそれをおおむね妥当と認めたガイリンガー)の推測した創作順で各交響曲を並べ、その楽章構成を列挙しておきます。
この表を踏まえ、次回からは6曲くらいずつまとめて、具体的に作品の内容を観察したいと思います。

・・・それにしても、通用している番号と創作の順番が如何に合っていないか、には愕然とするしかありませんでしょう?
バッハのカンタータの番号と同じようなもんですから。
なお、冒頭の「創作順数字」に()がついている場合は、「だいたいこのへんだろう」と考えられていることを表しています。交響曲番号の後ろは調を表します。
(以下、誤りにお気づきの場合はご教示下さいますようお願い申し上げます。)

01 .第1番(D)〜I.Presto II.Andante III.Finale-Presto
02 .第37番(C)〜I.Presto II.Menuet III.Andante IV.Presto
03 .第18番(G)〜I.Andante maestoso II.Allegro molto III.Tempo di Menuet
(04).第19番(D)〜I.Allegro molto II.Andante III.Presto
05 .第2番(C)〜I.Allegro II.Andante III.Finale-Presto
(06).第108番(交響曲B)(B)〜I.Allegro molto II.Menuetto Allegretto III.Andante IV.Finale-Presto
(07).第16番(B)〜I.Allegro II.Andante III.Finale-Presto
(08).第17番(F)〜I.Allegro II.Andante ma non troppo III.Finale-Allegro molto
09 .第15番(A)〜I.Adagio-Presto-Adagio II.Menuet III.Andante IV.Finale-Presto
10 .第4番(D)〜I.Presto II.Andante III.Finale-Tempo di Menuet
11 .第10番(D)〜I.Allegro II.Andante III.Finale-Presto
12 .第32番(C)〜I.Allegro molto II.Menuet III.Adagio ma non troppo IV.Finale-Presto
13 .第5番(A)〜I.Adagio ma non troppo II.Allegro III.Minuet IV.Finale-Presto
14 .第11番(Es)〜I.Adagio cantabile II.Allegro III.Minuet IV.Finale-Presto
15 .第33番(C)〜I.Vivace II.Andante III.Menuet IV.Finale-Allegro
16 . 第27番(G)〜I.Allegro molto II.Andante:siciliano III.Finale-Presto
(17).第107番(交響曲A)(B)〜I.Allegro II.Andante III.Allegro molto
18 .第3番(G)〜I.Allegro II.Andante moderato III.Meuet IV.Finale-Allegro
(19).第20番(C)〜I.Allegro molto II.Andante cantabile III.Menuet IV.Presto

「様式から判断して、この順番はおおむね妥当だろう」とのことなんだそうですが・・・うーん、速度標語からだけでは、私みたいなもんには、ちーっとも分かりません。。。

いちおう、簡単な集計だけとっておきましょうか。。。

1)調:ハ長調=5、ニ長調=4、変ホ長調=1、ヘ長調=1、ト長調=3、イ長調=2、変ロ長調=3
調号1つの調が9、2つの調が7、3つの調が3です。

2)各楽章の速度標語(molto 、cantabile等の修飾語、付加語は考慮しない)
第1楽章〜Presto=3、Vivace=1、Allegro=11、Andante=1、Adagio=2、速度変化=1
第2楽章〜Allegro=3(18・5・11)、Andante=11、Menuet=5
第3楽章〜Menuet(Minuet/Tempo di Menuet)=7、Andante=3、Adagio=1、Allegro=2、Presto=6
第4楽章〜Presto=7、Allegro=2、なし=10

終楽章の速度標語〜Presto=13、Allegro=4、Menuet=2

※冒頭が緩徐楽章なのは第18(3番目)、第15(9番目)、第5(13番目)、第11(14番目)です。
※第2楽章がAllegroである3曲の第1楽章はAdagioもしくはAndanteです。他に第1楽章がAdagio-Presto-Adagioである第15番は、第2楽章にメヌエットを置いています。
※"Menuetto"の表記は6番目の第108番(交響曲B)にのみ現れます。
※"Minuet"の表記は第5番、第11番に現れます。いずれも4楽章構成。
※メヌエットもしくはそれに準じる楽章を持たないのは第1・第19・第16・第17・第10・第27。
※強いて言えば、第1(1番目)、第18、第19、第2(3〜5番目)、第16、第17(7〜8番目)、第4、第10(11番目)は「中間楽章にはメヌエットがない」点で、「2、6、9、11番目の4つの断層」を挟んだだけの「連続性」は感じさせてくれます。
※4楽章構成のものは2番目の第37、6番目の第108、9番目の第15、12〜15番目4曲、18番目の第3、19番目の第20。時期がばらけていることになります。ただし、第3番・第19番は「最後の作品」であり、他は前項の「メヌエットを中間楽章に持たない作品」の断層に当たるものです。
※16〜18番目は終楽章を除き、近似した速度標語を持つ点で連続性が感じられます。

・・・というわけで、ランドン〜ガイリンガーの仮決めした順番から分かることは
*2、6、9、11番目に、何らかの理由で断層はあるが、おおむね連続性は感じられる
*この断層の部分では、最後の断層(11番目)を除き、4楽章構成が暫定的に試されたのかも知れない
*12〜15番目で一旦4楽章構成を定着させかけ、間に緩徐楽章で開始する2作品を置いてみたが、16〜18番目で再び3楽章構成に戻すかどうか迷っているようだ
*メヌエットを定着させるかどうかについては、11番目、16〜17番目で一反躊躇するものの、9番目以降ではほぼ「定着」指向となっている、かも知れない
の4点でしょうか。

したがって、断層の理由をある程度明らかにし、連続性を確実にするためには、内部的な要因はどうなのか、を観察すべきだ、となるわけですね。
あるいは、当時の習慣としては3曲ないし6曲を、調性の関連性をも考慮して作曲するのが普通であったはずですから、そこも加味して検討する必要が、本当はあるのではないかと思います(これが、実はやってみようとすると難題です。1曲あぶれるだけでなく、順番にも疑問が湧いてきます)。

・・・分かるのかなあ。不安。

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2007年9月18日 (火)

曲解音楽史19:「十字軍」時代の西ユーラシア

前の回:1)音という手段  2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽   5)トランス   6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド   9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ  12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ    14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア   16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
     18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア



東洋(モンゴル・中央アジア)から日本へ、と、続けて進みたかったところですが、時期的にこの後、中国には宋・元・明と王朝が続き、日本の音楽は中国の王朝の遷移に連動して変わっていきますので、また後回しにします。



洋の東西を問わず、「宗教戦争」と名づけられた戦争、あるいは宗教がもたらした事件、というものに、純粋に「宗教」を要因にした例は、あまり無いのではないかと思います。本当のところは、浅学なので分かりませんが、九割九分は「政治」が絡む。
事件の方で言えば、日本の「地下鉄サリン事件」、あるいはアメリカで頻発した「カルト信者集団自殺事件」などは、そうした少数の、しかも狂信的な心理から引き起こされたもので(「サリン事件」については、義妹の知人で今でも後遺症に悩む方がいらっしゃいます)、例外的なのではないでしょうか。


歴史上「例外的に」大きいのは、モハメット(ムハンマド)を中心としたイスラムの創始者たちが、自分たちの位置付けを確立するために、旧勢力に向かって立ち上がった最初のジハードだったかもしれません。・・・ただし、これも「純粋な信教から」と見すぎてしまうと誤りを起こしてしまいます。当時のアラブの有力部族が如何に経済的特権を独占していたか、等々、社会的背景を充分考慮しなければなりません。イスラムというと、地理的にも精神的にもそこから遠い私たちは、即「ジハード(聖戦)」を連想してしまいますし、現代の一連のテロにも実行者が「ジハード」の言葉を冠する事があたりまえであるため、イスラムそのものに好戦的な信条があるのだ、と思い込みやすいのですけれど、そこはイスラム成立時から現代に到る彼ら信者たちのたどった歴史をよく顧みる必要があります。
で・・・それを始めるときりが無い上に、じゃあ私自身が十分理解しているか、というと、そうでもありませんので、「ものを見る目」が固定的になりがちな一つの比喩として、以上を捉えて頂ければ結構です。


「曲解音楽史15:中世前半の西ユーラシア」とくに(2)で述べましたとおり、「十字軍」時代以前には、アラブ、アフリカ北岸、イベリア半島にかけては、イスラム教徒が支配的だったという説明が従来一般的だったにも関わらず、イスラム・ユダヤ教・キリスト教の信徒かどうか、あるいはどんな民族であるかを問わず、人々はこれらの地域でも平和に共存していたことは、私の目に出来た少ない史料から察する限り、ほぼ間違いないように思われます。


事態を急変させたのが、西ローマ帝国滅亡後最初のカトリックの危機・・・法皇庁は、力を増してくるヨーロッパ各地の君主たちの「俗権」に対し抑制力を失っていきました・・・に端を発する、一連の「十字軍」戦争です。広義の「十字軍」はイベリア半島の「レコンキスタ(国土回復運動)」の終結まで続き、途中の経緯も複雑で、それを追いかけることはとても私ごときの手に負えることではありませんので、詳細は最後にご紹介する、比較的読みやすい本でご確認下さいますようお願い致します。(この時代の事情は、途中にモンゴルの西アジア・スラヴ侵攻が起こったことで、いっそう錯綜したものになります。)

今は、「モンゴル・中央アジア」でも同時進行していたこの戦乱の時代に、西ユーラシア側は、いったいどんな音楽世界を築いていたのか、だけを垣間見ておくことにしましょう。



掲げる例だけではあまりに少ないのですが、それでも、前に見た「平和共存時代」までの、ある意味で素朴な味わいのある民族混合的な調べから、アラブはアラブ、ヨーロッパはヨーロッパの独特な(悪い言葉で言えばローカルな)調べを獲得していったのだな、という点は、認めていただけるでしょう。
※音源は数年前に入手したものです。今も市販されているかどうか確認しておりません。

アラブ側については、十字軍時代に特定できる音楽というのは、調べた限りでは見つけておりません。見つけて下さっている方のご教示をお待ちするとして、その後現代にまで引き継がれているであろうはずの、コーラン(クルアーン)の朗誦の例を、一つお聴きいただくことにします。(・・・これを「音楽」と呼んでしまっては神罰が下るかしら・・・。)トルコ(イスタンブールにて収録)のものです。(Victor VICG-60312)

ヨーロッパは、吟遊詩人が十字軍に同行する機会が増えたこともあり、身分も騎士に格上げされ、多彩な活躍をするようになり、ついには自由に各地の君主の宮廷に出入りするようになります。
当時の有名な歌をお聴き下さい。ほとんどの音楽史の教材に楽譜が掲載されていますが、実際に歌われるのを聴いた方は少ないのではないかと思います。

悲劇的な夭逝を遂げたデヴィット・マンロウが編んだ『十字軍の音楽』(DECCA UCCD3257)というアルバムに収録された演奏です。
このアルバムに収められた歌や器楽で、明記されている作者(=吟遊詩人)の名前は以下のとおりです。

*マカブリュ(11世紀末〜12世紀のトルバドゥール)
*ギオ・ド・ディジョン(12世紀末のトルヴェール)
*ギィ・ド・クゥーシー(1203年没のトルヴェール)
*ゴーセルム・フェディット(1185-1220 トルバドゥール)
*シャンパーニュ伯チボー4世(1201-53)

この他、この時期に「ホケトゥス(しゃっくり)」と呼ばれた面白い様式が発展していたことも分かっています。同じマンロウのまとめた『ゴシック期の音楽』には豊富な録音例があるのですが、ここでは上と同じ『十字軍の音楽』から聴いて頂いておきましょう。

「ホケトゥス」は、以後の長いヨーロッパ音楽の歴史の中で、直接的には「イソリズム」に繋がっていくのですが、「音色旋律」なる発想にまで繋がっていくことになったのではないか(発想のおおもとは、リンク先のWikipedia記事から分かりますようにまったく逆なのですが)、というのは、私のうがちすぎかもしれません。

「ホケトゥス」はさておき。

「パレスチナの歌」は、以前の音楽(歌)に比べて音域が広がっている点にご傾聴下さい。
これより以前は、たとえば「ド」を起点にすると、上は「ソ」までの5度、下は「低いソ」までの4度でした。
以前挙げたアイヌのユーカラの例が典型的ですが、いつ出来たのかは分かりません。とはいえ、ヨーロッパでも11世紀まではこの音域が、とくに歌に関しては守られているのは、再度確かめて頂ければ興味深く思っていただけることと考えております。)

なお、この「世界的戦乱」を締めくくった、イベリア半島の「レコンキスタ」の結末は、グラナダ王国の王がヨーロッパ側の君主と平和的に挨拶を交わし、それまでの領地を静かに離れ、北アフリカ(ベルベル人の世界、と当時はみなされていましたが、ベルベル人が具体的にどんな人種・民族を表すのかは、いまもって不明確なのだそうです。これもご教示頂ければありがたいことです)へ去っていく、というものだったそうです。
教科書だけからでは勝利者側の華々しさや血にまみれた敗者をイメージしてしまいがちですが・・・こうしたイメージは往々にして史実とは異なる好例かと感じさせられます。

<参考書籍>
十字軍―ヨーロッパとイスラム・対立の原点 (「知の再発見」双書 (30))
十字軍騎士団 (講談社学術文庫 (1129))
中世ヨーロッパの歴史 (学術文庫)
イスラム教入門 (岩波新書)
イスラームの世界地図 (文春新書)

<付記>
私には素材の持ち合わせがなかったし、知識も浅薄なので、この程度までしか綴れません。
ケルトの中世を扱った大変素晴らしいサイトがあります(Curraghさんの「聖ブレンダンの航海」)。サイト内にリンクのあるブログも、大変魅力的です。ぜひごらんください。

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2007年9月17日 (月)

モーツァルト:ミュンヘンでのピアノソナタK.279〜K.284

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。


当初74年12月29日の予定であった「偽の女庭師」は、75年1月5日に延期、更に先延べされて、ようやく1月13日に上演されました。
このことが、モーツァルトの実質的に「最初の」ピアノソナタ群6曲の成立に、かえって幸いしたフシがあります。
「偽の女庭師」の上演には、姉ナンネルも後からザルツブルクを出発して立ち会う予定でしたが、モーツァルト父子がミュンヘンに着いた時点では、ナンネルの分までの宿が取れずにいました。それが、12月16日になって何とかメドが立ち、彼女は1月4日にミュンヘンに投宿することが出来ました。
そのナンネルに、父レオポルドは12月21日付けの妻宛の書簡でヴォルフガングの手槁譜を持参させるよう依頼しています。中に、「ヴォルフガングが書いたソナタ(複数形)を」という記述があります。
これが、従来はミュンヘンで初演されることになった6曲のクラヴィアソナタの、最初の5曲だ、と考えられてきましたが、用紙研究が進んだ今では、6曲のソナタはすべて1月以降に書かれた、ということで決着を見ているようです。・・・では、ナンネルに持参させたソナタはどれだったのか? ヴォルフガングの作品で間違いなかったのか、という疑問が生じますけれど、後者については書簡原文にdes Wolfg: geschriebene Sonaten und Variationen"とあり("Mozart Briefe und Aufzeichnungen Gesamtausgabe Band I 1755-1776 509頁)、このdesをヴォルフガング作品以外を示す冠詞とは受け止めようがありません。どのソナタだったのか、を推測する材料もありません。少なくとも今回採り上げる6曲以前に作られたクラヴィア単独のソナタは残っていないようですし、近い年代の作品で現存するのは72〜74年の間にザルツブルクで書かれた4手のためのクラヴィアソナタくらいです。他の楽器用のソナタも、現存作としては幼少期のものしか残っていません。
いずれにせよ、ナンネルにこうした楽譜を持って来させたことは、少なくともレオポルドには息子をミュンヘンでオペラ以外でも何とか売り込もうと言う意図があったことを伺わせ、それは、貴族に一番近寄って演奏できるクラヴィアソナタであった可能性が高かったことも示唆していると見てもいいかもしれません。なお、NMAには、解説に同時期と推測されるナンネル作のソナタの譜例(K.Anh.199/33d , K.Anh.200/33e , K.Anh.201/33f)が数小節記載されていますが、これらの主題は弟が作ったソナタに非常に似ています。・・・左手の充実度の違いを見ると、弟の方が後で作ったのは間違いないと思われますし、また、その創作にあたって、結構時間を割いたのではないか、ということも想像されます。



K.279〜K.284のソナタはどれも有名です。また、モーツァルトのクラヴィアソナタ(ピアノソナタ)はCDの全集でも1775年のこの6作から最後の1789年のものまでの17曲をおさめたものばかりです。充実期の作品群であるため、他のジャンルに比べ、作品の質が高い水準で一貫性を保っています。ですので、お聴きになるのでしたら、お好みの全集を購入してしまった方がお得です。安いもので2000円台からありますし、過去の名演奏家のものでもハスキルは3千円台、ヘブラーは4千円ちょうど、です。当時のピアノの音で聴くと思うとOortの全集がよろしいかと思うのですが、他の種類のピアノ作品もすべて収録しているためこれが一番高価で、ヘブラー盤の倍値はします。

CDの話が先になってしまいました。すみません。



このソナタの「受け止められ方」が、また、楽譜そのものと照らし合わせ、モーツァルトの書法を観察してみると、日本の研究者の記述はアルフレート・アインシュタインの「呪縛」から完全に逃れていない気がします。「デュルニッツ」ソナタとして6曲中の最高峰に位置づけられているK.274が「このジャンルとしては異例な、交響楽的なスケールを備えた作品であり・・・」(西川氏)、あるいは「・・・<デュルニッツソナタ>では、モーツァルトはシンフォニックな響きさえ鳴り響かせる。」(海老澤氏)。こうした記述でイメージされている「交響楽的」あるいは「シンフォニック」という言葉は、当然、1775年当時の「交響曲」あるいは「シンフォニア」ではなく、もっと後期の「交響曲」を無意識に前提にしているのは、当該ソナタの性格からして明らかです。
こうした記述が無意識的になされてしまった大きな原因を作ったのは、アインシュタインの評価です。
一見、逆のことを言っているように読めるのですが、アインシュタインの本心は、モーツァルトがハイドンに比べて「総合的な」音楽を作っている、という、ある意味でモーツァルトへの過大な評価を付与するところにあります。これが、「交響的」という言葉にぴったり符合する、という仕掛けです。

「ハイドンのピアノ様式においては、なんとしばしば別の器楽の領域からの翻訳が感じられることか! 一方モーツァルトにおいてはいっさいが軽快なピアニストの手から流れ出るのである。」(アインシュタイン訳書p.332)

これは、実際の作例にあたってみると、全く逆であることが分かります。
たとえば、ハイドンの、1776年作であることが明らかなクラヴィアソナタからひとつお聴きになってみて下さい。

 Carmrn Piazzini OEHMS OC245 CD5

この作品をクラヴィア以外のどんな楽器で演奏することが想像できるでしょう?
もう一点付け加えれば、ハイドンは終生、ピアノフォルテではなくてクラヴサンを指向して鍵盤楽器作品に取り組んだ旨、ガイリンガーの伝記から伺われます(K.Geiringer "Haydn a creative life in music" p.208)。

一方、モーツァルトは2年後に「この(=デュルニッツ)ソナタは『シュタインのピアノフォルテで演奏すると、比類のない効果を現すのです』と(手紙に書いている)。」(アインシュタイン訳書p.333)。
モーツァルトのほうが、クラヴィア作品においては「多彩さ」を思い描いていただろうことを伺わせ、ソナタの楽譜自体もそれを証明しています。

6曲のソナタは「クラヴィア的」なもの、「シンフォニアあるいは弦楽合奏的なもの」と、(必ずしも一律に、ではありませんけれど)2系統に区分しうると思いますが、それは、楽譜が「弦楽三重奏もしくは四重奏に編曲しても不自然ではないかどうか」によって容易に判別し得るものです。

各曲の概要とともに、その区分を記しておきます。
ご賛同頂けるどうかは、楽譜を当たってみて頂くしかないので、恐縮ですが・・・

K.279(クラヴィア的)ハ長調〜バロックないし前古典のトッカータ風です。
I. Allegro 4/4 (100小節)〜分散和音音型は編曲に向かず
II.Andante 3/4 (74小節)〜これは管楽アンサンブルには出来そうですね。
III.Allegro 2/4 (158小節)〜いちおう、シンフォニアのフィナーレには編曲可かな?

K.280(シンフォニック)ヘ長調
I.Allegro assai 3/4(145小節)〜弦楽四重奏曲に編曲可
II.Adagio 6/8 (ヘ短調、60小節)〜弦楽四重奏曲に編曲可
〜ベートーヴェン第2交響曲の緩徐楽章を思わせるフレーズが26〜27小節目にあります
III.Presto 3/8 (190小節)〜弦楽三重奏にでも編曲可

K.281(クラヴィア的)変ロ長調
I.Allegro 2/4 (109小節)〜クラヴィア的とは言え、ハイドンの例となんと違うことでしょう!
II.Andante amoroso 3/8 (106小節)〜随所でサスペンドペダル的効果を狙っています。
III.RONDEAU Allegro 2/2(162小節)〜これはしかし、弦楽四重奏にしやすいなあ

K.282(シンフォニック)変ホ長調
I.Adagio 4/4 (36小節)〜弦楽四重奏曲に編曲可
II.MENUET I (32小節)&MENUET II(40小節)〜弦楽四重奏曲に編曲可
※MENUET Iの後半の最初は減七・完全五度の和音の3組セットを使って巧みに半音階を下行させています。
III.Allegro 2/4 (102小節)〜弦楽四重奏曲に編曲可

K.283(どちらかというとクラヴィア的)ト長調(最もなじみ深い作品かも知れません)
I.Allegro 3/4 (120小節)〜少々ニュアンスが変わってもいいなら弦楽には編曲可
II.Andante 4/4 (39小節)〜クラヴィアならではの節回しです
III.Presto 3/8 (277小節)〜C.Bachのシンフォニアのフィナーレを思わせます

K.284(クラヴィア的、というより、まさにピアノ的)ニ長調((「デュルニッツ・ソナタ」)
I.Allegro 4/4(127小節)
〜36小節後半から38小節前半にかけてバロック的なフレージングになっている点に着目
II.RONEDEAU EN POLONAIZSE Andante 3/4(92小節)
〜途中の分散和音はアレンジしてもオリジナルの味わいは出ないはずです。
III.Andanteの主題による自由な12の変奏曲。メヌエット的に終わる。

なお、K.284には、あきらかに成熟度の劣る書きかけの稿があって、NMAに記載されています。

ピアノ作品はすべて、NMA第20分冊に収録されています。

モーツァルトのほうに音のサンプルをつけず申し訳ございません。
くつろぎたいときには最適の音楽ですから、よいCDかお抱えのピアニストをお見つけになって、お聴きになってみて頂けたら幸いです。

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2007年9月16日 (日)

注目!上岡敏之・ヴッパータール交響楽団

キンキンさんがこのところ大々的に(!)宣伝なさっているので興味津々だったのですが、これほどまでに注目される指揮者:上岡(かみおか)さんというのはどんな方か、を実に良く教えて下さるサイトを見つけました。(・・・いや、キンキンさんの記事からたどったんだっけ?)

http://homepage3.nifty.com/tnomura/kamioka/top.html

その中から、一番印象深かった言葉(高校生との会話)を引用させて頂きます。

(以下、引用)
--(高)今、指揮法の勉強をしているのですが、ドイツの大学との違いはありますか。

 ドイツでは、指揮の形についてのメソッドは一般的ではないかもしれません。基本的には、曲の理解についての教育がなされます。教育といっても、何か「正解」を教えるというのではなくて、曲を作って行くプロセスをだいじにします
  たとえばそうですね。試験でもそうですしレッスンでもそうですが、オペラをやる場合、モーツァルトでもプッチーニでもヴェルディでもワーグナーでもリヒャルト・シュトラウスでもいいんですが、どれか一つあるいは全部勉強してもらってきて、まず歌いながらながらそれをピアノで弾いてもらいます。コンチェルトであれば、ソロパートを歌いながらです。これを聴けば、その曲を学生がどのように捉えているかが分かります。そのうえで、この箇所はなぜそう弾いたのか?このアリアはどのように作るか?なぜそのテンポか?この和音の意味は?ここの16分音符とこの16分音符は同じ長さのものか?この休符は数える休符かそうでない休符か?そしてそれはなぜか?等というやり取りが次々となされます。
  指揮者はこうした作業を一人でやらなければならないのですが、教育の場では、それをこういう形で取り上げ、曲へのアプローチを手助けしていくわけです。そして、曲への理解を深め、近づき、曲の隅々まで神経の行き渡らせた曲づくりを学んでいくわけです。繰り返しになりますが、そこには正解はありません。もちろん、テンポの設定などに技術的な意味での問題があるような場合は、オーケストラの楽器を実際に弾いてみて、そのテンポ設定が実際的かどうかを確かめたりもします。
  形の問題としては、最後の段階で、ここはこのパートが間違えやすいとか、ずれやすい、演出はこうしがちであるがそこは話し合ったほうがいいなどと、経験を伝えそこで指示の出し方を伝えたりします。

--(WM、高)指揮者を目指す学生へのメッセージはありますか。

 あなたは高校生だから、まだ10代ですね。ドイツの場合、音楽家のプロフィールを見て気付くこともあるかもしれませんが、弁護士で歌手だとか、医師で歌手などという人が結構います。つまり、いったん働いてから、大学に入ってくるというのはごく普通のことです。日本の大学は年齢が均質で若くないと出遅れた感を持ちますが、ドイツでは、年齢層もさまざまです。
 特に指揮者を目指す若い人に言いたいのは、「遊びなさい」ということです。10代から、20代、何でもできる年齢なんだから、そんなにはやく音楽に追いつめられて身をすり減らすのではなく、やりたいことをやり残すことがないように何でもやりなさいということです。
  指揮者にとって音楽性は大事ですが、指揮者のやることは実は音楽だけではなく、実は9割以上が、人間関係、コミュニケーションです。コミュニケーションというのはいいことばかりではありません。それに潰されそうになることもあるのです。そうしたとき、そうした経験が、必ず役に立ちます。そうではなくて、あまり早くに指揮者を決め込み、のめり込むことは、その部分での人間的な強さや耐性を失わせます。壁にぶち当たったときに越えられず消えていった人を見ています。その意味で、人生経験を踏むことです。自分も、もしあの時のあいいう経験がなければ・・・と思うことがしばしばあります。
(引用、以上。)

素敵なことを仰る方ですね。打たれました。
上記サイトを、どうぞじっくりご覧下さい。(※サイト管理者の野村様より、引用をご快諾頂きました。心から御礼申し上げます。)

同サイトに公演情報もあります。

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2007年9月15日 (土)

井上直幸 ピアノ奏法2(DVD)

音楽なら「ピアノの弾き語りくらいでも興味あるよ」という方にも、お勧めします!


井上直幸ピアノ奏法〈第2巻〉さまざまなテクニック―タッチとペダリング (DVDブック)

井上さんについては、既に2度ほど綴りました。
『象さんの子守歌』:井上直幸
 http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_33a7.html
は、その成長を見届けることが出来ない孫のために、余命幾許もない井上さんが思い切って録音した、そのCDをめぐるお話でした。(私はこのCDを今も家内の仏前に供えております。)

井上直幸 ピアノ奏法1(DVD)
 http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/dvd_f343.html
は、今回採り上げるDVDブックの最初の編です。
作曲家別に作品のポイントを、心から楽しそうに説明してくれる映像は、クラシック愛好者には大変貴重なものですし、同時に井上さんという方がどれだけ素晴らしいピアニストであったかも伝わってきて、涙が出ます。

・・・が、同時に入手してあった第2巻の方は、
「さて、どうおすすめしたらいいものか・・・」
ずっと迷い続けておりました。

私自身がピアノはろくに弾けません。
で、この第2巻は、ピアノという楽器をどう演奏したら効果的か、を、ある程度「専門的に」整理した内容ですから、ピアノを弾かない人にも、はたしてお勧めできるのかどうか、という心配をしていたのです。

今日、DVDというもの自体を久しぶりに見る時間が出来たのですが、迷わず井上さんのこの「ピアノ奏法2:様々なテクニック」を選択しました。
見ているうちに、前に心配していたことは間違いだった、と、悟りました。

100%理解しようと思ったら、ピアノという楽器のしくみを知っておく必要もありますし、ピアノの演奏自体があまり苦痛ではない程度には出来ていないと、無理ではあります。
けれども、果たして100%の理解、などというものが、人間、あり得るのでしょうか?
そこをよくよくお考え頂ければ、別に、そんなレベルを目指して見る必要は全くないことには気づいて頂けるのではないでしょうか?

楽器をおやりになる方には、「ペダル」の部分はピアノ固有の要因もありますので類推に知恵を使わなければなりませんが、それも含め、井上さんがピアノの前で実演してみせる「技術」は、楽器の種類を問わず応用がきくものであることを保証します。

ですが、このDVDブック、楽器をやらない方、かつは、「クラシックなんか縁がない、詳しくない」という方、かつ、「私は<良質の>仕事をしてみたい」と頑張っている方にも、見て頂けたら嬉しい内容なのです。

井上さんは、冒頭部分で、だいたいこういう意味のことを仰っています。
「まず、こうしたら適切かな、というイメージがあって・・・次に、それに合う技術を選んで弾いてみて・・・聴いて確かめる。これが大切です。」

もう30年も前から、工業系の企業を中心にTQCというのがあって、これの合い言葉は
「Plan(計画)-> Do(実践)-> See(結果観察)-> Check(反省)」
というフローでした。・・・井上さんの言葉と、何の違いもない。
いや、違いがあるのは、井上さんの言葉では3つに集約されている最終部分が、わざわざ「See(結果観察)-> Check(反省)」の2つに分けられている点で、これについては本当は私は一言持っているのですが,屁理屈こねても仕方がないのでやめておきます。(でないと、私は「利潤追求否定者」ということになり、企業にいられなくなります・・・あ、言っちゃった。後は察して下さい。それに、私のいる会社は、そんな意地悪ではないです。。。ホント。)

作詞、作曲、という行為とはまた異なりますが、この第2巻での井上さんは
「音楽を創造する<工程>をどうするか」
を、一見ひとつひとつバラバラに「製造技術」を解説・実演するように見せながら、何度も見ているうちに
「ああ、総合的にはこういうことなのか!」
と納得させてくれるようにお話を進めて下さっています。

ですので、ピアノの演奏技法がすぐに他のお仕事へと類推で繋がるかどうかはご覧になる方次第ではありますが、すくなくとも(クラシックでなくてもピアノ伴奏の歌が好き、というだけで)、
「あ、これって、私の携わっている世界でも言えることだな」
そんな応用が効く普遍的な内容
になっている。

クラシック音楽に興味のない方がこのブログを読んで下さることはあまりないとは存じますが,たまたまでも目にして下さったのなら、騙されたと思って2,940円を春秋社さんにお支払いになってみて下さい。

「命」の素晴らしさを知っていた、尊敬すべき一人の日本人の、心から敬意を払うべきドキュメントです。


井上直幸ピアノ奏法〈第2巻〉さまざまなテクニック―タッチとペダリング (DVDブック)

Book
井上直幸ピアノ奏法〈第2巻〉さまざまなテクニック―タッチとペダリング (DVDブック)

著者:井上 直幸

販売元:春秋社

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2007年9月14日 (金)

ハイドン観察:交響曲(1):交響曲以前(成長過程)

別に気を持たせるつもりではありません。
能力がないので、すぐには「交響曲」にたどり着けない。
「交響曲」にいきなり突っ込んでしまう前に、
「知らねばならぬ!」
ことがあるんじゃないか、と、思ってしまったのでした。
で、ちょっと古め(1982年刊)ですが、ガイリンガーの著したハイドンの伝記を読み始めました(家内の生前に注文、死の直後に届いたものです)。・・・が、英語です。
日本語も満足に読めない。まして英語は。それ以上にドイツ語は。またそれ以上にイタリア語なんて!
でも、これ以前に日本語で出た伝記は、どうも読んでいてつまらないんです。その点、ガイリンガーは学者さんとしてもすごかったけれど、伝記筆者としても面白いエピソード選びが実にうまい(同じ話が、大宮真琴著「ハイドン」を読み直すと出ているんですが、表現の豊かさが、どこか違う)。
「面白いじゃん」
と、そこまでは感じるのですが、なにせ、読むスピードは、辞書無し意味不明個所すっ飛ばし走行でも、私に可能なのはせいぜい人力車並。。。

というわけで、浅草で乗った人力車なら「花やしき」一周だけの最短コースをとる、という具合に、ハイドンの幼少時代から、ステファン大聖堂の聖歌隊を追い出されたところまでは通らずにすっ飛ばして、1749年、ハイドンが18歳でウィーンの路頭に迷うところから、その青春時代を少しばかり眺めておこうと思います。
この時期が、交響曲創作を始めとする、以後のハイドンのインスピレーションを形成する上で、決定的なものを豊富にもたらしているからです。

私の子供時代、図鑑などでお目にかかって、いちばん愉快だった作曲家はハイドンでした。
中でも面白かったのが、声変わりしてもお情けで残してもらっていた聖歌隊で、いたずらをして前の列の子の髪を切ってしまい、それが先生の怒りに触れて、とうとう聖歌隊を追い出されてしまった、という話でした。

この話の真偽は別として、聖歌隊から除籍されたハイドンにとっては、しかし、世界は「面白い」なんていうものではありませんでした。

すぐに対比されるモーツァルトとは違い、ハイドンは20歳になるまで、シュテファン大聖堂聖歌隊、という閉鎖空間にいた「籠の鳥」だった、という事実は、まず念頭に置かなければなりません。
聖歌隊がどの程度の音楽教育をしてくれたのか、というと、これはよく分かりません。
ですが、「籠の鳥」ハイドン・・・そういえば、とある肖像画に見る彼の顔は、心なしか、水木しげるの描いた鳥の妖怪に似ていなくも無いなあ・・・は、籠から解き放たれたとき、すぐ「金になる」ほどの仕事を得るだけの専門能力は、まだ持っていなかったフシがあります
まずは食い扶持探しから、だったのですが、先取りしておきますと、その日その日を食い繋ぎながら、ハイドンはカール・フィリップ・エマヌエル・バッハのクラヴィアソナタを練習し、マッデソンの当時有名な教科書を読み漁り、フックスの「グラドゥス・アド・パルナッスム」で必死に対位法の自習をしていた、とのことです。

さて、では、どうやって飯を食っていたか。

当時のウィーンでは、「セレナータ」あるいは「カッサシオン」というものを奏でる楽隊が流行していました。
これはモーツァルトの「セレナーデ」問題にも繋がるので、ガイリンガーの引用している当時のこうした流行と楽隊の様子を、そのまま訳しておきます。

さわやかな夏の宵には、セレナーデの響く道にたたずんで時を忘れられるはずだ。セレナーデは、イタリア式にギターと歌だけ、というのとは違っている。ここ(=ヴィーン)ではセレナーデは愛の告白などではない。愛の告白なんて、ヴィーンにはもっといい機会がある。ヴィーンのこのナイトミュージックは管楽器の三重奏もしくは四重奏で、もう少し規模を大きくして演奏されたりもする。とある可愛いお嬢さんの命名祝日(注:クリスチャンにとっては誕生日代わりですね)の前夜には、こんな類いのエンターティメントが山ほど企画されるものだ。いくら遅れてセレナーデが始まっても、あっという間にご婦人方がそこに群がり、わずかばかりの時間のあいだに、音楽家たちは拍手の嵐につつまれる。(「ウィーン劇場年鑑」1794年の記述)

ちょっと脇道になりますが、上の文から分かることは、「セレナータ」はウィーンの人々にとっては恋を打ち明ける歌ではなく、むしろ「愛する人へのプレゼントとして」、管楽器バンドを雇って(おそらくは館の窓下で)演奏させる音楽になっていたことです。音楽の題材は、主に民謡や当時の流行歌だったと想像されています。これが、ハイドンの音楽の源泉になっていくわけです。・・・ちなみに、ハイドンの場合は三重奏だった、と、スタンダール(実はカルパーニ)はその「ハイドン伝」で述べています。

モーツァルトの「洗練」とは終始対照的だった、ハイドンの「素朴感」のあるメロディ作りは、青春時代がどれだけ深く彼の精神を支配したかを物語っているのでして、彼らの音楽の差異を単純に「持って生まれたセンスの差」としてしまうことが多い世の中には、まず、考えを改めてもらう必要があると思います。

今日残っているモーツァルトの「セレナーデ」は、それを弦楽主体にし、規模も大きくし、時に打楽器までを含めた大掛かりなものばかり。かつザルツブルク時代に限られた作品です。やはり、ザルツブルクにはウィーンとは違った風俗が成り立っていた、と考えた方が自然なようです。ハイドンの奏でていたような、管楽器による「セレナータ」は、モーツァルトにおいては楽隊登場・退場部分は「カッサシオン」、本体部分は「ディヴェルティメント」と呼ばれていたことになります(多少極論ではありますが)。

もひとつ、ついで話をすれば、ハイドンがモーツァルトととかく比較されるのは、スタンダールが「ハイドン伝」と「モーツァルト伝」を一緒に書いた(というより、盗作した)ためではなかろうか、と思っておりますが、どんなもんでしょうか。(「モーツァルト伝」の方は、盗作じゃなかったんだけかな?)

本筋に戻りましょう。

こうした仕事をしている間、ハイドンは、彼のひどい境遇に同情してくれた歌手のアパートの一室に同居させてもらっていました。が、この歌手さんは新婚で、赤ん坊が一人いて、奥さんは
「もう一人赤ちゃんが欲しいの」
と言い出す始末。居場所が無くなることになったハイドンは、別の安アパートを見つけます。
この安アパートの住人の中には、豪邸に放火するのが趣味の泥棒さんもいたそうです。

なにはともあれ、金銭的には厳しい生活を余儀なくされる毎日が続いていました。
「あの頃は本当に、世間の王様方みんなを妬んじゃったくらい幸せだったよ」
・・・ハイドンのユーモアセンスは、この貧乏時代に養われたものだったようです。

そんなハイドンにも僥倖が訪れます。
ひとつめは、こうでした。
セレナータを耳にしたある興行師が、その出来に感心し表に飛び出してきて、
「この曲、誰が作ったんだ?」
「オレです」
「それじゃあ、わっちの台本に曲をつけてくんねえか!」
という次第で、劇音楽作曲の仕事にありつけたこと。
「せむしの悪魔」
という、1752年作と推定されているその作品は、残念ながらこんにちでは散逸してしまったのですが、出来上がりにはハイドンはかなりの自信があったようです。後年、彼は伝記作者に、この作品を作った時の思い出を聞かせました。
「想像してごらんよ」
・・・回想の中で、ハイドンはクラヴィアを弾き始めます。
「山は盛り上がり、谷は沈み込み、そしてまた別の山、別の谷。」
しばらくその音楽をクラヴィアで弾くと、突然曲調が激しくなって、稲光。
「嵐だ!」
こんな具合だったのさ。

決定的だったのは2つ目です。
当時のウィーンの町は、狭かったのでしょうか?
おそらくは少し収入が良くなってハイドン移り住んだのと同じアパートの3階に、たまたま、既に高い名声を誇っていたオペラ台本作家メタスタジオも住んでいたのでした。当時は「不朽の劇作家の一人」とまで絶賛されていたこの大作家が、なんと、ハイドンの部屋から聞こえてくるクラヴィアの演奏に、すっかり魅せられてしまったのです。
弾き手であったこの無名の青年を、メタスタジオは、自分のお気に入りの女弟子のクラヴィア教師に採用します。
この弟子が、またさらに、声楽の名教師ポルポラ(映画『カストラート』で知る人ぞ知る、知らない人は知らない、優れたカストラート歌手ファリネッリを育てた人)のお気に入りで、ハイドンはこうした縁で、有力音楽家たちに顔を知られていきます。ついには縁が縁を呼び、お金持ちのモルツィン伯爵が、自前のオーケストラのお抱え作曲家としてハイドンを採用するに至ったのでした。ここに至るまで9年の歳月が流れていました。

おそらくこうした過程を経て、ハイドンは最初の交響曲群を創作することになったのですが、惜しいことに、苦労時代のハイドンの作品と思われるものはクラヴィアソナタを除いて残存していないに等しく、彼が交響曲以前に示していた作曲能力を知る手がかりは、あまりありません。ですので、交響曲においては、彼はモーツァルトとは異なり、最初から「大人の作曲家」として私たちの前に姿をあらわします。ですが、そこに至った過程が判明しないわけです。

このころに得た友人たちと演奏するために弦楽四重奏曲を数曲(第0番、1-4番、6-8番、10番、12番)作っていることは分かっているものの、はじめて作曲年代が判明する作品は、モルツィン伯家に採用される2年前、1756年に作った"Salve Regina"とハ長調のオルガン協奏曲です。・・・この2曲は、当時ハイドンが恋していた相手が修道院に入るのを「祝って」作られたものらしいとのことです。で、ハイドンが伝説的とも言えるほど悲劇的な結婚をした相手は、その姉でした。。。

創作事情が不明確な中でも、ハイドンの音楽的成長過程を示すと思われるサンプルをいくつかお聴き頂きましょう。




順番にお聴き頂ければありがたいのですが・・・いかがですか? 
勉学し切磋琢磨して急激に変化していく彼の世界が聞こえてきませんか? 聞こえて来なければ、選曲者である私の落ち度でございます。ご容赦下さい。

さて、ハイドンがその音楽の面倒をみることになったモルツィン伯爵の夫人は大変魅力的な女性だったそうで(美人だった、ということか?)、ある日、ハイドンの伴奏で歌っているとき、熱中したあまりでしょうか、クラヴィアを弾くハイドンの脇ににじり寄り、ネッカチーフでふうわり、と彼に触れてしまったそうです。
これが、ハイドンの、それまではわりとドライだったらしい異性への感覚を、強く刺激してしまい、ハイドンは大きく悩みます。
折り良く、というべきだったのか、モルツィン家はまもなく財政難に陥り、ハイドンは奉公先をエステルハージ家に変えることとなるのですが、それは「交響曲」本題に入ってからゆっくりお話できそうですので、今回はこれまでと致します。

長々失礼致しました。・・・毎度、ですね。

※なお、クラヴィアソナタについては、サンプルはピアノの演奏ですが、ハイドン自身は終生、これらはクラヴサンないしクラヴィコードで演奏されていることを想定した、と、ガイリンガーは(記録類を根拠に)述べています。("Haydn a creative life in music" p208 UNIVERSITY OF CALIFORNIA PRESS ISBN 0-520-04317-0)
また、クラヴィアソナタの番号は(詳しい事情は存じませんので教えて頂けるとあり難いのですが)、引用した演奏では「第10番」・「第4番」となっているのですけれど、大宮「ハイドン」所載の作品表では前者が「第3番」となっています。「第10番」以降は大宮著書の作品表上でのクラヴィアソナタは通し番号ではないせいなのですが。。。だとすると第12番となるべき位置に掲載されているのです。なぜに?

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2007年9月13日 (木)

誰もいぢめてはならぬ

今日は政治家さんの名前が出てきます。
でも、政治経済のことは触れないつもりのブログです。中身は、きわめて個人的な感情です。
「政治に勘定は必要でも感情は不要」
という向きの方には、バカなヤツ、と思われるような文です。

政治、という面ではいつも信頼しているJIROさんの記事にリンクを貼っておきます。
政治面の評価をしたい方には、そちらの方が有益です。その内容は、ここに綴るのとは対照的に見えるかも知れませんが、理性的には賛同は感じております。

が、こちらは、私の「思い」、主観を綴ったものです。・・・もちろん、ご時世から言えば、1日半も経ってこんなものを綴っていること自体が「出遅れ」ですけれど、時評ではないので、いいでしょう?


昨12日、安倍首相が辞任しました。
あまりに唐突な辞任でした。
記者会見では幾つも具体的な理由を述べていらしたようですが、どれもが本当であり、どれもが嘘であるのでしょう。何故か、そう感じました。

私自身は万年平社員の無党派層という、無責任な生き方をしております。
そんな私でも3年前に変に真面目になり過ぎて、「ウツ」になってしまいました。「ウツ」は自殺願望を伴うこともある病気です。家内にはそうとう精神的負担をかけたと思います。
ですのである晩、
「大丈夫、俺は絶対死なないから」
といいました。
「私も絶対死なないから」
家内は涙してくれました。
そんな家内が、昨年暮れ、急な心臓の病で死にました。倒れているのを見つけた時には、でも死に顔ではなくて、気絶した顔でした。私との約束を守ろう、と思い続けてくれていたのだと思います。
早いもので、それから4分の3年、父子家庭で過ごしてきました。支えてくれた親族も、ですが、完治していない私をおおらかに受け入れてくれている職場の皆さん、お願いすれば気軽に助けてくれるご近所の皆さんなど、周囲のいろんな方のおかげで、笑顔の絶えない家庭で居続けられています。
一市井人が、周りの暖かさに支えられて生き延びている。・・・それでもちょっとした言葉や感情の行き違いで、被害妄想に陥ることがあるのですから、贅沢なものです。

しかるに、今回の首相辞任劇の前後、それに対する報道の姿勢を見ていると、もうこれは「首相」という役職者への、ではなく、「安倍」という一人の人をよってたかっていじめているようにしか感じられませんでした。
参院選大敗後、
「外からミソクソに言われても支えてやるよ」
多分当初はみんなにそう宥められて続投する気になったのでしょうに、蓋を開けてみれば、外はおろか、「内」からも・・・真実は分かりませんが多分間違いなく・・・支えてもらえることは無かった。
続投を発表したとたん、身内からも思いがけず批難を受ける。内閣は、これは自殺者が出たり、第2次大戦時の原子爆弾被弾について無見識な発言をしたことで実質罷免されながら全く自己の責任を感じない閣僚がいたり、と恵まれなかった経緯を鑑み、クリーンな内閣を目指して改造しましたが、これがまた団結してくれる気配がない。様々な経緯を経てついに「じゃ、辞めます」と言ってしまったその背中に「直接」浴びせられるのは罵声ばかり。
そして世間は、「じゃ、次のボスは誰にしようか」なんて、さっさと冷たく動き始めています。
おお、青い血の流れている連中の世界は、なんとこんな平民とは違っていることか!

「生きる」ことに残酷さがつきまとうのは必然です。まず、食わなければならない。食うためには、どうしても他の生き物の命の素、いや、命そのものを奪い取らなければならない。
ただ生きるためだけであれば、そんなことに、いちいち残酷さを感じているいとまはありません。

ですが、人間が人間である所以は、「人と人との間に残酷は無しヨ」というところにあるのではなかったか。(歴史上、お互いを「人間」として認めあった場合には戦争は起こっていません。たとえば古代ギリシャが戦争をした相手は「バルバロイ」でした。古代ギリシャ人から見れば、人間じゃなかったのに違いない。)

「人、という字は、倒れかけたヤツを後ろから誰かが支えてやるんだ」
とは、小卒で既に働きに出た私の父の言ってくれた、私にとってはどんな哲学よりも重い教えです。

・・・でも、「人間」なんて、なまじっか文字なんか持っちゃったがために、お互いが言い訳しやすくなってしまって・・・ひょっとしたら「霊長類」なんて思い上がった分類はふさわしくなくって、他のどんな動物よりも劣っているのかなあ。

そうでは、ないでしょう?

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2007年9月12日 (水)

「笑いの場」の日本史断片

地域を日本に限ります。
「堤中納言物語」・「宇治拾遺物語」・「古今著聞集」興言利口巻十六・・・笑いの文学は、私なぞのような素人の知る限りでは、このあたりが早い存在で、平安末期から鎌倉初期のものです。
「笑い」を文学によって知る、というのは、「笑い」を演ずるよりも、おそらくは幾分高度であって、それが「笑いの文学」を独立して生み出す時期をある程度は「実演」よりも遅くしているのではないかな、と、勝手に推測しております。
ですが、これらを読んでみても、「笑い」が展開される<場>は、貴賤を問わず日常生活の中での<構図のズレ>(Wikipediaにあった、笑いを生み出すものの定義でしたね)であって、どこか特別な場所ではありません。何故そうなのか、は、いずれは考えなくてはいけないのでしょうが、今は深入りしません。とにかく、「書かれた」笑いの<場>は、日常生活の描写である、という点で、「演ずる」笑いとは世界を異にしていることだけを、肝に銘じておきましょう。

では、笑いを演ずる<場>はどうか?

現在では、ビルの中にあるか独立した建物である「演芸場」の舞台。・・・大道で演じていることはあっても、東京でさえ滅多に目撃できません。「建物の中の、舞台」という場所が普通ですね。
江戸時代には、臨時に小屋を作るのが普通だったかと記憶しております。で、小屋掛けで演芸をやる、というのは江戸時代になるまで一般的ではなかったはずです。・・・すみません、参照資料が乏しいので、このあたり、「違うよ」という場合には、どうぞご教示下さい。
では、江戸時代以前はどうだったか?
豊臣秀吉も、それ以前には足利義満も大いに保護した能楽、この能の幕間劇として演じられた能狂言が、一体どんな場所で演じられたのか、能舞台の起源を突き止めておりませんので、私にははっきり分かりません。いずれ「能狂言」を観察する日が来ますから、その際に確認してみようと思います。・・・こちらも、いい資料があったら、是非ご紹介下さい。

もっと古くはどうだったか?

これは、絵画史料として「年中行事絵巻」があります。模本で非着色ではあり、錯簡もあるのですが、巻十三の最後に、どこかは明らかではありませんが山城国のとある明神社らしい場所が現れ、その境内で、法師(目は見えている人たちのようですから、おそらくは私度僧か聖の類いだったのでしょう)達が面白おかしな舞を群衆の面前で披露しているところが描かれています。失われた原本は後白河院時代のものだったことがほぼ間違いないとされていますから、信用すれば、平安時代から鎌倉時代への移行期の風俗だったことになります。

(クリックで拡大し、見やすくなります)
Nengyoudengaku

田楽や散楽(猿楽)が「笑い」の演芸と密接に関わっていたことには、証言があります。
藤原明衡『新猿楽記』(しんさるがくき、しんさるごうき/1064年頃成立)の冒頭部です。

「予廿余年以還。歴観東西二京。今夜猿楽見物許之見事者。於古今未有。」
(よ、にじゅうよねんよりこのかた、とうざいのにきょうをへみるに、こよいさるがくけんぶつばかりみごとなるは、こきん【ここん】においていまだあらず。)

と、歯切れの良い文で始まるこの名古典には、次から猿楽の際に演じられる芸能がカタログのように掲載されています。
これは実は、江戸期の見せ物についてまとめた朝倉無声「見世物研究」(昭和三年。現在は、ちくま学芸文庫で読めます)と対比していくと非常に興味深い芸能ばかりなのですが、今は独断で
「これは笑いをとっただろう」
というものを選別し、現代思潮社刊のものの注釈によって説明を加えておき、朝倉「見世物研究」に対応する演目があれば、併記してみましょう。
順番は『新猿楽記』に登場する通りとします。

・侏儒舞(ひきひとまい):こびとが身振りおかしく舞う芸〜朝倉=「畸人」に含む
・独相撲(ひとりすまひ):(現在も神事となって残っている)〜朝倉=そのものはないが、「珍相撲」というのがある。
・独双六(ひとりすごろく):平安期の双六は賭け事でした。ですから叩き売りよりあやういけれど、結局は「寅さん」みたいな稼業
・骨無骨有延動(ほねなしほねありえんだう):間接外し、ですかね。
以下3つは「モノマネ」のようです。
・大領の腰支(たいりやうのこしはせ):お偉いさんのマネをして、ふんぞりかえってみせたものでしょうか
・エビ漉舎人之足仕(えびすきとねりなしつかひ):小間使いの人がエビを掬う時の滑稽な足付きを真似したものだ、と推測されています。
・氷上の専当の取袴(ひかみのせんだうのとりばかま):同じ小間使いでも、社寺の小間使い。たとえば、ずり下がってしまた袴を上に引っ張る仕草でもしてみせたんでしょうか? おデブさんなら思い当たるフシがあるはず。
・蟷螂舞(いぼじりまひ):カマキリの仕草で踊ったんでしょう。
他にも該当があるような気もしますが、これくらいに限ってみましょうか。

前回は、話題にしたコント55号のネタに「暴力」的な要素がある点を上げておいたのですが、一見したところではこれらの演目の中に「暴力」の陰は落ちてはいないように見えます。・・・「暴力」という言葉の持つイメージは陰惨ですし、コントの中では和らげられている点は見ておきました。
「暴力」という言葉で区切ってしまうと不透明になる、見物人の、世の中に対する「どこか冷たい目」というものは、しかし、これらの演目にも充分内在しているのではないかと思いますが、これまた次回以降の課題と致しましょう。
・・・今回「新猿楽記」の演目をリストアップしたのは、「年中行事絵巻」の描写が「笑い」の場面であることのウラをとることが主目的なので。。。

それにしても、神社の境内は、映画では古くは『無法松の一生』、新しいところでは北野武『菊次郎の夏』でも喧嘩の場所として描かれていますね。これにも示唆的な何かが含まれている気がしてなりません。

「笑い」のカテゴリなのに、固い話ばっかりで恐縮です。こんな調子で参ります。
・・・ウケなくても、所詮、マイナーな独善ブログでございますから。
・・・いえ、すねているのではなくて、そうではなくて。

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2007年9月11日 (火)

モーツァルト:「偽の女庭師 La finta giardiana 」K.196

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。



1774年を締めくくり、1775年の幕を開けることになった作品です。
・・・ただ、そんなに「奇抜な」ことはお話できません。

「ミュンヘンの謝肉祭用のオペラ・ブッファを」との、バイエルン選帝候直々の注文であるため、大司教コロレドも認めないわけにはいかなかった、とのことです。詳しくは伝記類を参照頂くとして、モーツァルトは9月頃に、この作品を台本指定で注文を受けました。それというのも、この台本、74年の謝肉祭シーズンに別の作曲家の手でオペラ化され大ヒットしたものだったのです。それを、ローマでのオリジナルではなく、何故モーツァルトに作らせる気になったのか、選帝候の意図については分かりません。今で言う上演権の問題かなにかがあったのでしょうか?
創作にあたって、モーツァルトはローマでヒットしたアンフォッシという作曲家の楽譜をも参考にしたという話ですが、(アンフォッシの方の作品を聞かないままに言うのもなんですが)出来上がったオペラは、正真正銘、純正モーツァルト、との印象を受けます。
ただ、各キャラクターの造形に当たっては、アンフォッシの方法を踏襲した可能性は認めておくべきでしょう。

とはいえ、以下ではナンバーごとに若干のコメントを加えますけれど、キャラクターも、それに付けられた音楽も、私には「フィガロの結婚」の原型が強く感じられてなりません。

特徴的な歌については、少ない数にはなりますが、実際に聞いて頂けるように試みましょう。


さて、このオペラブッファ上での登場人物、当初の恋愛の図式は次の通りです。
凡例: ->(思いの方向)、o (両想い)、x(片思い)、M(婚約)、H(実は恋人)

Il Podesta(舞台となる町の行政長官で、家の主人) x-> Sandrina(家の女庭師)
Arminda(主任の姪) <-x Ramiro( Armindaのこ恋人だったが裏切られた)
Serpetta (家のメイド) <-x Nardo(女庭師の従兄弟、実は家僕)
・・・ということで、「両想い」は、いません。男性から女性への片思いばかりです。

で、めでたしめでたしなのは、この二人だけ。
Arminda <- M -> Il Contino

ですが、「真実はこうだった」
Sandrina<- H-> Il Contino
ということが分かり、何故そうなのかの謎解きと、二人の関係修復がオペラの主軸となり、その周りで
Il Podesta(家の主人)以外の男性の片想いが少しずつ解消して行く、という話です。
ヒロイン、 Sandrinaが、Violanteという女性がIl Podestaの家の庭師に身をやつして(歌舞伎で言うと、性は違いますが、さながら「助六、実は曽我五郎」みたいなもの)、嫉妬で自分を傷つけたままゆくえ知れずとなった恋人の Il Continoを探している、という背景設定なのです。

以下、幕ごとの曲の配置(第1幕を除き、レチタティーヴォで幕が開始されます。また、各ナンバーの間には必ずレチタティーヴォがあります)と、それを謳うのがどのキャラクターかを記します。ただし、各ナンバーの冒頭の詩句がタイトル代わりに記されるのが通例ですが、あえて一切省略しました。そのかわり、それぞれの歌が、歌っているキャラクターのどんな思いを込めたものなのかをひと言記し、ストーリーを追いかける代わりとします。その方が、作品の構造が分かりやすくなると思ったものですから。
歌の内容からだけでは分からない、レシタティーヴォ部分でより突っ込んでいる、ストーリーのもっと細かな部分については、
・堀内修「モーツァルト オペラのすべて」平凡社新書Y840 882円 123頁以下
をご覧頂ければ手軽でよろしいかと思います。
なお、バロック以来の伝統で(その後1750年頃まで続きますが)、アリアを歌ったら、そのキャラクターは原則として舞台から退場します。そうやって劇の場面を転換するのだという点を念頭に置いて下さい。


"La finta giardinier"

序曲は「アルバのアスカーニョ」のときと同じ手法で作っています。すなわち、「シンフォニア」ですが、第1楽章、第2楽章を独立して作ったあと、フィナーレ部分はそのまま第1幕のIntroduzioneとなる、という方法です。・・・前にも述べたかも知れませんが、この手法はクリスチャン・バッハが使っていたものです。
ただし、祝典劇だった「アスカーニョ」ではバレエを背景とした大合唱を開幕に用いたのですが、こちらは普通のオペラですから、5重唱での開幕となります。

Act 1
1. Introduzione : Sandrina,Serpetta,Ramiro, Il Podesta, Nardo
( Arminda と Il Continoを祝おうと一同待ちながら、実はそれぞれの報われない恋を思う)
2. Aria : Ramiro
(仮にArmindaへの想いを断ち切っても、次の恋の罠が待っているに違いない不安を歌う。「フィガロの結婚」のケルビーノを、浮気性では無くし、暗い性格にした感じ。・・・ケルビーノの方があとで出来たキャラクターだが。)
3. Aria : Il Podesta
(はじめは穏やかだった Sandrinaへの恋の想いがだんだん乱れて行くのを、オーケストラの楽器が増えてやかましくなって行くのに例えた歌。歌詞中の楽器の名前は、イタリア語を知らずともよく聞き取れるでしょう。「フィガロ」の伯爵の原型1)ただ、音楽としての面白みは、まださほどではありません。
4. Aria : Sandrina
(女のさがは、生まれついての悲しいもの。愛に生きるか死ぬしかないから)
5. Aria : Nardo
(Ramiroの愚痴を聞き、彼の退去後に、物体ならどんな固いものでも加工のしようはあるが、女心はそうはいかない、だのになんとかしようとする我々男どもはどうかしている、と歌う。Figaroの原型だが、ここでの歌ではまだそのキャラクターが前面に出て来ないきらいがある)
6. Aria : Il Contino
(叔父にIl Continoは結婚相手としてふさわしいかどうかくどくど再確認するArminda。それでやり取りしている二人の前に現れ、二人のやり取りを知らぬまま、Armindaを持ち上げる短いアリア。Il Continoの、やや軽率そうな性格を表してみせる。ここでは彼はまだ喜劇的である。歌のあとはここでは退場しない。「フィガロ」の伯爵の原型2)
7. Aria : Arminda(Il Continoを信じ、結婚を受け入れるために歌う。)
8. Aria : Il Contino(家の主人に、自分の家計の由緒正しさを誇ってみせる。まだ道化役。)
・・・ここまでは従来のイタリアオペラ、ですが、モーツァルトは次あたりからだんだん調子づいてきます。
9a、9bは、同じ旋律ながら、キャラクターが見事に浮き出ています。(曲名クリックで聞けます。)

(自分に想いを寄せるNardoはフケ過ぎだ、と皮肉る。「フィガロの結婚」のスザンナの原型)

(Serpettaの言い分を優しく受け入れてみせる)
10. Aria : Serpetta(私を好きになる男なんていっぱいいるわ、とNardoを半ばバカする)
11.Cavatina : Sandrina
(美しい歌。誰もいない庭で、愛の悲しみを歌う。・・・Armindahaはそれを盗み見て、この女庭師の美しさに半ば嫉妬し、今日結婚すること、その相手が身分の高いIl Continoであることを自慢しに現れる。SandrinaはArmindaの結婚する相手の名を聞いて仰天する。自分の探していた恋人だからである。気分が悪くなって倒れ伏すSandrinaがかわいそうになり、ArmindaはIl Continoを「手助けして下さい」とその場に呼ぶ。)
12. Finale : Il Contino , Sandrina , Arminda, Ramiro , Il Podesta, Serpetta, Nardo
(Il Continoの方も、Sandrinaが、自分が殺してしまったと思い込み悩んでいた当の恋人だと気づき、周囲の人びとは何がなんだかわけがわからなくなり、大混乱のうちに幕を閉じる。)

Act 2
13.
(Il Continoを軽蔑した怒りの歌。「夜の女王のアリア」を思わせる名品。)
14. Aria : Nardo
(どさくさに紛れて面白おかしくSerpettaを口説きにかかる。彼のフィガロ的キャラクターが前面に出た歌。)
15. Aria : Il Contino(以前傷つけてしまった短慮をSandrinaに切々と詫びて、その場を去る)
16. Aria : Sandrina
(Il Continoの絶望しきった様子に活路を見出した家の主人に・・・紳士的に・・・言いよられ、そのプロポーズを、彼女はやんわりと断る。)
17. Aria : Il Podesta
(姪の結婚も自分の願望も果たされそうになく、どこかへ姿を消したくなった、家の主人。)
18. Aria : Ramiro
(なおも自分を寄せ付けようとしないArmindaへの断ち切れない想いが、状況の変化で好転しそうな予感に静かに浸る。)
19. Recitativo e Aria : Il Contino
(何もかも失った気分になってしまいつつ、それでも自分が過剰な愛からくる嫉妬のせいで殺してしまったと思い込んでいたSandrinaが無事だったことの喜びを、つくづく噛みしめる。)
20. Aria : Serpetta
(本当はNardoに心が動かされ始めているらしい彼女、自分自身に、若い身空で妙な拘束を受けるのは損だ、という想いが抜けきれず、無視を決め込もうと自分に言い聞かせる。)
21. Aria : Sandrina
( Il Continoの登場、Il Podestaのプロポーズ、という事態に混乱し、動揺し、傷つき続けている。)
22.Cavatina : Sandrina(嘆きの心を歌った美しい歌)
23.Finale :Sandrina, Il Contino , Nardo , Sandrina , Arminda, Il Podesta, Nardo
(心の整理の付かない、それぞれの人びと)

Act 3
24. Aria e duetto : Nardo , Sandrina,Il Contino
(Nardoの機転で再び寄り添い合うSandrinaとIl Contino。しかし、まだお互いに素直になれない)
25. Aria : Il Podesta
(事の次第から、ArmindaとRamiroを結びつけ、自分はSandrinaを諦めるのが最も望ましいと悟る、実に人格者の主人。)
26. Aria : Ramiro(尊大に構えたままのArmindaに憎悪をむき出しにする)
27. e duetto : Sandrina,Il Contino・・・ここで聞けるのは美しいRecitativoの方だけです。すみません。
(・・・やはり、二人の絆は愛の神が断ち切ることを許さなかったのでした・・・最初のRecitativo acompaniatoが、柔らかい弦の響きに包まれて、明るい決着を予感させる。)
28.Finale.Coro : Sandrina,Serpetta, Arminda , Ramiro, Il Contino , Il Podesta, Nardo
(ArmindaはRamiroに対する自分の態度の非に気づき、SerpettaはNardoを受け入れ、家の主人以外はみな両想いを達成。でも、こんなにいい主人には、じきにいい相手が現れるでしょう!)


初演は、当初74年12月29日が予定されていましたが、75年1月13日まで延期され、その後数回上演されました。大成功、ということになっていますが、ミュンヘンの習慣でオペラの再演は相当間隔が空くために、3月までに月1回ずつ上演されたにとどまった、と、父レオポルドが書簡で明らかにしているとのことです。(該当書簡は74年12月と75年1月のもので、それを海老沢「モーツァルトの生涯」のように素直に受け入れていいのかどうかは、他に資料がなく、疑問符付きにしておくしかありません。)

この時期、大司教コロレドもミュンヘンを訪ねているのですが、モーツァルトのオペラを観劇していません。理由の推測は伝記類をご覧下さい。いちおう、スケジュールが政治優先であったためであって、モーツァルトに対する悪意ではなかった、と考えて良いのかと思いますが、モーツァルトとの関係がだんだんに悪くなって行く最初の兆しではあるかもしれません。
コロレド滞在にも関わらず、モーツァルトはモーツァルトで、クラヴィアソナタの量産をしていたという事実は、コロレドの耳にも入っていた可能性はあり、耳に入ったとすれば、コロレドは嬉しくなかったに違いありませんし。
つまり、いずれの側にも、後年の決裂に繋がる心理的障壁の萌芽が、この時期会ったと考えることは不自然ではなさそうです。

第1幕は自筆譜が早くに喪失し(コンスタンツェの、夫の死直後の証言が残っている)、NMA編纂時に筆者譜等の資料研究の結果復元されたものが、今日演奏されています。
また、「大成功」だったのはあながちうそではなかったのかなあ、と思わされるのは、この作品、1780年にザルツブルクを訪れた興行師ベーム一座がドイツ語版(すなわちジングシュピール)として改作を依頼したことから想像させられます。ただし、このドイツ語版はザルツブルクでは上演されず、同じ年のうちにアウグスブルク(レオポルトの故郷)でやっと上演された、とのことです。この80年、というのも・・・微妙な年ですねえ。
ジングシュピール版で改変された部分の楽譜はNMAに掲載されています。なお、ジングシュピールでは当然、Recitativoは「生のゼリフ」であって、歌付けがされていません。



NMAでは第5分冊に収録。
リンクした演奏は、アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの1991年のものです。
Sandrinaをグルヴェローヴァが歌っています。サンプルにあげませんでしたが、長官役を歌っているのはトマス・モーザーです。
記念年に他作品と併せて箱もので出たシリーズなので、これそのものはいまは店頭にはないかな・・・
webでは購入可能です。
Warner Classics 2564 62330-2

私は他にはフィリップスで出た全集盤で聴いています。
その他、TowerRecordでの検索結果はこちら

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2007年9月10日 (月)

小6息子作:「伊能忠敬新聞」

モーツァルト記事一本、明日まわしにさせて下さい。すみません。



息子が小学校の宿題で「伊能忠敬」のことを調べ、新聞を作る、というので、週末は大騒ぎでした。

私自身、数年前に、井上ひさし「四千万歩の男」を古本で文庫一揃えで手に入れてはいたのですが(当時は新品でそろえるのは難しかったし、なんといっても格安でした)、当時はまだバリバリに働けていて、結局「読むゆとり」を作ろうと努力しませんでした。
ですので、知識は皆無。
急遽、ネットで分かりやすいサイトを探しまくりました。

伊能忠敬記念館
http://www.city.katori.lg.jp/museum/
はじめ、大人が読む分には貴重なサイトも豊富にあったのですが、小学生でも分かる資料となると、それではどうしようもありません。

ところが、意外や、今では子供にも分かりやすいサイトが結構あるのですね。
便利な世の中になったものです。
学校の宿題ごときに高いお金を出して参考書なんかあさらなくてすむのですもの。
しかも、ヘタな大人向けよりは出来が良質なのにも驚きました。

それらを見ながら、息子がなんとか作り上げた結果を、ご覧頂きましょう。
(クリックで拡大します)

Inoukeisai_2

お粗末で、お恥ずかしいのですが・・・宿題は、インターネットでここまで出来る時代です。
・・・半面、子供向けの良書の出版が減っているのは大いに気になるところですが。。。

<お世話になったサイト>

ウィキペディア
 http://ja.wikipedia.org/wiki/伊能忠敬

伊能忠敬 豆辞典
 http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaempfer/k-hanashi/inou/inoujiten.htm
 
伊能忠敬と伊能大図
 http://www.gsi.go.jp/MAP/KOTIZU/sisak/ino-stmi1.html
 
他にも多数参照しました。
名古屋ドームで大図の規模を再現した写真があったサイトを失念してしまい、申し訳ございません。
お気づきでしたらご教示下さい。

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2007年9月 9日 (日)

「一流オケ」金管奏者の意識について

標題の件、雑誌「Pipers(パイパース)」9月号を立ち読みしていたら、老若二人の、別々のオーケストラの金管奏者が、期せずして同じ主旨のことを語っていたので、要点だけメモしておきました。

二人に共通していた意見は、
「私たちは、指揮者の求める音を出すだけ。指揮者が変わったとき? その指揮者が他の指揮者と求めるものが違えば、それに合わせますし、そのようなことは容易に悟ることが出来ます」
というものでした。また、自分の思い込みで、自分の「カラー」で吹いてしまうことの危険性についても述べていました。
「そんなことでは、私はオーケストラで吹き続けられなかったでしょう。大切なことは、(信用できる音楽性を持つ)指揮者の意図に忠実に、自分の音を変えられることです。」

一人は、近々ベルリンフィルを定年で引退するチューバ奏者、ヒュンペル氏。
もう一人は、メトロポリタン歌劇場管弦楽団の首席トランペット奏者、クラウス氏です。

・・・これだけ、の話ですが。
オーケストラの金管奏者の方々に、肝に銘じて頂くにふさわしい言葉ですし、いいオケでは実践者もいっぱいいらっしゃるのでしょうね。。。

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2007年9月 8日 (土)

ハイドン観察:交響曲(0):前説

モーツァルト作品を、おそらくその生涯に沿っているだろう、と思われる順番で「読む」試みを続けているうち、「では、古典派と呼ばれた音楽とは、いったい実際上はどんな位置付けにあったのだろう?」という疑問に至ったことを、前に記しました。もちろんそれに関連付けて、でもありますが、とりあえずハイドン(ヨーゼフ)は、是非このあたりで、よくよく知っていくべき存在なのではないか、かつ材料も手にしやすいのではないか(但し、日本語で読める伝記は近々出版予定はあるものの、現状では古書以外にはありません)、と考えました。
事情でしばらく資料を新規に入手できませんので、手元に溜め込んであった限りのもので試みていこうと思っております。特に、楽譜はクラヴィアソナタ、弦楽四重奏等の室内楽、交響曲以外には、まとまりとしても、価格的にも入手しにくいし、室内楽は総譜(スコア)だと高くつきます。
幸い、交響曲全集は、版としてはもう古くなってしまったのでしょうが、ロビンズ=ランドン校訂版は最終巻を除き、かなり以前に所持しておりました。かつ、交響曲は(最初期の作例は無いものの)ハイドンが生涯取り組んだジャンルの一つでもあります。
そこで、まずは交響曲をヒントにハイドン観察をしてみよう、という主旨です。・・・モーツァルトほど細かくはやらず、あるまとまりごとの観察にしていくかもしれませんが、とにかくやってみます。

今回は、まだ具体的な作品には触れません。観察を始める前の「能書き」です。
あいかわらず長ったらしくてすみません。。。



<文化>という名前で括られる様々な事象(作品や上演は)、現在進行形または現在完了形で捉えられる範囲のものについては、今を生きている誰にでも、なんとなく
「どうしてこんなものが出来たり演じられたりするのか」
が分かりやすいようです。
分かった、ということが「正しい理解」かどうかはともかくとして、それは私たちが<今>という時代の真っ只中で生きているからに他なりません。

一方、百年前後からもっと前の過去のものを見聞きする場合には、
「どうしてその作品はこう仕上げられたのだろう、 いまこのかたちで上演されるのだろう?」
などとまで考えることは、滅多にありません。ただその「不朽」の価値を頭から信じて、作品・上演の「素晴らしさ」に手放しで感嘆する。・・・これはこれで、過去の<文化>に対する接し方として、決して間違ったものではない、と私自身は思います。
むしろ、「過去の文化は当時を考究した上で享受しなければならない」と考えてしまうことの方が、大きな誤りを孕んでしまう危険性は高いのではないか、とさえ考えています(「古楽」復興を謳ったかたわらで、充分な検討を加えないまま「復興」を自慢した一部の人のやり方が行き渡ってしまい、むしろ長い伝統を後代の作為と勘違いしてしまう過ちがいくつか犯されたことが、今では分かっています)。

歴史的復元などと称して「当時を考究する」ということによっては、本来「当時の人間生活の全てを網羅して調べ尽くす」のでなければ、「当時の真実の像」を掴むことなど出来っこありませんよね。・・・まあ、現在についても同じことは言えますか。極秘事項、とかもありますしね。でも、過去となればなおさら、「実感」として把握することは出来なくなりますよね。

大風呂敷はやめておいて、話題を「交響曲」に限りましょう。
いや、「交響曲」と日本語で呼ばれているもの、に限りましょう。

欧文献はほとんど知らないからですが、日本語で、日本人が書いたものとして「交響曲の起源と普及」に特化した書籍のうち、現在手にしやすいのは次の二つです。

・「交響曲の生涯」石多正男 東京書籍 2006年4月
・「文化としてのシンフォニー1」大崎滋生 平凡社 2005年2月

前者は、極端に言えば、ロマン派までの「交響曲」でこのジャンルは死んだ、としているあたりに抵抗がありますし、他にもひっかかりのある本で、「ホントかなあ」という記述も少なくありません。とはいえ、後者に比べると具体例が掲示されているので、便利な面もあります。
後者は客観的立場に徹して「交響曲」を観察しよう、という優れた試みで、全3巻となる予定ですが、いまのところ初期ロマン派までを扱った第1巻しか刊行されていません。

で、どちらかというと、前者のほうが「交響曲」の起源については突っ込もうと試みる姿勢が前面に出ています。後者は、やや社会的背景に触れつつ、焦点はあくまで音楽作品や音楽活動に当てておき、問題点は問題点として留保する姿勢を貫いています。

では、それらを読んだら「交響曲とは何ぞや」が素人なりに納得できるのか、というと、そうは問屋が卸さないのが世の常どおりであります。

大崎氏が留保している中で重要なものに(記憶で綴っているので誤りでしたらお詫び申し上げます)、
「オペラに(序曲としての)シンフォニアがあり、大バッハには鍵盤楽器作品としてのシンフォニアがある。それらがいつ、どこで一体化したのかは究明されていない。また、オペラとは独立して創作されたシンフォニア(サンマルティーニ弟などが中心人物)も、意外に早く存在している。それらがどういう経緯で、宮廷のコンサートに導入されるに至ったのかも、はっきり分かるわけではない」
という問題提起があります。(「宮廷に」という演奏場所の特定の背景には、当時は楽譜の購入者はそれなりに資産がある階級、すなわち王族・貴族・富裕者でなければならなかった、という事情、「音楽の享受=楽譜の所有」という価値観への「拘泥」があります。この点について反証があるわけではありませんが、本当に、そんな閉鎖空間でしか「シンフォニア」は耳に出来なかったのでしょうか? これも探っていくうちに様子が見えてくればありがたいな、と考えているところです。)

石田氏の方の「交響曲起源論」は鍵盤楽器作品としてのシンフォニアは等閑視しているかに思えますし、シンフォニアはオペラの序曲起源なのだ、という視点から脱しきっていない気がします(これも、間違った読みでしたらごめんなさい)。

では、まず、オペラとは関係なく「序曲」として呼び習わされてきた作品に注目してみましょうか。
あんまり知りませんから、一例だけあげます。
大バッハの「管弦楽組曲」が、まさにそういう存在です。
で、演奏された機会は、ギムナジウムの祝典だったりするのでした。
・・・宮廷が舞台、ではありませんでした。その音が響いたのはカフェの前の広場だったりしたのですから、富者でなければ耳に出来ないものでもなかったと思われます。
いや、仮に奏楽会場がギムナジウム内だったとして、その中にどういった類の人がはいれたのか、についての研究は、視野の狭い私の目には入ったことがありません。

ヨハン・クリスチャン・バッハの「シンフォニア」に至っては、イギリスという土地柄もあったのかも知れませんが、ヘイマーケットというオープンスペースで上演されており、そこそこお金があった人は、王族貴族でなくても耳に出来ました。お金が無くても、そのあたりをほっつきまわれた人は、聴くことが可能だったでしょう。

そんなあたりから、まず「シンフォニア」=「(オペラにくっついたとは限らない)序曲起源論」は認めておこうかと思います。で、それらは少なくともハイドンが本格的な創作活動に入った時期(ほぼモーツァルト誕生の年に近い)には、管弦楽曲であったことも、容認しておきましょう。かつ、本当に「特権階級やお金持ち」しか聴けなかったかどうか、については、観察していく過程の中で探っていくこととしましょう。

次に、「シンフォニア」の中に管弦楽曲ではない作例がある事実をどう捉えたら良いのでしょう?
これは、大バッハ以外の作例をまず調べてみなくては、大崎氏の提起する問題に対する答えは見つけようがありません。
編成問題ではありませんが、ひとつだけ、大バッハの例からのみ推測できることはあります。
管弦楽曲として流行するようになったシンフォニアは、ロッシーニのオペラ序曲を「シンフォニア」と呼ぶ例など時期を百年近く下ってからの慣習にも残っているとおり、単一楽章のものは存在しつづけました。ですが、ハイドンに先立つクリスチャン・バッハなどの例、何よりもハイドンが「懸命に勉強をした」テキストの著者であったエマヌエル・バッハの作例は、大多数が複数楽章です。
単一楽章の「シンフォニア」がまず大元にあって・・・大バッハがそれをイメージの中では「ホントは管弦楽曲にしたいのヨ」と思っていたかどうかは知りようがありませんが・・・、やがて「組曲」との融合などがあり(あ、これは恣意的な推測です。ただし、理由はちょっと考えています。ハイドンの具体的な作品に触れ始めるとき、述べてみたいと思っております)複数楽章であることが常識化した時点で、ハイドン、モーツァルトらへ「シンフォニアは複数楽章である」という観念が引き継がれていき、それがまた彼らによって「独立作品」としての鑑賞に耐えられる完成度を高めていくことにより、「交響曲」と翻訳しても差し支えない作品が続々と生み出されるようになった・・・
私はそのように考えたいと思っております。

とはいえ、素人かつ非専従者の悲しさで、証拠固めのためには少ない資料と多大な時間の狭間で
「ああでもないか、こうでもねえや!」
ともがいてみるしかありませんで。

そのあたりはご容赦いただきながら、このカテゴリでは、時に「交響曲」以外の曲種、あるいはハイドン以外の作曲家にも触れながら、観察をしていきたいと存じます。

この次から、ハイドンの交響曲として初期に分類されているもの(但し、製作順通り、とはいかないでしょうが)を手始めにとりかかってみましょう。
ハイドンの青春時代は「面白い」んですけれど、作品とどう結びつけていいか、を見て行くのは相当な難題です。実際問題、青春時代にハイドンが独学したはずのエマヌエル・バッハのテキスト(第1巻)は本来最小限目を通しておくべきかと思われるのですが・・・私自身が今、そこからスタートを切れる環境にはありません。後日の見直しを覚悟で進めることと致します。

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2007年9月 7日 (金)

回想:ウイーン・リングアンサンブルin埼玉県松伏町(2007.1.6)

本日はもともと別の記事を用意していたのですが、昨2007年9月6日、パヴァロッティという、やはり素晴らしい人格・包容力に溢れた性格のかたが亡くなったこともあり、
「本来の、ホンモノの音楽家さんはこんなに優しいんだ」
との思いを込めて、ここで旧記事にリンクするとともに、削ってしまった思い出話を掲載致します。
(家内関連は支障があると思われたものは大方削除したので、これのもと記事も削除したと思い込んでいたのですが、削ったのは今回記した「思い出」の部分だけでした。しかも、支障はなさそうですから、記しておきます。)

先日とある失望を味わったあとで、この(家内があらかじめチケットを取っていて、あと2週間無事に生きていたら「遺影姿」でなく聴けていたはずの)1月のコンサートの後、記載したとおりの「一流どころ」の人たちにサインを貰おうと並んだ折のことが、対照的に思い出されてなりませんでした。

なお、当日はチケットが行方不明で危うく聴くのを断念するところでしたが、埼玉県松伏町の田園ホールエローラの事務のかたのご尽力で家内が間違いなくチケットを購入していたことが確認でき、聞かせていただくことが出来たことには、今でも深く感謝をしております。

サインを頂いたときの情景は次のとおりでした。(キュッヘルさんのみ、サイン会不参加でした。)

コンサートが終わると、私は子供たちをせかして、とにかくサイン会場(といっても簡単に椅子とテーブルがならべてあるだけ)へと走り、列の最初の方に並ぶことが出来ました。
自分は家内にいつか自慢したくて買っておいた「ウィーンフィル300年の歴史」という分厚い本を抱え(これは今でも家内の位牌を納めた厨子のとなりに立てておいてあります)、娘にはコンサートのプログラムを、息子には当日の弦楽メンバーによるベートーヴェンの弦楽四重奏全集のCD(前年に入手)を持たせました。
で、私の番が来るなり、いちばん最初(右側)の椅子に座ったザイフェルトさんに向かい、家内の遺影を見せて、出鱈目ドイツ語で
"Sie ist mine frau ! (僕の「女」です、といってしまったわけです。)シニマシタ、ツイコノアイダ"
と必死で口走りました。すると、ザイフェルトさん初め皆さんがなにごとかヒソヒソ話を始め、それから、
"OK, Wie heissen sie?"
だかなんだかと聞いてくれて、あ、家内の名前のことだとわかったのでそれを告げると、まず"Fur XXX"と家内の名前を書いてくれ、それから順番に、皆さんがサインをして下さいました。同じことを(ただし家内の名前は入れずに)、娘の持っていたプログラムにも、息子の持っていたCDの箱の蓋のウラにもして下さいました。

帰り際、それぞれのかたが車に乗り込んでいくのに遭遇しました。その背中に向かって、私はいちいち
"Fielen Dank! Fielen Dank!"
と叫びました。
"Bitte!"
わざわざ振り返って陽気に応じてくださらないかたはいらっしゃいませんでした。。。

こないだ失望を感じた日本人のかたにサインを頂いたときとは、雰囲気がまるで違いました。(私も、性格がくどいな。。。)

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リンク:パヴァロッティ(パバロッティ)死去関連

The New York Times webはいち早く長文の追悼記事を掲載しました。その最初の部分を引用するとともに、昨日19時までの新聞社ネット上の掲載状況を記録しておきました。

また、最初に出たロイターのニュース(日本語のもの)をそのまま転記します。



イタリア人オペラ歌手L・パバロッティ、71歳で死去(ロイター)

 9月6日、がんを患っていた世界的なイタリア人テノール歌手、ルチアーノ・パバロッティさん(71)が死去した。
[ローマ 6日 ロイター]がんを患っていた世界的なイタリア人テノール歌手、ルチアーノ・パバロッティさんが6日、死去した。71歳だった。パバロッティさんのマネジャーが明らかにした。
同マネジャーが、ロイターに「ルチアーノ・パバロッティは1時間前に死去した」と携帯電話
のメールでメッセージを送った。
 パバロッティさんは2006年7月、ニューヨークで膵臓(すいぞう)がんの手術を受けて
おり、その後は北イタリアにある出身地モデナで治療を受けていた。


6日19時までに掲載のあることの確認出来た新聞社サイト等は以下のとおり。
The New York Times
Luciano Pavarotti, Italian Tenor, Is Dead at 71
http://www.nytimes.com/2007/09/06/arts/music/06pavarotti.html?_r=1&hp&oref=slogin

オフィシャルサイト
http://www.lucianopavarotti.com/intro.html

朝日新聞記事
http://www.asahi.com/culture/update/0906/TKY200709060165.html

産経はロイター以上の事実の記載は無し。
読売・日経・毎日は記載無し。


・The New York Times web の記事本文は下記の通り。

06pavarotti1600_2
Mark J. Terrill/Associated Press

By BERNARD HOLLAND
Published: September 6, 2007
Luciano Pavarotti, the Italian singer whose ringing, pristine sound set a standard for operatic tenors of the postwar era, died early this morning at his home in Modena, in northern Italy. He was 71.
His death was announced by his manager, Terri Robson. The cause was pancreatic cancer. In July 2006 he underwent surgery for the cancer in New York and had made no public appearances since then. He was hospitalized again this summer and released on Aug. 25.

“The Maestro fought a long, tough battle against the pancreatic cancer which eventually took his life,” said an e-mail statement that his manager sent to The Associated Press. “In fitting with the approach that characterized his life and work, he remained positive until finally succumbing to the last stages of his illness.”

Like Enrico Caruso and Jenny Lind before him, Mr. Pavarotti extended his presence far beyond the limits of Italian opera. He became a titan of pop culture. Millions saw him on television and found in his expansive personality, childlike charm and generous figure a link to an art form with which many had only a glancing familiarity.

Early in his career and into the 1970s he devoted himself with single-mindedness to his serious opera and recital career, quickly establishing his rich sound as the great male operatic voice of his generation — the “King of the High Cs,” as his popular nickname had it.

By the 1980s he expanded his franchise exponentially with the Three Tenors projects, in which he shared the stage with Pla´cido Domingo and Jose´ Carreras, first in concerts associated with the World Cup and later in world tours. Most critics agreed that it was Mr. Pavarotti’s charisma that made the collaboration such a success. The Three Tenors phenomenon only broadened his already huge audience and sold millions of recordings and videos.

And in the early 1990s he began staging Pavarotti and Friends charity concerts, performing side by side with rock stars like Elton John, Sting and Bono and making recordings from these shows.

Throughout these years, despite his busy and vocally demanding schedule, his voice remained in unusually good condition well into middle age.

Even so, as his stadium concerts and pop collaborations brought him fame well beyond what contemporary opera stars have come to expect, Mr. Pavarotti seemed increasingly willing to accept pedestrian musical standards. By the 1980s he found it difficult to learn new opera roles or even new song repertory for his recitals.

And although he planned to spent his final years, in the operatic tradition, performing in a grand worldwide farewell tour, he completed only about half the tour, which began in 2004. Physical ailments, many occasioned by his weight and girth, limited his movement on stage and regularly forced him to cancel performances. By 1995, when he was at the Metropolitan Opera singing one of his favorite roles, Tonio in Donizetti’s “Daughter of the Regiment,” high notes sometimes failed him, and there were controversies over downward transpositions of a notoriously dangerous and high-flying part.

Yet his wholly natural stage manner and his wonderful way with the Italian language were completely intact. Mr. Pavarotti remained a darling of Met audiences until his retirement from that company’s roster in 2004, an occasion celebrated with a string of “Tosca” performances. At the last of them, on March 13, 2004, he received a 15-minute standing ovation and 10 curtain calls. All told, he sang 379 performances at the Met, of which 357 were in fully staged opera productions. In the late 1960s and 70s, when Mr. Pavarotti was at his best, he possessed a sound remarkable for its ability to penetrate large spaces easily. Yet he was able to encase that powerful sound in elegant, brilliant colors. His recordings of the Donizetti repertory are still models of natural grace and pristine sound. The clear Italian diction and his understanding of the emotional power of words in music were exemplary.
(以下、ライヴァルとの比較などの文章。かなりの長文になりますので略します。)

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2007年9月 5日 (水)

ある失望:「指揮したい」?

尊敬していた某氏の掲示板を久々に拝見したのですが、お綴りになっていることが
「モーツァルト初期の交響曲も某名著のおかげでよく分かった。新鮮な発見をした」
それは、よろしい。
ハイドンを積極的に「指揮者として」(元々このかたの「本業」ではない)取り上げてこられた功績も素晴らしかったし、御著書の中でも初期のものは「健全な競争心」で仲間とワイワイやってきたり、感傷的な思い出が綴られていたり、で、最近の本も「ちょっとこのかた、精神のあり方が変わってこられたのかなあ」とは感じつつ、本来このかたが持っていらっしゃるであろう純真さを信じて、ずっと読み続けてきたのでした。

日曜日、久々にこのかたの演奏姿をテレビで見ることが出来、思いが溢れて掲示板に実につまらぬ書き込みをしてしまい、それっきりにしてしまったので反省して、今朝もう一度覗いたら、私の投稿はしっかり削られている。
まずは、それが寂しかった。
「不適当なコメントだからお答えしませんね、すまん!」
くらいの愛想はくれてもいい、というのは、とはいえこちらの勝手なワガママですから、この際良しとしましょう。
(「思い込み」でこのかたにコメントを削られたことは、数度ありますし、自分の中に出来上がってしまった価値観以外には案外不寛容なかただと承知の上でファンをしてきたのですから。)

ただ、その後、ご自分の様々な「野望」をお綴りになっているのには、かなりガッカリしました。

「是非、この新鮮な発見を元にして、自分で指揮をしてみたい。が、楽隊もない、時間もない」という主旨。
・・・充分、指揮活動をなさっていらっしゃるではありませんか。

で、本職は指揮者さまでいらっしゃるのですか?
そんなに「指揮」がなさりたいですか?
「指揮」が、あなたの音楽の全てなのですか?
いまではある話題作の音楽監修を長く為さった努力が報いられて有名でもいらっしゃるし、お仲間もいらっしゃるのだから、いつでもどうぞ。指揮のお師匠も素敵な方ばかりですし。結構なことです。
金策さえすればなんとかなるでしょう?

そういう環境を既にご自身で築き上げていらっしゃることに「謙虚に」お気づきにならず、
「ああ、仕事欲しや」
みたいに見える記述をなさっている「権威志望」のあなたには、とことん失望しました。
先日伺うことの出来たあなたのコンサートでは、去っていく裏方さんを会場中に紹介して褒め称える快挙をなさったことに、いまでも感動しています。でも、あなたの「人への感謝の気持ち」というのは、結局それだけ、そんな程度、なんですね。
「音楽に新鮮な発見をした」ことに素直に感動なさったのだったら、そのことだけを仰れば事足りる。
そういう心をお持ちの音楽家の方だ、と私が、過去のどんなあなたの言葉を目にしても信じようとし続けたのは、錯覚に基づいただったようです。

そんなに素晴らしいものに気づき、本気で何らかの形で音にしたいのなら(その方法が「指揮」であるとは限らないでしょう?)、あなたくらいの環境があるのだったら、ご自身の築いてきた環境を大事に、ご自身の折衝努力で、こっそりなさったらいい。どうして、あなたが「棒を持つ」ことに、そんなにこだわるのですか? そして、それを掲示板にあらわにお綴りになったりするのですか?

失礼ですが、一部引用。

チャンスが少ない。時間と、オケと、目を輝かせる聴衆を、おれにくださる人はいないものか。

こんなことを平気でおもてに綴るのは、あなたが、あなたと関係してきた人たちを、心から信じようとしていないから。
あるいは、「商売にならなければ音楽などやる必要はない」と思っていらっしゃるから。
あなたは、「カラヤン」ですか? いや、カラヤンは、下積み時代でもこんなことは顔色に出しませんでした。
彼は指揮者としては、「楽団員に優し」かったかもしれませんが、うまく「叱る」ことも出来ました。
あなたは「叱らない」ご信条だったように、記憶しております。であれば、そもそも指揮者に向きません。

(筆者が)モーツアルトの人生半分を来て、音楽家の誰もがこれを読んでいるわけではないという寒さや孤独を思う。学者たちの心はいかに豊かなのだろうか。

何をかいわんや。

ハイドンとの比較も適切であるとは思えません。

ハイドンの、同じ年号を持つ交響曲と、どうしてここまで違っているのかも、ようやくすこしづつ、体感でわかるようになった。並べて演奏するのもよいだろうし、モーツアルト初中期交響曲シリーズとして、ハイドンの奇抜な実験や大人っぽい落ち着き、深い短調の感情やその洗練を扱ったのとは全く違う、あくまでも定型と共通理解と劇場や旅の日常のなかで、静かに頭をもたげ始める天才の息吹が、あのト短調交響曲に向けてやがて突進を始めること、多くのオペラに響くあのイタリアの空気が、すこしづつ冷凍された小さな缶詰めを明けて楽しむように、少年モーツアルトの交響曲を選び、話し、書き、上演しなくてはならない。

あなたは、ハイドンがモーツァルトと同年齢の頃、どんな苦学を、どんな環境のもとでしていたか、それがどのように後年の彼のベースになったのか、本当に理解してハイドンを採り上げたのですか? いまは、私は「理解なさっていなかったのではないか」と、とても疑わしく思っております。

<注目すべき音楽家>の項目からも削らせて頂きました。(社会的には何の影響もないことですから、構いませんでしょう。)

参考までに、ソプラノ歌手ルネ・フレミングが体験した「ファンとして味わった失望と喜び」の経験談を付記しておきます。彼女はそれを忘れずに、自分がファンをどう大切にするかを考えつづけてきている。

あのころは、アメリングが好きだった。・・・しかしアメリングはまた、何年かのちのことだが、楽屋を訪ねてくる人との交流は大切にしなくてはと痛感させてもくれた。まだ若くて、思ったことをそのまま口に出してしまうような学生だった私は、私にはあなたが歌の世界のすべてですという一言を言おうとした。なのに彼女は全く興味を示さず、私を素通りして次に並んでいる人に目をやった、ショックだった、もちろん、アーティストにファン全員の求めに応じろとは言わない。しかし、あの経験から私は、ジャン・ガエターニのやり方を見習うようになった。彼女の手にかかると、列に並んだ全員が、自分こそ今晩の演奏を捧げられた、自分は感謝されているという気になってしまう。ジャンは、こんなふうだった。「ああ、送ってくださいましたレシピすばらしかったわ」「まあ、すてきなネックレス! どこで見つけたの?」 みんな嬉しさのあまり口ごもってしまう。あんな素晴らしい演奏のあとで、どうしたらそんな些細なことまで気づかうことができるのか、想像もつかない。
(「ルネ・フレミング  魂の声」春秋社 45〜46頁:本書の慷概は以前記事にしました。)

ファンはどんなことに「裏切られる」思いを感じるか・・・それが如何に些細なことであるか、を、馬鹿にしないで頂きたいと存じます。(そういう意味では、アマチュアの中にでも素敵な方がいらっしゃることを、最近知りました。)

なお、過去、ファンとして綴ってきた記事につきましては、そのときの「受け手」として私が感じた想いには変わりがありませんので、そのまま残しておきます。

・・・このような記事、お目にも届かないと思います。

まあ、ワーグナーが嫌になったニーチェほどのスケールのある話でもありませんし。
いいでしょう。

さようなら。

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2007年9月 4日 (火)

曲解音楽史18:モンゴルと中央アジア北方

(今回は節分けしませんネ。)

専門家の入門書によると、モンゴル族と他の中央アジア諸族とは分けて考えなければならない、とのことだそうです。では具体的にどう区分したらいいのか、となると、あまりにたくさんの民族があって、わからない。なおかつ、12〜13世紀にユーラシアを席捲したモンゴルの後裔の陰に隠れ、イスラムの隆盛にも紛れて、中央アジア南方の、いわゆる「西域」方面(ホータンやローランのあたり)については、歴史の輪郭がはっきりしません。
かつ、「西域」も含めて、中央アジアは、東は中国圏、南はインド圏とアラブ圏、西はスラブ圏に囲まれ、欧米からも日本からも意外に「遠い」世界です。

中央アジア北方については、少なくとも現在の地理上はアルタイ山脈を挟んで南西側(カザフ系)と北側(モンゴル系)には、音楽上は明確な差異があります。

という次第で、同時期に大躍進を遂げたイスラム勢力や、それと対峙することで世界像が現在に近づいたヨーロッパを眺める前に、これら中央アジア北方の音楽に、ちょっと耳を傾けてみましょう。


11〜13世紀は、20世紀の2つの世界大戦以前においては、未曾有の戦乱期ではなかったかと思います。
西は「十字軍」の呼称に集約されるイスラム勢力とヨーロッパの度重なる衝突があり、東は唐の衰退により西域から東南アジア方面までが混迷に追い込まれました。
とどめが、チンギス・ハン(ハーン、カハン)とその後継者を頂いたモンゴルによる、ユーラシアほぼ全域への侵攻です。(西ローマ帝国が滅びた時のゲルマン勢は元々西ローマ帝国に内包されていた人々が中心でしたし、その後のフン族の東ヨーロッパ侵攻も首領アッティラの死とともに終息したため、モンゴルほどの長期間の脅威ではありませんでした。)

この時代、どれだけの古いものが失われ、どれだけの新しいものが生み出されたかについては、たぶん調べても調べてもきりがないし、その割に分かることも少ないでしょう。歴史好きの人にとっては垂涎の時代ではありますが、人々の生活は翻弄されまくったに違いありません。それでも民衆が逞しく生き抜いてきた期間ではあったのでしょう。

直接「この時代のもの」と特定できる音楽はないのですが、伝統が守られている、という前提で、カザフ系とモンゴル系の違いが分かり、かつ面白めのものを選曲してみましたので、お聴き下さい。(めずらしく、異系統の音楽が1枚のCDに収まっていましたので、そこから選びました。)

・カザフ系:
・モンゴル系(アルタイ族):

"Mongolie : Chants Kazakh et tradition epique de l'Ouest" Radio France OCORA C58 0051から

お聴きのとおり、カザフ系はヨーロッパのテノールの唱法に近く、モンゴル系は地声を元にしています(大人の声は「喉歌」とよばれる特殊な唱法で、ホーミーで使われる歌い方です)。
共通するのは撥弦楽器(ギターの仲間)を手にしての弾き語りである点で、これは、撥弦楽器であるならば、遊牧民族である彼らがいつでも手軽に取り出すには便利だからでしょう。

チンギス・ハンの一代記とも言える「元朝秘史」(岩波文庫に2分冊で収録)には、本格的な奏楽の場面は2箇所にしか記述されていません。一つ目はチンギスの父が招待された祝賀の場面(このとき、チンギスの父は毒殺されることになります)であり、二つ目はチンギスのライヴァルが敵の首領の首実検をする儀式の場面です。これらの描写には、1つ目のものには擦弦楽器(弓で弦を弾く楽器、すなわちヴァイオリンのご先祖様。もしかしたら馬頭琴そのものか、その先祖だったかもしれません)も登場し、2つ目には打楽器なども現れます。多彩な楽器を用いての奏楽の場面描写が少ないのは、そうした奏楽は、遊牧民族には珍しい、場所をきちんと定めての、あらたまった機会(儀式)にしか行なわれなかったことをうかがわせます。
一方で、「元朝秘史」は叙事詩ではないにもかかわらず、豊富な韻文が登場します(残念ながら訳文からはそれがどれほど「音として」美しいのかは想像出来ませんが、注釈によって、原文が見事に頭韻・脚韻を踏んでいることを教えてもらえます)。「喉歌」の弾き語りの重要なジャンルに<英雄叙事詩>がありますから、豊富な韻文は、そうした弾き語りは「元朝秘史」成立時には常識化していたであろうことを物語っているのかもしれません。

モンゴルの典型的な音楽とされるホーミーや馬頭琴の音楽は豊富にCDが出ており、または「ワールドミュージック」なる類のCDには他国の音楽と併せて優秀な演奏が収録されていますから、お好きなものを選んでお聴きになっても「ハズレ」は無いと思います。
また、トゥバ族(北シベリア管区の「トゥバ共和国」の主要民族)のCDで、ヒーリングとしても聴ける面白いCDがあります。これには喉歌の他、泣くような調べで歌われる歌、口琴(アイヌのムックリの仲間)演奏などの興味深い例が、草原を走る馬の足音や犬、鳥の鳴き声とともに収録されていて・・・素晴らしいのですが例を採りづらいため、ここへのリンクはあきらめました。収録してある喉歌は更にヴァリエーションに富んでいて、相当な名人が歌っているものと思われますから、御興味があったら探してみて下さい。(昨2006年以前に入手したものなので、今もあるかなあ・・・)

CD:"TUVA , Among the Spirits : SOUND, MUSIC, AND NATURE IN SAKHA AND TUVA"
Smithoniaqn Folkways SFW 40452


なお、喉歌に関しては、
「周アルタイ山脈型喉歌」 トゥバ民謡演奏家、ホーメイ奏者 等々力政彦さん(有名な方)
http://members.aol.com/khoomij/kh_src/khm_11.htm
の頁に概要が分かりやすくまとめられています。ただ、この頁の最初の方には、カザフ系(およびキルギス系にも喉歌がることを示唆する文があります。本文そのものにはこの件は記載されていないため、私は検証をしておりません。もし良い本やサイトがありましたら、是非ご紹介下さい。

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2007年9月 3日 (月)

曲解音楽史補遺:「大唐西域記」〜盛唐期と同時代のインド音楽

子供たちの新学期が始まり、今日まとめようと思っていたことがまとめきれませんでした。

中世の中央アジア・・・と言っても局地的なものの資料しか持ち合わせていないのですが・・・の音楽世界を覗いて置こう、と考えていたのです。
その過程で、文献の中では「大唐西域記」を読んだのですが、これは有名な玄奘(「西遊記」の三蔵法師、ですね。なつかしや、夏目雅子さん!)の大旅行記とは言え、実質は弟子に史料を与えて執筆を委ねた(玄奘としては、当時の唐の帝室に地誌を提出すれば充分だったからでしょう)ものですので、日本の円仁の「入唐求法巡礼記」に比べると、玄奘自身の肉声が伝わって来ない物足りなさを感じました。
そうは言っても、ここまで壮大な「実録」は、希少価値があります。
玄奘の目的が仏典の招来であった以上、取り上げられる話題は宗教的なものが圧倒的に多く、とくに、当時まだインドに息づいていた仏教伝説の数々には強く興味を引かれます。
なんとか、普及版がでないものかな、と思います。

結局は音楽について具体像が見える記述は以下のインドに関する3つだけでしたので、中央アジア音楽の資料として用いることは断念しましたのですが、勿体ないので、ここでは、「曲解音楽史」の補遺として、盛唐時代と同時期のインドの音楽の状況を垣間見るための補遺として掲げておきます。

・(北インド〜タクシラの伝説から)第3巻所載
(事情で乞食に身を落としていた王子が)謀を用いて王の厩舎に入り、夜半に泣きながらそよ風に向かい、声を長く引き悲しく歌をうたい箜篌(ハープ)や鼓で伴奏をした。(これがきっかけで王子は球場を脱する。)

・(中央インド〜カーニャクプジャの史伝。グプタ朝期のもの)第5巻所載
(二人の王の兵卒たちが、仏教の法会の護衛に際し)あるものは舟に乗り、あるものは象に乗り、鼓を打ち螺(ほらがい)を鳴らし、弦をひき管を奏し、九十日を経て曲女城に至った。

・(ガンジス川河口方面の国での釈迦の教え)第10巻所載
「弦が急に過ぎれば調子が正しい楽節に諧和しないことになろう。弦が急ならず緩ならずして始めて音声が諧和するのである。修行をする者もそのとおりである。急であれば身体は疲れ心は働かず、緩であれば気持ちがのんびりして志はそれてしまうことになろう」

(平凡社 中国古典文学大系22 水谷真成訳 1971)

とくに2つ目の「護衛」の奏楽は、「リグ・ヴェ−ダ」に見える戦闘の際の奏楽とさほど違いがない点には、注目しておくべきでしょう。つまり、おそらくは西暦紀元前後から8世紀頃までは、インドの音楽事情には大きな変化がなかったもの、と考えて差支えなさそうです。
ただ、その中で、最初の不遇な王子の歌唱法には、もしかしたらムガール朝以降に栄えることになるインド独特の歌唱法に繋がるものがあるかもしれません。

インドについては、また改めて観察しましょう。

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2007年9月 2日 (日)

森麻季リサイタル放送:9月3日、NHKFM

キンキンさんネタです、詳細部分のみ省略しての引用です。(キンキンさんごめんなさい)。

森麻季さんの、6月に東京で行われたリサイタルがNHKFMで放送されます。

NHK−FM 19:30〜21:10

JIROさんのところにも同じ話題が出ています
http://jiro-dokudan.cocolog-nifty.com/jiro/2007/08/nhkfmdvd_ef9d.html
こちらにはNHKの詳細情報へのリンクもあります。

キンキンさんのサイトに、森麻季さんをナマで聴きたい人へのご案内もあります。
こちら
http://daikokukinkin.blog59.fc2.com/blog-entry-161.html
是非覗いてみて下さい。

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2007年9月 1日 (土)

モーツァルト:1775年作品概観

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。



"La finta giardinera"(偽の女庭師)をまだ見終わっておりませんが、先に1775年の作品の概観を記しておきます。

<宗教曲>
ミサ(ブレヴィス)ハ長調K.258(12月:但し翌年1月の可能性あり)
オッフェルトリウム・デ・テンポーレ「主の憐れみを」K.222(1〜2月、演奏3月5日ミュンヘン)

<劇音楽>
「牧人の王」K.208(春、ザルツブルク)

<声楽曲>
アリア(ソプラノ)「あなたは情熱的な恋人のように律儀な心の持ち主」K.217(10.26ザルツブルク)
アリア(テノール)「運命は恋する者に」K.209(5.19ザルツブルク)
アリア(テノール)「従いかしこみて」K.210(5月ザルツブルク)

<交響曲>
ニ長調K.196+121(207a):"La finta giardiana"序曲の交響曲稿(春、ザルツブルク)
ニ長調K.204(セレナードの交響曲稿、後出。8.5以降)
ハ長調K.208+102(213c)(夏、ザルツブルク)

<合奏曲>
セレナードニ長調K.204&行進曲K.215(8.5ザルツブルク)
ディヴェルティメントへ長調K.213(2Ob.2Hr,2Fg 7月、ザルツブルク)
行進曲K.214(8.20ザルツブルク)

<協奏曲>
ヴァイオリン協奏曲第2番ニ長調K.211(6.14ザルツブルク)
ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調K.216(9.12ザルツブルク)
ヴァイオリン協奏曲第4番ニ長調K.218(10月、ザルツブルク)
ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調K.219(12.20ザルツブルク)「トルコ風」
ロンド変ロ長調K.269(または77年)

<室内楽>
ファゴットとチェロのためのソナタ変ロ長調K.292(年初、ミュンヘン? 疑作?)

<ソナタ>
クラヴィアソナタ第1番ハ長調K.279(年初、ミュンヘン?)
クラヴィアソナタ第2番ヘ長調K.280(おそらく75年初、ミュンヘン?)
クラヴィアソナタ第3番変ロ長調K.281(おそらく75年初、ミュンヘン?)
クラヴィアソナタ第4番変ホ長調K.282(おそらく75年初、ミュンヘン?)
クラヴィアソナタ第5番ト長調K.283(おそらく75年初、ミュンヘン?)
クラヴィアソナタ第6番ニ長調K.284(年初、ミュンヘン?)「デュルニッツ」

前年の「フィッシャーのメヌエットによる変奏曲」がミュンヘンでのデモンストレーションだったのではないか、という推測をしたのは、この年初にかようにクラヴィアソナタが続々と生まれていたからですが、それにしても、このソナタがまた傑作群であることには目を見張らされます。
また、ミュンヘンでは低音楽器2つによる特異なソナタが生まれているのも面白いところです。もしこの頃すでに、オペラを新作出来る見込みのたちにくいザルツブルクに限界を感じ始めていたとしたら(ハイドンですら、「私はなんといってもエステルハージ時代に歌劇で成功してきたことが最大の名誉だ」と言ったとされているくらい、当時はなんといってもオペラ作曲家として名を成すのが社会的地位の安定を得る最大の条件でした)、常時新作のかかる劇場を有するミュンヘンでの売り込みに何とか成功したかった、という父子共の想いの現れだったかもしれません。

その他の作品は、どうも、ザルツブルクのコンサートマスターとして大司教の賓客向けにせざるを得なかった仕事のように見えて仕方ありません。
とくに、ヴァイオリン協奏曲の量産、交響曲(というよりはシンフォニアと呼ぶべきでしょう)は直近の時期に評判をとった劇音楽の序曲の焼き直し、であるところが、そのあたりの事情を明確に物語っている気がします。
声楽曲については、ソプラノ用の1つを除き、いまのところ作曲の経緯は不明です。個別に追いかけるうちに何か見えてくると面白いのですが・・・

ミサ曲はもしかしたら75年作かも知れない他の2曲を含め、76年作とされているものが4曲あり、これらと併せて見て行った方がいいかもしれません。

毎度ながら、抜け落ちがあったらご容赦下さい。

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