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2007年8月17日 (金)

定家:後鳥羽との邂逅(3)

さて、定家の方の百首ですが、中から3首ばかりはのちに「新古今」にとられることとなるものの、後鳥羽に比べると、やはり「臣下の詠」だな、と思わせられる、すなわち先に引いた寂蓮や顕昭に近い「狭さ」があるようです。
それでも後鳥羽を引き込んでしまったこの百首、いったいどんな点がそんなに上皇を引きつけてしまったのでしょう?

後の有名歌集には一首も引かれていない「秋二十首」の前半を、並べてみましょう。
一首一首は、たしかに、たいしたことは無いかも知れない。でも、九首をひとつながりのものとしてお読み下さい。そこに何があるか。

けふこそは秋ははつせの山おろしに 涼しくひびく鐘の音哉
白露に袖も草葉もしほれつつ 月影ならす秋はきにけり
秋といへば夕のけしきひきかへて 又弓はりの月ぞさびしき
いくかへりなれてもかなし荻原やすゑこす風の秋の夕ぐれ
物おもはばいかにせよとて秋のよに かかる風しも吹はじめけむ
唐ころもかりいほの床の露さむみ はぎの錦をかさねてぞきる
秋はぎの散ゆく小野のあさ露は こぼるる袖も色ぞうつろふ
秋ののに涙は見えぬ鹿のねは わくるをがやの露をからなん
おもふ人そなたの風にとはねども まづ袖ぬるる初雁のこゑ

「はぎの錦をかさねてぞきる」とか、「こぼるる袖も色ぞうつろふ」とか、凝ってみようとしてはいるものの、それが巧みかと言われれば巧みではない。それでも、少ない期日に慌てつつ、何とか一首一首にしがみつくように詠んだ定家の必死さは伝わってくるようです。
そんな、血相を変えながらの作歌であるにも関わらず、この九首を一連の詩として捉えた場合、そこに見事な「暮れ行く秋の切ない心情」が物語として展開されている。
これは、単に手腕とか慣れから来たものではない、やはり天分というものでしょう。

同時代の『源家長日記』によれば、後鳥羽が定家の百首の中でとりわけひかれたのは次の述懐の歌だ、ということになっています。

君がよにかすみを分しあしたづの さらにさはねにねをやなくべき

実はこの時の百首には「鳥の歌」や、自分の不遇を歌う(述懐)歌は詠むな、という禁令が伴っていたのを、上記の歌は俊成と定家が共謀してわざと作って百首に入れたのだ、という話が堀田『明月記私抄』にも登場します。
家長がことさらこうして記しているのを見ると、『明月記』そのものの記事なども参照してしまったあとでは、いかにも定家の言い分を哀れに思って、後鳥羽はこの百首を見るなり定家を引見した、というふうに文脈が読めてしまうのですが、家長という人が単に後鳥羽に従順で後鳥羽の言葉通りにしか物事を捉えられなかったのか、いや、賢いからあえて本当のところは伏せたのか・・・分かりませんけれど、後鳥羽は、こんなつまらない述懐の歌には定家を引見する都合のいいきっかけを見つけ出したにすぎず、むしろ、後鳥羽自身の心に展開していたはずの物語絵的な世界が、何の苦もなく『一連の詩」としてさらさらと書けてしまっている定家の「天分」に対し、強い興味を引かれたのではないかと思います。
八月、俄に内昇殿を赦された、そのときの定家のぬか喜びようは、『明月記』本文をひくまでもないと思います。そこにはまだ、この二人のうたびとが、それぞれの天分の相違点により大きくぶつかって行くことになる、初めての小競り合いすら、まだ展開されていない。定家はひたすら、あまりの感激に、後鳥羽の前にひれ伏しているにすぎません。・・・そういう意味では、「邂逅」という表現はまだ大げさに過ぎ、「初顔合わせ」とすべきだったかもしれません。

12・3

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