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2007年8月17日 (金)

定家:後鳥羽との邂逅(1)

<定家関係記事>
千載和歌集:123456789
後白河法皇:1234
松浦宮物語:1234
六百番歌合:123
仁和寺宮五十首:123
(空白期):123
正治二年後鳥羽院初度百首:123
千五百番歌合:
藤原定家の作歌活動をたどってみようと思いつつ、なかなか先へ進みません。「千五百人歌合」で支えっぱなしです。しばらくご容赦下さい。
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正治二年(1200)、突如「和歌」に目覚めたらしい後鳥羽上皇が、にわかに二十余名に対し百歌を詠ませ上呈させようと計画したことで、定家の心は大きく乱れました。
そのあたりの経緯は堀田善衞「明月記私抄」その他に詳しいですし、定家愛好者のよく知るところですから、省略させて頂きます。少しだけ客観的と思われる記述を目崎徳衞「史伝 後鳥羽院」から引用しますと、
「『初度百首の人選は、おそらく通親との緊密な協議によって進められた。二十三味の詠進者は(中略)ほとんど皆、院が生まれて間もない頃俊成が後白河院の勅命によって撰進した『千載集』に入集の輝かしいキャリアを持つ。いきおい年齢も比較的高い。その中には六条派(略)と、これに対立する立場の、御子左家(略)、および彼らの仕える権門(略)などがバランスよく入っていた。したがって・・・この人選がいかに妥当だったかを示している。」(57頁)
定家に軸を据えた堀田著書等は、この目崎氏の実地評価をよく踏まえた上で、なるべく客観的に読むよう心がけるべきでしょう。
で、このときの、いわゆる『正治二年後鳥羽院初度百首』ですが、他の作家は措いて、後鳥羽その人と定家についてのみ比較をしてみましょう。
この比較が、なぜ後鳥羽がこれを機に急に定家を高く評価するようになったかの鍵を、私たちに明示してくれると思うからです。

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