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2007年8月10日 (金)

音の力:管弦打、そして声を超えて

家内の新盆ですので、1週間程度、新規記事は綴りません。
宜しく御願い申し上げます。

家内との生活で音楽がしめた割合は、決して高くはありませんでしたが、貴重な時間でした。
そのことを振り返りつつ、盆前の区切りと致します。

生前の家内は中学校の吹奏楽部の顧問をしたり、PTAのコーラスの指導(というのもおこがましかった、と本人は思っていたのですが、とにかく自分に出来るだけのノウハウは割こうと懸命でしたので)をしたり、で、成果が思うように上がらずに迷うと、どうしていくべきか、を私とよく話題にし合いました。
一方、私は私で、自分の所属するアマチュアオーケストラが「なぜ、普遍的な響きを獲得できないのか」に責任を感じてまいりました。(企業にたとえれば、私はその「現場監督者」だったからです。社長は団長、取締役は「練習で指揮する人」・・・私は専門の歌劇場での役職ででもない限り「練習指揮者」という用語は是認できません。特にアマチュアの場合は、これを「肩書き」にしてしまうと、身内が本当にやらなければならないトレーニングは何かを、その人は客観的に考えられなくなります・・・、で、商品の仕上がりは信頼する「総監督」すなわち指揮者が社長を超える権限で行なう、という感じでしょうか?)

自分のほうが(音楽家としてのプロではなかったにせよ)音楽で飯を食っていたくせに、家内は私のほうの言い分を良く尊重してくれました・・・却ってそのせいで、吹奏楽部はコンクールで入賞できなかったのかな? ごめんなさい、家内のせいではなくて、私のせいです。もし生徒さんやご父兄の方がお読みでしたら、この場をお借りしてお詫びを申し上げます。
ただ、五嶋姉弟を育てた五嶋節さんも著書の中で仰っていることですが、「コンクールに向く子もいれば向かない子もいる。自分の子は向かないと思ったから出したことは無い」ということはあり、私もコンクールなどでの「入賞」を前提として音楽を考えることはしてきませんでした。その結果、家内をもそれに同調させてしまったのかもしれません。そのあたりの意はお汲みいただければ幸いに存じます。

さて、生前の家内と交わした会話の内容を中心に、彼女の死後「勉強しなおさなければ」と感じて取り組み始めたこと(これを持てなければ生き続けられませんでした)を含め、以下の3つの項目について、お読み下さる方とともに考えていきたい、というのが本文の主旨です。

そのことによって、「音楽」には、無理して出さなければならない音・自分の中にだけ閉じこもった心では絶対に得られない「力」があることを、みなおしていきませんか?
・・・それは、私たちが、自分自身の精神の姿勢を見直すことにもつながっていくし、(宗教的なものではありませんが)自分自身を清らかにしていくことにも通じていくのではないか、と、常々思っております。

家内は新婚当初は自分の「指導」が思うようにいかないと、徒(いたずら)に失望するばかりでした。(最近の家内に限らず、私より前から家内をご存知だった方でも、そんな時に彼女がすぐにベソをかくヤツだった、とは想像できないのではないでしょうか? 結構ベソカキでした! あ、祟るなよ!)
が、都度、家内へは私から以下の項目に関することで問いを投げかけつづけてきました。最後の5年間ほどは、家内は自分の「子供(生徒)たち」・「仲間(同僚や父兄)たち」が、たとえコンクールで入賞はしなくても、最終日には
「今日はすてきな音楽をやってくれたよ!」
と、有頂天で帰宅するようになっていました。それからは逆に、私のほうが鼻っ柱をへし折られることも増えていったように思います。

二人で話し合い続けたことを「問い」としてまとめたのが、次の3項目です。

1)「音=振動」を感じていますか?

2)「伝わる」程度の強弱を判断できますか?

3)「伝わる」には「伝える」心の姿勢が必要であることを、<素直に>理解していますか?

別に才能があるわけでもない一市井人の綴ることですので、心も浅いかも知れず、恐れ多くはありますけれど、思い切って綴ってみます。
長文かつ文が下手なので意味不明の個所も多くなるのではないかと危惧しますが、お付き合い頂ければ幸いに存じます。


順番にいってみましょう。

1)「音=振動」を感じていますか?

家内の生前は、二人とも専ら「和音」ということに囚われて考えていた問いです。とくにクラシック音楽専従者は「和音」抜きで音楽を把握するチャンスに恵まれません。
しかも、確かに「和音」が正しく「響く」ことは重要です。
アンサンブルの場合、一人一人はいつも同じ音量で歌い奏でしているにしても、「和音」が正しくなければ「脆弱に」聞こえますし、和音が正しければ、「張りと艶」が得られます。
では何故、「正しい」和音かそうでないかが判断できるのでしょうか?

答えは、案に相違するかもしれませんけれど、極めて単純です。

「物理的に、整った波形を形成している」響きを出しているのが正しい和音です。波形が崩れていれば正しくない、ということになります。
波形が正しくなければ、構成音であるべき音の一部がノイズ化するため、その音が和音を「構成」しなくなり、作曲者や編曲者が期待した「響き」が得られません(作曲・編曲が私のようなものの手がけた「デタラメ」ではないことが大前提にありますが!)。

「正しい和音」がなっているかどうか、の判断を下せない独奏者・アンサンブルメンバー・指揮者は、従って、「響き」に対する感覚が欠如している、と指摘されても仕方ありません。
ですが、世間一般にそういう場合、欠点として指摘をする人は少ないですし、コンクールの審査でも「響きが良かった」などと書いて下さる審査員は、本当に稀です。
指導する方を拝見していても、特に大音量が欲しい場合(子供は特に体力的な問題から、大人の基準からすれば「大音量」が出せないケースが多いでしょう)、擦弦楽器なら「もっと弓を強く押し付けて!」、管楽器なら「もっと力をいれて!」・・・案外、そういう人が多い。音楽の専門の勉強をしてきたはずの人でも、そうです。
正直言って、ちょっと驚いております。

擦弦楽器で「弓を押し付ける」ことがいかに間違った方法であるかは、「忘れ難い音楽家たち」で江藤俊哉さんのことを綴った際、文中に私自身が先輩から叱られた体験を記しました。
管楽器は疎いので、最大のアドヴァイザーだった家内の死後、「自分で吹いてみよう」と思い立ちましたが、週に1回吹けるかどうかですので、同じことをまともに言う資格はありません。ただ、弦楽器でも管楽器でも同じだな、と感じたことがあります。

「あ、ちゃんと響く音が出ているときは、体にきちんと<振動>を感じるんだな。」

指先、口元は勿論ですが、胴体にまで振動が伝わってきます。
そういうとき、発音に大事な指や口元はどうかというと、リラックスしているんですよね。

たとえば、最近、家にあって誰も吹いていなかったトランペットを時々吹いてみて、低レベルで恐縮ですが、しばらく期間を開けたあとで、ある日突然吹いたら、高いほうの「ソ」の音がラクに鳴ったので、自分でビックリしてしまいました。その状態のまま、そこから低いドまで下がっていくことも出来ます。ただ、まだ訓練が全然足りないので、吹きつづけているうちに口がマウスピースに強く押し付けられるようになって、結局は30分もすれば「ダメ」になるのですが・・・「高い音でも、口がラクならスッと出る!」というのは新鮮な発見でした。しかも、そのときは胴体も「発音体」になっている・・・振動するのです。

クラリネットも家内の遺品であったので、人に教えていただいて練習を始めました。こちらはまず、まったく未経験でしたので、どうやったら音が出るのかから分かりませんでした。が、いい音のするマウスピースの咥え方をどう探すか、を教えて頂いて、自習すると、これも、芯のあるいい音がするときは、トランペット同様(ヴァイオリンやチェロ同様、でもあるのですが)、口元でリードがふるえているのをはっきり感じます。・・・まだ日が浅いせいでしょう、「胴体体験」までは出来ていません。

管楽器の教本類は、初心者向けであっても必ず「口に無駄な力を入れないで!」・「マウスピースを押し付けないように!」と書いてあるようです。この点、弦楽器の教本の方が劣っていて、弦がきちんと響くにはどうすればいいか、を述べた初心者向けの指導書はありません。

でありながら、管も弦同様に無駄な「力を入れて」発音することを、なぜブラスバンドの指導者(管楽器教育を勉強したはずのトレーナーさん!それも、少なからず)が強要する現象が数多く見られるのか、不思議でなりません。結果的に、作曲者が非常に大切に書いたフォルテ、曲中で最も輝かしく響かせたかった個所で、ブラスバンドの音はしばしば夫々のパートが夫々に違った音程の上ずり方をしてしまい、あるいは楽器の特性によっては激しくずり下がり(これはオーケストラの方によくあります。プロでもあります)、最も輝かしくない響きとなることがあり・・・当然のごとく、そのバンドはコンクールでは賞を逃します。
(そんなときでも「原因は力みすぎ」と評価してくれる審査員の方は、どれだけいらっしゃるでしょう?)

結婚してからはテレビを見るチャンスがなくなったのですが、野球放送で、いいピッチャーを評する時に、
「彼は体の力が良く抜けていますねえ!」
という誉め言葉をたくさん耳にした覚えがあります。

コーラスが弱音で美しく響く場合・・・弱音には弱音を出さなければならないプレッシャーから、また無理な力が入ることが多いのですが・・・、リラックスした発声がなされていることは、たとえばロシアや東欧系の無名の合唱団を聴いても経験させられる、素晴らしい出会いです。
歌い手がリラックスしているからこそ、聴き手もリラックスして、その美麗な声の胎内に心地よく目を瞑ることが出来るのでしょう?

打楽器は、残念ながらまったく知りませんし、センスが無いのも自分で分かっています。
とはいえ、打楽器の活躍する作品、たとえばラヴェルの「ボレロ」で、最初からおしまいまで硬いだけのスネアを聴かされたら、私たちはどう感じるでしょう?
すぐれた打楽器奏者は、夫々の曲でどんな撥を使うか、どの高さや角度から撥を当てるか、に非常な心遣いをするそうですね。ティンパニならマレットの種類が豊富なのを知っている人も多いし、そのせいか、柔らかい音が欲しい曲で柔らかいマレットを使っている奏者を見ると、視覚だけで「良し!」と判断する聴き手の方も少なくないようです。ですが、柔らかいマレットだから必ず柔らかい音がする、というわけではありません。もちろん、ティンパニに限らず、打楽器は良く調整された楽器であることが先ず第一に大切なのではないかとは思います。しかし、それ以前に、「適切な響き」を出しているかどうか、が省みられているかどうか、ときどき疑問に思います。打楽器となると、ティンパニなどの特定の例を除けば、その楽器の持つ音程は「和声」の中では問題にされないようです。それでも、「いい演奏」の中でのスネアやバスドラム、シンバル、銅鑼などは、音楽全体の響きの中に良くハマります。

ここで、はじめて「響き」を考える際に和声の呪縛から逃れてもいいことに気づきましたね。

日本の中世には仏教界に「声明」が盛んに行なわれましたが、モノフォニー(ヘテロ、ではありません)であるその「声明」でも「響きが合う、合わない」という議論があったことが記録に残っています。

してみると、音が一つであろうが二つ以上であろうが、「いい響き」というのは、どこか私たちの肉体に「和する」ものであり、また逆も真なり、ということは明らかなのではないかと思います。

「和する」とは、「体の芯まで、きちんと響く」ことなのでしょう。
「体の芯まで、きちんと響く」とはまた、「音が正しい波形を描けている」からでしょう。
「音が正しい波形を描けている」ためには、それを発する肉体が、ラクでなければならない。

こうして生まれた響きには、強弱に関わらず、心身に届く「力」がある

まずこのことを、覚えておくことにしましょうか。。。

悪い例
です。ふらついている個所は技術がないせいですからともかくとして、しめくくりで「ミーファミーラミーファミーラミー」と弾いているとき、最後の伸ばす音の前にとっている「ラ」の音が、そこまで弾いて来た「ラ」に比べると輪郭がボケている「欠点」にご傾注下さい。最後の「ミ」をノンヴィブラートで弾く設計で演奏したのですが、そのノンヴィブラートに気を取られたために、その前の、大事な締めくくりである「ラ」の音で、弦に乗せる体重が小指に乗り切れなかったのです。従って、弦が適切に振動しませんでした。こういう失敗例を、よくよくお考えになっていただければ幸いです。


2)「伝わる」程度の強弱を判断できますか?

体がリラックスすると心もリラックスする、というのは、今いろんな種類の(健康とか、スピリチュアルとかいう類の)番組や本でよく言われていますが、何かに取り組んでいる人に、あらためて別に健康法の知識や精神世界の知識が必要なのでしょうか?
私には、少々筋違いな気がしてなりません。
単一趣味であってもいいし、複数趣味であってもいいのですが、「健康」や「スピリチュアル」そのものが趣味になることはないでしょう?
(あえて言えば、家内は案外無趣味で、そのくせ「健康」にだけは異様に関心がありました。で、何かで得た「健康の知識」を活用してうまくいき、風邪もひかないようになり・・・その結果自分の「健康」と、「精神や体の状態に対する判断」に対して自信過剰となっていたと思います。いまふりかえると、それが命取りだった気がしてならず、私は主情的に「健康」を謳い文句にしたものには過剰な反発を感じるようになっているかもしれません。)

せっかく持っている趣味の中で・・・いや、職業の中ででも・・・、「健康」や「スピリチュアル」本が特筆していることは、じつはわざわざ述べる必要も無く、自然に身につけることが出来るはずです。

その他にも「健康」や「スピリチュアル」そのもののノウハウだけを売り物にすることに対して疑問を感じるのは、商売される相手があくまで「個」を脱しない、顧客が「個」から脱することを、謳い文句はどうであれ、根本から解消することはない、としか考えられないからです。(くどくなりますが、家内が自分の「個」の中でだけ自分の健康を捉えてしまっていたために・・・私に内緒で医者から胃薬を貰ってきていたようで、死後にそこまで分かったのですが、残念ながら医者が特定できませんでした。決まった内科にかかったことがない人だったからです。僕に「心配をかけまい」と思ったのではなくて、「胃薬を貰う」以上の必要を感じなかったフシがあるのです。死の前日まで、別に痛みを我慢する場面はありませんでした。痛い、っというより、なにかしら「だるい」「もたれる」感じがしていただけなんでしょうね。)

いまはたまたま音楽をダシにしていますから、音楽で考えていきますけれど、人間の営みに、そもそも「個」で成り立つものはありません。
宗教の修行者が人界を離れて超越者的存在に目覚めた、という類の説話は枚挙に暇がありませんが、彼らにしても本当に人界を離れてしまったら、飢え死にするしかないのです(山の草や木の実で食いつないだ、ということはありましたが、その場合は修行者は自分だけの「死」を目的としているのが大前提です。今はこれ以上突っ込みませんけれど)。ですので、厳しいので有名な修行の地も、地理的には必ず、普通の人が普通に暮らす村には半日で行ける距離だったり標高だったりします。

「個」で成り立たない人界は、ですので、お互いの思いが「伝わる」ということを大前提としている、と、ここはあえて言い切ってみます。(異論はおありでも構いませんが、いま、この文の中では、そうさせて下さい。)

で、狭い領域に戻るのもまた突飛ですが、再度「音楽」に話を限定します。
といいつつ、入り口は音楽から逸れます。

日頃から尊敬しているブロガ−で、仙丈さんという方がいらっしゃいます。
プロ野球の阪神の速攻・適切レポートで非常に人気がおありのようですが、スポーツ音痴の私は、全然別の面から接していただく機会が出来、最近やっと野球のこともほんの少しは分かるようになってきた、というところです。
仙丈さんのすばらしさは、「阪神レポート」での言葉だけを手段としながら活き活きと「その場」を見せて下さるところ、だけにあるのではありません。
日頃、自然に咲いているお花や木々の写真を撮られて、やはりブログに掲載なさっているのですけれど、こちらにも熱烈なファンをもっていらっしゃるようです。
私も先ず、そのお写真でファンになりました。言葉ではない媒体で何が「伝わる」か、が、仙丈さんのブログを開くと、画面から溢れてくる。はじめて拝見したときにはもう、家内の死が近かったのですが、幸い、家内にも見せて、感動を共有することが出来ました。
さらにもう一つは、愛犬、穂高君の一連の写真です。こちらは媒体が動くだけでなく、深い愛情の対象でもあるだけに、撮影は植物よりはるかに難しいだろう、とお察ししているのですが、たとえば自分の愛児をめくらめっぽうとりまくるのとは違って、「決定的瞬間」を捉えるまで、(おそらく何十枚も)執拗にシャッターを切りまくり、その中から、「これがダダッ子穂高君でーす!」という写真を厳選して掲載なさる。

一口に言うには、私のほうがあまりに精神が貧弱なのですが、仙丈さんは、「写真」で何が「伝わる」かについては、実に客観的に計算していらっしゃる気がします。
花なら、ただ丸ごととれば、自分の見たとおりの美しさが「伝わる」のではない。中でもいちばん美しい、と思ったところを何枚も撮ってみて、そのなかから、ご自身が感じた「美しさ」にいちばん近いものを、いったんご自身の主観から離れて観察し、選ぶのです。
穂高君なら、「動きの面白さ」が、おそらくは「いちばん出ているな」と思い込んでしまったものよりは、穂高君の体の動き、目や口の表情がいいバランスで釣り合っているものを選択する。
ご自身を基準に、よりは「人の目から見たらどうだろう?」ということを測りにするのが、実に巧みです。
「阪神」の記事で言えば、それは「けふのリン君」と、注目選手を決めて、記事の末尾に必ず彼の成績を入れる、という視点の取り方に、写真を選択する際の仙丈さんの精神と一貫したものを感じます。

なにが「伝わる」か・・・その強弱を、私たちはしばしば、自身の内部だけで決め付けがちです。
試しに一度、仙丈さんのお写真をご覧になってみて下さい。彼の目は、写真の選択にあたって、自分の内部を脱してみよう、という努力をなさっている、と、私には思われてなりません。

伝えたい表情がいちばん強く「伝わる」ものを選ぶ。

果たして、「自分」がそういう別の「自分」をもつことが出来るのでしょうか?
「出来る」という実例が上記のようにあるわけですから、これには"Yes !"と言うしかありません。

前にも綴ったことがあるかもしれませんが、私は学生時代、クラシックでも演歌調に近い作品のメロディを弾くことにかけては、自分ではよく分からないまま、たいへん人様に誉めて頂きました。(今は、そうでもないでしょう。)そのときのことを省みると、私の場合は、意識して「演歌調」が面白く弾けていたわけではないのです。
祖母が演歌好きで、ショーなどにも連れていかれましたから、そういう記憶が原点にあって、しかもそんなたぐいの原点を持つ人がクラシックをやるなんてのは珍しいから、実態は、モーツァルトを弾いてもハイドンを弾いても演歌風に弾いていた。だから、そちら方面では「音楽表現が違う!」としかられるわけです。これがベートーヴェン以降になると、ロマン派は明治大正の演歌文化に強い影響を与えていますから、演歌調で弾いても「音楽表現」の合致度が高くなっていく。で、ブラームスの「ハンガリー舞曲」だとかドボルジャークの「スラヴ舞曲」となると、もう妥当性は頂点に達し、誰よりも抜きん出て面白く聞こえることになった・・・そんなあたりが真相ではなかったか、と思います。

当時、自分の根っこにはそういうものがあるんだ、だからロマン派ものでは自分にもアピールする力があるんだ、という判断力が身に付いていたら、「私も天才!」だったかもしれない。惜しいなあ。

と、自分を引き合いに出しましたが、どうですか、ご自身が奏でる音楽から聴き手に何が最も強く伝わっているか、を、自分の根っこから「判断」してみることができますか? あるいは、「判断」できたことがありますか?
反面、だからこそこちらでは「伝わるものが弱い」のだな、ということを自分で知ることが出来ますか?

私自身、おそらく命の続く限りはずっと途上のままで考えていかざるを得ない宿題になるのではないかと思いますが、自分の根っこを出来るだけ「自己中心感情抜きに」省みられるようになったら、誰にとっても「可能な」ことなのではないか、と思っています。
家内の生前、ここまでですら言葉に出来ませんでしたが、「演歌という根っこ」の話は伝えたことがあり、家内はよく耳を傾けてくれ、それから指導方針もなんだか知らないけどおもむろに変えていったっけな、という記憶があって綴ってみました。

「じゃあ、変えたのはどういうふうに?」というのが、次の話です。


3)「伝わる」には「伝える」心の姿勢が必要であることを、<素直に>理解していますか?

・・・という問いへの答えは、先の仙丈さんの例で出てしまったかな?

いえ、音楽の話ですから、ここで、「伝わる」べきものは何なのか、を考えることで仕切り直しをしておくことは必要でしょう。
「伝わる」べきものは、果たして、「音の行列Matrix」でしょうか?
であれば、規則的か不規則的かを問わず、わざわざ楽器や音楽作品などという媒体を通さずとも、日常はいつも音の行列に満たされています。
クルマの轟音が絶えない都会はともかく、田園地帯ならばそんなことは無かろう、と、お考えになりますか?
決してそうではないことは、シェーファーが著書『世界の調律』で綿密に考証しています。

音楽の正体とは何か、という、もっと根本的な問いに対する答えは、実は大変に見いだしにくいものです。現代音楽と称するものにおける、特に20世紀中盤の様式の混乱状態が、このことを端的に物語っています。そして、当時の混乱は現在では多くの人びとにとってはほとんど忘却の彼方に追いやられている、と断言しても良いかと思います。
また、日本の仏教音楽とされる『声明』は、仏教界内部に「音楽とは違うものだ」という意見もあったりします。

根本への問いはさらに無限の煩瑣な問いを誘発しますので(それでも家内と話題にしたことはあります)、とにかく、『音楽』と呼ばれ、『音楽』として享受されるものは、「音のマトリックス」という大きな集合に含まれ、かつ「人為から作成され、音化されるなにものか」であり、かつ「<非音楽>との境界線が必ずしも明確ではないなにものかである」ということだけを確認しておきましょう。
その明確ではない、音の行列のうちの何らかの特殊な存在である「音楽」から、聴き手には何が「伝わる」のでしょうか?
煩瑣ではありますが、まずここに立ち止まって、「伝わる」ものに耳を傾けてみなければなりません。

「歌」ならば、「歌詞」がありますから、言葉への共感が「伝わる」ものだ、ということは、最低限言えるのかも知れません。ですが、「共感」が「音楽」から伝わったものではない可能性のほうが高く残ります。「歌」と「歌詞」の連繋にも魅力的な「思考すべき課題」がたくさんありますけれど、それは先ずこの際、捨てて考えましょう。

「歌詞抜き」あるいは「ハミングだけ」の「歌」にでも、私たちは、例えば涙し、例えば抱腹絶倒することがあります。これも、しかし、「音楽そのものから伝わった」メッセージを受け止めての結果かどうかとなると、「じゃあ、それがお芝居の中だったり、自分の思い出からの連想だったりという映像イメージから呼び起こされた共感によって伝わったものなのか?」と省みると、そっちに当てはまってしまうケースが多いのではないかと思います。

純粋に、「音楽」だけから、なにかが「伝わる」のか?

「伝わる」は、「音楽を創造した人」の作為による「うねり」なのではないでしょうか?
「うねり」は言葉やかたちでは姿をあらわさないけれど、人間の感覚に確実に訴えかける力を持っています。ですから、人為が加われば、「うねり」そのものに「意味」が付与されるのは、奇妙なことではありません。
音楽から「伝わる」ものは、音という、聴覚で(あるいは振動を感じえる触覚で)把握しうるものが、作者や奏者によって付与された「意味をもつうねり」なのではないでしょうか。

話が抽象的になってしまって恐縮ですが、それぞれの音楽から「伝わる」意味、には立ち入りません。
その「意味」を、言葉で表せば言葉としての比喩になり、かたちで表せばかたちとしての比喩になってしまうからです。
が、抽象的でも、充分でしょう。
1)で見たとおり、音楽の要素である「音」は振動ですから、「音のマトリックス」が莫とではなく、連続して聴き手の心身を、ある特定の状態で振るわせえれば、「音楽」の意味は聴き手に「伝わった」ことになるからです。

そこだけを考えれば、では「伝わる」べき意味を「伝える」には何を考えたらよいのか、も明確になります。

言葉への置き換えが効かない以上、「意味をもつうねり」としての「音楽」は、たとえばAという作品は、なぜAに固有の「うねり」をかたち作っているのか、その「こころ」を理解することが重要になります。
「こころ」を理解しなければ、「こころ」を「伝える」ことなど、不可能だからです。

西欧に起源をもつ音楽(いまや、個々の作品はその国籍は問いません)には、音楽の「うねり」をかなり厳密に紙に記録しえる「楽譜」が発達してきました。しかし、原則は、世界のあちこちの音楽は、今でも「口承口伝」で「伝える」方法を学び、教えることが大原則です。(録音の問題は、今回は触れません。)
そうやって残っていく音楽には、少なくともその音楽の属する文化圏では共通に認識されうる、言語外の「意味」が付与されていることが、自明のこととして受容されているからにほかなりません。かつ、その意味の「こころ」が、口から口へと直接「伝わる」ことで、たとえ変形は伴っても、以後末永く、音楽の心を正しく「伝える」ことが可能だからです。録音について触れない、と言いましたが、このことだけに関しては、ようやく百年の蓄積は出来ましたから、場合によっては録音された音声をもって確認することが出来ます。たとえば、百年までの幅はありませんけれど、日本の歌舞伎、特に「勧進帳」の冒頭部の富樫については、どのように「口伝」されてきたか、何が変わらずにあるか、を確かめることが、比較的容易に出来ます。冒頭の富樫は、演じ手によっても新旧によっても、ただ耳にしただけでは、夫々が違って聞こえるかもしれません。しかし、この部分も単なるセリフではなく、きちんと「フシ=旋律」を持っています。それを、私は本の活字の脇に線で表して聞き比べた上で、家内に見てもらったことがあります。
「そうなんだよね、伝えたいことは、人が変わってもひとつなんだよね」
そんなような意味のことを、家内が答えてくれたと、(勘違いなのかもしれませんが)記憶しています。
以後、家内は合奏・合唱の各曲の各部分のもつ意味を、生徒さんやお仲間に積極的に「比喩」で伝えようと頑張っていました。・・・脱帽、でした。。。

精密な楽譜の存在する「クラシック」では、これが欠けがちで、20世紀中盤には様々な混乱を起こしました。
それまでの奏法は、18世紀まで伝統とされていたものを19世紀後半の人たちが勝手に改変したものなのだ、という意識が、どういう理由からかは分かりませんが広まってしまい、新説が続出し、創作の世界では反動的に「新しい媒体、新しい意味付け」ばかりが脚光を浴びた時期もありました。
「いや、そうではなかったのだ」
ということが、最近気が付かれ出しています。・・・そのことは機会があったらあらためて観察してみましょう。今、そこに立ち入ることは話の本筋からずれていきますから。
ただ、こうした事実があったことで、西欧音楽はいったん「口承口伝」の大切さを、一度見失ってしまった、という事実は、お伝えしておきたく思います。
次のサンプルを聴いて下さい。
モーツァルトのK.203(セレナーデ版と交響曲版があります。なぜそうなのかは「モーツァルト」のカテゴリであらためて採り上げます)の、二つの演奏です。セレナーデ版の第1楽章=交響曲版の第1楽章です。

:ホグウッド/エンシェント
:マリナー/アカデミー

・・・どちらの「伝え方」がモーツァルトのものだったか・・・というより、ヨーロッパ人が本来継承したかった「伝え方」だったのか。
同じ「楽譜」があっても、こんなに違うということに、私たちは本当に違和感を感じないでいることが出来るでしょうか?
「こころ」の「伝え方」には何通りあっても、本来、別に差し支えないことなのかもしれません。
しかし、音楽の意味する「こころ」の根本を追求する精神の、凛とした姿勢がなければ、上例の違いに対する「奏者としての適切な答え」は絶対に見出せないでしょう。
羽目をはずすのが目的の音楽でも、羽目のはずし方には、やはり一貫した「方針」が・・・だからやはり、精神の凛とした姿勢が必要なのであって、それが今は見えないにしても、また、永遠に見えないにしても、自分の今の音楽に対する<視覚>に固執せず、「いつかは見えるようにしたい」と、いつでも己れの視点・視角を白紙に出来る強い「こころ」を養えない限り、その人は「奏者」でいる資格は無いのに違いありません。

・・・あ、「奏者である資格の無い」私が、こんなことを綴ってしまった。。。

家内が、私を立てるような振りをして、私や子供たち、そしてたくさんの人に言いたかったことがあったとすれば、こういうことだったのではないかな、と、代弁するつもりで綴ってまいりました。
ただし、文責はあくまで、出来の悪い夫である私です。
出来の悪い文章に長々お付き合いさせてしまいました。

最後に、手前味噌になりますが、先般の演奏会で、私が感じた「彼、彼女は<伝える>ことを良く考えたな!」と感激した部分を2箇所だけ、ほんのちょっとお聴きいただいて、家内の遺志を十分に伝えきれる能力の無いことの埋め合わせとさせていただきます。


どなたも、良いお盆休みをお迎え下さい。

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