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2007年8月19日 (日)

モーツァルト K.203、204【セレナーデ問題?】(2)

さてしかし、奏法云々よりも、これらのセレナーデに交響曲版も存在する、というところに、実は大きな「謎」(おおげさかな)があります。
果たして、交響曲とは(オペラの序曲が前身であったということの他に)セレナーデの「無駄」な部分を削って成り立った様式でもあったのか、という「謎」です。

問題は、「セレナーデ」という曲種にあるらしく思われます。
海老沢「超越の響き」の記すところによれば、(言葉は言い換えますが)「交響曲」とはコンサート、演奏会という、音楽の祝典を開始しまた閉じるものであった(70頁)のに対し、「セレナーデ」はカッッサシオンやフィナルムジークといっしょくたに扱われていて、見物人も存在するザルツブルクの夜の風物詩(82頁)的な機会のための作品であったというふうに読めます。
で、同時代の作曲家たちに、器楽作品としてのセレナーデがどれくらいあるのか、試みに調べてみようと思いました。
が、イタリア系、ディッタースドルフは皆目分かりませんでした。
同じザルツブルクで活躍したミヒャエル・ハイドンにはセレナーデを作曲したとの記述はありましたが、作例は見いだしていません。
面白いのが、ヨーゼフ・ハイドンとサリエリです。ハイドンの作品表には「セレナーデ」という曲種は存在しません。サリエリの数少ない器楽作品には「セレナータ」が数曲ありますが、すべて管楽器のみのための作品で、この点ではハイドンやモーツァルトのディヴェルティメントに相当します。すなわち、基本的に屋外での奏楽を意図したと考えて良いかと思います。

で、まず、モーツァルトのK.204です。こちらについては、演奏された経緯や様子が記録に残っています。
海老沢「超越の響き」にまとめてあるものが一番具体像がつかめるので、そのまま引用します。
「このフィナール・ムジーク(綴り手注:ザルツブルク大学の学生の修了式を祝うための作品であったために、海老沢さんはそう称しているのだと思います)の演奏者たちは、前日にモーツァルトの曲を演奏したあと、当日の夜八時半にモーツァルト家の前に集合する。(中略)この建物の前で集合したあと、彼らは、そこから本のわずかの距離にあるミラベル宮に行って、そこでおそらく大司教の前で演奏する。この奏楽の終りが九時四十五分で、(中略)この大司教の夏の居城での演奏が終わると、楽師たちは、今度は対岸にある大学へと向かうが、彼らは歩きながら、音楽も奏でて行進して行ったものであろう。(中略)そして十一時過ぎまで奏楽が行われるのだ。これは大学教授や学生達を前にしての奏楽であった。」(81頁)
こうしてK.204は一夜に2回演奏された、とされていますが、本当にそうだったかどうか、曲の構造から見ると「おや?」と思わされる点があります。
(1)で見た通り、K.204は、ある意味で2種類の音楽が混合しています。
2〜3楽章にヴァイオリン独奏が入っていますが、これはK.204から見れば前年の"Concertone in C K.190"の延長線上にあります。また、後年の交響曲版では、この2つの楽章が除かれて演奏されていることから見ても、この2つの楽章は「別の音楽」として発想されていたことが裏付けられるのではないかと思います。
「2回演奏」を否定する材料はありませんが、少なくとも別の2カ所で演奏されていることは明らかですから、1〜3楽章とフィナーレを大司教の前で、そのあと1、4〜終楽章を大学で演奏した、ということもあり得たのではないかと思います。

K.203になると、コンチェルトーネとの類似性は、もっと高まります。
すなわち、独奏ヴァイオリン(部分的に2本)の入る2〜4楽章は他の部分と調も変わります。変則的に緩徐楽章から始まっている「小コンチェルト」として、分離して独立して演奏された可能性が高いと思います(実際に音で聴いても、第1楽章と、独奏が入る第2楽章からとの間には「非連続性」を感じます)。
で、K.203の交響曲版は公式の作品表には掲載されていませんが、これも6、7楽章がまた別のコンチェルトーネを形成していることを考慮するとうなずける気がします。すなわち、後半のこの楽章、交響曲の一部として捉えるには、あまりにも独奏オーボエが協奏曲的な技巧を披露しているのです。
すなわち、すくなくともK.203の演奏場面は4つに分かれていた、と想像出来る。
1.入場
2.宴会の開始での第1楽章演奏
3.談笑の合間に、コンサートマスターによる小協奏曲披露
4.さらに談笑。第5楽章のメヌエット
5.あらためて、オーボエ奏者による小協奏曲披露
6.宴の終了
アインシュタインが注目した、マーチから一貫して用いられる「ドソミド」の動機は、音楽が分断して演奏されてこそかえって、「あ、また始まったよ」とお客さんたちの耳を引きつける上で効果を発揮したのではないかな、と、勝手に想像しています。

モーツァルトのセレナーデがコンチェルトーネ的性質を包含することは、短い「セレナータ・ノットゥルナ」、長大な「ハフナー・セレナーデ」K.250、「ポストホルン・セレナーデ」(これは3楽章冒頭に明確にCONCERTANTEと記されていて、フルート・オーボエ・ファゴットが活躍します)を見ても明らかです。
もう一点、上に挙げた最後の「ポストホルン」以降、すなわち、ザルツブルクを離れてからのモーツァルトの作品には、明確に「セレナーデ」と銘打ったものは1作もありません。(「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」は、してみると、セレナーデではないような気がします。)

同時代の、特に南ドイツあたりを中心に、器楽としての「セレナーデ」の作例が他にないかどうか、引き続き調べて行く必要はあるかと思いますが、少なくともK.203以降を確認した場合、次のような仮説が成り立つのではないか・・・ということを述べさせて頂いて、今回は締めとさせて頂きます。

「セレナーデ」は、少なくとも、オーストリア南部あるいはもっと狭いザルツブルク周辺に限られた、独自の「折衷的な」曲種であり、それはある特定の祭典用に
1.入場
2.開宴
3.個人芸の披露1
4.中休み
5.個人芸の披露
6.閉宴
というプログラムを意識して作られたものであった。
モーツァルトが後年そこから数楽章を省略して「交響曲」を作ったのは、あくまで稼ぎにちょうどいい材料があった故の方便であって、「交響曲」と「セレナーデ」には、「シンフォニア」と「交響曲」のような直接的な関係はない。

・・・モーツァルトの作品以外に類似傾向のものがどう言う地域に存在するか。。。あるいは、仮説の反証となるような、異質のセレナーデが幾つも現れるか。。。
いずれ、私の生きる楽しみのために探して行きたいと思っております。

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コメント

こんばんは。遅くにすいません。
Kenさんはこの猛暑、どう乗り切ってますか?
今年の夏はもうなんというか……。僕は暑いのが大の苦手なので、ヘロヘロになってます。特に日中は汗みどろです。うぅ~、あちぃ~。

さて。
確かにモーツァルトが書いたような大規模な管弦楽セレナーデは、ザルツブルク以外の土地での作例を聞いたことがないですね。モーツァルトの同僚の場合、ミヒャエル・ハイドンのトランペットやトロンボーンのための協奏曲、レオポルト・モーツァルトのトランペット協奏曲やおもちゃの交響曲などが管弦楽セレナーデやカッサシオンからの抜粋であることが知られていますが、他の土地の場合、僕が知るかぎりでは、「セレナーデ」と銘打たれていてもそれは比較的小編成の室内楽用(または野外用)の作品であって、交響的な性格のものではありませんでした。
また、この曲種がザルツブルクとその周辺に限定されたローカルなものだったかどうかは僕もわかりませんが、少なくともウィーンでは存在しなかったと言えそうです。例えば「ポストホルン」は第1、5、7楽章が三楽章の交響曲として出回っていたり、第3、4楽章がニ楽章の協奏交響曲として演奏会にかけられたりと、ウィーンでは最初から分断された形で披露されています。
それにしてもこの管弦楽セレナーデ、一石三鳥のとってもオイシイ作品群ですね。大型の機会音楽として、交響曲として、そして協奏曲として、と使い道は様々。初めからそういう算段で成立したのではないかと思うほど合理的なジャンルだと僕は感じます。作曲する方もヤル気が出るのか、同時期の単体で作曲された交響曲よりも内容的に数段優れているように思います。

それでは、長ったらしい駄文、失礼しましたm(__)m

投稿: Bunchou | 2007年8月20日 (月) 02時58分

Bunchouさん、いつもありがとうございます。
コメントを拝読して、一つ読み落としていたのに気づき、あわててその本、ロビンズ・ランドンの「モーツァルト」(中公新書1103)を通勤電車に持参しました。Bunchouさんがコメントにお綴りになったよりも大雑把な内容でした。かつ、カッッサシオン・ディヴェルティメントと一緒くたであるという事態はこの本でも同じでした。(あたかもJ.ハイドンもセレナーデを書いたかのように読めてしまいます。)そんなこんなで、Bunchouさんのおっしゃる「一石三鳥のとってもオイシイ作品群」である点には光がきちんと当たっていません。
学者さんたちがどんなふうに言っていようが、セレナーデの「一石三鳥」はモーツァルトならでは、ですよね。愛好者の方が、もしかしたら、学者さんよりずっとよくそのことが分かってるんじゃないか、という気がしてきました。

あとになってしまいましたが、私の暑さ対策は・・・「わしは雪だるま!」と自己暗示をかけて、解けてしまうこと、であります!
猛暑が収まるまであと少しです、頑張りましょう!
・・・あ、でも、「残暑」ってやつがあるんだなあ。。。いやんなちゃう。

投稿: ken | 2007年8月20日 (月) 20時28分

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