« Czerny(ツェルニー【チェルニー】)の交響曲:「練習曲」ばかりじゃないんだな! | トップページ | 2008年が記念年(1)ルネサンスからバロック »

2007年8月 5日 (日)

モーツァルト:ロレートの連祷K.195(2):晩年に至る語法の獲得

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。



viola有無問題のダシにK.195を取り上げる際
「読譜の結果、音楽上の注目点でもアインシュタイン説に違和感のある結果となりました」
などと生意気を綴りましたが、よくよく考えてみると、これは「浅い読み」でした。
K.195について、アインシュタインが終曲"Agnus Dei"の歌いだしが、弦楽四重奏曲<狩>第3楽章の主題の後半部と同じ音型をとりあげていることに対し、ことさらその部分だけを後期の作品と類似している、そう彼は見なしている・・・つまりは、K.195は、<狩>の部分的な音型と類似した箇所がたまたまあるだけで、やはりまだ後期作品には及ばない、という暗黙の低評価を、アインシュタインはK.195に下している・・・そのように読み取ってしまいました。
K.195は、後期どころか、晩年の名作に生き生きと使われることになる「モーツァルトらしい音楽言語」の宝庫です。もしアインシュタインの視野が前述の点に限られていたのだとしたら、それは彼がK.195を「理解していた」とは言えない、ということを表す結果となります。

よく読んだら、違いました。アインシュタインさん、ごめんなさい。

アインシュタインは、K.195の歌い出しのテーマが<狩>にあるものと共通だということを示したあとで、こう言っています。
「だから最高の観点から見れば、内的に最も近親関係にある二つの楽曲のうち、なぜ一方が妥当性を持つとされ、他方が非難されるのか、納得のいかないことである。」(「モーツァルト その人間と作品」訳書451頁)
要するに、執筆当時はまだ難しかったであろう諸素材の割り出しによって面倒な記述をするよりも、彼は最も有名な部分を「典型」として切り出すことによって、K.195の「深さ」を、世人に端的に、簡潔に、理解せしめようとしたのです。
ド・ニが無条件に同調したのも(彼の著書は、よりコンパクトですから、それ以上脇道には逸れられなかった以上)、むべなるかな、なのでありました。

ですので、私も極力駄弁を弄するのは「やめ」にします。
作品の構成の中で、モーツァルトが何を獲得したか、を見て行きましょう。

編成:2Ob、2Hr、弦五部にオルガン

1. Kyrie :Adagio(4/4)--Allegro(4/4, b12~b122) ソナタ形式
序奏があることで「シンフォニック、器楽的」と表する言葉を見受けましたが、フランス風歌劇の序曲としての「シンフォニア」に似ている、という認識が前提なら、まったくハズレ。とは申し上げにくい、かも知れません。ですが、仰っている方達が「シンフォニック」という言葉で表現したいのは、「交響曲」として確立されたシンフォニーであるようです。・・・となると、お門違い、としか言えません。序奏付きの交響曲は、この時期、あったとしても未だ一般的ではないからです。アダージョの序奏は「宗教曲」であるが故の、そして、人びとがまずは敬虔な気持ちを整えるための、厳粛な雰囲気を作る意図で設けられた、と捉えるべきであり、これによって「信徒」らは祈りの歌へと集中して行く。・・・この「音楽への集中」の効果のすばらしさを、交響曲はむしろもっとあとになって「宗教曲」に気が付かされ、「宗教曲」から学び取り、吸収したのだと考えるべきでしょう。「ソナタ形式」の示す意味合いについては次曲と共通ですので、そちらで述べます。
Allegoに入り、主題を4小節目から独唱部が受け継いだ時の雰囲気がペルゴレージ風であることには注目しておいて良いと思います。すなわち、音楽は「バロック〜前古典〜古典派」などという途切れを明確に意識して創作されていなかったことが、このことから伺われます。モーツァルトの主題の扱い方は、あくまで「伝統」に則っている。但し、これが「イタリア風」であるところがミソです。このことが次曲の「ソナタ形式」に繋がって行くからです。
さらに、目立った形では31小節目と、再現部の99小節目に現れるのですが、ここには「交響曲第39番」フィナーレに現れる「喜びに飛翔する」動機の原型が既に存在します

2. Santa Maria : Andante(3/4) 184小節 ソナタ形式
「ソナタ形式」の発祥についてはいろいろな説がありますけれど、モーツァルトがこの作品で示している「ソナタ形式」は、明らかにイタリアオペラの「ダ・カーポアリア」をモデルにしています。
クリスチャン・バッハのソナタの中にも、「ソナタ形式」でありながら展開部が呈示部の主題を全く示さないものがあり、「これは形式が定まる前の過渡的な姿にすぎない」と断じられているのですけれど、クリスチャン・バッハの「展開部ではない中間部のあるソナタ形式」も、ダ・カーポアリアを器楽化した結果だ、と捉えれば、過渡的でもなんでもありません。
K.195の美しいSanta Mariaの呈示部は、あくまでソプラノの「アリア」として歌われます。53小節目から、しかし、従来の「アリア」では考えられなかったほどの長大な中間部が用意されていますが、これは祈りを「個人のもの」ではなく、「会衆のもの」とするための、粉骨砕身した工夫によってもたらされたものです。69小節に見られる、下属和音をワザと短調化する効果は、そこで会衆がイエスやマリアの像を切ない目で見上げる姿を聞き手に彷彿とさせます。同じ技法はこの作品中、終曲"Agnus Dei"の40小節(ほぼ終わりに近い箇所)で再度用いられます。・・・音楽が一旦、それまでの一様な流れに「問い」を投げ掛ける、こうした語法も、モーツァルトは以後、頻繁に、ただし気取られぬよう巧みに用いています。とくに最後の6つの交響曲などから、実際に例をお聞きとりになってみると「なるほど!」とお思い頂けるかと存じます。
再現部の独唱はどこから展開部と切り離されているかを、恣意的に明確にしていません(122小節からです)。いや、またソプラノが歌うのではっきり分かるかな? このあたり、書法としては面白い部分ですが。。。

3. Salus Infirmorum :(4/4) h moll Adagio (34bars)
この、短くも激しい部分は、それでもA-B-A-Bの構成を持ち、単純に激情に走ってはいません。
Aの部分の動機が、実は「レクイエム」の"Rex Tremendae"の先取りなのだ、という点に気が付いておく必要はあります。「レクイエム」ではより洗練されることになるこの動機は、民の恐れを良く象徴しています。
B部はフゲッタ的な技法を用いることで荘厳さを表していますが、これもおなじく"Rex Tremendae"の途中の部分を想起頂ければ、「恐れの心が千々に乱れる」さまを巧みに表現していることが分かります。

4. Regina Angelorum : Adagio con spirito(3/4, 176bars)
第3曲からataccaで繋がるのが本来の演奏でしょう。3曲目で「病を得る人の身」たる自分の弱さをいかようにも支配しうる主に対して恐れおののいていた民が、ここにいたって天の皇后マリアに全幅の信頼を示すことで救われる、という図式だからです。
A-B-C-Dを二度(変形の上で、ですが)繰り返す構成をとっています。B、C部をテノールソロにした意図は・・・ちょっと理解出来なかったです、ハイ。

5. Agnus Dei : Adagio(4/4) ,47bars
5曲中最も旋律的な、敬虔な美しさをたたえた章です。アインシュタインの言う通り、弦楽四重奏「狩」第3楽章主題の後半部と同一のメロディでソプラノが歌いだしますが、こちらでの使われ方の方が断然(器楽の副次主題ではないせいもあって)アリア的です。・・・いえ、これは明らかに、オラトリオの中に登場するような、合唱を伴うダ・カーポアリアです。切なさを湛えた17小節目からがB部に相当し、22小節後半からがA部に戻っています(25小節目以降は単純にもとに戻っているわけではありまえんが)。
40小節最終拍に第2曲と同じ技法を用いて以降、41〜47小節はコーダとなりますが、下向する半音階進行を巧みに用い、「憐れみたまえ」と床に静かに膝をつく人びとの姿を彷彿とさせる締めくくり方は、「夕映えの絵画」ではなく、祈りが静かに敬虔に終えられる場面を見事に描写した、ワイドスクリーンの映画のエンディングのようです。

スコアはNMAでは第2分冊末尾、Carus版ではISMN M-007-08745-2です。
ロンドンレーベルから他の曲と併せて収録している2枚組盤がでているのを見受けましたが、K.109との抱き合わせでなかったのが不満で、手にしておりません。
私はフィリップスの全集盤で聴きました。
いずれも70〜80年代の録音でした。彼の宗教音楽は全般に演奏の方法から見直されるべきで、より新しいもので聴いてみたいところです。が、該当する録音を発見しておりません。したがって、ここではとくに推薦盤は掲示しないでおきます。

|

« Czerny(ツェルニー【チェルニー】)の交響曲:「練習曲」ばかりじゃないんだな! | トップページ | 2008年が記念年(1)ルネサンスからバロック »

コメント

こんばんは。
今回の記事もとても興味深くて、がっかりするところなんてありませんでしたよ。楽しませてもらいました。
モーツァルトの十代の作品って一部を除いてほとんど語られないので、こんなにこだわった記事が読めるのは一モーツァルトファンとしてほんとに嬉しいことです。たとえKenさんが専門の学者さんでなくとも、です。

この曲を初めて聴いたときは驚きました。特に終曲はモーツァルトの数あるアニュス・デイの中でもトップクラスではないでしょうか。正直、こんなに美しい曲が「ミサ」ではないからといって、小クレドミサK192より無名であることが不思議で仕方ないです。
CDはCarusレーベルからでているものを所有しています。全く無名の演奏家の方たちによる演奏ですが、これが意外とオススメなんです。モダン楽器による演奏で、いわゆるピリオド楽器の影響を受けた折衷型のようです。カップリングはK195、K321とK339です。同じ演奏者でK109、K125、K243の三曲を収めたCDと共にオススメしたいです。極上の名演ではないかもしれないですが、意外な伏兵がいた、という感じです。調べてみると、K193のコメントで紹介したペーター・ノイマンのCDも含めて、「パナムジカ」という合唱CD専門のサイトでまだ扱っているようなので、興味があれば是非どうぞ。

ところでマニアックですが、この曲のKirieの章と同時期のディベルティメントニ長調K205の第一楽章の雰囲気がとてもよく似ているのが興味深いです。あと、第一メヌエットのトリオと「サンクタ・マリア」でソプラノが歌うある動機も、音型だけでなく雰囲気が似通っているように感じます。
それでは。長々とすいませんでした。

投稿: Bunchou | 2007年8月 7日 (火) 00時47分

Bunchouさん、いつもありがとうございます。
遅くなってすみません。
Carus盤はAmazonでも見つけましたので、是非聞きたい思います・・・家庭の事情で少しの間無理ですが、必ずききますね!

K.195は、この年のいずれのミサ曲に比べても、ずっと高い水準にあるのは間違いないと思います。それだけに、逆に流布しにくかった、という面は否めないのではないかしら。テキストも、ミサならどの曲も一通り理解していれば分かりますから、その点、ヴェスペレやリタニアの類いよりは東洋人にも聞きやすいですしね。ただ、K.195の歌詞だって、決して難しくはないんですけれど。機会があれば歌詞を追記します。

K.205は、私は軽くしか見てきていませんでした。
http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/mozart1772_77f6.html
ご指摘で、スコアをさっきまでよくよく眺めましたが、第1メヌエットのトリオはK.195のSanta Maiaと高い割合で旋律線が共通していました。第1楽章は純粋に器楽的、かつKyrieより小規模なソナタ形式(序奏も短い)ですので、類似した雰囲気がもたらされるのはヴァイオリンを2つにせずviolaをかなり技巧的に駆使して、音色に深みを出している結果、雰囲気に共通点が生じたのかと思います。同じニ長調、というのもおおきな要素ですね。
スコアを見たのはさっきですが、コメントを拝読して、今朝あわててiPod(古い型のものです)に取り込んで、何度も何度も聞きました。Bunchouさんの耳の鋭さには、ただ頭が下がります。K.205のほうが1年前の作品なんで、K.195に比べれば深みが無いのではないか、と決めつけていましたが、考えが変わりました。ホルンこそ含まれていm透けれど、有名な「Violin、Viola、Celloによるディヴェルティメント」の先駆的作品なのでもありますね。お知らせに感謝します。

投稿: ken | 2007年8月 7日 (火) 23時52分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/95716/7425744

この記事へのトラックバック一覧です: モーツァルト:ロレートの連祷K.195(2):晩年に至る語法の獲得:

« Czerny(ツェルニー【チェルニー】)の交響曲:「練習曲」ばかりじゃないんだな! | トップページ | 2008年が記念年(1)ルネサンスからバロック »