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2007年8月 3日 (金)

モーツァルト:ロレートの連祷K.195(1)

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。



ザルツブルク時代の宗教音楽の「キモ」はviolaの有無かな! と・・・やっとこの頃スコアを読みなれてきたせいでしょうか、だんだんはっきり感じるようになってきました(「シンフォニア」が25番以降「交響曲」になった、というのとはまた別の意味で気づいたことですが・・・こちらはこちらで、ザスロウの考え方の是非を問う、という「大それた」脱線を伴っていくことになるでしょう。おらあ専門家じゃねえから、あぶねえなあ)。

「violaがなければザルツブルクの大聖堂で演奏されたものではない」
という定説(?)は、考え直さなければいけません。

サイトを探し回ると、やはりモーツァルトの宗教音楽が大好きで、素晴らしい頁を作っていらっしゃる方を何人かお見受けしました。・・・当然ですが、「愛好者」ですので、音楽そのものの素晴らしさをアピールすることに重点を置いていらっしゃいます。
「同じことをしても、価値がないな」
ということで、このviola問題に突っ込みたいと思いますが、それにはK.195はいい素材の一つです。

ただ、読譜の結果、音楽上の注目点でもアインシュタイン説に違和感のある結果となりました。それまでいっぺんに綴ると、そうでなくても長引く話がますます長くなるので、この曲については別にもうひと記事設けさせて下さい。

そもそも、宗教音楽(モーツァルトの場合はカトリックのものですが)がどういう背景から創作を望まれ、演奏されたかについては、音楽専門の<権威者>で「突っ込んだ」見解を述べた著作をモノにしていることは稀であるか、皆無であるか、だと思います。
アルフレート・アインシュタインは、ザルツブルク時代のミサにviolaがない理由については「分からない」というままに放置していますし、「Violaは低音のオクターヴ上を弾いていたんだろう」だなんてことまで言っていました。
ド・ニは「ザルツブルク教会のオーケストラにはviolaがなかった」と(証拠もなく)断じています。

しかしながら、ザルツブルク時代の「ミサ」にviolaがないのは「教会ソナタ」の延長線上でミサが発想されたからだ、という指摘は、<K.194と「雀のミサ」>の末尾に要約を掲載した、Carus版スコアの校訂者(お名前を記憶しておくべきでした!)によって「ごくあっさり」なされています。「目からうろこが・・・」でしたけれど、こちらが正解でしょう。

モーツァルトの「ミサ」がザルツブルク大聖堂向けだったらviolaがないのは、その編成での「ミサ曲」製作期間から明確だとは言えます(コロレド就任前の1769年のニ短調ミサにもViolaはありません)。ですが、ザルツブルク時代の「ミサ」以外の宗教曲に同じルールを当てはめることは、果たして自然でしょうか?
この疑問に取り組むには、そもそも、

・その宗教音楽が「どんな機会に、何を目的として」作られるのが常であったか
・そうした作品が演奏されるのは、目的を考慮した場合、いかなる場所が適切だったか
・もう少し狭く見て、ザルツブルク大聖堂で演奏された「宗教曲」すべてにViolaはないのか

という点から見直していかなければなりません。


3番目の話が(そんなに簡単ではありませんが、それでも)一番簡単です。あとから少し詳しく検証するとして、簡単に目につく例だけあげてみましょう。
ザルツブルクで演奏された「ミサ曲」に、Violaの入ったものは、存在します。
"ドミニクス・ミサ" K.66です。
これはしかし、モーツァルトが幼なじみだったドミニクスがベネディクト修道会の司祭になったのを祝って作った作品なので、「大聖堂で演奏されたかどうか分からないじゃないか!」という反論もあろうかと思います。じっさい、演奏された場所は「ノンベルク」(ハゲナウアーの記録による)すなわち場外、ということですから、大聖堂での演奏ではありませんでした。では、オーケストラは、大聖堂とは違うものを独自に調達出来たのでしょうか?・・・音楽家が2倍在住していれば、出来たでしょう。あるいは、外から音楽家をたくさん雇うのが(地理的にも経済的にも)容易な環境だったら・・・。どうでしょうか? ほとんどあり得ないことではないでしょうか?
だから、ド・ニが「ザルツブルク教会のオーケストラにはviolaがなかった」と決めつけているのは、確率9割以上で間違いなのではないか、と、私は感じております。


さて、同じ問題を、K.195にかこつけて確認して行きましょう。

K.195は、K.109同様、歌詞は「ロレートの連祷」です。
聖地ロレートに関しては、海老沢敏「超越の響き」が詳しく触れていますし、いい文章ですから、機会があれば是非ご一読下さい。

課題を、再度引き出していきましょう。

1)そもそも連祷とは何ぞや?〜先ほどの1番目の問題に対応します。
2)では、K.195は、何故作曲を「望まれた」のか?〜同上
3)それは大聖堂以外で演奏されたのか(Violaを含んだ編成ですから)

・・・まだ、足りませんか? 捌けないので、ここまでにさせて下さい。

1)の「連祷」ですが、目にした限りの「キリスト教会史」関係でも起こりがはっきりしませんでした。4世紀頃、とも言われていますが、連祷が行なわれる機会を観察すると、古い紀元のものと18世紀のものとでは性格が異なっている可能性が高確率であります。ただ、テキストだけは古いものから発展していったのかもしれません。
どんなときになされる祈りか、というと、崇拝の対象となった聖人や奇跡の記念日の為に・あるいは大きな天災があった後などにであり、誰が祈るか、というと、これは「一般信徒」たちです。但し、教会主導の元に行なわれます。
面白いのは「一般信徒」がキリスト教会史に姿をあらわすのは中世後期からルネサンス期にかけてであることです。これは東洋、とくに唐代末期以降の中国や鎌倉期前後の日本における仏教と非常に似ています。「一般信徒」と呼ばれるようになった人たちは、初め、商業の発展とともに組合(ギルドなど)を構成した人々で・・・それ以前には歴史に「一般信徒」なる用語が現れることは、どうも、無いようです。(平凡社ライブラリー「キリスト教史」3〜5巻あたりを参照下さい。)
こういう人たちが「信心会」を構成し、教会に「連祷」の実施を依頼する。
という次第で、「連祷」の開催のされ方は、日本で鎌倉仏教の信徒たちが寺の本山に依頼して法要を営んでもらったのに非常に似ています。
ですから、「連祷」作品の成立には、背景に「一般信徒による信心会の経済力」があったことを推測しておかなければならない。
一方、実施者は教会なのです。となると、「信心会」が教会とは無関係に、任意の作曲家に創作を依頼するということも無かった、と考えるのが自然であろうかと思います。「信心会」の「教会」への喜捨が、まず出発点になる。
そのうえで教会がモーツァルトにK.195の創作を「認めた」のかな、という筋書きです。
現実に、モーツァルト父子は(とくにヴォルフガングは1769年以降教会および宮廷オーケストラのコンサートマスターになっていますから、史料は少ないものの)、対外活動の許可を得るためにはザルツブルク司教座聖堂参事会なる部署の主席やザルツブルク大司教管区主席に申請をしなければなりませんでした。これも、コロレド就任前、シュラッテンバッハ在世中の1771年の申請例が残っています(コロレドに対しては1777年に「領主閣下」と呼びかけている例もありますが、相手がシュラッテンバッハでも同じだったでしょう)。これをサカサマから見ると、すなわち、ザルツブルク宮廷兼教会楽団のオーナーたる教会側に、モーツァルトの(だけではなく、他の作曲家についても)公的創作を認可する権限があった、と考えられはしないでしょうか?
ちょっと、2)の問題にまで話が飛び出てしまいましたが、まずは「連祷」がどんなもので、どう言う条件下でなし得たのかを見てきました。

2)は、作曲された理由ですが、史料がありません。時期は、分かっていて、5月です。
5月は聖母マリアの月だ、というお話は、K.109の、最初の「ロレートの連祷」のことを述べた際に記しました。K.109も、3年前の5月の作曲です。
1772、3年にザルツブルクで他の作曲家が「ロレートの連祷」に曲を付けていたかどうか分からないのですが、父の方が過去に5作「ロレートの連祷」を作った、という話があることを考慮しますと(ただし、それぞれの時期が分かりません)、3年経ってまたヴォルフガングにお鉢が回ってきた、というところなのではないかなあ、と思います。で、その「おはちをまわす」のは教会当局だった・・・ああ、「ザルツブルク史」みたいな文献が手近にあって、その18世紀の文化がもう少し分かると、もっと確かなことがいえるはずなんですが・・・いまは、考えが外れていないことを祈るばかりです。で、とりあえずこういう仮説にしておきましょう。

3)教会当局が作曲させたとして、では、大聖堂ではviolaを含んだ演奏はさせないから、という理由で他の場所で演奏させた、などということが考えられるかどうか、が、最後の課題です。
K.195よりまえに、「ミサ曲」以外でザルツブルク大聖堂で演奏したと思われる宗教曲と、編成中にviolaがあるかないかを列挙してみましょう。

K.109(ロレートの連祷)1771年 viola無し
K.125(聖体祝日の連祷)1772年 viola有り
K.117(オッフェルトリウム)1769年以前 viola有り(ウィーン初演説あり)
K.72(オッフェルトリウム)1771年 viola無し
K.141(テ・デウム)1769年以前 viola無し
K.108(レジナ・チェリ)1771年 viola有り(二部!)
K.127(レジナ・チェリ)1772年 viola有り(二部!)
K.42(カンタータ「聖墓の音楽」)1767年 viola有り(大聖堂初演説あり)

実際問題としてザルツブルクで、というより細かくは「初演場所」が特定し難いものばかりではあるのですが、大聖堂以外で演奏されなければならない必然性を持つものはありません。
逆に「大聖堂で会衆を集めてこそ意味がある」曲種ばかりだとも言えます。
なにより、K.42のカンタータは大聖堂で初演されたとの説が有力であり、これにviolaが加わっているのを「臨時雇い」と見なすかどうかが、宮廷・教会楽団にviolaがあったかどうかの分岐点とはなります。
けれど、他はviolaの有る無しは、流動性はあるものの、どうも「曲種」で決まっていたのではないかと見ても良さそうであり、
「ザルツブルク教会のオーケストラにはviolaがなかった」
などという説、大聖堂向けにはviola抜きで宗教音楽を作曲しなければならなかったなどという先入観は、やはり排除すべきではないかと思われます。いかがご覧になったでしょうか?

音楽内容面ではK.195はモーツァルト晩年に繋がる重要な「語法」がみられますので、記事を改めてそのことを述べたいと思っております。

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コメント

なるほど~。
確かに曲種によって楽器編成が決まっていた可能性はありそうです。
ただ、作曲年代が確定していない3作目のレジナ・チェリK276にはヴィオラが含まれていなかったりするので、理由はそれだけではないのかもしれませんね。
例えばコロレド大司教がミサを執り行う時にだけ、コンパクトな楽曲、切り詰めた編成で演奏した、とか。あるいは、大司教管轄外の教会では楽器の選択は比較的自由だった可能性もあるかもしれません。


ああ、でもK195のアニュス・デイを聴いてると、そんなことはどうでもよくなってきます。18歳のモーツァルト、恐るべし!

投稿: Bunchou | 2007年8月 4日 (土) 02時01分

>曲種によって楽器編成が決まっていた可能性はありそう
というのは、ちょっと苦し紛れだったかもしれません。。。
本当は、「この時期に、この曲を作るなら、この編成」というモデルのようなものがザルツブルク社会に(その年その年で)あった、くらいなのかなあ。
ただ、とにかく「ザルツブルク教会・宮廷楽団にヴィオラがなかった」などという話を、多分もうチャンとした学者さんなら信じている人はいないんでしょうね。そういう記述を目にしたいけれど、出てこないですねえ。。。コロレドはミサについては制限していますが、音楽面で他に制限はしていたのでしょうかね? ただ「教会の経費切り詰め」で思いがいっぱいだった人だったように思います。運営上の苦労を強いられる時期に大司教になったのは気の毒だな、と思います。・・・なんて言ってしまうとモーツァルトファンから」総スカンを食うかな?

K.195の音楽内容の話を先取りすると、「アニュス・デイ」で、ソロが2回目にpeccata mundiを歌う箇所のヴァイオリンは、「レクイエムの」Recordareの終結部を先取りしていますね。あっちは6度、こっちはオクターヴ、という違いありますが。・・・このリタニア、そうした「語法」の点で非常に興味深いです。
それを述べてみたいんですけど、たいしたことは綴れないんで、がっかりされてしまうかもしれません。。。その際はごめんなさい。

投稿: ken | 2007年8月 4日 (土) 09時40分

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