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2007年8月31日 (金)

ハイドンの交響曲:ある日の質疑

今日、こちらのブログでハイドンの「ロシア四重奏曲」をお採り上げでしたので、ふと、ほんの1年前にハイドンの交響曲について、ある方にお教えを乞うたことを、まるで遠い日だったかのように懐かしく思い出しました。
その時のやり取りの要所を掲載します。
話題の中心である、ハイドンの交響曲の編成については、大変立派なサイトもあり(恐縮ですが検索サイトでお探し下さい)、本来私などの出る幕ではないのですが、弦楽主体の団体がハイドンをお採り上げになりたい場合には参考にして頂きやすいかもしれません。


質問

質問にあたっては
A.大宮真琴『ハイドン』1981年新版(音楽之友社)
  曲の説明の一部などに疑いを感じる箇所もあるのですが、他に伝記を所持ないし読んでいません。
B.スコア『ハイドン交響曲全集』フィルハーモニア版 全12巻のうち第10巻まで
 日本語翻訳版 昭和57年(1982)音楽之友社
のみを参照してまとめました。研究は当時より進んでいると思いますので、その点での誤謬があれば、それについても(ご面倒でない限りで)お教え頂けると有り難く存じます。

お教え頂きたいのは、次の点です。質問に際しては、線で区切った<参考>以下の確認を行ないました。・・・なお、勉強したい思いからの、素朴な質問だとお捉え下さい。

・確認した交響曲全92作(1790年以前のもの)は、ハイドンの創作時期に関わらず、
「オーボエ2、ホルン2(&バスと共に吹くバスーン)」編成が40作品(バスーンが独立したものを加えると42作品)と、対象全体の45%を占めています。これは、交響曲、という曲種に対する当時なにか特別な考え方があったためなのでしょうか?・・・とくにハイドンの場合、モーツァルトと違って歌劇の序曲としてのシンフォニア、というのは、こんにち交響曲と呼ばれている作品には殆ど含まれていないようです。現在、研究されて何か分かってきていることがあるのでしょうか?

・エステルハージ家のオーケストラには最初からフルーティストが雇用されていたにもかかわらず、「朝」・「昼」・「夕」の他2曲を例外として、オーケストラを拡大した1766年以降の作品にならないと交響曲中にフルートが定着して用いられていないのには、何か事情があるのでしょうか?
 同じく、資料Aによりますと1776年から78年にはクラリネット奏者も雇用されていたそうですが、エステルハージ家時代までの交響曲にクラリネットを採用しなかったのには特別な理由があるのでしょうか?
 
・少ない例外を除いて、バスーンが独立したパートとして扱われるのは1766年頃のオーケストラ拡充後になってからと見受けます。これは同じ時期の他の作曲家にも見られる傾向なのでしょうか?あるいはハイドン固有、またはハイドンの発案があとで流行した、と考えた方が良さそうでしょうか?
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<参考>
確認をとった方法、内容は下記の通りです。
まず、資料Aにて以下を確認しました。
ハイドンの属した、または管理下にあったオーケストラの規模
(シュテファン寺院を除く)

ア)モルツィン伯爵の楽長時代(1759-60)48頁
 推定〜ヴァイオリン6、ヴィオラ1、バス1(バスーン1かチェロ1、もしくは両方)
    オーボエ2、ホルン2、バスーン2
    
イ)エステルハージ家(1761-65)
 1762年の記録(59頁、声楽家を除く)
 ヴァイオリン5、チェロ1、コントラバス1、フルート1、オーボエ2、
 ファゴット2(うち1名はヴィオローネ兼務)、ヴァルトホルン2
 
ウ)エステルハージ家(1766-90?)
 1766年の記録(83頁、声楽家を除く)
 ヴァイオリン6、チェロ1、ヴィオローネ(コントラバス)1、フルート1、
 オーボエ2、ファゴット2、ヴァルトホルン4
 *トランペットとティンパニは必要に応じ増員
 *クラリネットは1776-78年のみ置かれた
 
----------------------------------------------------------------------

次に、上のア〜ウの時期におおよそ当てはまる創作時期ごとの交響曲の編成を資料Bにて確認しました。推定を含め1790年以降の交響曲については、確認はしましたが、除外します。番号はホーボーケンのものです。年代推定は資料B各巻記載の年代を目安にし、よく理解できなかった場合はAによりました。但し創作順は度外視しました。
管楽器の規別。バスーンはバスからの独立性が薄い場合は除外(一緒に演奏されていたと推定されても【スコア頭書の編成表に含まれていても】、モーツァルトの場合同様、パートとしては除外して考えるのが妥当かと考えました。これが正統な考え方なのかどうかは知りません。緩徐楽章を除き、バスーンは1本は必ず演奏に参加していたのではないかと思っているのですが・・・確認出来ません。ハイドン全集のスコアだと Basso e Fagottoとあるものの、モーツァルトで同規模のシンフォニーは必ずしもそうではないのですよね。同じランドン博士が校訂に関与しているのかと思いましたが、これも違うのでしょうか?・・・そのことは、とりあえず措きます。)

確認対象:全92曲(但し、「ロクサーヌ」第1稿・第2稿を別々にカウント)
ア)全20曲
  (1)オーボエ2、ホルン2・・・計14曲
   交響曲A、交響曲B、1、2、3、4、5、10、15、16、17、18、19、27  
  (2)ホルン2・・・計1曲
   11
  (3)オーボエ2、ホルン4、ティンパニ・・・計1曲
   32
  (4)オーボエ2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ・・・計2曲
   20、33
  (5)オーボエ2、ホルン(またはトランペット)2、ティンパニ・・・計1曲
   ※エステルハージ家最初期の可能性もあるか?
   37
  (6)オーボエ2、ホルン2&独奏バスーン、チェロ2(?)・・・計1曲
   108(楽譜未見)
   
イ)・・・ただし、第6〜8番(朝・昼・夕)は協奏交響曲と考え除外する。
  全14曲
  (1)オーボエ2、ホルン2・・・計11曲
   12、14、21、22(哲学者〜オーボエ2をフルート2に置き換えた異版有)、->「お答え」参照
   23、24、25、18、29、30(アレルヤ)、40
  (2)オーボエ2(中間楽章フルート2)、ホルン2・・・計1曲
   9
  (3)フルート1、オーボエ2、ホルン4・・・計2曲
   13(ティンパニを含む、1763年)、31(ホルン信号、推定1765年)
   
ウ)全58曲
  (1)オーボエ2、ホルン2・・・計15曲
   26(ラメンタツィオーネ)、34、35、36、43(マーキュリー)、44(哀悼)、
   46、47、49(ラ・パッショーネ)、51、58、59(火事)、64(異変の時)、
   65、57(スコアに無いティンパニのパート譜、有)
  (2)オーボエ2、バスーン1、ホルン2・・・計2曲
   45(告別)、52
  (3)オーボエ2、バスーン2、ホルン2・・・計4曲
   55(校長先生)、66、67、68
  (4)オーボエ2、ホルン4・・・計1曲
   39(ト短調)
  (5)オーボエ2、ホルン(またはトランペット)2、ティンパニ・・・計1曲
   37
  (6)オーボエ2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ・・・計5曲
   48(マリア・テレジア)、50、60(迂闊者)、63(ロクサーヌ)、69(ラウドン)
  (7)オーボエ2、バスーン1、ホルン2、トランペット2、ティンパニ・・・計1曲
   56
  (8)フルート1、オーボエ2、バスーン1、ホルン2・・・計3曲
   63(ロクサーヌ)第2稿、71、72
  (9)フルート1、オーボエ2、バスーン2、ホルン2・・・計14曲
   62、74、76、77、78、79、80、81、83(めんどり)、84、85(王妃)、87、
   89、91
  (10)フルート1、オーボエ2、バスーン1、ホルン2、ティンパニ・・・計1曲
   53(インペリアーレ、終楽章バスーン2の異版、フルート・ティンパニ無しの異版有)
  (11)フルート1、オーボエ2、バスーン1、ホルン(またはトランペット)2、ティンパニ
   ・・・計1曲
   82(熊)
  (12)フルート1、オーボエ2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ・・・計1曲
   41
  (13)フルート1、オーボエ2、バスーン2、ホルン2、ティンパニ・・・計1曲
   61
  (14)フルート1、オーボエ2、バスーン2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ
   ・・・計7曲
   70、73(狩)、75、86、88(V字)、90、92(オックスフォード)
  (15)フルート2、オーボエ2、バスーン2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ
   ・・・計1曲
   54
  ※第63番については、スコアに無いティンパニのみ1種、
   トランペット2+ティンパニ2種のパート譜(?)が存在。


お答え(ご多忙中、急いでお返事下さったもので、今でも大変感謝をしております。)

今、資料当たっている時間がないので、すべて記憶を頼りに:以下、個別に:

*フルートは、宮廷での音楽教師の役割も兼ねていたためではないかと思います。宮廷の私室にまで入り込んでレッスンや室内楽をするために、フルート奏者は特別な待遇を受けていたということですが、どの資料で読んだか記憶なし。またアイゼンシュタットでそうであったかも推測です。演奏会に出演しない音楽家を雇っておくのも変なので、たぶんそういう事情ではないでしょうか。教会音楽とオペラだけ演奏したのも変ですし。

*ファゴットの低音強化としての使用はほかの作曲家にも見られます。常に一緒に行動させているのはバロック時代から同じだったと思います。チェロにエンドピンがなかったこと、ガット弦の張りが弱かったためか、音量が小さかったのではないかと思われ、モーツアルト「イドメネオ」初演の編成(だったと思う)などで、ほかの弦楽器に対してチェロの数をとても多く編成しているなどの事情から推察できます。これを一括的にファゴット付きとして編纂している理由については校訂報告書の序文にあったように思いますが記憶ちがいかも。ベーレンライター新モーツアルト全集の序文にはその問題を論じてあります。

*オーボエとホルン2づつを持つ弦楽合奏が最小限の管弦楽であったことは事実と思いますし、アカデミーのためが多かったハイドンの室内型の交響曲にはその編成で充分であったのではないでしょうか。祝祭型はそれでもかなりの数に感じています。フルートの追加、ホルン複調、ホルン4などの編成、独立ファゴットパートなどは劇場期からの特徴なのですね。はっきり調査していませんでしたので感謝いたします。(<-勿体ないお言葉!)

*6〜8を協奏交響曲として除外する必要があるのだとしたら、13,31,72なども同様かと思います。なお、72は現在の研究ではあなたの言う「イ」の時期に分類されており、そのことはミニスコア日本語版ランドンの序文にもあります。

*劇場充実の時期であったため、(ホルン4も)オペラ用にクラリネットを雇用していたのではないかと思います。資料に当たれないのでオペラの楽器編成がわからないのですが・・・

*ハイドンの音楽が今日演奏されない事情が楽器編成にあるとするには、この比率にどの程度の説得力を持たせるかは微妙な問題ではないかと思います。それ以外の事情のほうが大きいのではないかというのが私見です。

*22番はイングリッシュホルンではないでしょうか。(付記:その通りです)

*エステルハージ5人目のヴァイオリン奏者はヴィオラ奏者

*祝祭楽器(ティンパニ、トランペット)は軍楽隊などから臨時応援(「オーケストラの社会史」ほか)

*触れておられた「月の世界」の序曲や「狩(失われたまこと」)」ロクスラーヌ(劇音楽)などはパスティッチョであったと記憶しています(違うかも・・・)。60粗忽者(同じく劇音楽)もですね。モーツアルトのオペラ序曲が交響曲であった例というのを無学にして知りませんが・・・「牧人の王」??
(記事綴り手付記:「月の世界」等は別の場でやりとりしたなかで採り上げたハイドンの作品。モーツァルトの、歌劇の序曲を「交響曲」に・・・より正しくは「シンフォニア」に・・・仕上げたのは、「アルバのアスカーニョ」の序曲。なお、ご回答者は「無学」などでは断じてありません。)

(以下、ここに掲載しなかった、事前にしていた別の質問へのお答え)
*ハイドン作品の高度さ、複雑さが今日の聴衆への受容を妨げているというのは完全に作品の内容からはっきりと感じられることです。むしろ、ベートーヴェン以降が異常なまでに大衆的に、(弦楽4重奏曲などと比較して)単純に交響曲を創作していると言えるかも知れません。

*筆写、無断の出版などがあったのは事実ですが、弦楽4重奏曲なども宮廷外の出版のみのために書いているところがあり、これらも大変高度な内容であるため、こうした(高価であった)18世紀の出版譜(パート譜)の購入者はすべからく宮廷楽団を保有する貴族、ないしは大きな修道院などであったと思われます。素人が楽しみに買う(演奏を前提としない)ならばスコアの出版が先行すべきだからです。ハイドン交響曲の聴衆のほとんどが教養階級であったという推測は出版の多さによって変動するものではないのです。(大崎滋生:「文化としてのシンフォニー」「オーケストラの社会史」「音楽史の形成とメディア」同じく未出版論文「ハイドン同時代の出版」>三鷹プレレクチャー資料)

※文中の大崎先生の本は、どれも良書です。ご一読なさってみて下さい。
スコアを読むことの「娯楽性」については、とくに、「文化としてのシンフォニー」に記載されています。

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2007年8月30日 (木)

笑いは「構図」のズレ・・・なのか?(コント55号のネタから)

いきなり硬いタイトルで、「笑い・コメディ」を語るにはふさわしくないかもしれません。

「笑いは構図(シェーマ)のずれである」(シェーマ=元は<図>や<計画>を表す言葉)
とは、Wikipediaの「笑い」の中にある定義(というほど厳密ではない部分なのですが)の引用です。
「うまいこと、まとめたなあ」
と感心したので、引きました。ご容赦下さい。
(って、別に、あんまり読まれないからいいか・・・)

更に、この定義についての説明を引用しますと(やっぱりちと難解ですが)、

「例えばコントなどで滑って転ぶ政治家が演じられて笑いが起きたとすると、『政治家は真面目で威厳ある人で、滑って転ぶことなどありえない』という構図を受け手が持っていて、それがずらされたことによって笑いが起きたことになる。しかし受け手の常識が『政治家に威厳があるとは限らない』『滑って転ぶことは意外な出来事ではない』『政治家が転ぶというネタは目新しいものではない』などを含むものだった場合、構図のずれが発生しないため笑いは起きない。同じ出来事に対して笑いが起きるかどうかは受け手の持つ構図に依存すると言える。
また、笑いは立場によって意味を変える性質がある。転ぶ政治家を見ている人にとってはおかしな出来事であっても、政治家自身にとっては不名誉で笑えない出来事になる。」

まさにこの説明を検証するにもってこいの短いコントが、コント55号のDVDに収録されています。
題して

・机(下記DVDの「フジテレビ編」に収録)




TBS・フジテレビ・テレビ朝日合同企画 祝!結成40周年記念 コント55号 傑作コント集 永久保存版


DVD

TBS・フジテレビ・テレビ朝日合同企画 祝!結成40周年記念 コント55号 傑作コント集 永久保存版


販売元:ポニーキャニオン

発売日:2005/10/19

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次郎さん紛する秘書が、演説会の場で、欽ちゃんの演じる「尊大な代議士」に殴られ、踏まれ、飛び蹴りされる場面で、まず会場は大笑い。
欽ちゃんの演台は首から吊り下げる、という代物で、これは上のWikipediaの説明では細分化されていない、亜種の「構図のズレ」を生んでいます。『政治家は威厳がある』の中に含まれる、演台は『三面をしっかりした木の壁で囲まれ、倒れることなどありえない』という構図が、観客側にはあります。これを<不安定な、首から吊り下げただけの薄い板>に挿げ替えているのです。
かつ、この演台についた脚が、ほんの5センチ角ほどの「もろい」ものだ、というところで、「構図のズレ」はさらに誇張されています。・・・上の説明のような、笑いを生むか生まないかスレスレの線にある単一のズレが、たったこれだけの工夫で補強されているのは、このコントのクライマックスを見れば分かります。

欽ちゃんが秘書・次郎さんに
「演台の足が長すぎる」
と注文をつける。そこで、次郎さんは足を切っていくが、初めは1本しか短くしない、
「いや、これじゃバランスが崩れる、こっちの足もだ、こっちもだ」
と注文されるままに、次郎さんはどんどん足を切っていき、しまいには4本全部をすっかり切り取ってしまう。
その結果、欽ちゃん代議士が「スッテンコロリン」ひっくりかえるところで舞台暗転、となる。

単純なものではあっても、ひとつきりの「ズレ」ではなく、二つの、しかしある意味で一体化した「ズレ」を誇張することにより、笑いをとっているわけです。
(もっとも、こんな文に綴ったところでお読みになった方は笑えないでしょう。あるいは、シナリオを読んでも、コントそのものを完全に文章化しても、可笑しくもなんともないでしょう。笑うためには、実際に目にすることが必須です。)

これを、普段
A.『政治家に威厳があるとは限らない』
B.『滑って転ぶことは意外な出来事ではない』
C.『政治家が転ぶというネタは目新しいものではない』
方の構図をかたくなに持っている人が見たとしても、笑わないでしょうか?

注目すべきは、このコントで使われる「構図のズレ」は2つきりだという点でしょうか。しかも、二つ目は「メイン構図の亜種」にすぎません。

1)政治家は尊大
2)政治家を取り巻く「小道具」は立派

ある一つのものに対してであっても、人が持ち合わせている「構図」・・・おそらくそれは「価値観」・「常識」を複合的に捉えての用語なのでしょうが・・・は、じつは案外さらに<複合的>なのでしょう。
しかも、「こんなネタでは笑えない」はずのA.B.Cの「構図」の持ち主でも、あるいは政治家自身でも、アンチテーゼ側の構図を2つ持ってこられただけで、笑えてしまうに違いない、という出来です。突っ込んでいけば、それは2つきりの「構図」の中に、更にちょっとした捻りを加えているから笑えるんだ、ということが確かめられるのですけれど・・・そこまでは、やめておきましょう。

Wikipediaの説明も例に出したコントも、たまたま政治家ネタなので、ひとつだけ別のエピソードをあげておきます。

チャップリンの代表作の一つ、まだ第二次世界大戦に参戦していなかったアメリカからも危険視された映画、『独裁者』は、じつは映画の中で皮肉られているヒトラー自身が数度ばかり試写を鑑賞し、笑い転げた、という話もあります。真偽の程は分かりませんが。(このリンク先でないところで読んだ記憶があるのですが・・・)


演者が「笑い」をとるためには、その<複合的な構図>から、いかに単純なものを数少なく、一般常識的に特徴の著しい部分を取り出し、組み合わせるかに賭けなければならない。

上記はもうだいぶ前の例ですが、我が家の小学生が今見ても笑うくらい、鮮度を保っています。
「目新しくない」はずのネタが、「目新しい」
普段は「エンタの神様」の<新しい>笑いを楽しんでいる若者たちにも、充分ウケるのではないかと思います。

なぜなら、「エンタの神様」(上記とは別リンク)の面々も、単純に新しさを狙うのではなく、このコントにあるような「基本」を忠実に守っている人ほど人気が高いように見受けますから。


採り上げたコント55号のネタには、興味深い「問題」が・・・あ、また。どうしても、硬い。・・・2つはあります。
第一には、暴力ネタであること(極端さを避けてはいます)。
第二には、些細なことに見えるかもしれませんが、舞台で演じられている、ということ。

笑いをとりやすいネタが「暴力ネタ」だというのはチャップリンの初期サイレント映画が「暴力ネタ」だらけなのを見ても「そうなのかな」と思わされます。これはまたあらためて観察しましょう。
また、演じられる場所、については、おそらく「語れば長くなる」歴史的考察が必要です。大袈裟ですが。

さて、次はどっちから見ていきましょうか?

また数日、思案することと致します。

・・・なお、このカテゴリを「政治ネタ」にしていく考えは、私には全くありません。念のため。

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2007年8月29日 (水)

「古典派」とはなんだったのか

<チャップリンの言葉から>
・人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇
・死と同じように避けられないものがある。それは、生きることだ
(「チャップリン格言集」http://kuroneko22.cool.ne.jp/Chaplin.htm から引用)


少々、タイトルにそぐわない文になっていることを、あらかじめお詫び申し上げます。

クラシック音楽を「ちらっと見」する程度の能力しか持ち合わせませんので、なにか目的を持って生きるためにも、昨年の生誕250年を期に、モーツァルトを1曲1曲聞いていこう、楽譜を読んで行こう・・・そうすることで、一人の音楽家・作曲家が18世紀後半をどんなふうに感じながら生きたのか、少しでも自分も感じ取ってみたい、などと考えてきました。
1年以上経ってまだ、彼の35年の生涯のうちの、18歳の作品までをフーフー言いながら追いかけることができたところです。そのうち、肝心の自分の最大の相棒である「フーフー」の片割れ、自分の命のいちばんの支えである女房が昨年暮れに急死してしまい、
「モーツァルト・フォローも休止かな」
などと、つまらぬ駄洒落しか思いつかなくなるていたらくになってしまいました。

それでも、自分が生きる力が欲しかった。
私は「鬱」ではありますが、肉体的には健常者です。これから自分の将来を決め、夢をかなえていく、大切な子供も二人います。
生きていなければならない、と思いました。

こんな環境下で綴り続けることを良く思われない方もいらっしゃるかもしれませんが、女房を失っても、子供が健全に育つことを妨げず、自分は自分の課題を持ち続けることが、女房への最大のはなむけだ、とも信じてきました。

おかげさまで、通勤電車の中で資料を読み、休憩時にノートにメモを取りして原稿を作り、ブログをつづり続け、ときにすてきなコメントを頂きつつ、モーツァルトの「生き方」を、楽譜を通して学ぶことも継続できております。
たくさんの方々のおかげでもあり、また、こんなおとうちゃんを信じてくれる子供たちのおかげでもあります。

心から御礼申し上げます。

こんな経緯で「モーツァルト」を辿ってきて、ようやく有名作が続出する17,8歳頃の作品にまで追いついてみたら、今更ながら実感させられることがありました。
「彼も、彼の天才だけで生きてきたのではない」
・・・当たり前といえば当たり前の、そんな事実が、目の前に迫ってきたのです。

では、他に何があって、彼はその生涯を自分なりに支えてこれたのか。
このことに、取り組まなければならない、と、最近、痛いほど思うようになりました。

モーツァルトの創作活動の成否には「人様のおかげ」も、当然ありました。
一方、「人様への反動」というのも、18歳以降を視野に入れる時、今後の自立に向けては大きな要因となっていきます。

人は生まれてくるには母親の胎内から出てくることを必要としますが、死ぬときは一人です。

今日、世の中には悲しいニュースがあって、
「七十代の寝たきりの妻を介護していた、やはり七十代の夫が数日前に心筋梗塞で亡くなり、妻も介護を受けられなくなったためにまもなく亡くなっていたのが発見された」
というものでした。
悲しいけれど、「幸せなご夫婦でもあったなあ」と感じました。
死ぬ日が長く隔たる夫婦に比べて、その幸せ度、不幸度にどれほどの違いがあるかをとやかく言うつもりはありませんが、結果的には奥様も「自立した死」を、最愛のご主人のすぐそばで、あまり時間を隔てずに亡くなることが出来た。・・・それを「幸せ」と言ってしまうのは不遜ではありますけれど。
死の苦しみは、味わう長短に関わらず、筆舌に尽くし難い。そして、それは孤独に味わわざるを得ないのが通常です。その苦しみと孤独の時間が可能な限り短く、しかも最愛の人の側で、その人とほどを経ず過ぎてくれるのは・・・それが自死であっては絶対にいけませんが・・・もしかしたら人生最大の幸福かも知れない、と、ふとそんなことを感じつつ、ニュースのお二人のご冥福をお祈りしました。

「死」をいかに意識し得るか、というのは、ある意味で、人間の自立のバロメータではないか、ということにも、同時に思い至りました。なぜなら、「死」に対し自分なりの像を持ってしまうのは、自分が育ってきて、命の花を咲かせて行く過程の中で、やがて迎えるであろう実りを如何に自立させようか、と考えだしたかの道標にもなり、多くの場合、それは「育ててくれた」環境への、最大の反動(あるいは、反抗)だからです。
彼の伝記には必ずと言っていいほど引用される、31歳のモーツァルトが、命の火の消えかかった父に送った手紙の次の一節は、フリーメーソンの思想の影響だ、とする人や書物も存在しますが、背景は別にどうでも良いことです。

「死は・・・正しく考えますれば・・・僕たちの生の真の最終目的ですから、僕は、この人間の真実で最良の友と、数年来非常に親しくなっています。」(海老沢敏 訳)

この言葉がもし、父よりも先立つ子のものであったとしたら、親の身としては非常に不孝きわまりない言葉だ、と受け止めることでしょう。私が、丈夫なうちに私の子からこんなことを言われたら、やはり怒りだしてしまうかもしれません。あるいは、先立たれてしまったら・・・

だからこそいっそう、「死」を見つめる瞬間が自己に訪れることは、「子」の立場としては、より完全な「自己」の確立を意味するものなのではないか。。。

従って、モーツァルトがこのような「死」に対する観念を持つに至った過程・環境については、たとえば「フリーメーソンへの所属」とか「臨死の父への慰め」などの直接的な現象よりも、時代的な背景、価値観にどのような多様性があり、その中から彼がどのような精神を持って選択したかを突き止めて把握することが、非常に重要になってくるのではないか、と、さように考え始めたところなのです。
裏返せば、
「死を見つめ得るに至るには、生を如何に尊重し、あるいは軽んじたか」
を・・・私が取れるのは、たまたま「クラシック音楽」を媒体とする手段、しかも、小指の上のホンのひと雫の水滴しかないものですから・・・自分の狭い視野で可能な限り広く見つめる努力をして行くことでしかない、であればもう、大人へと脱皮して行くモーツァルトが受容したであろう外部世界を出来るだけ広く、しかし、深く見つめるしかない。

当時は思想史的には「啓蒙主義の時代」ですが、音楽史的には「古典派の時代」だと呼びならわされてきています。
ですから、音楽史上の「古典派」とは何であったのか、それはどういう精神のもとで生命を得、保ち、失い、受け継いで行ったのか。
そのことを、どうにかして、もう少し突っ込んで見て行きたい。そこに、なにかしら、いまの私たちに向けての啓示が隠されているかもしれませんから。

ここに、「古典派」の、モーツァルトを含め代表的な三人の作曲家の、人間としての「誕生」・「成長」・「自立」・「結婚」・「死」を簡単に比較して、今後の指針とし、今回の、なんだかわけの分からない文の締めくくりと致します。モーツァルト以外は残念ながら楽譜は今後しばらく入手出来ないだろうと思いますが、どう言う訳だか、家内を失った昨年、そんなことが起ころうとは夢にも思わないまま、年の半ばから憑かれたように音声資料を収集しました。文献は、海外に疎いせいもあり、収集する意欲はあったものの、少ない成果しか上がりませんでした。いずれにせよ、神様が
「お前には考えなければならない時がすぐやってくる、急げ」
と、こんな真似をさせたのだと思いますから、モーツァルトに限っていた視野を、モーツァルトほどにまとめてとはいきませんが、あと2人の作曲家にも徐々に広げて行きたいと思っております。

1)モーツァルト
・誕生〜音楽家の家
・成長〜神童として殆ど海外への旅と人びとの賞賛の中で。20歳で、生国外で母の死に遭う
・自立〜大司教コロレドの臣下に足蹴にされて放り出され、定職なきに等しく
・結婚〜父の大反対を押し切って
・死〜貧困のうちに、栄光をほんの少しだけ目の前にして、29歳の妻を残して

2)サリエリ(サリエーリ)
・誕生〜商人の子として。13歳で母を、14歳で父を失い孤児となる
・成長〜引き取られた家で音楽家ガスマンに見込まれ、養われる
・自立〜ガスマンの死に伴い、宮廷歌劇場の作曲家・指揮者となる
・結婚〜所得が小さく舅に反対されるも、皇帝の(目立たぬ)支援で幸福な恋愛結婚
    しかし、妻には57歳の時に先立たれる
・死〜「モーツァルト暗殺者」との根拠のない誹謗を受けつつ、
    生前の栄誉を無視されて貧困のうちに
    
3)ハイドン
・誕生〜車大工の家で(ただし、近年、貧困家庭説は否定されている)
・成長〜ほぼウィーンのシュテファン寺院の児童合唱団員として
・自立〜合唱団を追い出されたあと、街角で演奏しつつ。やがて貴族に認められ、専属に
・結婚〜舅の意向で恋人の姉の方と結婚させられたが、生涯のほとんどの間別居
・死〜フランス軍のオーストリア侵攻の間、フランス兵からも敬意を表され、栄誉のうちに

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2007年8月28日 (火)

モーツァルト:2つの歌曲(1774?)

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。



もう少し手広く調べる手段があれば・・・というところなのですが、
(C.McFadden/Bart van Oort 2002 BRILLANT 99731/8)
(B.Ramselaar/Bart van Oort 2002 BRILLANT 99731/8)
の2つの歌曲については、作品そのものの平明さにも関わらず、ほとんど何も分かりませんでした。すみません。

まず、西川氏の「モーツァルト」(音楽之友社)所載の作品表で、K.147がなぜフリーメーソン歌曲、とされているのか、さっぱり見当がつきませんでした。短い歌で、作者不明ですが、歌詞も

  ぼくはなんて不幸なんだろう
  ぼくの足はなんてのろくさ歩くのだろう
  ぼくがきみのいるところへ向かうとき

  ためいきだけが心のなぐさめ
  苦しさがどこまでもつのるばかり
  ぼくがきみのことを想うとき

などというシロモノですし、メロディーも、「フリーメーソン」というものからイメージされる、簡潔で男っぽいものとはほど遠い、極小カヴァティーナという感じです。Conladの作品表も、この作品を「フリーメーソン歌曲」とはしていません。とすると、表の編者の誤りか、構成誤りではないか、という疑問が湧きます。
で、おそらく、K.147を「フリーメーソン歌曲」とするのは、そういった類いの誤りです。
何故、そんな誤りが起こったか?
実は、こちらは明らかに「フリーメーソン歌曲」であるK.148が、この曲の自筆譜の裏に書かれているから、のようです。
このことも含め、曲にまつわる「伝説」は、こちらに記載されていました。
で、K.147についてはおしまいです。事実ではないでしょが、リンク先に載っている「伝説」はロマンティックです。

K.148は「フリーメーソン・ヨハネ支部の儀式に寄す歌」という副題がついています。
古くはモーツァルトがフリーメーソンに加わった1784年作と考えられていたそうですが、新全集(NMA)では1772年、より新しくまとめられたConladの作品では1774年か76年の作品、とされています。詩はフリードリヒ・レンツというひとのものですが、この人については分かりません。ご存知の方、ご教示下さい。

年代が確実ではないと言っても、1770年代に作られたのだとしたら、この時期のザルツブルクの作品として残っていること自体が奇跡に近い気がします。
というのも、1764年から1780年(マリア=テレジア死去の年)まで、オーストリアではフリ−メーソンの結成が禁止されていたからです。
「信教・思想を超えた自由・平等」を建前に成立していた、啓蒙主義の落とし子のような近代フリーメーソンは、その「自由・平等」がカトリック信仰を損ねるのではないか、ということでローマ法王庁から敵視され、法王庁はしばしば結成に対し禁令を出しました。法王庁の禁令は、各国の君主が是認しなければ効力を発揮しなかったのですが、マリア=テレジアはこの禁令を受け入れていました。
したがって、この時期、オーストリアに存在したフリーメーソンは、違法的な組織です。
かつ、ザルツブルクは、法王庁の直轄下にある大司教コロレドのお膝元です。

ところが、このコロレドという人物、モーツァルトとの関係が悪化したことで後世の評判が悪いものの、もともとが「啓蒙思想」かぶれとも言えるほどの(当時で言う)合理主義者で、ある本には「コロレドもフリーメーソンの一員だった」と記されているのです。
眉唾、である可能性もあるのですが、法王庁やウィーンの帝室とうまくやりつつ、領内ではひそかにフリーメーソン活動をしていた可能性は、K.148の存在を目の前にすると、否定しきれない気がします。

いずれにせよ、そんな謎めいた世界の中で作られたものであるため、作曲の由来、経緯がはっきりしないのは無理からぬことかもしれません。
K.147の裏に書かれていた、というのも、なんとなく「隠蔽工作」のにおいがないわけではありませんし。

だとすると、これは珍しく「モーツァルトとコロレドの密やかな蜜月の歌」ということにもなるわけで・・・気色悪い、かな?

自筆譜は写真の通りで、メロディラインの他にはバスしか書かれていません。
NMAの楽譜は和声を補っていますが、全音楽譜出版社の「モーツァルト歌曲集」ISBN4-11-714490-1では自筆譜通りを印刷しています。
K148
これも滅多に聴けない曲かと想いますので、音声をアップしておきました。
音声は2曲とも冒頭に曲名をあげた部分にリンクしてあります。




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2007年8月27日 (月)

娘の作文の下書き:「漆塗り屋さん」だった父の実家

昨日、DVD「パイプオルガン誕生」のご紹介で、手仕事の素晴らしさにも少しばかり言及しました。
たまたま、娘の作文の課題が「伝統工芸」でして、私の実家は2代遡るまで漆塗りを家業としていましたので、そのことを書かせました。
「こういう話も、少しでも知っておいて頂けたらありがたいかも知れないな」
ふとそう思いましたので、娘の作文の下書きを以下に掲載します。文中「父」とあるのは私のことです。
・・・なお、作文の最終形は、以下の文とは変わってしまっています。



20060407135532shohinphoto_04・私の父の実家は、宮城県の仙台市です。
・仙台の父の実家は、江戸時代から曽祖父(ひいおじいさん)の代までは「塗師(ぬし)」という仕事をしていたそうです。ですが、第二次世界大戦の空襲で家が焼けたあと、仕事場をもとにもどすだけのお金なども無かったりしたため、曽祖父を最後に、「塗師」の仕事はやめてしまったそうです。
・なぜこんなことから話を始めたかというと、「塗師」というのは日本の代表的な伝統工芸品に大きく関わっている仕事だからです。
・「塗師」とは、木で作った家具や皿、椀などの器(うつわ)に漆(うるし)を塗る仕事です。
とはどういうものか、みなさん、ご存知ですか?「漆の木」という植物から取れる、黒っぽくてネバネバした液体です。
・父は、実家で最後の塗師だったお爺さんの側(そば)で「漆を塗る仕事」を見ていたこともあるそうですが、とても小さい頃のことだったので、残念ながらあまりよく覚えていないそうです。ただ、裏山に遊びに行くと漆の木が生えていたので、木のことは少しだけ覚えているらしいです。「木」とは言うけれど、そんなに太くも大きくもないのだそうです。
・遊びに行くときにはよく、お婆さんから「漆の木に触っちゃダメだよ」と注意されたそうです。何故かというと、漆のの中にはアレルギーを起こす成分があり、肌の弱い人は触っただけでかぶれをおこしてしまうからだ、ということです。
・「アレルギーを起こさせるほどの強い力、悪いものを寄せ付けない力が、この木にはあるんだな。」と、大昔の人は思ったようです。それが、漆が塗料として用いられるようになった理由だと、考古学の学者さんたちは考えています。
・実際に、漆には、ものが腐るのを防いだり、虫除けをしたりする効果がありますから、漆を器に塗るのは衛生上も理にかなっていたのです。
・ですので、漆を塗料に用いた器、すなわち「漆器(しっき)」は、大変古い時代から人間によって使われてきたことが分かっています。
・中国では紀元前一千年よりも前に使われた漆器が見つかっていますが、日本の遺跡からは、完全なかたちではないものの、もっと古い時代に漆を用いた遺物が見つかっています。そのため、漆を人類で初めて塗料に使ったのは日本人ではないかとも考えられています。英語で、漆器のことを「ジャパン」と呼ぶほどです。
・漆器は日本各地に、その土地土地が自慢する代表的なものがあります。有名なものに、青森県の「津軽塗り」、福島県の「会津漆器」、石川県の「輪島塗り」などがあり、曽祖父も、なんとか漆の仕事の若いあとつぎを育てたい気持ちから、あちらこちら見学して勉強していたこともあるそうです。ですが、曽祖父が塗師をしていた頃には、漆器が有名ではない土地では、漆を塗る仕事はあまりお金が儲からず、結局は後継ぎを育てることをあきらめたのではないかなあ、と、父は思っているそうです。本当は私の祖母は「後を継いでもいい」と考えたことがあるそうですが、祖母が若い頃は、女の人が「塗師」の仕事をすることは認められなかったので、いまでも残念がっているということです。
・曽祖父がたずさわっていたのは、「仙台堆朱(ついしゅ)」と呼ばれる漆器の仕事でした。(付記:私の祖父は、リンク先の頁にある南忠氏とともに仕事をしていました。)似た漆器には山形県村上市の「村上堆朱」と言うものがあるそうですが、村上市の物も、仙台市の物も、作る方法は一緒です。
作業は分業で行なわれます
・元となるうつわ(大体は、木製)は、あらかじめ作られたものが漆塗りの工房に、ものによっては彫刻などの模様を彫られて運ばれてきます。
・うつわを受け取ると、まず、黒くて粒が大きめの漆で、ムラが内容に下塗りをします。下塗りしたあとは、縫った漆の面にでこぼこがなくなるよう、ていねいに研ぎます。曽祖父はこの下塗りの名人だった、と聞いています。
・そのあと、色のついた、やや滑らかな漆で、中塗りというのをします。これもムラなく塗り、ていねいに研ぎます。ただ、下塗りの出来が悪いと、この中塗りは絶対にうまくいかないのだそうです。(付記:工芸品の職人で下働きの人の名前が伝わることは、まずありません。ヴァイオリンで言えばストラディヴァリの工房で働いていた下職は無名のまま、なのとおなじです。)
・中塗りまで済ませると、いよいよ上塗りです。上塗りには、いちばんトロトロに仕立てた、艶のある漆を塗ります。上塗りに使われる漆には、黒のほか、赤や黄色や緑などの色がつけられています。ここからどうするかは漆器の種類によって違います。仙台の堆朱の場合は、あまりギラギラした感じになるのを避けるため、むしろ、「艶消し」ということをします。黒い害の上塗りをしたもので、模様が彫られているものには、最後に、その模様のところに黒い漆をあらためて塗りこみます。
・以上が、「仙台堆朱」の場合の作り方です。

・ちょっとしか漆塗りの仕事振りを見たことの無い父とは違い、祖母は漆を塗る「工房」で子供時代を過ごし、暮らしてきました。ですので、父よりずっとたくさんのことを覚えていたり、知っていたりします。
・「大人が漆塗りの仕事をしているときはもちろん、仕事が終わっても、漆が乾くまでは絶対に作業場に入ってはいけなかった。なぜかというと、乾く前にちょっとでもほこりが立って漆にくっついてしまったら、その漆器は売り物にならなくなったから。」
・「同じ様に、埃を立ててはいけないという理由から、仕事の最中は、作業場では絶対におしゃべりをしてはいけなかった。作業場はいつもしんとしていた。じゃあ、ご飯のときくらい喋ってもいいかな、と思ったら、それもそうわいかない。みんな仕事で黙っているのが当たり前なので、ご飯のときも、誰も喋ったりしなかった。子供の私(祖母のこと)が喋ると、『静かにしなさい』って、叱られたもんだよ。」

・父の実家で扱っていた漆器は、いままで描いてきたような特殊なものでしたけれど、父が子供の頃までは、お味噌汁のお碗にも漆が塗られているのが当たり前だったのです。それが、いまでは、漆ではなく、ウレタンという樹脂の塗料が塗られているのが普通になりました。ウレタンはとても安くて、機械で塗ったり出来るからです。
・山がたくさん切り崩されてしまった今、漆は高価なものになってしまいましたし、今まで見てきたように、それを塗る仕事も、大変に神経を使わなければなりません。ウレタンのような便利な材料に取って代わられたのは、仕方のないことなのかもしれません。
・ですが、人工的に作られた樹脂であるウレタンとは違い、漆はなんと言っても自然の生み出したものです。そして、私の曽祖父たちの仕事の仕方を思い浮かべるとき、工場で作られるウレタン塗装の器とは違い、漆器は「心を大切にしながら作り上げられていく」ものだということも分かります。
・私たち、これからの世代は、もういちど、曽祖父たちが大切にしてきた「心をこめる手仕事」を見直していってもいいのではないかな・・・そうすれば、世の中の人は「いじめ」だとか「がり勉」だとかいうことなんかで大騒ぎしているのがバカバカしくなってきて、お互いを思いやるのが当たり前の社会になっていくのではないのかな・・・私は漆器の話を聞き、しらべながら、ふとそんなことを思ったりもしました。

・ただ昔からかたちだけ続いているのではなくて、「物を作るときの心の大切さ」をも私たちに伝えてくれるからこそ、「伝統工芸」というのは大切なのではないか。
・たまたま父の実家が「塗師」だったために知ることが出来たことではありますが、そんな目で、私はこれから他の「伝統工芸」についても考えていきたいと思っています。

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2007年8月26日 (日)

<響き>の基本に還りませんか?〜DVD:「パイプオルガン誕生」

21yprnxzwwlこのDVDについては昨日中にレヴューしたかったのですが、考えさせられたことが多く、整理がつかず、1日繰り延べとなってしまいました。

考えさせられたこと・・・それは、どんな「楽器」にも通じる<良い響き>はどうやってもたらされるか、という問題です。あるいは、<良い響き>のためには、人が主観で「音楽、かくあるべし」と思い込んでしまうのはいかに宇宙に対して尊大であるか、ということでもあります。
「パイプオルガン誕生」を見て、前日、娘がトロンボーンの先生に言われた内容(娘にバレるといけないんで、陰でこっそり訊いていました)を、自分の中で何度も反芻していました。

「<楽器>を吹いているんだ、と思うのをやめなさい。素直に息を吹き込めば、管が、管そのものの持つ音を自然に鳴らしてくれるのだから。」

・・・これは実にいい言葉でした! 取り扱うものが「家族」であっても「ペット」であっても「職場の同僚」であっても、置き換えが効く。。。が、そういう脱線は、とりあえずやめましょう!

「管」を「弦」に置き換えても、先生の仰った言葉はそのまま当てはまるものでして、弦が自然に鳴る状態に、必要な位置にきちんと体重がかかって(力づくで押さえるのではダメでして、物理的に自然な振動を生み出すための支点が作られなければいけませんから、体重を「やんわりと」乗せるんです)、
その結果、糸が伸び伸びと、自分が「持って生まれた」そのままの性質で振動する。そうすると、波形が乱れませんから、聞こえてくる<響き>は、非常に透き通った、素直なものになる。・・・木管楽器は、この点では弦楽器との共通点の方が大きいかもしれませんね。(実は、DVDを見終わって、しばし考えたあとで、家にあるトランペットとクラリネットで試してみました。トランペットについては娘の先生伝授の方法を試して、驚くべき成果も上がりましたので、後述します。)


前置きが長くなりました。
ですけれども、以下のDVDの内容上での注目点も、<響き>を中心に記述して行きます。
相当長いレヴューになりますので、あらかじめご容赦下さい。

ドキュメントは、東京カテドラルのオランダ製パイプオルガンが老朽化したこと、かつ40年前の流行で作られたそのオルガンは電磁石を利用して発音していたのですが、もう部品を製造していないため、修理するとかえって高くつくことから、新品を調達するしかなくなった、ということから始まります。たった40年の老朽化、しかも「電磁石式」で部品がもうない、という当たりは、<電気機械文明>のもろさを象徴しています。・・・パソコンの類いは、この電磁石式オルガンの世界をそのまま縮図的に今日まで持っているのですね。私はその結果、デスクトップについては4代目の交代を余儀なくされました(3代目は、奇跡的に安価に復旧しましたが)。

新たに作られることになったのは、伝統的なイタリア式のパイプオルガンです。

ご存知の通り、パイプオルガンこっちの説明の方が分かりやすいかな?)は送風機から送られてくる風を頼りにパイプをならすことによって発音しますが、これだけは人力では大変なので、機械を使うしかありません。その他、音色を変える「ストップ(これにより、演奏者はどの位置の、どの音色のパイプを鳴らすかを決める)」についても、コンピュータ技術の応援を借りないと、たとえば現代のペルトの作品のように、一度に40ものストップを入れたり外したりする曲を演奏するのは困難です。ですから、この2つについてだけは、どうしても電気・プログラムといった現代技術に頼らざるを得ません。
それでも、伝統的なパイプオルガンは、他のすべてが「手作り」です。
送風機からの風をパイプに送る「風箱」は、節の少ない木を厳選して製材した板を用いて作ります。パイプの合金の調合も、天秤を使い、目視で行います。その合金を液状に熱し、一気に型に流して板にするのも手作業です。その板を均一な厚さに研磨するのも、パイプそのものを丸めるのも、すべてが手によって行われます。DVDの前半は、こうした一連の手作業の見事さを的確に捉えて、私たちの目を離させません。パイプの数だけで三千本強、部品は数万個。
「人の手だけで、これだけのものを体系的に作り、組み上げることまで出来るんだ!」
驚異、ですか?
・・・じつは、私は「住宅」を売っていたことがあります。日本の戸建住宅にパイプ(煙突)があることは稀ですし、あっても三千本などということはありませんが、部品数はパイプオルガンと同程度です。プレハブが増えた、と言っても、住宅作りを仕事にする人は、それを手作業で組み立てている。
そういった、身近な「手仕事」があることを、このオルガンの映像を見ながら思い浮かべ直して頂くのも、なかなかにいいことなのではないかな、と思います。

脱線しました。

さて、ここからが、<響き>を考える注目点です。
金管楽器をやる人向けの用語が出てくるので、金管楽器をやるかた以外に分かりにくくなってしまわないよう、気をつけながら綴るよう努力しますが、なお不明な点は類推でお読み頂ければと存じます。

パイプオルガンのパイプは、笛になっています。
基本は、おもちゃの笛や、小学校・中学校で使う「たてぶえ(リコーダー)」と作りが変わりません。長いパイプの、笛で言えば口をつけて息を吹き込む当たりに、細長い四角の穴があいています。
オルガンのパイプと笛の違いは(パンフルートはオルガンと同じですが)、オルガンのパイプはこの他に途中に穴があいていないことです。すなわち、一つのパイプは、一つの高さと音色だけを受け持つわけです。これが、パイプオルガンに膨大な数のパイプが必要になる理由です。

一つのパイプが一つの「音のすべて」を受け持つわけですから、オルガンの音の調整は、楽器の仕上がり具合を決める最大の、かつ最も困難な仕事でして、下製作中の準備ももちろんですが、映像の後半の山場は、この「調整」を取り扱った場面となります。
これはまだ前半に出てくるのですが、パイプにあいた四角の穴の幅が音色を決める話は、とくに金管奏者にとっては非常に分かりやすく、参考にすべきことです。すなわち、穴(アパチュア)の幅が狭ければ音色はキツめで暗くなり、広ければ音色は柔らかで明るくなります。
金管楽器を吹く場合

・アパチュアの幅のみを変化させて倍音を上下する方法(狭い〜高い、広い〜低い)

・共鳴体である口腔内を広げたり狭めたりして倍音を上下させる方法(広げる〜低い、狭める〜高い)

がありますが、後者はパイプオルガンではここのパイプの太さや音質に委ねられています。で、ここまでは工場である程度仕上げが決まってしまいます。〜実際に、口腔内を広げたり狭めたりすることにより倍音を上下させる方法は、私のような全くの初心者にとっても、最低音の(記譜上のヘ音記号の)「ド=C」音からト音記号の最上線に乗っかった「ソ=G」音まで出してしまえ、音色も一定に保ちやすいメリットがあります。ですが、パイプのように「同じ音程で別の音色の管を用意する」わけにはいきませんので、自分の口腔のつくりに制限されて、音色のヴァリエーションは作りにくい、という制約もあります。
オルガンの場合は一度「音色の仕上がり」を決めてしまうと、それがオルガンの出来不出来を何十年、何百年にもわたって評価する尺度とされてしまいますので、穴(アパチュア)の幅を決める作業は金管奏者のように「日々訓練・改善」などという甘えが赦されません。
東京カテドラルの新オルガンは、ではいったいどうなったか・・・
音作り担当のかたと、それを監修するオルガニスト、ギエルミ氏のやり取り・・・その結果、調性の前後で音色がどのように変わったか・・・この大事な2点が、DVD中にしっかりと収録されています。
結果として、オルガンは明るく華やかな、しかしヨーロッパの伝統をしっかりと日本に伝えてくれる威厳のある音色に仕上がりました。
このあたりの経緯を、是非、DVDそのものを手にとってご覧頂ければと存じます。


最初の方の繰り返しになりますが、

「<楽器>を吹いているんだ、と思うのをやめなさい。素直に息を吹き込めば、管が、管そのものの持つ音を自然に鳴らしてくれるのだから。」

DVD中の言葉ではないものの、楽器を演奏なさる方はこの言葉を念頭に置いて、音楽をお聴きになる方は「素直さが出ているかどうか」に耳を傾けて頂いて、なおかつ音楽に縁のない方でも、
「私が私の心を支配するわけではない、私の肉体、というあるがままのものが私を動かしている。そのことを<素直に>見つめ直そう」
そんな思いを抱きつつ、このドキュメントをご覧頂ければ、ご紹介出来たことが幸いだった、と私にも言えるのではないか、と思っております。

お目通し頂きありがとうございました。




ST.MARY’S CATHEDRAL パイプオルガン誕生


DVD

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2007年8月24日 (金)

安藤選手、 釡山十二華さんリンク集

先日、24時間テレビで放映されたお二人に感動した旨を綴りましたが、余力がなく、関連サイトやブログへのリンクを貼っておりませんでした。代表的なものは左の「おすすめサイト」に載るようにしますが、以下、いくつか挙げて置きます。ご活用頂ければ幸いに存じます。


安藤選手関係(フィギュアスケート)

MIKI-Ando.jp
 安藤美姫公式サイト。プロフィール、写真、日記、トゥインクルバンドの案内等。

安藤美姫 - Wikipedia

安藤美姫 Figure Skating Club!

・映像
 http://jp.youtube.com/results?search_query=Miki+Ando&search=検索




十二華さん関係(ピアニスト)

・TONICAのBlog~Pianist 釡山十二華~
 tonica.cocolog-nifty.com/blog

・CD Collection
 www.geocities.jp/nrv999sp/tonica/cdcollection.html

・呉尚美音楽学園
 http://www.geocities.jp/nrv999sp/index.html

・CTDサポーターズ協議会
 http://www.marfansupport.net/

マルファン症候群 日本マルファン協会

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2007年8月23日 (木)

モーツァルト:1774年、その他の器楽曲(ホンの軽く・・・)

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。



1774年のモーツァルトの作品で、取り上げ残しているのはいくつかの小さい器楽曲とフリーメーソン歌曲、そして大どころでは歌劇「偽の女庭師」ですが、フリーメーソン歌曲は75年で扱った方がいいかどうか迷っています。「偽の女庭師」は、少し時間を下さい。

小さな器楽曲は
・教会ソナタニ長調K.144・ヘ長調K.145
・J.C.フィッシャーのメヌエットによる12の変奏曲 ハ長調K.179(12月6日以前)
ですが、軽い記事でご容赦下さいませ。



教会ソナタは、調性から言って、K.144はK.194(8月8日)のミサに、K.145はK.192(6月24日)の「小クレドミサ」に対応するものですが、いずれも作品表上は春に作られた、という以上には正確な作曲時期が分かりません。
仮に、各々のミサ曲と教会ソナタの組み合わせが合っているとしましょう。
モーツァルトが教会ソナタを書いたのは1771〜2年に3つ、74年にこの2つです。
一方、この時期に完成されたミサ曲は、1773年の「聖三位一体の祝日のミサ」K.167を含め3曲です。
最初の3つの「教会ソナタ」は、従って、モーツァルト自身の作曲したミサ曲とは一緒に演奏されなかった可能性もあります。そこからの類推で行くと、今回の2曲も、「たまたま調性が合っているだけ」という考えも成り立たないわけではないことになります。
で、実は、全集(NMA)の楽譜では、K.144とK.145は共に1772年頃の作とされていますので、前の3曲と一緒に記事を綴ってしまっていました
「教会ソナタ」のどんな点が興味深いか、は、その記事に述べてしまっています。
申し訳ありませんが、したがって、この2曲については前の記事へのリンクをご参照下さい。
ただ、作風に前の3曲から特別な発展をしたとは思えない(モーツァルトのこの頃の作としてはリキが入っていない)ものの、1774年作説の方が正しい気がします。前の3曲とは違い、K.144とK.145は、やはりモーツァルトは自作ミサ曲が演奏される同じ式典の中で演奏したもの、と信じたいなあ、というところです。
(Bunchouさんやランスロットさんのご異見を頂けると嬉しいのですけれど・・・)


「J.C.フィッシャーのメヌエットによる12の変奏曲 ハ長調K.179」
の方に行きましょう。
12月6日以前、とされるこの変奏曲、「偽の女庭師」の気晴らしででも作られたものでしょうか、軽く扱ってしまうには勿体ないほど、実際には前年以前の変奏曲に比べてずっとSurpriseのある変奏曲です。(カタカナで書けばルー語になってしまうのだ!)

J.C.フィッシャーは、バーデン(ウィーン近郊の方ではなく、南ドイツのほう)で活躍し、1746年に亡くなっているドイツの作曲家で、今日ではほとんど知られていません(私もさっぱり知りませんでした)が、18世紀初頭に音楽の最先端を行っていたフランスで音楽修行し、大バッハの「平均率クラヴィア曲集」の先駆けに当たる作品「アリアドネ・ムジカ」(1702年)をつくりあげた人物として、本来はヨーロッパ音楽史上もっと注目されるべき人のようです。実際、この作曲家の作品を大バッハが研究したことを、エマヌエル・バッハが証言しています(フォルケル宛書簡)し、バッハが実際に彼の作品「アリアドネのフーガ第5番」を「平均率クラヴィア曲集第1巻」の第16番で借用していることも知られています(橋本英二「バロックから初期古典派までの音楽の奏法」223頁参照。音楽之友社2005)。
いったいなぜ、モーツァルトが、彼の生まれる10年も前に亡くなったこのカペルマイスターのメヌエットから主題を持ってくることになったのか、が、まず不思議です。
用いられているメヌエットはフィッシャーのオーボエ協奏曲からのものですが、NMAの解説によると、この協奏曲が出版されたのは1768年で、かつモーツァルトは(この協奏曲を、かどうかは分かりませんが)1766年にウィーンでフィッシャーの作品を聴いているとのことです。
だとしても、「エマヌエル・バッハの著書で勉強した」と明言していたハイドンとは違い、セバスチャン、エマヌエルのバッハ父子にもこのころまださほど感心もなかったモーツァルトが、どんなルートでフィッシャーに興味を持ったか、が、まず判然としません。66年にフィッシャーの作品を聴いて強烈な印象を受けた、という形跡も、全くありません。
可能性が高いのは、当時のミュンヘンではまだ、隣接する都市で活躍していたフィッシャーの音楽が人気を保っていたのではなかろうか、ということで、作曲時期が12月であることからも、ミュンヘンで上演する予定の「偽の女庭師」の前宣伝用にでも作った、というあたりかな、と思いますが、いかがでしょうか?

主題となっているメヌエットは、(たとえ大バッハのものでもそうであるように)古典派のメヌエットに比べると単調な印象があります。
これが、第1変奏以外では、モーツァルトの手によって、どの変奏でも、耳で聴いただけでは一体どこに原型のメヌエットがあるのか分からないほどに巧みに細工されています。・・・実際、楽譜のほうでも、よく見なければ分かりませんね・・・第2変奏が既に、バスラインを2小節目で上声部と交代して反転する、などというアクロバットを演じているほどです。第4変奏に至っては、和声だけが原曲通りです(これが最も過激かもしれません)。
最後まで聴衆に息をつかせぬこの変奏曲・・・実際にお聴きになって窒息しても、責任はお取り出来ませんので、あしからずご了承下さい。

変奏曲集は多種の楽譜が出版されています。なお、NMAではクラヴィア(ピアノ)作品(他楽器とのアンサンブルは含まない)はすべて第20分冊に収録されていますから、モーツァルトのピアノ作品をお聴きになること自体が好き、というのでしたら、ベーレンライターのサイトならこれだけで入手することが出来るかもしれません。
無償ダウンロードで落とすには、膨大なページ数ですよ!

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2007年8月22日 (水)

「醒睡笑」前書き:カテゴリ新設の前置きとして

ミョウチクリンな前置きをさせて頂きますが、ご容赦下さい。
昨年暮れの家内の急死後、残った親子三人が、どうやってこれからも「お母さんと楽しい日を過ごそうか」ということを、いま思い返せば狂ったように悩み続けました。
が、やっぱりいま思い起こせば、悩んでいても、どうにもならないことなのでありました。
私なんかがどう思おうと、子供たちの方が立ち直りが早くて、いまは毎日を陽気に過ごしてくれています。

「お笑い」の大好きな、そんな私の子供たちのために、という狭い発想から、このたび「笑い・コメディ」というカテゴリを設けることを思い立ちました。

ただし、あえて「笑い」に「お」を付けなかったのは、このカテゴリではテレビで気軽に見られるお笑い番組の時評の類いは全くするつもりがないからです。
「子供たちのために」と言いながら、このカテゴリでは、

・いささか古い「笑いの本」も含め、その時その時の人たちが「時代」の何を「笑って」きたのか
・新旧を問わず、芸能(音楽を含む)の中で「笑い」はどのようにして生まれ、みんなに共有されて行くのか

等々、少々かたい観察のみをして行こうかな、と漠然と思っております。
・・・これじゃあ、肝心の我が子は読んではくれないな。。。

ご挨拶はこれでおしまい、でよいのですが、前口上の補足として、「醒睡笑」の冒頭部を引いておきます。
(岩波文庫本)


ころはいつ、元和九年癸亥(みづのとゐ)の稔(とし)、天下泰平人民豊楽の折から、策伝(=「醒睡笑」の筆者)某小僧の時より、耳にふれておもしろくをかしかりつる事を、反故の端にとめ置きたり。是の年七十にて、誓願寺乾のすみに隠居し、安楽庵といふ。
柴の扉(とぼそ)の明暮、心をやすむるひまひま、来しかたしるせし筆の跡を見れば、おのづから睡(ねむり)をさましてわらふ。さるままにや、これを醒睡笑と名付け、かたはたいたき草紙を、八巻となして残すのみ。

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2007年8月21日 (火)

8月22日は誰の誕生日?(2つのアラベスク第1番)

はい、私の誕生日です!
・・・でも、スポンサーがいなくなっちゃったから、明日ケーキは食べられない。。。
自分で前祝いしちゃおうか。

というわけで。
実は8月22日は私みたいな小者ではなく、有名大作曲家の誕生日でもあるのです。
(タモリの誕生日でもあるけれど。)

180pxclaude_debussy_ca_1908_foto_avその大作曲家とは、ドビュッシー。
1862年生まれですから、私よりはるかに、年上です。

で、この人の有名な「アラベスク第1番」を4人のピアニストで聴き比べて頂きましょう。
え? そんな曲、知らない、ですって?

触りをお聴かせしましょう。


どうですか?

アラベスク第1番は、ドビュッシーが初めてバイロイトで鮮烈なワーグナー体験をした1888年から、はやくもアンチワーグナーに転じた時間を経て、サティと知り合った1891年まで、実に4年近くも手を入れ続けた「2つのアラベスク」という、そのくせ2曲全部演奏しても7、8分という作品のうちの最初のものです。

第1番は、
*第1のテーマ〜第2のテーマ〜第1のテーマを軸にした<A1部>
*中間部のテ−マで貫かれた<B部>
*<A1部>をさらに叙情的にした<A2部>
の三部からなる曲で、調で言うとホ長調としか言いようがないのですが、実は旋法で言うとA部はドリア旋法(終止音はCis)、B部はリディア旋法(終止音はE)を用いています。
などと綴ると難しくなりますが、18世紀に単純化されてしまった「長音階」や「短音階」で書かれていないことで、かえって音楽そのものは、優しく心に響くものにしあがっています。

小さい作品ながら、ドビュッシーを得意とした、とされるピアニストの演奏も、これほど千差万別に聞こえてしまう例は珍しいと思います。
比べてみて下さい。

(1909〜1987)  ERATO WPCS-21080
(1950〜 ) DENON COCO-70447
(1924〜1970) EMI 7243 5 75434 2 2
(1925〜) EMI(ドビュッシーピアノ音楽全集)

いかがですか?

ただ、これだけ違っても、A1部の終え方やB部の三連符のスピード感(フランス風なのでしょうね)および響かせ方、全体の構成観には4例を通じ一貫したものがある点にも、是非ご傾注下さい。

ただ「個性」を強調するのが「音楽」ないし「演奏」ではないことを、この4例は良く示してくれると思います。これは「クラシック」にだけ言えることではない、と確信しております。

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2007年8月20日 (月)

曲解音楽史17:「声明」の伝来

前の回:1)音という手段  2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽   5)トランス   6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド   9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ  12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ    14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア   16)唐朝と朝鮮・日本



唐朝は歴史年表上は9世紀いっぱいまでのおよそ3百年間続きましたが、実質的に栄えたのは安史の乱が起こる以前の玄宗皇帝時代まで、約百年の間に過ぎませんでした。それでも以後2百年、かろうじて命脈を保つことが出来たのは、二つの矛盾する勢力・・・貴族層と、科挙で登用された官僚層が、相剋を演じつつも、片や地方の武力として、片や中央の法曹界の抑えとして、微妙なバランスを保ったからです。
日本からの最後の遣唐使に参加した有名な僧侶、のちに慈覚大師と呼ばれて尊敬を集めた円仁に、
「入唐求法巡礼行記」
という、これも有名な日記がありますが、難しいのでなかなか読めません。中公文庫で深谷憲一氏が分かりやすい現代語訳を添えたものを出版なさったので、それでもいくらか気軽に読めるようになりました。(深谷氏に先駆けること35年前、米国の駐日大使だったライシャワー博士がこの書の重要性を訴えた「円仁 唐代中国への旅」は、いま、講談社学術文庫に収録されています。日本人よりも先に、円仁の日記の重要性を理解していたことに、私たちは大きな敬意を払わなければならないでしょう。)

音楽の話でなければ、円仁が記録した、唐代末期の様々な様相・・・難破寸前で必死の上陸を果たした遣唐使一行の表情、末期とは言えなお有効に機能していた唐朝の行政機構、政治の影響を巧みにかわしながら逞しく生きた新羅(当時の朝鮮)商人の心の優しさ、武宗の「仏教弾圧(実際には道教以外の他の宗教も皆迫害された)」の中で必死に身をかわしながら日本への仏教求法を果たすための招来品確保に執念を燃やす円仁その人・・・そうしたたくさんの話も取り上げたいのですが、そのためには私は能力が不足し過ぎです。話もそれることになります。

「入唐求法巡礼行記」の中には、中国や朝鮮に置ける9世紀末の仏教の深い浸透ぶりが伺える記述が数多くありますが、それらのうちには日本で「声明」と呼ばれることになる仏教音楽(声楽)の実体に関する無視出来ない記述も、いくつかあります。

武宗の「宗教弾圧」は西暦842年に始まりましたが、この皇帝は845年に没したため、期間はそう長くはありませんでした。しかし、このたった4年で、仏教で言えばそれまで主流だった法相を中心とし密教を含む派は衰退し、やがて宋代にかけて徐々に禅宗へと主流が移って行くことになります。
従って、円仁の記録した「声明」の風景は、非常に貴重です。

まず、揚州、開元寺での風景。円仁が渡唐成功後初めて目にし、耳にした「声明」です。
「大勢の僧がそろって堂内に入り席次に従って座った。何人かが清めの水を配った。・・・大勢の僧の中で一人の僧が木槌を打つ。さらにもう一人の僧が梵唄(ぼんばい、サンスクリット語で唱えられる唄。「声明」の原点)した。その讃えの歌では「どうしたらこの経によって最後にかの悟りの岸に行きつくことが出来るでしょうか・・・」という。その音声の調べは絶妙の美しさであった。梵唄をうたっている間に人が経を配った。梵唄が終わると大勢のものが揃って読経をした。(以下略)」(深谷訳87頁)

当時円仁が耳にしたものとは異なるかと思いますが、日本に招来された梵唄(これを日本ではいつのころからか「声明」と呼ぶようになりました)の一部を聞いて頂きましょう。古い形の「声明(梵唄)」は真言・天台のものがありますが、歌い方や順番は極めてよく似ています。ここでは「天台声明」の方で聞いて頂きましょう。

(KING KICC 5720)



肝心の中国の例がないのが申し訳ありませんが、円仁によれば、前節の新羅の誦経は唐と変わらぬものだったということですので、それを持ってご想像頂ければと存じます。

では、中国より西、すなわち、中国に伝わった「梵唄」は、どのようななものだったのでしょう?

まず、チベットの例ですが、これは、驚かされませんか?

(Victo VICG41139)

超低音です!
何故ここまで低音なのかは、私には調べきれませんでした。ご教示頂ければ幸いです。

一挙に、本場のインドに行ってみましょう。

(KING KICC5735)

小さな礼拝ですが、日本や朝鮮との類似性は感じられます。
インドに残る仏教音楽には東南アジアの「ガムラン」に影響を与えたのではないかと思われるものもあります。同様の仏教音楽はタイの「梵唄」にもあります。
「ガムラン」に影響を与えたのではないか、と思われるものとはまた違い、日本の「声明」とつながりがありそうな方のものを、一つ取り上げておきましょう。

(KING KICC5723)

7〜9世紀当時でも生臭坊主も一杯いたかも知れない仏教界ですが、こうした「梵唄」を聞いていると、むしろ、多くの人びとの心がいかに清らかだったか、の方に思いが吸い寄せられて行くようです。


実際に「入唐求法巡礼行記」を読むと、道教以外を迫害したと言われる唐の武宗の「宗教弾圧」は、円仁の記述からは気違い沙汰に見えると思います。ですが、当時の唐は地方の武力が中央の官僚より力を強めてきており、しかも各々の地方は独立心ばかりが強くて、モンゴルや満州方面、西域方面の外的に対しては防備力が落ちる、という結果ももたらしつつありました。スケールでは比べ物になりませんが、日本の「幕末期」に似た様相を呈していたといえます。
ただ、この当時はまだ、イスラム教は中国方面への脅威にはなっていません。
宗教界では、官僚と癒着し腐敗した面もあった仏教が、なんといってもまだ大きな勢力を保っていました。かつ、仏教は西はインドから東は朝鮮までを結ぶ、超国家的な力をも、依然保っていました(ただし、インドではそろそろ衰退の兆しが見えていたとのことです)。武宗はそうした点に非常な危惧の念を持ったもののようです。

円仁が新羅で見た「誦経」の光景も、また華やかなものでした。この「誦経」もまた、日本の「声明」に大きな影響を与えることになります(雅楽と梵唄の競演の記録が多々残っているそうですが、残念ながら録音例は見いだせませんでした)。

「新羅の誦経の儀式。大唐では念経という。鐘を打って大衆が座席に着き終わると、下座の一僧が立って板をたたき『一切恭敬、敬礼常住三宝』と唱える。次に一僧が梵唄を唱う。・・・梵を行っている間、一人は香合をかかげ大勢が坐っている前をぐるりと回り香のかおりをふりまく。・・・礼仏し終わると、導師は結願文を唱え回向文を述べる。・・・施主が供え物をささげて坐ると、導師は施主の願いによって偈を唱えて祈願し、これによって散会となる。」(深谷訳253頁)

韓国に残る「梵唄」がいかに華々しいか・・・これは散会前の音楽ですが・・・お聴きになってみて下さい。

(Victor VZCG-234)

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2007年8月19日 (日)

モーツァルト K.203、204【セレナーデ問題?】(1)

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。



K.204は翌年の作品ですが、K.203と1年の時間を隔てながらも双子の関係にあると思われますので、一緒に扱います。本来、この他にこの2作品と並列で扱わなければならない作品にK.250もありますが、改めることとします。

先に、両作品の構成を併記してみます。

March in D K237                                    
K.203(august 1774)SERENATA             
1. Andante maestoso-Allegro asssai       
2.(Andante)                                            
3.Menuetto                                             
4.(Allegro)                                              
5.Menuetto(Flute持ち替え)                      
6.(Andante)                                            
7.Menuetto                                             
8.Prestissimo

March in D K215
K.204(Augusut 1775)SERENATA
1.Allegro assai
2.Andante moderato(Flute持ち替え)
3.Allegro
4.Menuetto
5.(Andante)
6.Menuetto(Flute持ち替え)
7.Andantino (grazioso)

どちらもニ長調の作品で、編成はオーボエ2、(ファゴット2、)、ホルン2、トランペット2ですが、K.204のほうが第1楽章に序奏部がないのとメヌエットが1つ少ない(K.203の第1メヌエットに当たるものがない)のが、まず表面上の相違点です。
また、先立つマーチでは、K.237のほうはヴィオラがありません。

双子関係だと考えるのは次の2つの事実によります。
・K.203では2〜4楽章に(ただし、調も変ロ長調ベースに変わります)、K.204では2〜3楽章に独奏ヴァイオリンが入ります。
・いずれも、中間楽章を省略して(k.203では2〜5楽章、K.204では2〜4楽章)交響曲版に改変され、ウィーン移住後(1783)に上演されているとのことです。この交響曲版にはティンパニが加えられているそうです。(NMAの解説にあり、K.204のほうはKonladの作品表の「交響曲」にも掲載されています。K.203の交響曲版が作品表に加えられていない事情は私には読み取れませんでした。)

前にこちらの記事に掲載したのですが、K.203のセレナーデ版と交響曲版の第1楽章前半の演奏を、ここで効き比べてみて下さい。

:ホグウッド/エンシェント
:マリナー/アカデミー

奏法の考え方自体に大きな相違がみられるので単純な比較が出来ないのですが、セレナーデ版の演奏の方が、19世紀後半以降「再発見」されたモーツァルト演奏の常識に沿っています。そこへ殴り込みをかけたのが交響曲盤の方で聴かれるような演奏で、主にホグウッドやアーノンクールの実践的な研究成果による演奏です。
ただし、どちらが正解、ということは、断言は避けましょう。
といいつつ、強いてあげれば、三連符の奏法についてですが、前古典派と呼ばれる時期までは、三連符の第1音を長めに弾くことが優雅である、との考え方がイタリア方面にはあったそうです。交響曲版の方の演奏には、こうした考え方は反映されていません。
一方で、レオポルト・モーツァルトは「バイオリン奏法」にわざわざ「三連符」の章を立てています。ここで述べていることはまた、前古典派のイタリアの流行とは違っているようです。
「自分の音楽的知識に大いに自信を持っている人でも、3つの音符の長さが等しい三連符を6つも8つも弾くことが出来ず、3つの音符のうちの最初の2つか最後の2つの音符を速く弾いてしましまいます。」(塚原訳 85頁)
「優雅」か「均等」か・・・私個人の嗜好からすれば、モーツァルトの作品では、出来れば「均等だけれど優雅」がいいのだけれどなあ、というところです。

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モーツァルト K.203、204【セレナーデ問題?】(2)

さてしかし、奏法云々よりも、これらのセレナーデに交響曲版も存在する、というところに、実は大きな「謎」(おおげさかな)があります。
果たして、交響曲とは(オペラの序曲が前身であったということの他に)セレナーデの「無駄」な部分を削って成り立った様式でもあったのか、という「謎」です。

問題は、「セレナーデ」という曲種にあるらしく思われます。
海老沢「超越の響き」の記すところによれば、(言葉は言い換えますが)「交響曲」とはコンサート、演奏会という、音楽の祝典を開始しまた閉じるものであった(70頁)のに対し、「セレナーデ」はカッッサシオンやフィナルムジークといっしょくたに扱われていて、見物人も存在するザルツブルクの夜の風物詩(82頁)的な機会のための作品であったというふうに読めます。
で、同時代の作曲家たちに、器楽作品としてのセレナーデがどれくらいあるのか、試みに調べてみようと思いました。
が、イタリア系、ディッタースドルフは皆目分かりませんでした。
同じザルツブルクで活躍したミヒャエル・ハイドンにはセレナーデを作曲したとの記述はありましたが、作例は見いだしていません。
面白いのが、ヨーゼフ・ハイドンとサリエリです。ハイドンの作品表には「セレナーデ」という曲種は存在しません。サリエリの数少ない器楽作品には「セレナータ」が数曲ありますが、すべて管楽器のみのための作品で、この点ではハイドンやモーツァルトのディヴェルティメントに相当します。すなわち、基本的に屋外での奏楽を意図したと考えて良いかと思います。

で、まず、モーツァルトのK.204です。こちらについては、演奏された経緯や様子が記録に残っています。
海老沢「超越の響き」にまとめてあるものが一番具体像がつかめるので、そのまま引用します。
「このフィナール・ムジーク(綴り手注:ザルツブルク大学の学生の修了式を祝うための作品であったために、海老沢さんはそう称しているのだと思います)の演奏者たちは、前日にモーツァルトの曲を演奏したあと、当日の夜八時半にモーツァルト家の前に集合する。(中略)この建物の前で集合したあと、彼らは、そこから本のわずかの距離にあるミラベル宮に行って、そこでおそらく大司教の前で演奏する。この奏楽の終りが九時四十五分で、(中略)この大司教の夏の居城での演奏が終わると、楽師たちは、今度は対岸にある大学へと向かうが、彼らは歩きながら、音楽も奏でて行進して行ったものであろう。(中略)そして十一時過ぎまで奏楽が行われるのだ。これは大学教授や学生達を前にしての奏楽であった。」(81頁)
こうしてK.204は一夜に2回演奏された、とされていますが、本当にそうだったかどうか、曲の構造から見ると「おや?」と思わされる点があります。
(1)で見た通り、K.204は、ある意味で2種類の音楽が混合しています。
2〜3楽章にヴァイオリン独奏が入っていますが、これはK.204から見れば前年の"Concertone in C K.190"の延長線上にあります。また、後年の交響曲版では、この2つの楽章が除かれて演奏されていることから見ても、この2つの楽章は「別の音楽」として発想されていたことが裏付けられるのではないかと思います。
「2回演奏」を否定する材料はありませんが、少なくとも別の2カ所で演奏されていることは明らかですから、1〜3楽章とフィナーレを大司教の前で、そのあと1、4〜終楽章を大学で演奏した、ということもあり得たのではないかと思います。

K.203になると、コンチェルトーネとの類似性は、もっと高まります。
すなわち、独奏ヴァイオリン(部分的に2本)の入る2〜4楽章は他の部分と調も変わります。変則的に緩徐楽章から始まっている「小コンチェルト」として、分離して独立して演奏された可能性が高いと思います(実際に音で聴いても、第1楽章と、独奏が入る第2楽章からとの間には「非連続性」を感じます)。
で、K.203の交響曲版は公式の作品表には掲載されていませんが、これも6、7楽章がまた別のコンチェルトーネを形成していることを考慮するとうなずける気がします。すなわち、後半のこの楽章、交響曲の一部として捉えるには、あまりにも独奏オーボエが協奏曲的な技巧を披露しているのです。
すなわち、すくなくともK.203の演奏場面は4つに分かれていた、と想像出来る。
1.入場
2.宴会の開始での第1楽章演奏
3.談笑の合間に、コンサートマスターによる小協奏曲披露
4.さらに談笑。第5楽章のメヌエット
5.あらためて、オーボエ奏者による小協奏曲披露
6.宴の終了
アインシュタインが注目した、マーチから一貫して用いられる「ドソミド」の動機は、音楽が分断して演奏されてこそかえって、「あ、また始まったよ」とお客さんたちの耳を引きつける上で効果を発揮したのではないかな、と、勝手に想像しています。

モーツァルトのセレナーデがコンチェルトーネ的性質を包含することは、短い「セレナータ・ノットゥルナ」、長大な「ハフナー・セレナーデ」K.250、「ポストホルン・セレナーデ」(これは3楽章冒頭に明確にCONCERTANTEと記されていて、フルート・オーボエ・ファゴットが活躍します)を見ても明らかです。
もう一点、上に挙げた最後の「ポストホルン」以降、すなわち、ザルツブルクを離れてからのモーツァルトの作品には、明確に「セレナーデ」と銘打ったものは1作もありません。(「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」は、してみると、セレナーデではないような気がします。)

同時代の、特に南ドイツあたりを中心に、器楽としての「セレナーデ」の作例が他にないかどうか、引き続き調べて行く必要はあるかと思いますが、少なくともK.203以降を確認した場合、次のような仮説が成り立つのではないか・・・ということを述べさせて頂いて、今回は締めとさせて頂きます。

「セレナーデ」は、少なくとも、オーストリア南部あるいはもっと狭いザルツブルク周辺に限られた、独自の「折衷的な」曲種であり、それはある特定の祭典用に
1.入場
2.開宴
3.個人芸の披露1
4.中休み
5.個人芸の披露
6.閉宴
というプログラムを意識して作られたものであった。
モーツァルトが後年そこから数楽章を省略して「交響曲」を作ったのは、あくまで稼ぎにちょうどいい材料があった故の方便であって、「交響曲」と「セレナーデ」には、「シンフォニア」と「交響曲」のような直接的な関係はない。

・・・モーツァルトの作品以外に類似傾向のものがどう言う地域に存在するか。。。あるいは、仮説の反証となるような、異質のセレナーデが幾つも現れるか。。。
いずれ、私の生きる楽しみのために探して行きたいと思っております。

1へ

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2007年8月18日 (土)

24時間テレビ:十二華さんと安藤美姫選手

子供が付けている24時間テレビを、見ないようにしつつ、実は見ています。

この中で紹介された、「いつ突然、内臓破裂などで死が訪れるかも分からない」難病をかかえる、呉市のピアニスト、釜山十二華さんのこと・・・そんな彼女を、スケートの選手権で亜脱臼に耐えて演じる精神力を見せることで勇気づけたフィギュアスケートの安藤選手のお話に、つい感涙を催してしまいましたので、備忘のためにつづっています。

安藤選手が十二華さんの話を局から打診されて快諾し、自分の練習するリンクに招待しましたね。
しかも、わざわざピアノを用意し、安藤さんの発案で十二華さんの生ピアノで"I Believe"を(当日、安藤選手は実は靭帯を痛めていたそうですが)伸び伸びと演じていらした。

昨年12月26日に死去した私の家内は、言ってみれば突然死でした。
でも、平凡ながら懸命に、誠実に生きてきた妻だったと思っています。

お二人の姿を、そんな家内を、つい重ね合わせて胸が打たれました。

これからも、お二人がそれぞれの人生を懸命に生きて下さいますように。
私がいつまでも家内を失ったことで負けていては、お二人に恥ずかしいなあ、とも思いましたが、根っからの小者で、いつ乗り越えられるか分かりません。

でも、お二人を応援することで、自分自身をも励まして行こう、と思った次第です。

お二人に関係するサイト等へのリンク集を、別途作成致しました。

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天女:宮本笑里

なんでもいい、清らかなもののそばにひれ伏していたい。
そんな気分になることが、誰にでもあるでしょう。

このひとの写真が大きく、あるお店に飾られている時には、目を疑いました。
「天女だな」
と思いました。別の思いも混じって、のことではあったのですが、「ひれ伏す」思い、でした。

M_miyamoto

3月で演奏活動をお辞めになった宮本文昭さんのお嬢さんだそうでした。
(詳しい経歴はこちら)。
写真家さんの腕も確かだったのでしょうけれど、清らかな目には、つい吸い寄せられました。
「白衣観音」を連想してしまったからでして・・・ご本人には失礼なことかもしれません。

まあ、でも、将来ある人を、あんまり「天女・天女」と言ってしまってはいけません。
楽器はヴァイオリン、と、お父さんとは違いますが、お父さん譲りの、甘い深い音色と、確かな歌いどころの把握力があって、単なる美人で済ませてはいけない、大事な逸材です。
周りの方が「すくすくと」育って行けるように、是非ご支援頂ければと思いました。

CDそのものは、貧乏やもめですので、全部「試聴」で済ませてしまいました。
変に技巧的な曲を入れず、クラシックファンに限らず手にしたくなるよう仕上げた点は、大いに賛同出来ます。

不満が3つ。

ひとつは、バックが思ったよりお粗末で、曲の大事なところでミスをしているのが分かります。監修が甘い。

2つ目は、低い弦にもいい音色を持っているのに、それを生かす編曲には恵まれていないかな、とおもったこと。

最後に、すべての楽器が、マイクを寄せすぎて録音されています。ヒーリングとして聴くにはその方が流行の音が得られるのでしょうが、録音される音楽は「生命力」を失います。ヴァイオリンにも(肩当てに?)マイクをセットしていますね。写真を見る限り、ヴァイオリンはイタリアもの、最上級クラス、というものではなさそうですが(写真で見たより動画で確認したらモノが良さそうでした)、ヴァイオリンというものはランクに関わらず、その人なりのうちなる響きに、ヴァイオリンの胴体いっぱいで応えてくれる楽器です。ポピュラー系でも活躍している著名ヴァイオリニストたちも多くやっていることでもあり、私は常々、あまり喜ばしくは思えずにいます。日本のエンジニアの方、なによりも奏者の方々に、是非ご再考頂きたい点です。




smile


Music

smile


アーティスト:宮本笑里

販売元:ソニーミュージックエンタテインメント

発売日:2007/07/18

Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2007年8月17日 (金)

定家:後鳥羽との邂逅(1)

<定家関係記事>
千載和歌集:123456789
後白河法皇:1234
松浦宮物語:1234
六百番歌合:123
仁和寺宮五十首:123
(空白期):123
正治二年後鳥羽院初度百首:123
千五百番歌合:
藤原定家の作歌活動をたどってみようと思いつつ、なかなか先へ進みません。「千五百人歌合」で支えっぱなしです。しばらくご容赦下さい。
記事一覧はこちら



正治二年(1200)、突如「和歌」に目覚めたらしい後鳥羽上皇が、にわかに二十余名に対し百歌を詠ませ上呈させようと計画したことで、定家の心は大きく乱れました。
そのあたりの経緯は堀田善衞「明月記私抄」その他に詳しいですし、定家愛好者のよく知るところですから、省略させて頂きます。少しだけ客観的と思われる記述を目崎徳衞「史伝 後鳥羽院」から引用しますと、
「『初度百首の人選は、おそらく通親との緊密な協議によって進められた。二十三味の詠進者は(中略)ほとんど皆、院が生まれて間もない頃俊成が後白河院の勅命によって撰進した『千載集』に入集の輝かしいキャリアを持つ。いきおい年齢も比較的高い。その中には六条派(略)と、これに対立する立場の、御子左家(略)、および彼らの仕える権門(略)などがバランスよく入っていた。したがって・・・この人選がいかに妥当だったかを示している。」(57頁)
定家に軸を据えた堀田著書等は、この目崎氏の実地評価をよく踏まえた上で、なるべく客観的に読むよう心がけるべきでしょう。
で、このときの、いわゆる『正治二年後鳥羽院初度百首』ですが、他の作家は措いて、後鳥羽その人と定家についてのみ比較をしてみましょう。
この比較が、なぜ後鳥羽がこれを機に急に定家を高く評価するようになったかの鍵を、私たちに明示してくれると思うからです。

1・23

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定家:後鳥羽との邂逅(2)

まず、後鳥羽上皇の作歌から、印象的なものをいくつか拾ってみました。
本来ならば、これらと類似した主題を扱った他の人の歌を併記すると後鳥羽の個性がより明確になるかと思うのですが、私の狭い視野ではそれをやりきることが出来ません。
で、2つだけ、『六百番歌合』中にある同主題のものと併記してみます。「違い」に着目下さい。

後鳥羽:梅が枝はまだ春立たず雪の内に匂ひばかりは風に知られて(4)
六百番:(春上 十二番)
     左 勝  (九条良経)
     空はなほ霞みもやらず風冴えて雪気に曇る春の夜の月
     右    (寂蓮)
     梅が枝のにほひばかりやはるならんなほ雪深し窓の曙

後鳥羽:さらにまたうすき衣に月さえて冬をや恋ふる小野の炭焼(61)
六百番:(顕昭)
    残りゐて霜をいただく翁草冬の野守となりやしぬらん
    
・・・どうでしょうか?
六条・御子左・権門、どの代表的作者にくらべても、後鳥羽の歌には、より遠くにまで及んでいる「まなざし」を、私は感じるのですけれど。他の歌もあげてみましょう。

2. 春きてもなをおほ空は風さえてふる巣恋しき鶯の声
10. 花か雪かとへど白玉岩根ふみ夕ゐる雲に帰る山人
14. 春のあした花散る里を来てみれば風に波よる庭のあは雪
22. 来るかたへ春の帰らばこの此やあづまに花のさかりなるらん
30. 五月雨に伏見の里は水越えて軒に蛙の声聞こゆなり
32. むら雲はなをなるかみの声ながら夕日にまがふささがにの露
50. あけぐれの空もたどらぬ(=まよわずにいく)初雁は春の雲路や忘れざらなん
54. 佐保姫の染めしみどりやふかからん常磐の森は猶紅葉せで
73. 思ひわびねられぬ物をなにとまた松吹く風のおどろかすらん
77. 身をつめば厭ひし人ぞあはれなる生駒の山の雲を見るにも

77番に「伊勢物語」の影を感じたりはしませんか? その他も物語絵から切り出したような、余計な「含み」のない鮮やかさです。このあたりが、後鳥羽を定家に近づける要因になった気がします。

1・2・3

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定家:後鳥羽との邂逅(3)

さて、定家の方の百首ですが、中から3首ばかりはのちに「新古今」にとられることとなるものの、後鳥羽に比べると、やはり「臣下の詠」だな、と思わせられる、すなわち先に引いた寂蓮や顕昭に近い「狭さ」があるようです。
それでも後鳥羽を引き込んでしまったこの百首、いったいどんな点がそんなに上皇を引きつけてしまったのでしょう?

後の有名歌集には一首も引かれていない「秋二十首」の前半を、並べてみましょう。
一首一首は、たしかに、たいしたことは無いかも知れない。でも、九首をひとつながりのものとしてお読み下さい。そこに何があるか。

けふこそは秋ははつせの山おろしに 涼しくひびく鐘の音哉
白露に袖も草葉もしほれつつ 月影ならす秋はきにけり
秋といへば夕のけしきひきかへて 又弓はりの月ぞさびしき
いくかへりなれてもかなし荻原やすゑこす風の秋の夕ぐれ
物おもはばいかにせよとて秋のよに かかる風しも吹はじめけむ
唐ころもかりいほの床の露さむみ はぎの錦をかさねてぞきる
秋はぎの散ゆく小野のあさ露は こぼるる袖も色ぞうつろふ
秋ののに涙は見えぬ鹿のねは わくるをがやの露をからなん
おもふ人そなたの風にとはねども まづ袖ぬるる初雁のこゑ

「はぎの錦をかさねてぞきる」とか、「こぼるる袖も色ぞうつろふ」とか、凝ってみようとしてはいるものの、それが巧みかと言われれば巧みではない。それでも、少ない期日に慌てつつ、何とか一首一首にしがみつくように詠んだ定家の必死さは伝わってくるようです。
そんな、血相を変えながらの作歌であるにも関わらず、この九首を一連の詩として捉えた場合、そこに見事な「暮れ行く秋の切ない心情」が物語として展開されている。
これは、単に手腕とか慣れから来たものではない、やはり天分というものでしょう。

同時代の『源家長日記』によれば、後鳥羽が定家の百首の中でとりわけひかれたのは次の述懐の歌だ、ということになっています。

君がよにかすみを分しあしたづの さらにさはねにねをやなくべき

実はこの時の百首には「鳥の歌」や、自分の不遇を歌う(述懐)歌は詠むな、という禁令が伴っていたのを、上記の歌は俊成と定家が共謀してわざと作って百首に入れたのだ、という話が堀田『明月記私抄』にも登場します。
家長がことさらこうして記しているのを見ると、『明月記』そのものの記事なども参照してしまったあとでは、いかにも定家の言い分を哀れに思って、後鳥羽はこの百首を見るなり定家を引見した、というふうに文脈が読めてしまうのですが、家長という人が単に後鳥羽に従順で後鳥羽の言葉通りにしか物事を捉えられなかったのか、いや、賢いからあえて本当のところは伏せたのか・・・分かりませんけれど、後鳥羽は、こんなつまらない述懐の歌には定家を引見する都合のいいきっかけを見つけ出したにすぎず、むしろ、後鳥羽自身の心に展開していたはずの物語絵的な世界が、何の苦もなく『一連の詩」としてさらさらと書けてしまっている定家の「天分」に対し、強い興味を引かれたのではないかと思います。
八月、俄に内昇殿を赦された、そのときの定家のぬか喜びようは、『明月記』本文をひくまでもないと思います。そこにはまだ、この二人のうたびとが、それぞれの天分の相違点により大きくぶつかって行くことになる、初めての小競り合いすら、まだ展開されていない。定家はひたすら、あまりの感激に、後鳥羽の前にひれ伏しているにすぎません。・・・そういう意味では、「邂逅」という表現はまだ大げさに過ぎ、「初顔合わせ」とすべきだったかもしれません。

12・3

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2007年8月10日 (金)

音の力:管弦打、そして声を超えて

家内の新盆ですので、1週間程度、新規記事は綴りません。
宜しく御願い申し上げます。

家内との生活で音楽がしめた割合は、決して高くはありませんでしたが、貴重な時間でした。
そのことを振り返りつつ、盆前の区切りと致します。

生前の家内は中学校の吹奏楽部の顧問をしたり、PTAのコーラスの指導(というのもおこがましかった、と本人は思っていたのですが、とにかく自分に出来るだけのノウハウは割こうと懸命でしたので)をしたり、で、成果が思うように上がらずに迷うと、どうしていくべきか、を私とよく話題にし合いました。
一方、私は私で、自分の所属するアマチュアオーケストラが「なぜ、普遍的な響きを獲得できないのか」に責任を感じてまいりました。(企業にたとえれば、私はその「現場監督者」だったからです。社長は団長、取締役は「練習で指揮する人」・・・私は専門の歌劇場での役職ででもない限り「練習指揮者」という用語は是認できません。特にアマチュアの場合は、これを「肩書き」にしてしまうと、身内が本当にやらなければならないトレーニングは何かを、その人は客観的に考えられなくなります・・・、で、商品の仕上がりは信頼する「総監督」すなわち指揮者が社長を超える権限で行なう、という感じでしょうか?)

自分のほうが(音楽家としてのプロではなかったにせよ)音楽で飯を食っていたくせに、家内は私のほうの言い分を良く尊重してくれました・・・却ってそのせいで、吹奏楽部はコンクールで入賞できなかったのかな? ごめんなさい、家内のせいではなくて、私のせいです。もし生徒さんやご父兄の方がお読みでしたら、この場をお借りしてお詫びを申し上げます。
ただ、五嶋姉弟を育てた五嶋節さんも著書の中で仰っていることですが、「コンクールに向く子もいれば向かない子もいる。自分の子は向かないと思ったから出したことは無い」ということはあり、私もコンクールなどでの「入賞」を前提として音楽を考えることはしてきませんでした。その結果、家内をもそれに同調させてしまったのかもしれません。そのあたりの意はお汲みいただければ幸いに存じます。

さて、生前の家内と交わした会話の内容を中心に、彼女の死後「勉強しなおさなければ」と感じて取り組み始めたこと(これを持てなければ生き続けられませんでした)を含め、以下の3つの項目について、お読み下さる方とともに考えていきたい、というのが本文の主旨です。

そのことによって、「音楽」には、無理して出さなければならない音・自分の中にだけ閉じこもった心では絶対に得られない「力」があることを、みなおしていきませんか?
・・・それは、私たちが、自分自身の精神の姿勢を見直すことにもつながっていくし、(宗教的なものではありませんが)自分自身を清らかにしていくことにも通じていくのではないか、と、常々思っております。

家内は新婚当初は自分の「指導」が思うようにいかないと、徒(いたずら)に失望するばかりでした。(最近の家内に限らず、私より前から家内をご存知だった方でも、そんな時に彼女がすぐにベソをかくヤツだった、とは想像できないのではないでしょうか? 結構ベソカキでした! あ、祟るなよ!)
が、都度、家内へは私から以下の項目に関することで問いを投げかけつづけてきました。最後の5年間ほどは、家内は自分の「子供(生徒)たち」・「仲間(同僚や父兄)たち」が、たとえコンクールで入賞はしなくても、最終日には
「今日はすてきな音楽をやってくれたよ!」
と、有頂天で帰宅するようになっていました。それからは逆に、私のほうが鼻っ柱をへし折られることも増えていったように思います。

二人で話し合い続けたことを「問い」としてまとめたのが、次の3項目です。

1)「音=振動」を感じていますか?

2)「伝わる」程度の強弱を判断できますか?

3)「伝わる」には「伝える」心の姿勢が必要であることを、<素直に>理解していますか?

別に才能があるわけでもない一市井人の綴ることですので、心も浅いかも知れず、恐れ多くはありますけれど、思い切って綴ってみます。
長文かつ文が下手なので意味不明の個所も多くなるのではないかと危惧しますが、お付き合い頂ければ幸いに存じます。


順番にいってみましょう。

1)「音=振動」を感じていますか?

家内の生前は、二人とも専ら「和音」ということに囚われて考えていた問いです。とくにクラシック音楽専従者は「和音」抜きで音楽を把握するチャンスに恵まれません。
しかも、確かに「和音」が正しく「響く」ことは重要です。
アンサンブルの場合、一人一人はいつも同じ音量で歌い奏でしているにしても、「和音」が正しくなければ「脆弱に」聞こえますし、和音が正しければ、「張りと艶」が得られます。
では何故、「正しい」和音かそうでないかが判断できるのでしょうか?

答えは、案に相違するかもしれませんけれど、極めて単純です。

「物理的に、整った波形を形成している」響きを出しているのが正しい和音です。波形が崩れていれば正しくない、ということになります。
波形が正しくなければ、構成音であるべき音の一部がノイズ化するため、その音が和音を「構成」しなくなり、作曲者や編曲者が期待した「響き」が得られません(作曲・編曲が私のようなものの手がけた「デタラメ」ではないことが大前提にありますが!)。

「正しい和音」がなっているかどうか、の判断を下せない独奏者・アンサンブルメンバー・指揮者は、従って、「響き」に対する感覚が欠如している、と指摘されても仕方ありません。
ですが、世間一般にそういう場合、欠点として指摘をする人は少ないですし、コンクールの審査でも「響きが良かった」などと書いて下さる審査員は、本当に稀です。
指導する方を拝見していても、特に大音量が欲しい場合(子供は特に体力的な問題から、大人の基準からすれば「大音量」が出せないケースが多いでしょう)、擦弦楽器なら「もっと弓を強く押し付けて!」、管楽器なら「もっと力をいれて!」・・・案外、そういう人が多い。音楽の専門の勉強をしてきたはずの人でも、そうです。
正直言って、ちょっと驚いております。

擦弦楽器で「弓を押し付ける」ことがいかに間違った方法であるかは、「忘れ難い音楽家たち」で江藤俊哉さんのことを綴った際、文中に私自身が先輩から叱られた体験を記しました。
管楽器は疎いので、最大のアドヴァイザーだった家内の死後、「自分で吹いてみよう」と思い立ちましたが、週に1回吹けるかどうかですので、同じことをまともに言う資格はありません。ただ、弦楽器でも管楽器でも同じだな、と感じたことがあります。

「あ、ちゃんと響く音が出ているときは、体にきちんと<振動>を感じるんだな。」

指先、口元は勿論ですが、胴体にまで振動が伝わってきます。
そういうとき、発音に大事な指や口元はどうかというと、リラックスしているんですよね。

たとえば、最近、家にあって誰も吹いていなかったトランペットを時々吹いてみて、低レベルで恐縮ですが、しばらく期間を開けたあとで、ある日突然吹いたら、高いほうの「ソ」の音がラクに鳴ったので、自分でビックリしてしまいました。その状態のまま、そこから低いドまで下がっていくことも出来ます。ただ、まだ訓練が全然足りないので、吹きつづけているうちに口がマウスピースに強く押し付けられるようになって、結局は30分もすれば「ダメ」になるのですが・・・「高い音でも、口がラクならスッと出る!」というのは新鮮な発見でした。しかも、そのときは胴体も「発音体」になっている・・・振動するのです。

クラリネットも家内の遺品であったので、人に教えていただいて練習を始めました。こちらはまず、まったく未経験でしたので、どうやったら音が出るのかから分かりませんでした。が、いい音のするマウスピースの咥え方をどう探すか、を教えて頂いて、自習すると、これも、芯のあるいい音がするときは、トランペット同様(ヴァイオリンやチェロ同様、でもあるのですが)、口元でリードがふるえているのをはっきり感じます。・・・まだ日が浅いせいでしょう、「胴体体験」までは出来ていません。

管楽器の教本類は、初心者向けであっても必ず「口に無駄な力を入れないで!」・「マウスピースを押し付けないように!」と書いてあるようです。この点、弦楽器の教本の方が劣っていて、弦がきちんと響くにはどうすればいいか、を述べた初心者向けの指導書はありません。

でありながら、管も弦同様に無駄な「力を入れて」発音することを、なぜブラスバンドの指導者(管楽器教育を勉強したはずのトレーナーさん!それも、少なからず)が強要する現象が数多く見られるのか、不思議でなりません。結果的に、作曲者が非常に大切に書いたフォルテ、曲中で最も輝かしく響かせたかった個所で、ブラスバンドの音はしばしば夫々のパートが夫々に違った音程の上ずり方をしてしまい、あるいは楽器の特性によっては激しくずり下がり(これはオーケストラの方によくあります。プロでもあります)、最も輝かしくない響きとなることがあり・・・当然のごとく、そのバンドはコンクールでは賞を逃します。
(そんなときでも「原因は力みすぎ」と評価してくれる審査員の方は、どれだけいらっしゃるでしょう?)

結婚してからはテレビを見るチャンスがなくなったのですが、野球放送で、いいピッチャーを評する時に、
「彼は体の力が良く抜けていますねえ!」
という誉め言葉をたくさん耳にした覚えがあります。

コーラスが弱音で美しく響く場合・・・弱音には弱音を出さなければならないプレッシャーから、また無理な力が入ることが多いのですが・・・、リラックスした発声がなされていることは、たとえばロシアや東欧系の無名の合唱団を聴いても経験させられる、素晴らしい出会いです。
歌い手がリラックスしているからこそ、聴き手もリラックスして、その美麗な声の胎内に心地よく目を瞑ることが出来るのでしょう?

打楽器は、残念ながらまったく知りませんし、センスが無いのも自分で分かっています。
とはいえ、打楽器の活躍する作品、たとえばラヴェルの「ボレロ」で、最初からおしまいまで硬いだけのスネアを聴かされたら、私たちはどう感じるでしょう?
すぐれた打楽器奏者は、夫々の曲でどんな撥を使うか、どの高さや角度から撥を当てるか、に非常な心遣いをするそうですね。ティンパニならマレットの種類が豊富なのを知っている人も多いし、そのせいか、柔らかい音が欲しい曲で柔らかいマレットを使っている奏者を見ると、視覚だけで「良し!」と判断する聴き手の方も少なくないようです。ですが、柔らかいマレットだから必ず柔らかい音がする、というわけではありません。もちろん、ティンパニに限らず、打楽器は良く調整された楽器であることが先ず第一に大切なのではないかとは思います。しかし、それ以前に、「適切な響き」を出しているかどうか、が省みられているかどうか、ときどき疑問に思います。打楽器となると、ティンパニなどの特定の例を除けば、その楽器の持つ音程は「和声」の中では問題にされないようです。それでも、「いい演奏」の中でのスネアやバスドラム、シンバル、銅鑼などは、音楽全体の響きの中に良くハマります。

ここで、はじめて「響き」を考える際に和声の呪縛から逃れてもいいことに気づきましたね。

日本の中世には仏教界に「声明」が盛んに行なわれましたが、モノフォニー(ヘテロ、ではありません)であるその「声明」でも「響きが合う、合わない」という議論があったことが記録に残っています。

してみると、音が一つであろうが二つ以上であろうが、「いい響き」というのは、どこか私たちの肉体に「和する」ものであり、また逆も真なり、ということは明らかなのではないかと思います。

「和する」とは、「体の芯まで、きちんと響く」ことなのでしょう。
「体の芯まで、きちんと響く」とはまた、「音が正しい波形を描けている」からでしょう。
「音が正しい波形を描けている」ためには、それを発する肉体が、ラクでなければならない。

こうして生まれた響きには、強弱に関わらず、心身に届く「力」がある

まずこのことを、覚えておくことにしましょうか。。。

悪い例
です。ふらついている個所は技術がないせいですからともかくとして、しめくくりで「ミーファミーラミーファミーラミー」と弾いているとき、最後の伸ばす音の前にとっている「ラ」の音が、そこまで弾いて来た「ラ」に比べると輪郭がボケている「欠点」にご傾注下さい。最後の「ミ」をノンヴィブラートで弾く設計で演奏したのですが、そのノンヴィブラートに気を取られたために、その前の、大事な締めくくりである「ラ」の音で、弦に乗せる体重が小指に乗り切れなかったのです。従って、弦が適切に振動しませんでした。こういう失敗例を、よくよくお考えになっていただければ幸いです。


2)「伝わる」程度の強弱を判断できますか?

体がリラックスすると心もリラックスする、というのは、今いろんな種類の(健康とか、スピリチュアルとかいう類の)番組や本でよく言われていますが、何かに取り組んでいる人に、あらためて別に健康法の知識や精神世界の知識が必要なのでしょうか?
私には、少々筋違いな気がしてなりません。
単一趣味であってもいいし、複数趣味であってもいいのですが、「健康」や「スピリチュアル」そのものが趣味になることはないでしょう?
(あえて言えば、家内は案外無趣味で、そのくせ「健康」にだけは異様に関心がありました。で、何かで得た「健康の知識」を活用してうまくいき、風邪もひかないようになり・・・その結果自分の「健康」と、「精神や体の状態に対する判断」に対して自信過剰となっていたと思います。いまふりかえると、それが命取りだった気がしてならず、私は主情的に「健康」を謳い文句にしたものには過剰な反発を感じるようになっているかもしれません。)

せっかく持っている趣味の中で・・・いや、職業の中ででも・・・、「健康」や「スピリチュアル」本が特筆していることは、じつはわざわざ述べる必要も無く、自然に身につけることが出来るはずです。

その他にも「健康」や「スピリチュアル」そのもののノウハウだけを売り物にすることに対して疑問を感じるのは、商売される相手があくまで「個」を脱しない、顧客が「個」から脱することを、謳い文句はどうであれ、根本から解消することはない、としか考えられないからです。(くどくなりますが、家内が自分の「個」の中でだけ自分の健康を捉えてしまっていたために・・・私に内緒で医者から胃薬を貰ってきていたようで、死後にそこまで分かったのですが、残念ながら医者が特定できませんでした。決まった内科にかかったことがない人だったからです。僕に「心配をかけまい」と思ったのではなくて、「胃薬を貰う」以上の必要を感じなかったフシがあるのです。死の前日まで、別に痛みを我慢する場面はありませんでした。痛い、っというより、なにかしら「だるい」「もたれる」感じがしていただけなんでしょうね。)

いまはたまたま音楽をダシにしていますから、音楽で考えていきますけれど、人間の営みに、そもそも「個」で成り立つものはありません。
宗教の修行者が人界を離れて超越者的存在に目覚めた、という類の説話は枚挙に暇がありませんが、彼らにしても本当に人界を離れてしまったら、飢え死にするしかないのです(山の草や木の実で食いつないだ、ということはありましたが、その場合は修行者は自分だけの「死」を目的としているのが大前提です。今はこれ以上突っ込みませんけれど)。ですので、厳しいので有名な修行の地も、地理的には必ず、普通の人が普通に暮らす村には半日で行ける距離だったり標高だったりします。

「個」で成り立たない人界は、ですので、お互いの思いが「伝わる」ということを大前提としている、と、ここはあえて言い切ってみます。(異論はおありでも構いませんが、いま、この文の中では、そうさせて下さい。)

で、狭い領域に戻るのもまた突飛ですが、再度「音楽」に話を限定します。
といいつつ、入り口は音楽から逸れます。

日頃から尊敬しているブロガ−で、仙丈さんという方がいらっしゃいます。
プロ野球の阪神の速攻・適切レポートで非常に人気がおありのようですが、スポーツ音痴の私は、全然別の面から接していただく機会が出来、最近やっと野球のこともほんの少しは分かるようになってきた、というところです。
仙丈さんのすばらしさは、「阪神レポート」での言葉だけを手段としながら活き活きと「その場」を見せて下さるところ、だけにあるのではありません。
日頃、自然に咲いているお花や木々の写真を撮られて、やはりブログに掲載なさっているのですけれど、こちらにも熱烈なファンをもっていらっしゃるようです。
私も先ず、そのお写真でファンになりました。言葉ではない媒体で何が「伝わる」か、が、仙丈さんのブログを開くと、画面から溢れてくる。はじめて拝見したときにはもう、家内の死が近かったのですが、幸い、家内にも見せて、感動を共有することが出来ました。
さらにもう一つは、愛犬、穂高君の一連の写真です。こちらは媒体が動くだけでなく、深い愛情の対象でもあるだけに、撮影は植物よりはるかに難しいだろう、とお察ししているのですが、たとえば自分の愛児をめくらめっぽうとりまくるのとは違って、「決定的瞬間」を捉えるまで、(おそらく何十枚も)執拗にシャッターを切りまくり、その中から、「これがダダッ子穂高君でーす!」という写真を厳選して掲載なさる。

一口に言うには、私のほうがあまりに精神が貧弱なのですが、仙丈さんは、「写真」で何が「伝わる」かについては、実に客観的に計算していらっしゃる気がします。
花なら、ただ丸ごととれば、自分の見たとおりの美しさが「伝わる」のではない。中でもいちばん美しい、と思ったところを何枚も撮ってみて、そのなかから、ご自身が感じた「美しさ」にいちばん近いものを、いったんご自身の主観から離れて観察し、選ぶのです。
穂高君なら、「動きの面白さ」が、おそらくは「いちばん出ているな」と思い込んでしまったものよりは、穂高君の体の動き、目や口の表情がいいバランスで釣り合っているものを選択する。
ご自身を基準に、よりは「人の目から見たらどうだろう?」ということを測りにするのが、実に巧みです。
「阪神」の記事で言えば、それは「けふのリン君」と、注目選手を決めて、記事の末尾に必ず彼の成績を入れる、という視点の取り方に、写真を選択する際の仙丈さんの精神と一貫したものを感じます。

なにが「伝わる」か・・・その強弱を、私たちはしばしば、自身の内部だけで決め付けがちです。
試しに一度、仙丈さんのお写真をご覧になってみて下さい。彼の目は、写真の選択にあたって、自分の内部を脱してみよう、という努力をなさっている、と、私には思われてなりません。

伝えたい表情がいちばん強く「伝わる」ものを選ぶ。

果たして、「自分」がそういう別の「自分」をもつことが出来るのでしょうか?
「出来る」という実例が上記のようにあるわけですから、これには"Yes !"と言うしかありません。

前にも綴ったことがあるかもしれませんが、私は学生時代、クラシックでも演歌調に近い作品のメロディを弾くことにかけては、自分ではよく分からないまま、たいへん人様に誉めて頂きました。(今は、そうでもないでしょう。)そのときのことを省みると、私の場合は、意識して「演歌調」が面白く弾けていたわけではないのです。
祖母が演歌好きで、ショーなどにも連れていかれましたから、そういう記憶が原点にあって、しかもそんなたぐいの原点を持つ人がクラシックをやるなんてのは珍しいから、実態は、モーツァルトを弾いてもハイドンを弾いても演歌風に弾いていた。だから、そちら方面では「音楽表現が違う!」としかられるわけです。これがベートーヴェン以降になると、ロマン派は明治大正の演歌文化に強い影響を与えていますから、演歌調で弾いても「音楽表現」の合致度が高くなっていく。で、ブラームスの「ハンガリー舞曲」だとかドボルジャークの「スラヴ舞曲」となると、もう妥当性は頂点に達し、誰よりも抜きん出て面白く聞こえることになった・・・そんなあたりが真相ではなかったか、と思います。

当時、自分の根っこにはそういうものがあるんだ、だからロマン派ものでは自分にもアピールする力があるんだ、という判断力が身に付いていたら、「私も天才!」だったかもしれない。惜しいなあ。

と、自分を引き合いに出しましたが、どうですか、ご自身が奏でる音楽から聴き手に何が最も強く伝わっているか、を、自分の根っこから「判断」してみることができますか? あるいは、「判断」できたことがありますか?
反面、だからこそこちらでは「伝わるものが弱い」のだな、ということを自分で知ることが出来ますか?

私自身、おそらく命の続く限りはずっと途上のままで考えていかざるを得ない宿題になるのではないかと思いますが、自分の根っこを出来るだけ「自己中心感情抜きに」省みられるようになったら、誰にとっても「可能な」ことなのではないか、と思っています。
家内の生前、ここまでですら言葉に出来ませんでしたが、「演歌という根っこ」の話は伝えたことがあり、家内はよく耳を傾けてくれ、それから指導方針もなんだか知らないけどおもむろに変えていったっけな、という記憶があって綴ってみました。

「じゃあ、変えたのはどういうふうに?」というのが、次の話です。


3)「伝わる」には「伝える」心の姿勢が必要であることを、<素直に>理解していますか?

・・・という問いへの答えは、先の仙丈さんの例で出てしまったかな?

いえ、音楽の話ですから、ここで、「伝わる」べきものは何なのか、を考えることで仕切り直しをしておくことは必要でしょう。
「伝わる」べきものは、果たして、「音の行列Matrix」でしょうか?
であれば、規則的か不規則的かを問わず、わざわざ楽器や音楽作品などという媒体を通さずとも、日常はいつも音の行列に満たされています。
クルマの轟音が絶えない都会はともかく、田園地帯ならばそんなことは無かろう、と、お考えになりますか?
決してそうではないことは、シェーファーが著書『世界の調律』で綿密に考証しています。

音楽の正体とは何か、という、もっと根本的な問いに対する答えは、実は大変に見いだしにくいものです。現代音楽と称するものにおける、特に20世紀中盤の様式の混乱状態が、このことを端的に物語っています。そして、当時の混乱は現在では多くの人びとにとってはほとんど忘却の彼方に追いやられている、と断言しても良いかと思います。
また、日本の仏教音楽とされる『声明』は、仏教界内部に「音楽とは違うものだ」という意見もあったりします。

根本への問いはさらに無限の煩瑣な問いを誘発しますので(それでも家内と話題にしたことはあります)、とにかく、『音楽』と呼ばれ、『音楽』として享受されるものは、「音のマトリックス」という大きな集合に含まれ、かつ「人為から作成され、音化されるなにものか」であり、かつ「<非音楽>との境界線が必ずしも明確ではないなにものかである」ということだけを確認しておきましょう。
その明確ではない、音の行列のうちの何らかの特殊な存在である「音楽」から、聴き手には何が「伝わる」のでしょうか?
煩瑣ではありますが、まずここに立ち止まって、「伝わる」ものに耳を傾けてみなければなりません。

「歌」ならば、「歌詞」がありますから、言葉への共感が「伝わる」ものだ、ということは、最低限言えるのかも知れません。ですが、「共感」が「音楽」から伝わったものではない可能性のほうが高く残ります。「歌」と「歌詞」の連繋にも魅力的な「思考すべき課題」がたくさんありますけれど、それは先ずこの際、捨てて考えましょう。

「歌詞抜き」あるいは「ハミングだけ」の「歌」にでも、私たちは、例えば涙し、例えば抱腹絶倒することがあります。これも、しかし、「音楽そのものから伝わった」メッセージを受け止めての結果かどうかとなると、「じゃあ、それがお芝居の中だったり、自分の思い出からの連想だったりという映像イメージから呼び起こされた共感によって伝わったものなのか?」と省みると、そっちに当てはまってしまうケースが多いのではないかと思います。

純粋に、「音楽」だけから、なにかが「伝わる」のか?

「伝わる」は、「音楽を創造した人」の作為による「うねり」なのではないでしょうか?
「うねり」は言葉やかたちでは姿をあらわさないけれど、人間の感覚に確実に訴えかける力を持っています。ですから、人為が加われば、「うねり」そのものに「意味」が付与されるのは、奇妙なことではありません。
音楽から「伝わる」ものは、音という、聴覚で(あるいは振動を感じえる触覚で)把握しうるものが、作者や奏者によって付与された「意味をもつうねり」なのではないでしょうか。

話が抽象的になってしまって恐縮ですが、それぞれの音楽から「伝わる」意味、には立ち入りません。
その「意味」を、言葉で表せば言葉としての比喩になり、かたちで表せばかたちとしての比喩になってしまうからです。
が、抽象的でも、充分でしょう。
1)で見たとおり、音楽の要素である「音」は振動ですから、「音のマトリックス」が莫とではなく、連続して聴き手の心身を、ある特定の状態で振るわせえれば、「音楽」の意味は聴き手に「伝わった」ことになるからです。

そこだけを考えれば、では「伝わる」べき意味を「伝える」には何を考えたらよいのか、も明確になります。

言葉への置き換えが効かない以上、「意味をもつうねり」としての「音楽」は、たとえばAという作品は、なぜAに固有の「うねり」をかたち作っているのか、その「こころ」を理解することが重要になります。
「こころ」を理解しなければ、「こころ」を「伝える」ことなど、不可能だからです。

西欧に起源をもつ音楽(いまや、個々の作品はその国籍は問いません)には、音楽の「うねり」をかなり厳密に紙に記録しえる「楽譜」が発達してきました。しかし、原則は、世界のあちこちの音楽は、今でも「口承口伝」で「伝える」方法を学び、教えることが大原則です。(録音の問題は、今回は触れません。)
そうやって残っていく音楽には、少なくともその音楽の属する文化圏では共通に認識されうる、言語外の「意味」が付与されていることが、自明のこととして受容されているからにほかなりません。かつ、その意味の「こころ」が、口から口へと直接「伝わる」ことで、たとえ変形は伴っても、以後末永く、音楽の心を正しく「伝える」ことが可能だからです。録音について触れない、と言いましたが、このことだけに関しては、ようやく百年の蓄積は出来ましたから、場合によっては録音された音声をもって確認することが出来ます。たとえば、百年までの幅はありませんけれど、日本の歌舞伎、特に「勧進帳」の冒頭部の富樫については、どのように「口伝」されてきたか、何が変わらずにあるか、を確かめることが、比較的容易に出来ます。冒頭の富樫は、演じ手によっても新旧によっても、ただ耳にしただけでは、夫々が違って聞こえるかもしれません。しかし、この部分も単なるセリフではなく、きちんと「フシ=旋律」を持っています。それを、私は本の活字の脇に線で表して聞き比べた上で、家内に見てもらったことがあります。
「そうなんだよね、伝えたいことは、人が変わってもひとつなんだよね」
そんなような意味のことを、家内が答えてくれたと、(勘違いなのかもしれませんが)記憶しています。
以後、家内は合奏・合唱の各曲の各部分のもつ意味を、生徒さんやお仲間に積極的に「比喩」で伝えようと頑張っていました。・・・脱帽、でした。。。

精密な楽譜の存在する「クラシック」では、これが欠けがちで、20世紀中盤には様々な混乱を起こしました。
それまでの奏法は、18世紀まで伝統とされていたものを19世紀後半の人たちが勝手に改変したものなのだ、という意識が、どういう理由からかは分かりませんが広まってしまい、新説が続出し、創作の世界では反動的に「新しい媒体、新しい意味付け」ばかりが脚光を浴びた時期もありました。
「いや、そうではなかったのだ」
ということが、最近気が付かれ出しています。・・・そのことは機会があったらあらためて観察してみましょう。今、そこに立ち入ることは話の本筋からずれていきますから。
ただ、こうした事実があったことで、西欧音楽はいったん「口承口伝」の大切さを、一度見失ってしまった、という事実は、お伝えしておきたく思います。
次のサンプルを聴いて下さい。
モーツァルトのK.203(セレナーデ版と交響曲版があります。なぜそうなのかは「モーツァルト」のカテゴリであらためて採り上げます)の、二つの演奏です。セレナーデ版の第1楽章=交響曲版の第1楽章です。

:ホグウッド/エンシェント
:マリナー/アカデミー

・・・どちらの「伝え方」がモーツァルトのものだったか・・・というより、ヨーロッパ人が本来継承したかった「伝え方」だったのか。
同じ「楽譜」があっても、こんなに違うということに、私たちは本当に違和感を感じないでいることが出来るでしょうか?
「こころ」の「伝え方」には何通りあっても、本来、別に差し支えないことなのかもしれません。
しかし、音楽の意味する「こころ」の根本を追求する精神の、凛とした姿勢がなければ、上例の違いに対する「奏者としての適切な答え」は絶対に見出せないでしょう。
羽目をはずすのが目的の音楽でも、羽目のはずし方には、やはり一貫した「方針」が・・・だからやはり、精神の凛とした姿勢が必要なのであって、それが今は見えないにしても、また、永遠に見えないにしても、自分の今の音楽に対する<視覚>に固執せず、「いつかは見えるようにしたい」と、いつでも己れの視点・視角を白紙に出来る強い「こころ」を養えない限り、その人は「奏者」でいる資格は無いのに違いありません。

・・・あ、「奏者である資格の無い」私が、こんなことを綴ってしまった。。。

家内が、私を立てるような振りをして、私や子供たち、そしてたくさんの人に言いたかったことがあったとすれば、こういうことだったのではないかな、と、代弁するつもりで綴ってまいりました。
ただし、文責はあくまで、出来の悪い夫である私です。
出来の悪い文章に長々お付き合いさせてしまいました。

最後に、手前味噌になりますが、先般の演奏会で、私が感じた「彼、彼女は<伝える>ことを良く考えたな!」と感激した部分を2箇所だけ、ほんのちょっとお聴きいただいて、家内の遺志を十分に伝えきれる能力の無いことの埋め合わせとさせていただきます。


どなたも、良いお盆休みをお迎え下さい。

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2007年8月 9日 (木)

シェーファー「音探しの本」

現代音楽に連なる人の記念年の表は、盆明けとさせて下さい。
まだ生存している人を、故人と並べていいものかどうか、迷っておりますので。

明日改めて、旧盆前最後の記事を綴る予定です。
それに関連して、1冊の本をご紹介しておきます。




音さがしの本―リトル・サウンド・エデュケーション


Book

音さがしの本―リトル・サウンド・エデュケーション


著者:R.マリー シェーファー,今田 匡彦

販売元:春秋社

Amazon.co.jpで詳細を確認する

1年半前、私が「うつ」からのリハビリのために、ブログで「音日記」でもはじめてみようか、と考えるきっかけを作ってくれた本です。(ブログの中身は、結果的には「音日記」にはなりませんでした。)

もとはといえば、子供向けの本です。
でも、子供一人で読むのには向きません。
100個の「音さがし」の課題を、子供たちに優しく問いかける本です。
けれど、ある子が一人だけでこなせる課題は、あまりありません。
クラスでの取り組みが必要なものが多すぎるのが、日本の実情には合っていません。
ですが、すばらしい課題ばかりです。

最初の問題。
「 ほんの少しのあいだ、すごく静かにすわってみよう。そして耳をすましてみよう。今度は紙に、聞こえた音をぜんぶ書き出してみよう。

  みんな、それぞれ違った音が聞こえたかな。

  大きな声で、クラスのみんなに向かって、音のリストを読んでみよう。それからみんなが、読んだ音を聞いてみよう。

  ほかの人たちは、あなたが聞かなかった音を聞いていただろうか?」
(一部、「、」を補いました。訳書3頁)
  
本来は、こういう「課題」を先生が主導出来る「ゆとり教育」こそ発想されるべきでしたが、日本の官僚さんたちが思いついた<ゆとり教育>には、残念ながら、例えばこの本でシェーファーが貫こうと試みたような「方針」がありませんでした。そして、最近はまた、ふたたび「基礎学力を養うのに充分な授業時数」などというのばかりに気を取られています。
仮に良心的なお役人さんがいて、
「いや、大切なのは鋭敏で柔軟な感覚を養うことだ」
と発言したとして、どれだけの人がその発言者を誉めてくれるでしょう?
仮に、それでもこうした発言が受け入れられたとして、では、「鋭敏で柔軟な感覚」を養うプログラムは、誰がどのように設計するのでしょう?

それ以前に、そもそも、「基礎学力」とは何なのでしょう?
子供が、自立して、かつは協調して、環境の変化に充分対応しつつ生存出来る能力・・・「人間」にとってはそれ以上に必要な「基礎学力」なるものがあるのでしょうか?

いまの多くの日本人がイメージしているのは、こんな感じだ、と言ったら間違っていますか?
数学・国語・現在最も日本で通用する第1外国語である英語にたくさんの時間を割き、四則演算の原則など、そもそも何故そんな考え方が生まれたかなんかは関係なく機械的に覚えさせただけで間に合うから、間に合うものはさっさと済ませて、どんどんもっと難解な知識まで持たなければならない。国語や英語の単語に語源の知識はいらなくて量だけなるべくたくさん覚えればいい、文章の背後にある思想も読み取らなくていいから複雑な事務文書がすばやく読み取れて即座に応答出来る弁論をし得る「高度技術」を身につける<反論の詭弁術>をよく身に付けておかせなければならない・・・「基礎学力」って、そんな、足場の不安定な、頭でっかちな「塔」に過ぎないもの。そのわりに、建築には膨大な時間を要するもの。

もし、「お前の言うことは0.01%だけでも正しいところはある」と仰って下さるのでしたら、この本の問いに、「大人」として答える自習から、是非はじめてみていただきたいと存じます。

それだけの価値を感じ、今日まで本棚のすぐ脇においては、時々参照してきた本です。
これからもそうしようと思っております。

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2007年8月 8日 (水)

2008年が記念年(3)ロマン派だあ!

昨日、作成途中で消え去られてしまった、涙無しには作れないロマン派の表です。
(実はWikipediaから拾って安易にリンクしてるだけ、ってことは内緒です。)


フェルディナント・リース Ferdinand Ries (1784年-1838年)没後170年
    ベートーヴェンに信頼されたことで有名ですね。
ジョアキーノ・ロッシーニ Gioachino Antonio Rossini (1792年-1868年)没後140年
    彼のオペラが最近はだいぶ映像化されました。嬉しいことです。
    ただ、引退の謎について漠然とした説しか無い現状は早く打破出来ないでしょうか?
フランス・アドルフ・ベルワルド Franz Adolf Berwald (1796年-1868年)没後140年
    彼の交響曲はNAXOSでしか聴けないのかしら?
フランツ・シューベルト Franz Schubert (1797年-1828年)没後180年
    彼も記念年だったのだ!
ガエターノ・ドニゼッティ Gaetano Donizetti (1797年-1848年)没後160年
    分厚い伝記が国内本で出たのはいいけれど・・・高いよ〜。
    もっと日本人に真価を知られるべき人です。
    お兄さんがオスマントルコのお抱え作曲家だったのはご存知ですか?
ヨーゼフ・デッサウアー Josef Dessauer (1798年-1876年)生誕210年
アレクサンドル・ワルラモフ Aleksandr Egorovich Varlamov (1801年-1848年)没後160年
アンリ・エルツ Henri Herz (1803年-1888年)没後120年
ヨハンナ・キンケル Johanna Kinkel (1810年-1858年 女性作曲家)没後150年
ミケーレ・ノヴァーロ Michele Novaro (1818年-1885年)生誕190年
シャルル・グノー (Charles Francois Gounod 1818年-1893年)生誕190年
アンリ・ラヴィーナ Henri Ravina (1818年-1906年)生誕190年
テオドール・グヴィ Louis Théodore Gouvy (1819年-1898年)没後110年
アドルフ・ブラン Adolphe Blanc (1828年-1885年)生誕180年
フランソワ=オーギュスト・ジェヴェール François-Auguste Gevaert (1828年-1908年)生誕180年、没後100年
ジョン・ウィリアム・フェントン John William Fenton (1828年-不詳)生誕180年
    お雇い外国人〜恩を忘れている、日本人。
チャールズ・クローザット・コンヴァース Charles Crozat Converse (1832年-1918年)没後90年
ツェーザリ・キュイ Tsezar Antonovich Kyui (1835年-1918年)没後90年
    五人組の中では最も影が薄くありませんか?
    意地悪だった人、というイメージが、私にはつきまといますが。
テクラ・バダジェフスカ Tekla Badarzewska (1838年-1861年)生誕170年 女性作曲家
     〜「乙女の祈り」! 27歳で死んじゃっちゃあ、いけません。。。
ジョルジュ・ビゼー Georges Bizet (1838年-1875年)生誕170年
    ビゼーもこの歳になったら「仙人」だなあ。。。
マックス・ブルッフ Max Bruch (1838年-1920年)生誕170年
    ブラームスに、負けた。。。
パブロ・デ・サラサーテ Pablo de Sarasate  (1844年-1908年)没後100年
    録音が残っているのが嬉しかった思い出があります。
ニコライ・リムスキー=コルサコフ Nikolai Rimsky-Korsakov (1844年-1908年)没後100年
    「シェラザード」ばっかり演奏されるトシになりませんように! 交響曲だって素敵ですよ!
フリードリヒ・ザイツ Friedrich Seitz (1848年-1918年)没後90年
    彼のヴァイオリン協奏曲に管弦楽伴奏はあるんでしょうか? 乞う、情報。
チャールズ・ヒューバート・パリー Charles Hubert Parry (1848年-1918年)生誕160年、没後90年
リヒャルト・アイレンベルク Richard Eilenberg (1848年-1925年)生誕160年
アンリ・デュパルク Henri Duparc (1848年-1933年)生誕160年
レオシュ・ヤナーチェク Leos Janáček (1854年-1928年)没後80年
    この飛び抜けた天才を、ロマン派、という範疇で扱っていいんでしょうか?
ジャコモ・プッチーニ Giacomo Puccini (1858年-1924年)生誕150年
    彼の管弦楽法は、悪い方の意味ではワーグナーと同じ罪を犯していはしないかしら?
ダルドロ Guy d'Hardelot (1858年?-1936年 女性作曲家)生誕150年
メル・ボニス Mel Bonis (1858年-1937年 女性作曲家)生誕年
ジークフリート・アルカン (Siegfried Alkan 1858年-1941年)生誕150年
    Wikipedia上に記事が無いのが不思議なひとり。
エセル・スマイス Ethel Smyth(1858年-1944年 女性作曲家)生誕150年
    軍人の娘で気が強い英国婦人でした。ライプツィヒで勉強し、ブラームスとも接点がありました。
    (天崎「ブラームスと私」音楽之友社に、彼女の自伝の一部の訳が載っています。)
エドワード・マクダウェル (Edward Alexander MacDowell 1860年-1908年)没後100年
クロード・ドビュッシー Achille Claude Debussy (1862年-1918年)没後90年
    未だ90年前・・・でも、90年前。。。
シャーンドル・エンマ Sándor Emma (1863年-1958年 女性作曲家 )没後50年
ウンベルト・ジョルダーノ Umberto Giordano (1867年-1948年)没後60年
フランティシェク・ドルドラ Frantisek Drdla (1868年-1944年)生誕140年
     アルカンに同じ。
グランヴィル・バントック Granville Bantock (1868年-1946年)生誕140年
レオポルド・ゴドフスキー Leopold Godowsky (1870年-1938年)没後70年
フランツ・レハール Franz Lehár (1870年-1948年)没後60年
    わりと最近まで活躍していたんだ、と驚きました。
    そういえば録音が残っているんだったな。聴いてないな。
フローラン・シュミット Florent Schmitt (1870年-1958年)没後50年
エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ Ermanno Wolf-Ferrari (1876年-1948年)没後年
     レハールと同じ年に亡くなっているんですね。
アンドレ・カプレ André Caplet (1878年-1925年)生誕130年
ミゲル・リョベート Miguel Llobet  (1878年-1938年)生誕130年、没後70年
イルデブランド・ピツェッティ Ildebrando Pizzetti (1880年-1968年)没後40年

・・・意外と知らない人が多いなあ。。。

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2007年8月 7日 (火)

2008年が記念年(2)古典派

さっき「ロマン派」まで作ろうとしたら、ブラウザが勝手に「終了」してしまいました。
アタマにきたんで、「今日はもうやめよう」と思いましたが、癪なので、やっぱり「古典派」だけは作っておきます。


<古典派>
人数は多くないのですが、案外、「話題の人」が登場します。

フェリックス・ベンダ Felix Benda (1708年-1768年)生誕300年、没後240年
ゲオルク・ロイター Georg Reutter (1708年-1772年)生誕300年
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ Carl Philipp Emanuel Bach (1714年-1788年)没後220年
  亡くなってから未だ220年なんだ! 
  この人のシンフォニアには悩まされました。。。難しい!
ニコロ・ピッチンニ Niccolò Piccinni (1728年-1800年)生誕280年
  お人好しでグルックはとの論争に巻き込まれた、かわいそうなオペラ作曲家。
ヨハン・アダム・ヒラー Johann Adam Hiller (1728年-1804年)生誕280年
ヤン・コジェルフ Jan Antonín Koželuh (1738年-1814年)生誕270年
レオポルト・アントニーン・コジェルフ Leopold Anton Kozeluch (1747年-1818年)没後190年
  上記ヤンのいとこだそうです。たしか、ベートーヴェンにミソクソに言われた人。
  悪い人じゃなかったんだろうに。かわいそう。
パヴェル・ヴラニツキー Pavel Vranický (1756年-1808年)没後200年
ヨハン・ネポムク・フンメル Johann Nepomuk Hummel (1778年-1837年)生誕230年
  現在では地味な存在ですが、彼無しにショパンのノクターンは生まれなかったでしょうね。
アントニオ・ディアベリ Antonio Diabelli (1781年-1858年)没後150年
  あの、いろんな人に自作主題で変奏曲を書かせたお金持ちです!
ルドルフ大公 Rudolph Erzherzog von Österreich (1788年-1831年)生誕220年
  ベートーヴェンの弟子にして最大のパトロン。


今日まで続く音楽家家系、ベンダ家で、フェリックスという人はどんな位置づけなんでしょう?ご教示頂けたら幸いです。
ゲオルク・ロイターやヒラーについての記事がWikipediaに無いのは意外でした。これも適宜探さなくては。

でも、こうして見ると、「古典派の時代」はそんなに昔じゃないんですねえ・・・

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2007年8月 6日 (月)

2008年が記念年(1)ルネサンスからバロック

気が早いですけれど。。。
いつもへ理屈ばっかりだから飽きられますよね、アクセス数も夏枯れですし。。。

せめて、来年のレパートリ−探しのために、と、だいぶ気が早いですが、Wikipediaで来年が記念年の作曲家を調べてみました。

ただし、演奏する人によって知識・規模・技術等考慮すべき点が変わるでしょうから、
(1)ルネサンスからバロックまで
(2)古典派からロマン派
(3)20世紀
に分けてみようかと思います。
意外と興味深い人物たちが出てくるので、ちょっとビックリしています。
(キリのいい人は少ないんですけどね。)



今回は、ルネサンスバロック

<ルネサンス>
ピエール・ド=ラ=リュー (Pierre de La Rue, 1460年頃 - 1518年)没後490年。あと10年!
フランシスコ・ゲレーロ (Francisco Guerrero, 1528年 - 1599年)生誕480年
トマス・ルイス・デ・ビクトリア (Tomas Luis de Victoria, 1548年 - 1611年)生誕460年。あと40年は、待てない! いや、没後400年が間近です!
コスタンツォ・ポルタ (Costanzo Porta, 1528年/1529年 - 1601年)生誕480年
アドリアーノ・バンキエリ (Adriano Banchieri, 1568年 - 1634年)生誕440年

<バロック>
ジュリオ・カッチーニ(Giulio Caccini 伊 1545年頃 - 1618年)没後390年。オペラ史の最初を飾った人ですね。
マウリツィオ・カッツァーティ(Maurizio Cazzati 伊 1616年 - 1678年)没後330年
ジョアン・セレロールス(Joan Cererols 西 1618年 - 1680年)生誕390年
ザムエル・フリードリヒ・カプリコルヌス(Samuel Friedrich Capricornus チェコ・独 1628年 - 1665年)生誕380年
クリストフ・ベルンハルト(Christoph Bernhard 独 1628年 - 1692年)生誕380年
ヨハン・ミヒャエル・バッハ(Johann Michael Bach 独 1648年 - 1694年)生誕360年
大バッハの最初の妻バルバラの祖父クリストフの兄弟。クリストフの方が、大作曲家として有名なのですが。
ヨハン・シェッレ (Johann Schelle 独 1648年 - 1701年)生誕360年
マラン・マレー(Marin Marais 仏 1656年 - 1728年)隠れた大家! 没後280年
ジュゼッペ・トレッリ(Giuseppe Torelli 伊 1658年 - 1709年)生誕350年
フランソワ・クープラン(François Couperin 仏 1668年 - 1733年)生誕340年〜うーん、あと10年か。。。
リチャード・レヴェリッジ(Richard Leveridge 英 1670年 - 1758年)没後250年
ウィリアム・クロフト(William Croft 英 1678年 - 1727年)生誕330年
ジャン=フランソワ・ダンドリュー(Jean-François Dandrieu 仏 1682年 - 1738年)没後270年
ヨハン・ゴットフリート・ヴァルター(Johann Gottfried Walther 独 1684年 - 1748年)没後260年
フランソワ・ダジャンクール(François d'Agincourt 仏 1684年 - 1758年)没後250年
ニコラ・ポルポラ(Nicola Porpora 伊 1686年 - 1768年)没後240年。私はあまり知らないのですが、きれいな曲を書いています。いい作曲家だと思います。映画「カストラート」の中ではコワい存在ですが。。。名カストラート、ファリネッリの育ての親であることは間違いようでして。。。
ドメニコ・ツィポーリ(Domenico Zipoli 伊 1688年 - 1726年)生誕320年
ユハン・ヘルミク・ルーマン(Johan Helmich Roman スウェーデン 1694年 - 1758年)没後250年。「スェーデン音楽の父」と呼ばれた人。
ヨハン・アドルフ・シャイベ(Johann Adolf Scheibe 独 1708年 - 1776年)生誕300年
トマス・アーン(Thomas Arne 英 1710年 - 1778年)没後230年

トレルリの数字のキリがいいのは、弦楽合奏をやる人には、ちょっと目玉ですね。
シャイベの細かい記事がWikipediaにないのは、意外でした。ちょうど生誕300年だし、適宜探してみたいと思います。

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2007年8月 5日 (日)

モーツァルト:ロレートの連祷K.195(2):晩年に至る語法の獲得

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。



viola有無問題のダシにK.195を取り上げる際
「読譜の結果、音楽上の注目点でもアインシュタイン説に違和感のある結果となりました」
などと生意気を綴りましたが、よくよく考えてみると、これは「浅い読み」でした。
K.195について、アインシュタインが終曲"Agnus Dei"の歌いだしが、弦楽四重奏曲<狩>第3楽章の主題の後半部と同じ音型をとりあげていることに対し、ことさらその部分だけを後期の作品と類似している、そう彼は見なしている・・・つまりは、K.195は、<狩>の部分的な音型と類似した箇所がたまたまあるだけで、やはりまだ後期作品には及ばない、という暗黙の低評価を、アインシュタインはK.195に下している・・・そのように読み取ってしまいました。
K.195は、後期どころか、晩年の名作に生き生きと使われることになる「モーツァルトらしい音楽言語」の宝庫です。もしアインシュタインの視野が前述の点に限られていたのだとしたら、それは彼がK.195を「理解していた」とは言えない、ということを表す結果となります。

よく読んだら、違いました。アインシュタインさん、ごめんなさい。

アインシュタインは、K.195の歌い出しのテーマが<狩>にあるものと共通だということを示したあとで、こう言っています。
「だから最高の観点から見れば、内的に最も近親関係にある二つの楽曲のうち、なぜ一方が妥当性を持つとされ、他方が非難されるのか、納得のいかないことである。」(「モーツァルト その人間と作品」訳書451頁)
要するに、執筆当時はまだ難しかったであろう諸素材の割り出しによって面倒な記述をするよりも、彼は最も有名な部分を「典型」として切り出すことによって、K.195の「深さ」を、世人に端的に、簡潔に、理解せしめようとしたのです。
ド・ニが無条件に同調したのも(彼の著書は、よりコンパクトですから、それ以上脇道には逸れられなかった以上)、むべなるかな、なのでありました。

ですので、私も極力駄弁を弄するのは「やめ」にします。
作品の構成の中で、モーツァルトが何を獲得したか、を見て行きましょう。

編成:2Ob、2Hr、弦五部にオルガン

1. Kyrie :Adagio(4/4)--Allegro(4/4, b12~b122) ソナタ形式
序奏があることで「シンフォニック、器楽的」と表する言葉を見受けましたが、フランス風歌劇の序曲としての「シンフォニア」に似ている、という認識が前提なら、まったくハズレ。とは申し上げにくい、かも知れません。ですが、仰っている方達が「シンフォニック」という言葉で表現したいのは、「交響曲」として確立されたシンフォニーであるようです。・・・となると、お門違い、としか言えません。序奏付きの交響曲は、この時期、あったとしても未だ一般的ではないからです。アダージョの序奏は「宗教曲」であるが故の、そして、人びとがまずは敬虔な気持ちを整えるための、厳粛な雰囲気を作る意図で設けられた、と捉えるべきであり、これによって「信徒」らは祈りの歌へと集中して行く。・・・この「音楽への集中」の効果のすばらしさを、交響曲はむしろもっとあとになって「宗教曲」に気が付かされ、「宗教曲」から学び取り、吸収したのだと考えるべきでしょう。「ソナタ形式」の示す意味合いについては次曲と共通ですので、そちらで述べます。
Allegoに入り、主題を4小節目から独唱部が受け継いだ時の雰囲気がペルゴレージ風であることには注目しておいて良いと思います。すなわち、音楽は「バロック〜前古典〜古典派」などという途切れを明確に意識して創作されていなかったことが、このことから伺われます。モーツァルトの主題の扱い方は、あくまで「伝統」に則っている。但し、これが「イタリア風」であるところがミソです。このことが次曲の「ソナタ形式」に繋がって行くからです。
さらに、目立った形では31小節目と、再現部の99小節目に現れるのですが、ここには「交響曲第39番」フィナーレに現れる「喜びに飛翔する」動機の原型が既に存在します

2. Santa Maria : Andante(3/4) 184小節 ソナタ形式
「ソナタ形式」の発祥についてはいろいろな説がありますけれど、モーツァルトがこの作品で示している「ソナタ形式」は、明らかにイタリアオペラの「ダ・カーポアリア」をモデルにしています。
クリスチャン・バッハのソナタの中にも、「ソナタ形式」でありながら展開部が呈示部の主題を全く示さないものがあり、「これは形式が定まる前の過渡的な姿にすぎない」と断じられているのですけれど、クリスチャン・バッハの「展開部ではない中間部のあるソナタ形式」も、ダ・カーポアリアを器楽化した結果だ、と捉えれば、過渡的でもなんでもありません。
K.195の美しいSanta Mariaの呈示部は、あくまでソプラノの「アリア」として歌われます。53小節目から、しかし、従来の「アリア」では考えられなかったほどの長大な中間部が用意されていますが、これは祈りを「個人のもの」ではなく、「会衆のもの」とするための、粉骨砕身した工夫によってもたらされたものです。69小節に見られる、下属和音をワザと短調化する効果は、そこで会衆がイエスやマリアの像を切ない目で見上げる姿を聞き手に彷彿とさせます。同じ技法はこの作品中、終曲"Agnus Dei"の40小節(ほぼ終わりに近い箇所)で再度用いられます。・・・音楽が一旦、それまでの一様な流れに「問い」を投げ掛ける、こうした語法も、モーツァルトは以後、頻繁に、ただし気取られぬよう巧みに用いています。とくに最後の6つの交響曲などから、実際に例をお聞きとりになってみると「なるほど!」とお思い頂けるかと存じます。
再現部の独唱はどこから展開部と切り離されているかを、恣意的に明確にしていません(122小節からです)。いや、またソプラノが歌うのではっきり分かるかな? このあたり、書法としては面白い部分ですが。。。

3. Salus Infirmorum :(4/4) h moll Adagio (34bars)
この、短くも激しい部分は、それでもA-B-A-Bの構成を持ち、単純に激情に走ってはいません。
Aの部分の動機が、実は「レクイエム」の"Rex Tremendae"の先取りなのだ、という点に気が付いておく必要はあります。「レクイエム」ではより洗練されることになるこの動機は、民の恐れを良く象徴しています。
B部はフゲッタ的な技法を用いることで荘厳さを表していますが、これもおなじく"Rex Tremendae"の途中の部分を想起頂ければ、「恐れの心が千々に乱れる」さまを巧みに表現していることが分かります。

4. Regina Angelorum : Adagio con spirito(3/4, 176bars)
第3曲からataccaで繋がるのが本来の演奏でしょう。3曲目で「病を得る人の身」たる自分の弱さをいかようにも支配しうる主に対して恐れおののいていた民が、ここにいたって天の皇后マリアに全幅の信頼を示すことで救われる、という図式だからです。
A-B-C-Dを二度(変形の上で、ですが)繰り返す構成をとっています。B、C部をテノールソロにした意図は・・・ちょっと理解出来なかったです、ハイ。

5. Agnus Dei : Adagio(4/4) ,47bars
5曲中最も旋律的な、敬虔な美しさをたたえた章です。アインシュタインの言う通り、弦楽四重奏「狩」第3楽章主題の後半部と同一のメロディでソプラノが歌いだしますが、こちらでの使われ方の方が断然(器楽の副次主題ではないせいもあって)アリア的です。・・・いえ、これは明らかに、オラトリオの中に登場するような、合唱を伴うダ・カーポアリアです。切なさを湛えた17小節目からがB部に相当し、22小節後半からがA部に戻っています(25小節目以降は単純にもとに戻っているわけではありまえんが)。
40小節最終拍に第2曲と同じ技法を用いて以降、41〜47小節はコーダとなりますが、下向する半音階進行を巧みに用い、「憐れみたまえ」と床に静かに膝をつく人びとの姿を彷彿とさせる締めくくり方は、「夕映えの絵画」ではなく、祈りが静かに敬虔に終えられる場面を見事に描写した、ワイドスクリーンの映画のエンディングのようです。

スコアはNMAでは第2分冊末尾、Carus版ではISMN M-007-08745-2です。
ロンドンレーベルから他の曲と併せて収録している2枚組盤がでているのを見受けましたが、K.109との抱き合わせでなかったのが不満で、手にしておりません。
私はフィリップスの全集盤で聴きました。
いずれも70〜80年代の録音でした。彼の宗教音楽は全般に演奏の方法から見直されるべきで、より新しいもので聴いてみたいところです。が、該当する録音を発見しておりません。したがって、ここではとくに推薦盤は掲示しないでおきます。

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2007年8月 4日 (土)

Czerny(ツェルニー【チェルニー】)の交響曲:「練習曲」ばかりじゃないんだな!

おととい、娘の進路の件で、私の家内の仲人さんをして下さった恩師(家内はじつに18歳の時からお世話になった。私は某大学のオケで出会い、仙台勤務時代の「のんだくれぶり」をしっかり目撃されてもいる)のお宅にお邪魔しました。

ついで話の中で、楽器写真集の貴重な本と、面白いスコアを見せていただきました。

で、スコアの方ですが、いずれも19世紀初頭の作品で、一つはイギリスの作曲家の舞曲なのですが、大失敗、作曲者名を控えるのを忘れました。舞曲集ですが、一見したところモーツァルトによく似た書風です。編成はせいぜいオーボエ2本にファゴットにホルンが入ると大きい方、という曲集ですが、旋律線も美しく、伴奏も「ごく自然に」凝っています。ただ、明らかにモーツァルトよ同類作よりは、もしかしたらより洗練された音がするかもしれません。音符が「都会の顔」をしていたからな。

もう一つが、
「おお、これは!」
でありました。
チェルニー、そう、「ツェルニ−30番」とか「40番」とかでピアノを練習する人をくる楽しませ(「苦しい」と「楽しい」を合わせたこの造語、誰が作ったんでしたっけね、いい言葉ですね)、50番で挫折をさせる、あのチェルニーさんの作品のスコアでした。

交響曲!

中身を見ると、和音の付け方、動機の使い方・・・言葉に出来ない自分の無能力が恨めしいのですが、
「ふうん、やっぱり、ベートーヴェンの弟子だっただけのことはある!」
うならせるような内容でした。要するに、駄作ではありません。頭の中で再現してみた限りでは、むしろ、傑作だと思いました。
拝見したのは「5番」だったと思いますが、1日すぎたら記憶が曖昧になっていました。最近、ダメだな。。。

スコアは希少ですし、パート譜が手に入らなければオケマンとしては銅賞(あ。失礼。娘の学校のブラバンはコンクールで銅賞だったので、つい・・・)もないので、
「とりあえず、これは聴かねば!」
と、昨日、新宿タワレコにCD探しに走りました。
6番と2番、というのがありました。速攻で買ってしまいました。

あとでHMVのサイトを見たら、500円も安かった。。。激しく、後悔。
この他の作品のCDの存在も確認出来ました。リンクをご覧下さいね。

Wikipediaの記事では「作風は彼の気の小さな性格を反映し、初期ロマン派の傾向に留まった」なる評価なのですけれど、「気の小ささ」と「初期ロマン派的作風」がなんで結びつくのだろうか???
「交響曲」は、耳慣れないと、おそらくシューベルトやシューマンあたりと比較してお聴きになってしまうかもしれませんが、シューベルトやシューマンより構成感がしっかりしていて、固い感じを受けるかもしれません。ですが、音の凝縮度では、もしかしたらこれら二人を凌駕している面もあるかもしれない。

ベートーヴェンの弟子にしてリストの師、『皇帝』協奏曲初演の独奏者、というだけで評価されるべき音楽家でないことを、強く感じさせられております。
ご一聴をお奨め致します。

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2007年8月 3日 (金)

モーツァルト:ロレートの連祷K.195(1)

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。



ザルツブルク時代の宗教音楽の「キモ」はviolaの有無かな! と・・・やっとこの頃スコアを読みなれてきたせいでしょうか、だんだんはっきり感じるようになってきました(「シンフォニア」が25番以降「交響曲」になった、というのとはまた別の意味で気づいたことですが・・・こちらはこちらで、ザスロウの考え方の是非を問う、という「大それた」脱線を伴っていくことになるでしょう。おらあ専門家じゃねえから、あぶねえなあ)。

「violaがなければザルツブルクの大聖堂で演奏されたものではない」
という定説(?)は、考え直さなければいけません。

サイトを探し回ると、やはりモーツァルトの宗教音楽が大好きで、素晴らしい頁を作っていらっしゃる方を何人かお見受けしました。・・・当然ですが、「愛好者」ですので、音楽そのものの素晴らしさをアピールすることに重点を置いていらっしゃいます。
「同じことをしても、価値がないな」
ということで、このviola問題に突っ込みたいと思いますが、それにはK.195はいい素材の一つです。

ただ、読譜の結果、音楽上の注目点でもアインシュタイン説に違和感のある結果となりました。それまでいっぺんに綴ると、そうでなくても長引く話がますます長くなるので、この曲については別にもうひと記事設けさせて下さい。

そもそも、宗教音楽(モーツァルトの場合はカトリックのものですが)がどういう背景から創作を望まれ、演奏されたかについては、音楽専門の<権威者>で「突っ込んだ」見解を述べた著作をモノにしていることは稀であるか、皆無であるか、だと思います。
アルフレート・アインシュタインは、ザルツブルク時代のミサにviolaがない理由については「分からない」というままに放置していますし、「Violaは低音のオクターヴ上を弾いていたんだろう」だなんてことまで言っていました。
ド・ニは「ザルツブルク教会のオーケストラにはviolaがなかった」と(証拠もなく)断じています。

しかしながら、ザルツブルク時代の「ミサ」にviolaがないのは「教会ソナタ」の延長線上でミサが発想されたからだ、という指摘は、<K.194と「雀のミサ」>の末尾に要約を掲載した、Carus版スコアの校訂者(お名前を記憶しておくべきでした!)によって「ごくあっさり」なされています。「目からうろこが・・・」でしたけれど、こちらが正解でしょう。

モーツァルトの「ミサ」がザルツブルク大聖堂向けだったらviolaがないのは、その編成での「ミサ曲」製作期間から明確だとは言えます(コロレド就任前の1769年のニ短調ミサにもViolaはありません)。ですが、ザルツブルク時代の「ミサ」以外の宗教曲に同じルールを当てはめることは、果たして自然でしょうか?
この疑問に取り組むには、そもそも、

・その宗教音楽が「どんな機会に、何を目的として」作られるのが常であったか
・そうした作品が演奏されるのは、目的を考慮した場合、いかなる場所が適切だったか
・もう少し狭く見て、ザルツブルク大聖堂で演奏された「宗教曲」すべてにViolaはないのか

という点から見直していかなければなりません。


3番目の話が(そんなに簡単ではありませんが、それでも)一番簡単です。あとから少し詳しく検証するとして、簡単に目につく例だけあげてみましょう。
ザルツブルクで演奏された「ミサ曲」に、Violaの入ったものは、存在します。
"ドミニクス・ミサ" K.66です。
これはしかし、モーツァルトが幼なじみだったドミニクスがベネディクト修道会の司祭になったのを祝って作った作品なので、「大聖堂で演奏されたかどうか分からないじゃないか!」という反論もあろうかと思います。じっさい、演奏された場所は「ノンベルク」(ハゲナウアーの記録による)すなわち場外、ということですから、大聖堂での演奏ではありませんでした。では、オーケストラは、大聖堂とは違うものを独自に調達出来たのでしょうか?・・・音楽家が2倍在住していれば、出来たでしょう。あるいは、外から音楽家をたくさん雇うのが(地理的にも経済的にも)容易な環境だったら・・・。どうでしょうか? ほとんどあり得ないことではないでしょうか?
だから、ド・ニが「ザルツブルク教会のオーケストラにはviolaがなかった」と決めつけているのは、確率9割以上で間違いなのではないか、と、私は感じております。


さて、同じ問題を、K.195にかこつけて確認して行きましょう。

K.195は、K.109同様、歌詞は「ロレートの連祷」です。
聖地ロレートに関しては、海老沢敏「超越の響き」が詳しく触れていますし、いい文章ですから、機会があれば是非ご一読下さい。

課題を、再度引き出していきましょう。

1)そもそも連祷とは何ぞや?〜先ほどの1番目の問題に対応します。
2)では、K.195は、何故作曲を「望まれた」のか?〜同上
3)それは大聖堂以外で演奏されたのか(Violaを含んだ編成ですから)

・・・まだ、足りませんか? 捌けないので、ここまでにさせて下さい。

1)の「連祷」ですが、目にした限りの「キリスト教会史」関係でも起こりがはっきりしませんでした。4世紀頃、とも言われていますが、連祷が行なわれる機会を観察すると、古い紀元のものと18世紀のものとでは性格が異なっている可能性が高確率であります。ただ、テキストだけは古いものから発展していったのかもしれません。
どんなときになされる祈りか、というと、崇拝の対象となった聖人や奇跡の記念日の為に・あるいは大きな天災があった後などにであり、誰が祈るか、というと、これは「一般信徒」たちです。但し、教会主導の元に行なわれます。
面白いのは「一般信徒」がキリスト教会史に姿をあらわすのは中世後期からルネサンス期にかけてであることです。これは東洋、とくに唐代末期以降の中国や鎌倉期前後の日本における仏教と非常に似ています。「一般信徒」と呼ばれるようになった人たちは、初め、商業の発展とともに組合(ギルドなど)を構成した人々で・・・それ以前には歴史に「一般信徒」なる用語が現れることは、どうも、無いようです。(平凡社ライブラリー「キリスト教史」3〜5巻あたりを参照下さい。)
こういう人たちが「信心会」を構成し、教会に「連祷」の実施を依頼する。
という次第で、「連祷」の開催のされ方は、日本で鎌倉仏教の信徒たちが寺の本山に依頼して法要を営んでもらったのに非常に似ています。
ですから、「連祷」作品の成立には、背景に「一般信徒による信心会の経済力」があったことを推測しておかなければならない。
一方、実施者は教会なのです。となると、「信心会」が教会とは無関係に、任意の作曲家に創作を依頼するということも無かった、と考えるのが自然であろうかと思います。「信心会」の「教会」への喜捨が、まず出発点になる。
そのうえで教会がモーツァルトにK.195の創作を「認めた」のかな、という筋書きです。
現実に、モーツァルト父子は(とくにヴォルフガングは1769年以降教会および宮廷オーケストラのコンサートマスターになっていますから、史料は少ないものの)、対外活動の許可を得るためにはザルツブルク司教座聖堂参事会なる部署の主席やザルツブルク大司教管区主席に申請をしなければなりませんでした。これも、コロレド就任前、シュラッテンバッハ在世中の1771年の申請例が残っています(コロレドに対しては1777年に「領主閣下」と呼びかけている例もありますが、相手がシュラッテンバッハでも同じだったでしょう)。これをサカサマから見ると、すなわち、ザルツブルク宮廷兼教会楽団のオーナーたる教会側に、モーツァルトの(だけではなく、他の作曲家についても)公的創作を認可する権限があった、と考えられはしないでしょうか?
ちょっと、2)の問題にまで話が飛び出てしまいましたが、まずは「連祷」がどんなもので、どう言う条件下でなし得たのかを見てきました。

2)は、作曲された理由ですが、史料がありません。時期は、分かっていて、5月です。
5月は聖母マリアの月だ、というお話は、K.109の、最初の「ロレートの連祷」のことを述べた際に記しました。K.109も、3年前の5月の作曲です。
1772、3年にザルツブルクで他の作曲家が「ロレートの連祷」に曲を付けていたかどうか分からないのですが、父の方が過去に5作「ロレートの連祷」を作った、という話があることを考慮しますと(ただし、それぞれの時期が分かりません)、3年経ってまたヴォルフガングにお鉢が回ってきた、というところなのではないかなあ、と思います。で、その「おはちをまわす」のは教会当局だった・・・ああ、「ザルツブルク史」みたいな文献が手近にあって、その18世紀の文化がもう少し分かると、もっと確かなことがいえるはずなんですが・・・いまは、考えが外れていないことを祈るばかりです。で、とりあえずこういう仮説にしておきましょう。

3)教会当局が作曲させたとして、では、大聖堂ではviolaを含んだ演奏はさせないから、という理由で他の場所で演奏させた、などということが考えられるかどうか、が、最後の課題です。
K.195よりまえに、「ミサ曲」以外でザルツブルク大聖堂で演奏したと思われる宗教曲と、編成中にviolaがあるかないかを列挙してみましょう。

K.109(ロレートの連祷)1771年 viola無し
K.125(聖体祝日の連祷)1772年 viola有り
K.117(オッフェルトリウム)1769年以前 viola有り(ウィーン初演説あり)
K.72(オッフェルトリウム)1771年 viola無し
K.141(テ・デウム)1769年以前 viola無し
K.108(レジナ・チェリ)1771年 viola有り(二部!)
K.127(レジナ・チェリ)1772年 viola有り(二部!)
K.42(カンタータ「聖墓の音楽」)1767年 viola有り(大聖堂初演説あり)

実際問題としてザルツブルクで、というより細かくは「初演場所」が特定し難いものばかりではあるのですが、大聖堂以外で演奏されなければならない必然性を持つものはありません。
逆に「大聖堂で会衆を集めてこそ意味がある」曲種ばかりだとも言えます。
なにより、K.42のカンタータは大聖堂で初演されたとの説が有力であり、これにviolaが加わっているのを「臨時雇い」と見なすかどうかが、宮廷・教会楽団にviolaがあったかどうかの分岐点とはなります。
けれど、他はviolaの有る無しは、流動性はあるものの、どうも「曲種」で決まっていたのではないかと見ても良さそうであり、
「ザルツブルク教会のオーケストラにはviolaがなかった」
などという説、大聖堂向けにはviola抜きで宗教音楽を作曲しなければならなかったなどという先入観は、やはり排除すべきではないかと思われます。いかがご覧になったでしょうか?

音楽内容面ではK.195はモーツァルト晩年に繋がる重要な「語法」がみられますので、記事を改めてそのことを述べたいと思っております。

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2007年8月 2日 (木)

曲解音楽史(16補遺)源博雅

曲解音楽史16:唐朝と朝鮮・日本(3)に、日本の「源博雅(918〜980)」が作った の音を掲載しました。
博雅については、日本の古典にお詳しい方はご存知かと存じますが、彼について触れている「古典文学」と、その中で博雅について触れた箇所を列挙し、補遺と致します。
日本には鎌倉前期まで説話集や政談の類いが好んで集成されていますが、「政談」の中にまで音楽関係の話が集められているのが面白い点です。

・「江談抄」が、そうした政談の代表格ですが、これは大江匡房の談話を藤原実兼(有能だったが早世した、と伝えられる人物)が筆録したもので、その「第三」に音楽(楽器と音楽家の品評が主)の話題が21も載っています。成立年は確実には分かりませんが、匡房の没年が1111年、実兼の早世が翌1112年であることが参考になるでしょう。博雅は21の話題の中の二話に登場しますが、ひとつは「今昔物語」にも載る、博雅が盲目の蝉丸から琵琶の秘曲2曲を伝授された話です。ただし、語り口から見ると、今昔とは別系統で匡房の耳に入ったものかと思われます(第三-63)。その前にある話は、単純なものですので本文を載せます。

(53)談られて云はく、「博雅の三位の横笛を吹くに、鬼の吹き落とさるると。知るにや、いかん」と。答へて曰はく、「慮外ながら、承知し候ふなり」と。(新日本古典文学大系)。

藤原定家の晩年頃以降の成立と思われますので「今昔物語」よりはずっと新しい説話集ですが、
・「古今著聞集」というのがあり、これは「第六:管弦歌舞」に55話を収録しています。第224話(通算)には、博雅が誕生したとき、天上から妙なる音楽が聞こえた、という伝説が載せられています。

・「江談抄」でも触れた、蝉丸から琵琶の秘曲を授かった話は、「今昔物語」では本朝世俗部巻第二十四の第23話に記されていますが、伝えられた秘曲は「流泉」と「啄木」だとされています(「江談抄」にも出ています)。
それそのものかどうかは定かではありませんが、東京楽所のかたが演奏した録音がありますので、お聴きになってみて下さい。なんの断りも付けなければ、二十世紀の作曲家が作ったんじゃないか、とお思いになられるかもしれませんヨ。。。

(別伝の流泉もあります)

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2007年8月 1日 (水)

忘れ得ぬ音楽家:3)江藤 俊哉

事情で一連の記事を廃棄した際、削除すべき対象の記事は「下書きしていなかったなあ」と諦めていたのでしたが、これは下書きしていたのでした!残っておりました!あらためて掲載させていただきます。


忘れ得ぬ音楽家:江藤 俊哉

私がヴァイオリンを始めた動機はきわめて不純です。
「オーケストラというものに入ってみたいな」
小学4年のとき、そんな夢をもちました。そこまでは、純粋でした。
あとが、ズルイです。
「いちばん人数の多い楽器を選べば、入れる確率が高いな」
で、図鑑でオーケストラの写真を見て、人数を数えました。数えたら、一番多かったのがヴァイオリンだった。。。それだけ。

それでも、地方都市には「ヴァイオリン担いだ演歌師さん」もいないし、日本なのでジプシー(ロマ)さんたちもいません。楽器は何千万円するかわからないし、習いに行くと月謝も高い。
調べたら、特別なものでなければ、2~3万円で買える事がわかりました。まあ、それでも我が家にとっては高い買い物でした。そこを何とか拝み倒し、
「月謝を自分で稼いだら、習ってもいいよ」
ようやく親の了解を得て、小6から新聞配達をして、3年間だけ習いました。
あんまりうまくなりませんでした。
いいんです、オーケストラに入れさえすれば。

「仕事で入れたら嬉しいな」
と切なく思いつづけたものの、ヴァイオリン以外の習い事は結局許されませんで、ピアノも弾けませんから専門の道は断念しました。
それでも地元に高校生のオーケストラや室内楽団がありましたし、どういうわけかそちらからお誘いもかかりましたので、入ることが出来ました。
その後、やはり地元の大学に、当時は地元のプロよりうまかったオーケストラがありましたので、最終的にはそこへ入り、夢がやっとかなった気持ちになっておりました。

こんな調子ですから、ヴァイオリンそのものについては、弾いていながら無関心、でもありました。

無関心でいた理由の一つが、小学生の頃、AMラジオで何回も聴いた、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の演奏でした。
「独奏は、江藤俊哉さんです」
江藤さんだと、とにかく、いつ放送されても、あっちこっちで間違う。
こんなに間違う人が、当時は教育テレビでやっていた「ヴァイオリンのおけいこ」という番組で、長いこと先生をしたりしている。
こんな江藤さんのイメージから、
「ヴァイオリンなんて、所詮一人で弾く楽器じゃないんだ。少なくともピアノ伴奏がないとやっていけないんだからな!」
そう決め付けて、大学時代までを過ごしてきたのでした。

大学オケに入って早々、1年生の後半の演奏会に、その江藤さんが客演して下さることになりました。
曲目は、これがなんと、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。
私のヴァイオリン認識が変わったのは、このときからです。

実際に目の前にする江藤さんは、テレビで先生をしているときと全く変わらない、今の言葉で(といいつつ、もう使い古された日常語彙になっていますけれど)「とっちゃん坊や」でした。

「とっちゃん坊や」というのは、坊やだけにデリケートなのでもありました。これは、誤算でした。
たしか、あの年は江藤さんは健康状態が下降線を辿り始めた最初期にあたっていて、体調をお崩しになって、ゲネプロをご一緒できませんでした。神経が過敏になってしまったのが原因だったと記憶しております。
江藤さんの音を本当に「目撃」したのは、ですから、本番前のステリハで、でした。
仰天しました。

音が、カラの客席の一番奥まで、一直線に飛んでいく。
それがそのまま、また弾みのいいスーパーボールよりもずっと凄い勢いで・・・などというのでは、とても適切な喩えとはいえません・・・音が刃物になってこちらを突き刺してくるのです。
信じていただけるかどうか分かりませんが、この音の動きが、この目にはっきりと見えたのです。

「なんで?」

本当に、どうして音が目に見えるなんてことがあるのか、もう理解できませんでした。

ステリハも本番も、江藤さんは私が昔ラジオに耳をつけて聞き入っていたときとは打って変わり、一切ミスをなさいませんでした。音の勢いも、本番はさらに鋭さを増していました。

本番後、やはり倒れられてしまって救急車で運ばれて、打ち上げをご一緒できませんでした。
あとでオーケストラに寄せてくださったコメントが、人づてに伺ったところでは、だいたい
「素晴らしい伴奏をしてくれてありがとう。いつもはオーケストラの伴奏は、手を抜かれたり、なりゆきだったりするんで、つまらないし、かといって弾かなきゃないから無茶はするし、だったので、今日はとても弾き甲斐がありました。その分、身も心も使い果たしてしまいました。感謝」
といった主旨のことだったそうで、大学の連中は、それはもう鼻高々でした。

その後、同じ大学オケで、江藤さんとは2度共演させていただくチャンスに恵まれました。
4年生の時にはブラームスのヴァイオリン協奏曲(指揮:菊地俊一)、卒業してから3、4年後にはモーツァルトの協奏交響曲(江藤さんが指揮とヴィオラ、奥様のアンジェラさんがヴァイオリン)でした。いずれも、私にとって忘れがたい演奏会となりました。

以後、
「江藤さんはなんで、あんなパリッとした鋭い音が出せるのか」
どうしても突き止めたくて、
「多分、右手にいっぱい力を貯めて、弓を強く弦に当てて弾いているんだろう」
そんな、今思うととんでもないあて推量で、何日もゴシゴシ弾く練習をしていて、頭のいいチェロの1年先輩に
「大馬鹿者!」
と叱られたりしました。

江藤さんの発音法(とくにボーイング【運弓】)には、他のヴァイオリニストで言うと、たとえばオイストラフと似たノウハウがある、ということを悟ったのは、だいぶあとになってからのことです。
いいヴァイオリニストは皆そうですが、まず、全身の力が、よく抜けています。
力を抜くべき優先順位は(間違っているかもしれませんが)、まず右の肩から腕全体、次に左の地方から腕全体、で、これでそこそこいい音が出るようになるのですが、さらに大事なのは「顔の力を抜くこと」で、これが出来ているヴァイオリン奏者は、プロを謳っている人でも希少です。
江藤さんご自身は、
「ボクはボーイングが良くなくってネ」
と、お弾きにになっている最中に、わざわざどこがどういけないかを説明してくれたりもなさいました。
・・・悔しいことに、そんな話を伺っても理解力のなかった(今も足りない)私には「馬の耳に念仏」でしたが。そんな補欠的一メンバーの私が江藤さんの記憶に残っているはずは全くありませんが、モーツァルトの回の時には、アンジェラさんが私の隣で弾いていて、練習中さかんに
「ごめんなさいね、ごめんなさいね、私、ヘタで!」
と繰り返していたのが愉快な思い出です。うらやましいくらい、江藤さんにはいい奥さんです!

江藤さんに近い世代の日本の名ヴァイオリニストでは、あのころは海野義雄さん、外山滋さん、豊田耕司さんなどがいらっしゃいましたが、中では外山さんが大学時代の恩師のところへ遊びにいらして演奏なさったお姿以外には接したことがありません。

江藤さんの演奏はLPにブラームスのソナタ(1番と3番)の名録音があり、長いこと愛聴しているうちに磨り減ってしまいました。CD化はされていません。

昨年、海外のオーケストラの伴奏による一連の協奏曲の録音がCDで復活しましたが、私はベートーヴェンの協奏曲のものだけを買いました。ラジオのときのようなミスはないものの、これは日本側がお金の力で無理やり企画した録音ででもあったのでしょうか、大学時代に直に接した江藤さんの音とは程遠い、どこかノリの悪い印象があり、そのまま聴くのをやめてしまいました。

息子さんがまた非常に優れたピアニストで、親子で共演した「シューマン:ヴァイオリンソナタ集」があり、こちらは江藤さんの本領が発揮されていて素晴らしい録音です。今でも手に入るだろうか?

何年前だったか、私たちの住まいの近くで江藤さんが小さいコンサートに出演する、というので、家内を連れて出かけました。
江藤さんはもう往年の江藤さんではなく、病後で技術も覚束ない状態だ、というのを知った上で、家内に江藤さんという「人」を知って欲しくて、連れて行ったのでした。入場料もタダ同然でしたし。

演目の中に、リヒャルト・シュトラウスのソナタもありました。
この曲に限らず、案の定、江藤さんの出す音は、ヨボヨボでヨレヨレでした。
それでも、長年身につけてきたものというのは体がちゃんと覚えているのですね。
音符は、どんな細かいものでも、拾い落としはありませんでした。・・・ただ、小さな会場だったのに、それが音として客席まで届いてこない。往年を思い出しつつ、私はなんだか切なくなりました。

弾き終わって、でも、江藤さんは、こう言ったのですヨ。
「ボク、ヘタんなったでしょ?」
はにかむように笑って、客席にもほのぼのとした笑いが広がって、帰りに家内が
「お父さんの言ってたとおりの人だね」
と感心してくれたのは、忘れがたい幸せな思い出です。

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ちょっと酷評:「指揮者列伝」ふくろうの本

図説指揮者列伝―世界の指揮者100人 Book 図説指揮者列伝―世界の指揮者100人

著者:玉木 正之,平林 直哉
販売元:河出書房新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

上記書籍を昨日瞥見しました。なんだか失望感を味わいましたので、顰蹙ですが悪口に走ります。

いわゆる「ムック」本の一種だと捉えていいのかと思いますが、「ムック」とか「ノウハウ本」は、知りたいことが手っ取り早く分かる・誰にでも分かりやすい、というメリットがありますね。
そのメリットを殺さないで著述してはもらえなかったのか、というのが、この書に対する不満です。

図説指揮者列伝―世界の指揮者100人 」は、指揮者の写真を載せた脇または下段に、その指揮者に対する筆者の「印象」が書いてあるだけです。本当の意味での指揮者の略伝にもなっていません。極端な比較相手ですが、司馬遷『史記』の列伝あたりと読み比べてみれば、文章に臨む筆者の態度がいかに「甘い」かは歴然とするでしょう。・・・読者は、そんな程度の文章から、いったい何を得たらいいのでしょう?
そんな文章のために1,800円ものお金を払うのは勿論、立ち読みする時間さえ、「しまった!もったいなかった!」と感じてしまいます。

たとえ娯楽のためでも、読者が本を手に取るのは「情報がほしい」からです。それも、筆者本人が文章の対象ではない以上、欲しい情報は「筆者個人の楽しみ」ではなく、読者としての「私」にとって新知見を得られる類のものです。
「誰々のタクトは、やはり伝説となっているとおり、ある種の魔術だったのかもしれない」・・・<指揮者>なんてものに興味を持つ連中は、そんなイメージは先刻承知だし、「はじめて興味をもったんだけど」という読者にとっては、イメージばっかり読まされても、
「え? じゃあ、この人のことを、この先どう理解していけばいいの?」
さっぱり分かりません。

その指揮者が「何をしてきたか」「オーケストラをどう良くし、悪くしてきたか」の客観的な記載が欲しかった。
この本の内容では、新聞の号外記事ほどさえも、「有用」な情報が得られません。筆者が各々の指揮者について(不充分でも構わなかったのですが)真摯に究明してみようとした姿勢が、まったく、とまではいいませんけれど、僅かにしか感じられない。残念です。
このタイプの記述は、紋切り型の「Q&A」を列挙したムックやノウハウ本に多く見かけるのと同類です。そんな内容の本を、こともあろうに「ふくろうの本」という、私なぞはわりと信頼しているブランドのシリーズで出てしまったなんて・・・「やめてほしかったなあ!」というのがホンネです。
(音楽に限らず、そういう意味では「ガッカリ」な本はいっぱい存在するのですけれどね。。。他のジャンルで味わう失望を、「あ、手にとって見たいな」と思わせぶりに迫って来た本から、まさか味合わされるとは思ってもいなかったので、ショックも大きいのです。)

遺憾な事に、いくら関連CDを紹介しているからといっても、この本の読者は、筆者の挙げたCDへの一歩すら踏み出すことが出来ません。私はCD紹介本はきらいな方が多いのですけれど、それでも、紹介本のほうがはるかに「有用」だと感じました。

尊大に過ぎる文を綴ってしまったかもしれません。
公平を期すためには、いちど現物をお手にとって、私の「的外れぶり」をご検証頂ければよろしいかと存じます。アマゾンでレビューを寄せた方はこの本にはむしろ好感を持っていらっしゃいます。

大変失礼致しました。

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