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2007年8月20日 (月)

曲解音楽史17:「声明」の伝来

前の回:1)音という手段  2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽   5)トランス   6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド   9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ  12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ    14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア   16)唐朝と朝鮮・日本



唐朝は歴史年表上は9世紀いっぱいまでのおよそ3百年間続きましたが、実質的に栄えたのは安史の乱が起こる以前の玄宗皇帝時代まで、約百年の間に過ぎませんでした。それでも以後2百年、かろうじて命脈を保つことが出来たのは、二つの矛盾する勢力・・・貴族層と、科挙で登用された官僚層が、相剋を演じつつも、片や地方の武力として、片や中央の法曹界の抑えとして、微妙なバランスを保ったからです。
日本からの最後の遣唐使に参加した有名な僧侶、のちに慈覚大師と呼ばれて尊敬を集めた円仁に、
「入唐求法巡礼行記」
という、これも有名な日記がありますが、難しいのでなかなか読めません。中公文庫で深谷憲一氏が分かりやすい現代語訳を添えたものを出版なさったので、それでもいくらか気軽に読めるようになりました。(深谷氏に先駆けること35年前、米国の駐日大使だったライシャワー博士がこの書の重要性を訴えた「円仁 唐代中国への旅」は、いま、講談社学術文庫に収録されています。日本人よりも先に、円仁の日記の重要性を理解していたことに、私たちは大きな敬意を払わなければならないでしょう。)

音楽の話でなければ、円仁が記録した、唐代末期の様々な様相・・・難破寸前で必死の上陸を果たした遣唐使一行の表情、末期とは言えなお有効に機能していた唐朝の行政機構、政治の影響を巧みにかわしながら逞しく生きた新羅(当時の朝鮮)商人の心の優しさ、武宗の「仏教弾圧(実際には道教以外の他の宗教も皆迫害された)」の中で必死に身をかわしながら日本への仏教求法を果たすための招来品確保に執念を燃やす円仁その人・・・そうしたたくさんの話も取り上げたいのですが、そのためには私は能力が不足し過ぎです。話もそれることになります。

「入唐求法巡礼行記」の中には、中国や朝鮮に置ける9世紀末の仏教の深い浸透ぶりが伺える記述が数多くありますが、それらのうちには日本で「声明」と呼ばれることになる仏教音楽(声楽)の実体に関する無視出来ない記述も、いくつかあります。

武宗の「宗教弾圧」は西暦842年に始まりましたが、この皇帝は845年に没したため、期間はそう長くはありませんでした。しかし、このたった4年で、仏教で言えばそれまで主流だった法相を中心とし密教を含む派は衰退し、やがて宋代にかけて徐々に禅宗へと主流が移って行くことになります。
従って、円仁の記録した「声明」の風景は、非常に貴重です。

まず、揚州、開元寺での風景。円仁が渡唐成功後初めて目にし、耳にした「声明」です。
「大勢の僧がそろって堂内に入り席次に従って座った。何人かが清めの水を配った。・・・大勢の僧の中で一人の僧が木槌を打つ。さらにもう一人の僧が梵唄(ぼんばい、サンスクリット語で唱えられる唄。「声明」の原点)した。その讃えの歌では「どうしたらこの経によって最後にかの悟りの岸に行きつくことが出来るでしょうか・・・」という。その音声の調べは絶妙の美しさであった。梵唄をうたっている間に人が経を配った。梵唄が終わると大勢のものが揃って読経をした。(以下略)」(深谷訳87頁)

当時円仁が耳にしたものとは異なるかと思いますが、日本に招来された梵唄(これを日本ではいつのころからか「声明」と呼ぶようになりました)の一部を聞いて頂きましょう。古い形の「声明(梵唄)」は真言・天台のものがありますが、歌い方や順番は極めてよく似ています。ここでは「天台声明」の方で聞いて頂きましょう。

(KING KICC 5720)



肝心の中国の例がないのが申し訳ありませんが、円仁によれば、前節の新羅の誦経は唐と変わらぬものだったということですので、それを持ってご想像頂ければと存じます。

では、中国より西、すなわち、中国に伝わった「梵唄」は、どのようななものだったのでしょう?

まず、チベットの例ですが、これは、驚かされませんか?

(Victo VICG41139)

超低音です!
何故ここまで低音なのかは、私には調べきれませんでした。ご教示頂ければ幸いです。

一挙に、本場のインドに行ってみましょう。

(KING KICC5735)

小さな礼拝ですが、日本や朝鮮との類似性は感じられます。
インドに残る仏教音楽には東南アジアの「ガムラン」に影響を与えたのではないかと思われるものもあります。同様の仏教音楽はタイの「梵唄」にもあります。
「ガムラン」に影響を与えたのではないか、と思われるものとはまた違い、日本の「声明」とつながりがありそうな方のものを、一つ取り上げておきましょう。

(KING KICC5723)

7〜9世紀当時でも生臭坊主も一杯いたかも知れない仏教界ですが、こうした「梵唄」を聞いていると、むしろ、多くの人びとの心がいかに清らかだったか、の方に思いが吸い寄せられて行くようです。


実際に「入唐求法巡礼行記」を読むと、道教以外を迫害したと言われる唐の武宗の「宗教弾圧」は、円仁の記述からは気違い沙汰に見えると思います。ですが、当時の唐は地方の武力が中央の官僚より力を強めてきており、しかも各々の地方は独立心ばかりが強くて、モンゴルや満州方面、西域方面の外的に対しては防備力が落ちる、という結果ももたらしつつありました。スケールでは比べ物になりませんが、日本の「幕末期」に似た様相を呈していたといえます。
ただ、この当時はまだ、イスラム教は中国方面への脅威にはなっていません。
宗教界では、官僚と癒着し腐敗した面もあった仏教が、なんといってもまだ大きな勢力を保っていました。かつ、仏教は西はインドから東は朝鮮までを結ぶ、超国家的な力をも、依然保っていました(ただし、インドではそろそろ衰退の兆しが見えていたとのことです)。武宗はそうした点に非常な危惧の念を持ったもののようです。

円仁が新羅で見た「誦経」の光景も、また華やかなものでした。この「誦経」もまた、日本の「声明」に大きな影響を与えることになります(雅楽と梵唄の競演の記録が多々残っているそうですが、残念ながら録音例は見いだせませんでした)。

「新羅の誦経の儀式。大唐では念経という。鐘を打って大衆が座席に着き終わると、下座の一僧が立って板をたたき『一切恭敬、敬礼常住三宝』と唱える。次に一僧が梵唄を唱う。・・・梵を行っている間、一人は香合をかかげ大勢が坐っている前をぐるりと回り香のかおりをふりまく。・・・礼仏し終わると、導師は結願文を唱え回向文を述べる。・・・施主が供え物をささげて坐ると、導師は施主の願いによって偈を唱えて祈願し、これによって散会となる。」(深谷訳253頁)

韓国に残る「梵唄」がいかに華々しいか・・・これは散会前の音楽ですが・・・お聴きになってみて下さい。

(Victor VZCG-234)

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