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2007年7月 5日 (木)

「損か得か」と説得力・・・それが大事なのでしょうか?(付:グリーク「春」)

028947763260以下、たかだか「いちクラシック音楽ファン」の発言としては不遜であることを重々承知の上で綴りたいと存じます。

今日、息子の参観日に行くことが出来ました。
それを赦して頂ける環境に置いて下さっているどなたにも、感謝しております。
なおかつ、変わらず子供たちを大切に面倒見てくれる学校の先生方にも、心から御礼を申し上げます。

ですが、参観した授業の「テーマ」は、私にとってはちょっとガッカリ、でした。
「掲げた問題をみんなで討議し、説得力があった方はどっちかを評価しよう」
という趣旨だったかと思います。
で、子供たちが今日のために苦心して選んだ「討議すべき問題」は
・上の子と下の子では、上の子の方が得である
・都会と田舎では、都会の方が得である
それぞれに賛成か反対か、というものでした。

二つの点が、非常に残念でした。

分かりやすい方からいきますと、何故、子供たちは「得である」か損であるか、という問題しか選ばなかったのでしょうか?
で、そうなった理由はどうあれ、では、「得である」といこと、「損である」ということは、本質的にどういう意味を持っているのか事前にそういう話し合いを、子供たちのために設けてあげていたのでしょうか?

で、もう一つの点は、まるで古代ギリシャ・ローマの「弁論術」を思わせるような、「損得のどちらの論者により説得力はあったかを評価する」という、まるで化石のような結果への誘導を、何故なさらなければなったのでしょうか?・・・このことには、「説得力があった方が勝ち」という勝敗論が、潜在しています。そのことにお気づきでなさったことなのでしょうか?

たまたま見てしまった小さな一つの例にすぎないのかもしれず、先生も、おそらくは子供たちの「心を開く」ことを目標に、苦心して探し出し、考え出した方法なのだろうとお察しします。ですので、こんなクレーム的な文言は綴りたくないのですが、なんだか悲しくなってしまい、どうしても綴りたい気持ちを抑えられませんでした。

すでに小学校という場所で、もしかしたらこの子たちが20代になって自活するようになっている頃には変貌を強いられているかもしれない、ただし現状ではまだまだそのままに保持されている「20世紀末期日本的資本主義社会の企業の倫理」を、十歳そこそこの子供たちが身につけなければならない、固定観念化しなければならない、というのでは、この国の寿命はもはや風前の灯なのかもしれない。。。
そんな、非常な危機感を感じざるを得ません。
(念のため申し上げますが、私は「右でも左でもありません、党派政治は大嫌いです」。)

第二次世界大戦の敗戦で焦土と化した国土を再び隆盛に導いた日本人は、すばらしい。
しかし、その時私たちの先輩が必死で考えたことは、果たして「儲けさえすれば豊かになる」ということだけだったのでしょうか?
バブル期に、「これからの日本経済は不況一点張りになっていくのではないか」問うた私に、目の前で楽天的な観測しか述べなかったOBさんを、私はいつも思い浮かべます。
「日本経済が、衰える訳がない!」
・・・結果は、どうだったでしょうか?

さらに、私たちが今日愛する、特に奈良の文化財は、出来た当初は極彩色だったことも、今では常識ですよね。
今なお極彩色だったら、それらの文化財を、私たちは今と同じように愛したでしょうか?
愛したのだったら、どんなに無理をしてでも、その色合いが元に戻るよう、寺院の柱には絶えず朱が塗られ、仏像には金が塗布され続けたのではないでしょうか?

貧乏がいいわけではありません。その厳しさは、近い国にさえいくらでも例を見ることが出来ます。
ただ、私たちが本来愛し続けてきた文化は、色合いがさびても、滑らかさが削れてしまっても、変わらずそこかしこに残り続けている「心の豊かさ」だったはずです。そしてその「心」とは、「得か損か」を超えて、たとえ隣人の労苦に直接なんとかしてあげられる力までは持てなくても絶対に忘れてはいけない、と自分たち自身に言いきかせ続けてきた「慈悲の心、いつくしみ・愛する想い」ではなかったのか・・・

先日、私の所属するアマチュアオーケストラ、東京ムジークフローの定期演奏会で、そのピアノ協奏曲を取り上げたグリークも、自国の本当の独立を夢見つつ音楽を奏で、作り、幸せなことに、独立を目撃してから亡くなることができました(H氏遺稿をご参照下さい)。
日本のように「二千年近く独立国だった」と平気で口に出来るところは大変に少なくて、グリークの国ノルウェーにしても、シベリウスの国フィンランドにしても、バルトークやコダーイの国ハンガリーにしても・・・とにかくヨーロッパをも含め、「自国」・「自分」というアイデンティティを保持するのに多大な労力を注いできた、というのが大多数の地球人なのでして、この点で日本人は実に幼稚である、と、あらためて感じてしまった次第です。

僭越な発言で恐れ多い限りですが、深い悲しみをもって、今日はあえて綴らせて頂きました。

お口直しに、
亡妻が大好きだった歌曲の中の一つです。

『グリーグ: 歌曲集』アンネ・ソフィー・フォン・オッター/ベンクト・フォシュベリ(ピアノ)
DG Deutsche Grammophon/Grand Prix 4776326

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コメント

Kenさんこんばんは。お嘆きの気持ち、痛いほど分かります。

「損か得か」を行動規範とするのは、すぐに思いつくのは、云うまでもなく商売人ですね。

しかし、私は随分昔ですが、もともと良い家の坊っちゃんで、麻布中学で故・橋本龍太郎と同級生だったのに、ヤクザになり、40歳を過ぎてから改心してカタギの物書きになった、安部穣二という人がテレビで云っていた言葉を思い出すのです。

最近の日本人の発想はまっとうなカタギのそれではなく、ヤクザに近い、と。

つまり、

近ごろの親が「子供をヤクザにするのと、サラリーマンにするのはどちらが得か」(信じられませんが、そういう質問が安部さんのところに寄せられるのだそうです)と真面
目に訊いてくる。

また、若い娘が「幼稚園の保母さんとして働きこつこつ貯めた100万円も、風俗嬢になって一晩で稼いだ100万円も、何ら違いは無い」という。こういう発想は、間違いなくヤ
クザの考え方なのだ。

と、云っていたのです。それを聞いて愕然としました。

故・新田次郎氏の令息、藤原正彦氏が「国家の品格」を書き、敢えて時代錯誤的な「武士道」を持ち出した気持ちが分かります。

武士にとって損得をまず勘案するのは、卑しいことであり、まず、考えなければいけないのは、「正しいか、否か」具体的には「正義にかなっているか」「卑怯なことではないか」ということでした。今の日本人にはそれがなさ過ぎると。

「正しさ」の基準は人によるので、「得であること」が「正しいこと」だ、という論理も可能ですが、武士道が入ると、それが排除される訳ですね。

子供がなぜ、「損か得か」を最初に持ってくるかと云えば、多分親が(Kenさんのことじゃないよ?)そういう価値基準で行動するからでしょう。

親、大人が人生観・価値観を変えるのは難しだろうけど、もう一度「国家の品格」を読んで頂きたいですね(Kenさんじゃないよ?)。

投稿: JIRO | 2007年7月 6日 (金) 00時10分

いやあ、実を言いますと、独身時代、バーの子に片思いして
「サラリーマンでせこく稼ぐのと、飲み屋のバーテンになってせこく稼ぐのと、どっちがせこいか」
本気で悩んだ経験がありますから・・・

それはさておき(と、逃げる!)、妻を持って、子供を持って、初めて「稼ぎって何だ?」なんてことを考え始めるから、稚拙になるのではないかしら。
若いときに羽目を外す、という習俗が失われたのも敗戦後ですねえ。。。
今は「塾行きなさい!」ですものねえ。
塾行って、帰りに悪いこと出来てる子供には、いい将来が待っているかもしれない。(ウチは塾へは行かせない主義ですから・・・我が子たちに明日はないのか?)
・・・ああ、いけない、どんどん、本来あるべき筋論からずれていってしまう!
「あるべきようわ」
を忘れてはいけませんね。反省。

投稿: ken | 2007年7月 6日 (金) 00時19分

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