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2007年7月 4日 (水)

モーツァルト:「小クレドミサ」K.192

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。



今回のK.192では、「クレド」の章は演奏例が聴けます。参考になれば幸いです。

作品概観で挙げた、この年のモーツァルトの「教会関係」の作品のうち、「墳墓の音楽」K.42は以前に作られたものへの書き足しをしただけですので、省きます。(既に記事を綴っていました。すみません。)
「ミサ・ブレヴィス」については、K.192(へ長調)は6月24日、K.194(ニ長調)は8月8日に完成しています。
また、この年かどうか分からない「雀のミサ」もあります。

今回は、K.192を読んでみましょう。
(私は高校生のときだったかな、演奏する機会がありました。いい曲ですヨ。)
この曲については、NMAよりもCarus版のスコアの方が、曲の構造について詳しい分析を載せてくれています。分析はドイツ語で書かれていて、その要約が英語とフランス語で掲載されています。ドイツ語のほうも、音楽好きな人にとってはそんなに難しい文章ではないので、要約の方を参考にドイツ語本文の方もお読みになると、案外、内容は把握できるのではないかと思います。

前提として、数年後にモーツァルトがイタリアのマルティーニ師に書き送った、次の書簡の言葉を念頭に置いて下さるよう、あらかじめお願い致します。

「・・・荘厳なミサを(ザルツブルク)大司教がじきじきに執り行います時には、45分以上にわたって続いてはならないのです。・・・」(海老沢敏訳)

以下の説明は、くどくて大変お読みになりづらいと思います。ですが、もしこのミサをお聴きになるのでしたら、モーツァルトが如何に「言葉を大切に」このミサ曲を作り上げたか、のヒントとなるように、と祈りつつ綴りますので、何卒ご容赦下さい。("Credo"のみについては、理解しやすいように音をリンクしてあります。)

K.192(へ長調)は、「小クレドミサ」として有名で、"Credo"の章には彼の最後の交響曲「ジュピター」のフィナーレでフーガのモチーフとなった<ド・レ・ファ・ミ>音型が繰返し繰り返し、大切に扱われて登場します。(この動機は交響曲第33番の第1楽章にも使われています。)
おそらく大司教から課された短い演奏時間制限のせいで言葉の意味が粗末に扱われるのを避けようと、必死で努力したのでしょう、このミサ曲、随所にカノン又はフーガを意識した書法が取られていて、耳にしたときの軽快な印象とは異なり、詞句が決しておろそかに歌われることが無いよう、かなりの配慮がなされています。
ついでばなしですが、(シューベルトの作例にも見られますから)通例だったのでしょうか、"Gloria"と"Credo"の章は、冒頭部分はK.194では2つの章共に、K.192では前者のみ、グレゴリオ聖歌の最初のフレーズが歌われます。「雀のミサ」や他のこの時期のミサ曲も同じだったかな・・・うろ覚えです、すみません。
したがって、ザルツブルク時代のミサ曲でモーツァルトが作曲したのは、この2章に関しては基本的には聖歌で歌われるフレーズの後に続く詞から、となっているはずです。このことは今度K.194を読むときに改めて見てみることにします。


K.192の話を進めましょう。

1. Kyrie(Allegro,F,4/4)
属音から主音へ五度下降し、その主音が八分音符ですぐにオクターヴ上昇する(第1、第2動機。続けると「そーどド」と聞こえるわけです。最後のドをカタカナにしたのは、この音だけ高くなるんだよ、とイメージしてもらうためです、ハイ。)、という、非常に開放的なモチーフで曲を開始します。この「明るさ」が、<クソまじめ>の流行った19世紀中盤以降、「モーツァルトの宗教音楽は世俗的だ」と遠ざけられる要因になったのでしょう。
五(四)度下降(「ソ-ど」・「ファ-ど」)、オクターヴ(ど-ド)または六度(み-ド)上昇は、この楽章で非常に重要な働きをしていますから、たしかに、この自然な跳躍のおかげで、明朗快活な印象は章全体を蔽うものとなっています。ですが、それを保つ工夫たるや、実にこまごましたものです。なにせ、73小節っきりのなかに、「神の憐れみ」への信頼を集約しなければならなかったのですから。(ですので、19世紀の評価はお門違いです。)
最初は器楽のみで始まり、声楽は12小節から、まずバスの歌い出しで始まります。この歌い出しが、器楽部分の第3動機を活用することから始まっている(そのため、全く新しい旋律で歌が始まった、と感じてしまう)点に、聴き手はまず驚かされたはずです。人々がそれまで聴いたことのあるミサ曲は、多分、器楽で始められたそのままで歌も始まるのが通例だったはずで、モーツァルトはまずそんな聴衆の耳を裏切ることから<神は必ず私たちを憐れんでいて下さる>ことを強調して見せている。バスが開始したこの新音型は、テノール、アルト、ソプラノへと、順次、凝縮されたフーガのように積み重ねられていきます。合唱が初めて斉唱になるのは、フレーズの締めくくられる25小節目です。
26小節から38小節目までは、独唱者たちによる四重唱となり、39小節目で再びソプラノによって合唱が始まる(ここから"Christe eleison"となります)と、今度こそ歌い始めは器楽の冒頭の第1、第2動機に添ったものとなります。この二つ目の合唱セクションは、ソプラノとアルト、テノールとバス、の2グループを形成し、二重カノン風に作りこまれています。すなわち、「キリストには神への仲介をしっかり頼まなければならないなあ」という風情になっている、とでも言うべきでしょうか。
46小節目からは最初の合唱とそれに続く四重唱の再現で、簡単なコーダを付して章を閉じます。

2. Gloria(Allegro,F,3/4)
続くクレド楽章の主要動機を予見させるようなメロディラインを、ソプラノが美しく斉唱することで曲を開始します。この斉唱は2つのヴァイオリンの蔦が絡んで、イルミネーションを見せてくれるような印象です。。
7小節目から13小節目まで四重唱がカノンで"bonae voluntatis"を歌い、14小節目で合唱がこれを輝かしく締めくくります。
以下、章全体は、"Kyrie"とはやや異なり、カノン的な部分は見られても、どちらかというとホモフォニックに作られています。・・・相手にしなければならない言葉が多いからなのですが、これは次章の"Credo"にも共通することです。
"Laudamus te"以下は、「賛え」「栄光を感じ」「感謝をささげます」「その大いなる栄光に」の各句にふさわしい音型を模索しつつ繋げたかと思われ、これだけ盛りだくさんの内容を、38小節目までの22小節間でやり遂げた集中力には感嘆の念を禁じ得ません。
38小節目から、前節に折り重なるようにして中間部に突入します。曲調は、「主よ、天の王よ、神の一人子よ」と呼びかけるのにふさわしい、切なさを帯びたものへと変貌します。「我らの罪を除き給う神の子羊よ、憐れみたまえ」、までのこの切ない訴えは、110小節までですから、73小節の長きにわたるもので、このミサ曲全体の中でも例外的な部分です。
終結部は111小節から138小節までは神のみが高みにあること、およびイエスへの賛美、139小節から157小節は聖霊と父なる神の賛美、と、「三位一体」信仰を称揚する輝かしい曲調で、この詞句の締めくくりにある"Amen"を159小節以下179小節まで集約して歌い上げる、という構成です。

3. Credo(Allegro,F,4/4)
このミサ曲を、一連の「ザルツブルク・ミサ」の中で最も有名にしているのは、先に述べた、「ジュピター交響曲」に使われることになる「クレド」動機(ド・レ・ファ・ミ)がこの章に頻出するためです。Carus版のスコアも(そしてまたNMA版の解説も)、この動機の用いられ方に最大の力を注いでいます。
なるほど、この動機の使われ方は、おそらくは当時のどんなミサ曲に比べても特殊なものなのでしょう(いろいろは聴いていませんから真実はわかりませんけれど)。何故なら、「クレド」動機は、他に呼び名をつけようがない・・・この動機が現れるところ、前半部は全て「クレド」という言葉が付せられているからです。
ですので、この動機が現れるところでは、必ず、お決まりの「詞章」が区切られてしまうことになります。
何を意図して、モーツァルトは、こんなことを「しでかして」しまったのでしょう?
「クレド」動機が現れる個所を確認することで、謎解きしてみましょう。
なお、各「・」のあとの色の変わっているところに音声をリンクしましたので、聴いてみて下さい。
〜詞章が"Credo"で始まるのですから、これは、まあ、あたりまえか。「天地を支配する神を信ず。」
〜本来は「そしてまた神の一人子なるイエス・キリストを。かつは・・・云々」と、前から一気に続く句なのですが、ここで改めて「キリストをも信ず。」としているのですね。
〜この部分では、単純に「クレド」動機を示すだけでなく、「クレド」という言葉に対し切迫感をもった装飾を施しています。調もニ短調へと変わっています。それに続いて11小節間は四重唱となり、神の子の「純なること」を「信じる」、と、この重唱もまた36小節目以降でト〜ハ〜ヘ〜変ロ長調というカノン(というよりかなり凝縮したフーガのつもりだったのでしょう)で締めくくるのです。「以下、本論を始めます!」という宣言のつもりでしょうか。
〜これよりまえ、「主は我々のために天から下っていらしたのだ」と合唱が歌い上げています。これを受け、「ではどんな手段で天から下ってきたのか」、その理由をも「信じるのだ」ということを表明する、接続詞的な用い方をされた「クレド」動機の登場です。で、「信じられる」天から地上に至った方法は、「処女マリアより生まれたもうた」ということになるわけです。
で、続く「クレド」動機は、これまでに比べると例外的な現れ方をします。ここには物理的要請(演奏時間制限)を逆手に取ったモーツァルトの知恵を感じます。
〜ここでの「クレド」動機(ハ短調)は、"Crucifixus"・"sub Pontio Pilato"・"Passus"の、それぞれ受難に関わる言葉を付されていて、「クレド」動機の象徴する「信条」の最たる意味を全て明らかにしているのです。以下、"et sepultus est."等々の部分は経過句として取り扱い、音楽が単調になることを回避しています。
〜「クレド」動機は、ここでは「受難」の悲しみにふけるように、弱音で歌われます。続く75小節からの合唱で、キリストの再生をフォルテで力強く歌い上げる、その効果を最大限に高めるための、小粋な演出です。
〜この部分は、27小節と類似した「クレド」動機の扱い方をしています。調も、同じニ短調です。四重唱が続く点も似ています。章句の違いにより、四重唱部分ははじめは音型が異なりますけれど、やはりこれもト〜ハ〜ヘ〜変ロ長調の「クレド」動機によるカノンで次の節へと移行します。このカノンを挟んで105小節目から109小節目までは合唱による小結尾となります。
〜109小節でフェルマータで区切られた後、バスのソロが「クレド」動機の後半部を変形し、言葉も「クレド」ではないものに変えて5小節間独唱します。それを残る3小節で合唱が受け、117小節でフェルマータとなる。これは最後のクライマックスに繋げるための経過的なセクションです。
からは、言葉は"Et vitam ..."と変わりますけれど、「クレド」動機の本領を発揮した、見事な終結部です。128小節まではフーガ、129〜131小節は、その残り火になっていて、132小節から137小節まで繰り返される"Amen"の断片は、やはり「クレド」動機の変形と見ることが出来ます。
で、弱音で「クレド」動機を"Credo,Cdedo"と歌い、この章は敬虔な余韻を残します。
・・・ということで、せっかくですから、 を通しでお聴き下さい。
なお、お決まりの動機を「クレド」の言葉の部分に使う、という手法をとったミサ曲を、モーツァルトは後年もう1作作っています(K.257)。・・・私個人は、今回取り上げたK.192の方が「クレド」の出来は良い気がしますが、どうでしょうか。

4. Sanctus(Andante,F,3/4), Hosanna(Allegro,F,4/4),
Benedictus(Andantino B,3/4), Hosanna(Allegro,F,4/4)
・・・は、まずは定型的な作り方だ、と言ってしまって片付けても良いでしょう・・・って、"Credo"読むので疲れちゃったのよ。。。
ただ、この作品だからとりわけ、という特徴がこの章に無いのは、僕が疲れようが疲れまいが関係のない、変えようの無い事実です。
モーツァルトが力を抜いて作ったから、というのではありません。
"Sanctus"(最初の18小節)は、1stViolinのシンコペーションの美しい部分ですし、"Hosanna"はたった12小節ですけれど、良く整ったフーガです。
ですが、通常メロディックに作られる"Benedictus"(36小節)は、そのお決まりどおりの純粋にホモフォニックな、そのかわりとりわけ「深み」も追求されてはいないものですし、それも含め、この章を構成する全てに、前3章のような労力は注がれていません。
労力が注がれてない、即、音楽として優れていない、ではないことは、しかし、承知しておく必要はあります。誤解が無いよう祈るばかりです。

5. Agnus Dei (Adagio d,4/4〜Allegro moderato F,3/8)
一転して重々しいニ短調に始まりますが、伴奏の音型に非常な工夫が見られます。
もだえるような16分音符の1stViolinの下で、2ndViolinは胸元で胸をかきむしるしぐさをしているようですし、バス声部はある意味では定型的ですが、重い足取りを象徴しています。この調子で、"miserere nobis"まで音楽が24小節続いていきます。
25小節目からは採集の100小節目まで、一転してイタリア風シンフォニアの終楽章の雰囲気をもった、軽やかな曲調となります。この部分で歌われる歌詞は"dona nobis pacem(我らに平安を)"のみです。
"Agnus Dei"全体を暗い曲調、あるいは心が静まっていくようなエンディングで仕上げていないのは、ミサの式典を「明るく終えよ」という要請でもあったためでしょうか?
ただ、この時期、"Agnus Dei"の前半部だけでも短調で作られる、というのは、作りかたとしては主流派では無かったのではないかなあ、と思います。(以下は、コメントでのBunchouさんのご指摘の通り、誤りです、楽譜ちゃんと確認しなかった! 怠慢です。ごめんなさい。「間違った」証拠として残しておきます。ここから)このミサ曲に続いて作られたK.194の"Agnus Dei"は、全体が長調です。ただし、曲調は穏やかな雰囲気で一貫しており、最後を華やかめに終わる、に留めているのが、このK.192と大きく異なるところです。(ここまで大間違い!)
ともあれ、前半部を短調にすることで「祈り」の切実さを訴えよう、と、この作品についてはモーツァルトはそんな意図をもって臨んだのかも知れず、そしてその狙いは見事に当たっていると言って良いと思います。

相変わらず下手な説明で恐縮でした。
"Agnus Dei"の作法については、一般的にはどうだったのか、は、私の宿題とさせておいて下さい。

スコアはNMAでは第1分冊に収録されています。1975年校訂譜です。
Carus版は40.625/07というナンバーが付されており、1990年に校訂された譜面になっていて、通奏低音のオルガンは和声を補記されています。コードはISMN M-007-07401-2です。

安いCDはこちらですが、私はこのCDでは聴いていません。

ミサ曲はCDでは全集でまとめ買い、でしょうか。。。でも、ちょっと、この国内盤全集では、高いなあ。。。




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「クレド」で引用した演奏はずっと以前にフィリップスの全集で出たものをバラ売りしているのを入手したもので、ヘルベルト・ケーゲル指揮/ライプツィヒ放送合唱団/ライプツィヒ放送響の演奏です。



東京ムジークフロー第44回定期演奏会の、演奏の音はこちらで聴けます。併せて(私個人の偏った視点ではありますが)反省もお読み頂けますよう、お願い申し上げます。

チャイコフスキーコンクールヴァイオリン製作部門で優勝・第2位・第4位を獲得した菊田さん、高橋さん、天野さんについて紹介させて頂いた記事はこちら

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コメント

こんばんは。
あの、いきなりですが、K194のアニュス・デイはたしか短調で始まっていたと思うのですが…。
あと、サンクトゥスの解説の「労力が注がれてない、即、音楽として優れていない、であることは、……」という部分はタイプミスのような気が…。
ミスの指摘ばかりで恐縮です。

Kenさんのモーツァルト解説(?)、いつもとても楽しみにしています。変ロ長調K275やハ長調K337のミサ曲やリタニア、ヴェスペレといったモーツァルトの教会音楽にどのような解説が為されるのか、気が早いですが、ワクワクしています。

投稿: Bunchou | 2007年7月 5日 (木) 23時53分

Bunchouさん、ご指摘ありがとうございました!
なにせ、特にタイピングは、その前に記憶でメモしておいたことを隠れてこそこそやっていることでして・・・掲載前には出来るだけ確認し直すようにしていますけれど、追いつきませんね。申し訳ありません。・・・というしだいで、あんまりせかさないで頂けると助かりますm(_ _)m

・タイプミスは修正し、
・「間違い」は「証拠」として間違いであることを注記して残しました!
今後ともビシバシと・・・あ、でも、ムチではぶたないで下さいネ。。。

投稿: ken | 2007年7月 6日 (金) 00時03分

クレド 万歳。最高なのは57小節のCrucifixusのバス。バス冥利につきます。弦のユニゾンがまたたまりません。k257より確かにジュピター音型を使い倒し(活用しつくし)て私もこちらが勝ちかと・・。

投稿: ランスロット | 2007年7月28日 (土) 09時49分

>Crucifixusのバス。バス冥利につきます。
本当ですね。バスと言う声部を選んだところが、全体を締めていますね。
私は、この章は、最後の2小節の終わり方がとっても好きなんですヨ!

Kyieもすばらしい音楽です。初めて弾いた練習の時の喜びも、教会での本番の厳粛だったことも、忘れ難く思っております。

投稿: ken | 2007年7月28日 (土) 17時12分

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