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2007年7月17日 (火)

モーツァルト:K.194と「雀のミサ」

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。



「小クレドミサ」と双生児関係にある、と言われる、同じ年のもうひとつのミサ、K.194は、音を読んでみると、むしろ、「小クレドミサ」よりは兄貴分ではないか、と感じられる構造をしていました。
同じ年か翌1775年1月作とされるK.220(通称「雀のミサ」)とも、作法に緩やかな関連性が感じられました。
この2つのミサ曲、アインシュタインとカルル・ド・ニの両大御所の評価が対照的なのも、読んでいく上で悩みの種でした。アインシュタインは低い評価しか下していませんが、ド・ニの方は大変に誉めている。なおかつ、作品内容に対する見解も異なっているのです。アインシュタインの方は耳で聞いただけの印象によるのではないかと疑われる一方、ド・ニの方は楽譜を過大評価しているふしもある。そういう意味では、これら2つのミサ曲は「問題作」でもあるのでした。

最初に述べましたように、作曲技法上に緩やかな関連性がみられる点を考慮すると、やはり、耳での判断はアインシュタインの轍を踏むことにならざるを得ません。すなわち、アインシュタインの言葉どおりではありませんが、
「K.194も、K.220も、対位法を駆使した「小クレドミサ」からは一歩後退した、ホモフォニックな作品である」
・・・そのようにしか聞こえません。彼はK.194についてはそう悪く評価している訳ではありませんが、K.220については、
「彼の最も気の抜けた、あまりにもザルツブルク的な教会作品」
と、本来は他のザルツブルク時代の教会作品まで含めて駄作なのだ、と言わんばかりの言葉を浴びせています。
「雀のミサ」K.220については、後述しますが、確かに「対位法」技術など全く念頭におかずに作曲されたものと思われます。だからといって即「後退した」と断じてしまうのは早計です。発行されているCDなどには「ミサ・ブレヴィス」の中のひとつとしてしか把握されていませんが、管弦楽編成を含め、「雀のミサ」は、決して、単純に雀がさえずるだけの小曲ではありません。

その前に、まず、K.194(ニ長調)について見ておかなければなりません。
K.192を「小クレドミサ」と呼ぶのであれば、K.194のほうは「キリエミサ」と呼んでもよいのではないか、と思うほど、冒頭楽章では"Kyrie"(あるいは"Christe")の語が、「ソーミード・」の主和音下行型の動機と密接に関わっています。
ド・ニの「なによりもこのミサは、その簡潔さとポリフォニーに特徴があるように見える。(中略)しかし実際の書法はまったく異なっていて、わずかの小さい例外はあるが、ホモフォニックであることにすぐ気がつく」という言葉は、「ポリフォニー」と「ホモフォニック」の位置を入れ替えなければなりません。
音符を逐一読んでいくと、すべての楽章がド・ニが主張しているような「ホモフォニック」な構造をしているわけではありません。カノンを主体とした「対位法技法」の使用が、「小クレドミサ」に比べて前面にしゃしゃり出ることがないのです。言葉が揃うように工夫したことが、ポリフォニーを「ホモフォニー」に見せかけているのです。

今回は音を掲載しないので、またもやお読みいただくのが面倒になりますが、K.194に見られるカノンおよびカノン風の箇所を列挙すると、下記のようになります。

・Kyrie(全41小節):6〜9小節、13〜20小節、22〜27小節(延べ19小節、対位法処理部46%)
・Gloria(全59小節):これはホモフォニックな楽章ですが、次の「クレド」と同じく、言葉をあまねく述べるために必要な措置で、K.192とも同様です。ただし、11〜23の独唱部はカノン風に処理しています(20%)。
・Credo(全183小節):Gloriaと同事情。ですが、「復活」を歌い上げるAllegro(68小節)に入ったときの冒頭部10小節はフゲッタ風の処理で効果を高めています。(その前のAndante moderatoの独唱部'Et incarnatus est...'の四重唱はソプラノのアリア風に始まり、オペラの技法の応用が見られます。107小節でテノールによって始められる四重唱も、劇中に現れるような、ソプラノとバス、アルトとテノールのペアを組み合わせ、バスが一人のこって最低音で締めるところなども同様です。これらはK.220でより発展的に展開される技法です。)162小節から始まるアーメンも、172小節目まで畳み掛けるようなカノン風処理となっています。以上で、対位法処理された部分は、この小節数の多い章でも11%を占めています。
・Sanctus(全35小節):これこそカノン処理を積み重ねたような章です。前半の'Sanctus'部(7小節)は、常套手段として最終2小節をホモフォニックに終わらせないとまとまらないからそうしただけのことであって(カノンを作る実習をやってみれば分かります)、全体が(変形を伴った)カノンを意図して作られています。続く8小節のホモフォニックな部分は「天と地に(栄光が)満ち」という言葉の内容を強調するためにわざわざとられた書法なのであって、これが際立つのも、先立つ7小節、続く20小節("Hosanna"、最後まで)が対位法処理されていて初めて際立つ、という仕掛けです。(対位法処理部77%)
・Benedictus("Hosanna"反復部を含め全37小節):カノン、と言う訳ではありませんが、四重唱でホモフォニーを構成するのは"Benedictus"部の最後の2小節(15〜16小節)に限られますから、対位法的処理部の割合は95%に達します。
・Agnus Dei(全102小節。前回、調を間違えました。ロ短調で始まります。すみませんでした。):ソプラノソロに始まる旋律を9小節目からの合唱で引き継ぐのはテノールパートとあるとパートのカノンであり、それを飾る他声部はあくまで「対位法的」な動きをとります。17小節目からはアルト独唱で始まり、合唱部に入るとソプラノとバスがそれをカノンで引き取ります。さらに、33小節目からはテノールとバスの独唱同士が最初の4小節を「エコー」で歌い上げ、その後半4小節で初めてホモフォニックに合体するのですが、続く41小節からの合唱は再び45小節目までカノン処理となっています。最後の'dona nobis pacem'はホモフォニーであることが望ましい言葉ですからホモフォニーとしていますが、これも言葉の要請するところに従ったためのものであって、K.194が「ホモフォニックな作品である」ことの裏付けとはなり得ません。この章での明確な対位法処理部は20%ですが、'dona nobis pacem'部だけで54小節が占められており、それを除外すれば割合は43%に達しますし、一方、'dona nobis pacem'部を除くホモフォニック部は、独唱部は4小節以外は除外しなければなりませんから、全部で7小節にすぎず、前半部では14%にすぎません。
こうして客観的に見てくると、K.194は、ホモフォニックにはほど遠い作品であることあ判明します。
カノンを駆使しながら、しかし、ミサの言葉一つ一つが不明瞭にならないように、という配慮は相変わらず、いや、むしろカノン処理した箇所では声部を密集させないことによって、「小クレドミサ」より発展した姿勢が貫かれている、といっていいでしょう。


もうひとつの、「雀のミサ」K.220は、どうでしょうか?
こちらは作曲の経緯から見ておく必要があります。
明瞭には分からないのですが、1775年1月完成説は、この時期ミュンヘンでオペラ「偽の女庭師」上演に対してザルツブルク大司教コロレドが牽制のために「ミサ曲」作曲をモーツァルトに命じた、という話があります。

で、従来、のときの大司教の要請によって作られたのが「雀のミサ」ではないか、という推測がなされてきていました。
推測の是非は分かりません。1775年1月ではなくて、それより前には作られていた、とする説についても、市井人である私には手元資料もありませんから、論拠を目にしておりません。
ただ、はっきり言えるのは、
・「雀のミサ」では対位法的手法は99%放棄されている(数字は適当です)
・対位法を放棄した主な理由は、大司教コロレドの設けた45分以内に「ミサの言葉を明確に会衆に聞き取ってもらう」ためであったと思われる(これはK.194の作曲姿勢を発展的に継承している)
・言葉を明瞭にしなければならなかった理由は、このミサ曲は通常の「日曜」ミサではなく、荘厳ミサを執り行わなければならない場のために作られたためであると推測される
・「雀のミサ」は、長さからいえば「ミサ・ブレヴィス」だが、編成上はトランペットとティンパニを含む「荘厳ミサ曲」である(Carus版スコア解説参照)ことが、上記推測の裏づけである
の4点であろうかと考えております。

このミサ曲、多くの解説文では、最初の"Kyrie"の音楽が最後の"Agnus Dei"でも使用されていることばかりが強調されがちですが、こうした手法はモーツァルトはこの作品ではじめて使ったわけでもなんでもありませんし、私にはあまり大きな意味をもっているとは思われません。
「雀のミサ」はホモフォニックで親しみやすいので、ザルツブルクミサの中では録音も多いため、耳にしたことのある方も多いかもしれません。で、お聞きになったとき、もし他の「ザルツブルクミサ」もご存知でしたら、
「他のヤツより華やかだなあ!」
という印象もお持ちだったのではないでしょうか?
華やかなのは、じつはトランペットとティンパニによってのみもたらされているのではありません。
具体的な箇所にまでは触れませんが、モーツァルトのこれまでの劇作品で培った独唱部の効果的活用も、この作品の劇的効果に大きく貢献しているのです(Gloria、Credo、Benedictus、Agnus Dei)。
さらに、下行する半音階の多用も(解説で取り上げているのを目にした記憶がありませんが)、「雀のミサ」などというニックネームがふさわしくないのではないかと思わせるほど、作品に重厚感を与えています(例:短いですが”Kyrie”18小節目1小節間や37小節目の最初の3拍、"Credo"の'Et incarnatus est...'の部分,"Agnus dei"の39〜42小節目)。
最も面白いのは、"Benedictus"のあとに、"Hosanna"が、"Sanctus"後半部の反復ではなく、独立楽章として作曲されていることで、少なくともモーツァルトにとってはミサ曲では初めてとった手法ではないかと思います。"Hosanna"がK.220ではわざわざ独立楽章として創作している点、アインシュタインもド・ニもあまり注目していないのは・・・この素晴らしい研究かたちが、何故? と感じるしかありません。「雀のミサ」をドラマチックに聞かせる上で、この"Benedictus"〜"Hosanna(独立楽章)"を挟み込む手法は、オペラの作法の応用であり、非常に高い効果を発揮しているからです。
そんな耳で、是非、「雀のミサ」を聴き直していただければ、綴り手と致しましては非常に嬉しく存じます。

さて、この2作は、「ミサ曲はどんな場合に演奏されたか」についても貴重な情報を提供してくれます。
その辺についてもCarus版の解説を要約して触れておきます。

・「ミサ・ブレヴィス」は、日曜日や、あまり重要ではない祭日のためのものであり、伴奏は通常の協会ソナタの編成(ヴァイオリン、チェロ、通奏低音[オルガンとコントラバス])を前提としていた。このヴィオラの含まれない編成は、ザルツブルク固有のものではなく、南ドイツ地方では一般的なものであった。なお、編成が小さいため、小さな教会では合唱部と独唱部は区別なく、各パートそれぞれを一人ずつで歌った可能性もある(以上はすべてモーツァルトのミサ作品のパート譜の残存状況から推測される)。

・「荘厳ミサ」は特別な祝祭日に虚構されるものであり、音楽はトリオソナタの編成に加え、木管楽器・トランペット・打楽器を添えた大きなものとなるのが常識的だった。

・「ミサ・ブレヴィス」・「荘厳ミサ」共、大きな合唱隊を備える教会(聖堂)では、アルト以下のパートはトロンボーンによって忠実になぞられたと考えられている。(さらに、ザルツブルクの場合には合唱と独唱は演奏の場も別れており、それに伴い、通奏低音部も合唱用と独唱用の2つが別個に作成されていたのが判明している、とのこと)

もう一点、"Gloria"や"Credo"で先唱されるグレゴリオ聖歌を調べてみたかったのですが、時間が足りませんでした。
決まったものを歌うのが「お約束」だったのかどうか・・・注釈を読んでも私には理解できませんでしたので・・・ゴメンナサイ。とりあえず「おまけばなし」ということで。
私が十代で数曲のミサ曲演奏に携わったときは、スコアには明記されていませんでしたが、K.192では確かにテノールが、Carus版に載せられたテノール用の聖歌と同じものを歌っていました。(でも、シューベルトのミサをやったときも同じやつを歌ったんだよな。指導者がそれしか知らなかった、からなんじゃないかな? なので、一度きちんと調べてみたいと思っています。)

スコアはNMAでは第1分冊、Carus版ではK.194がISMN M-007-07401-2、K.220がISMN M-007-07402-9です。
CDは前回の記事を参照して下さい。

残る宗教曲「ディキシットとマニフィカト」については、またあらためて。

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