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2007年6月20日 (水)

モーツァルト:1774年の2つの交響曲

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。



この年の4月にいわゆる29番K.201、5月に同30番K.202を作ってからしばらく(母と共にパリに行くまで)、モーツァルトは交響曲を作っていません。
この1年のあいだを通してみたときの作曲時期(5月以降は教会や貴族邸向けと思われる作品へとウェイトが移行する)、これらの作品が既に「歌劇の序曲」としての性格は持っていないことを念頭におくと、当時の「交響曲(もしくはシンフォニア)」というものが世間でどのような位置付けに置かれていたかのヒントが埋もれていそうな感じがします。・・・どんな答えが、そこにはあるのでしょう? しかし、痕跡がない以上、まだこの時点で輪郭のはっきりした仮説を出すのは、次のような点を勘案したとき、私はまだ控えておくべきでしょう。

・ハイドンの、エステルハージ家での交響曲演奏の状況を他の種類の器楽曲とはっきり区分できるような説明にはお目にかかっていません。(何らかの特別イベントの際には「シンフォニー」だったのかな、程度しか伺うことが出来ません。数ヶ月前に入手した文献をまだ読んでいませんから、これには私の怠慢も加味されます。・・・だって、英語なんだもん!)

・多作者ヴァンハルについては作曲経緯・上演経緯共に不明な点が多すぎて、少々の情報があってもそれぞれに接点がなく、読んでも私などのような「門外漢」は戸惑うほかありません。

・モーツァルトに関しても、すくなくともザルツブルク時代について私が目に出来る研究の中には、演奏機会について「セレナーデ」・「ディヴェルティメント」がどのように違っていたかが判然とするものはなく、かつ、それらからは「交響曲」は未だに「セレナーデ」との演奏場面や機会についての境界線が区分されているとは言いがたいとの印象を受けます。

とはいえ、74年の2曲の音符を眺め、演奏例を聴いていると、「交響曲」(これからはそう呼んでしまうのを躊躇する必要はないでしょう)が、少なくともモーツァルトの精神上ではこの年で完全に、ひとつの「定型的」なジャンルとして意識され、創作されるようになったと決めつけてしまっても、全く支障が無いように思います。
さらに、こうしたモーツァルトの精神の確立は、前年の「25番」・「28番」で既に9割方なされていたとみなしてもいいでしょう。

ただ、29番・30番と25番・28番には、創作姿勢に決定的な違いがある、とも感じました。

ベーレンライターの新版では「28番」は74年作であると断言されて(・・・少なくとも解説はそのように読み取れる文になっていました)いるのですけれど、その場合、「28番」の創作された日付は「29番」や「30番」よりは後付け、ということになります。ところが、作りを検討すると、どうしても「28番」の方が「29番」・「30番」より単純で、むしろ「25番」に近い。
「28番」は「25番」に比べて損な立場にある、ということは前に綴りましたが、損をしているのはもっぱら素材となっている楽想によるものです。「ト短調」の強烈なシンコペーションに比べれば、「28番」の主題はどうしても穏当にしか聞こえません。「25番」について書法をみてみますと、これは「29番」・「30番」に比べて主題の扱い方がまだ固定的です。すなわち、一度現れた主題はその基本構造が殆ど、あるいは全く変形されないまま、ずっと用いられ続けます。そして、「25番」と同じ書法が「28番」にも取られているのです。

「29番」・「30番」については、後で少しだけ述べますが、主題はもう少し複雑な取扱いを受けています。すなわち、もし「25番」がモーツァルトという人格を生でさらしているがゆえに高い評価を受けているのだとすれば、おなじCDにカップリングされることの多い「29番」も同様だ、と思われがちかと想像しておりますけれど、音符を検討しなおしてみると、創作にあたっては、こちらではもうモーツァルトは人格を生のままに出してはいないと考えるほかありません。同じことが「30番」にも言えます。
ですので、(私が楽しみたくて試みている素人論ですから「学問」・「権威」云々とは無縁で構いませんでしょう?)

・「28番」は「25番」とほぼ同一と言ってよい書法を採っていることから、74年作とは考えられない。73年作であろう。

・この前提の上で、「25番」・「28番」は、モーツァルトにとって「交響曲」を独立ジャンル、独自の表現手段として意識するきっかけをもたらす創作になったのであろう。

・「ならば、もっと進んだ態度で<交響曲>を作ってみよう」と、彼は考え、「29番」・「30番」でそれを実践したのであろう。

そういう仮説を前提として、以下、74年の2曲の「交響曲」を観察してみます。

第1楽章の冒頭を素材にすることに絞ります。
「25番」冒頭はこんな具合。

最初の4小節はユニゾンで、和音はついていません。和音のイメージはこの時点では、本当は分からない。ですが、音楽を聴きなれた人が、耳に馴染んだ習慣から、この4小節にくっつく和音を想像出来てしまいます。しかも、「想像した和音」の正しさを、モーツァルトは続く8小節で聴衆を裏切らずに示しているから、表現が激情的であるにも関わらず、聴き手は動揺することなく音楽を聴きつづけられる。
厳しいシンコペーションで開始されるので、「うん、これはすごい迫力だ!」と感じさせてはおくのですが、構造としては安定していて、ある意味では「聴き手の心を動かさない」側面も持ち合わせています。(こう言ってしまったら「25番」ファンには叱られてしまうかな?でも、ここはちょっと冷静に見て置きましょう。重要なポイントです。)

「29番」第1楽章の冒頭部は、どうでしょうか?

「25番」が1小節ないし2小節単位で和声を動かしているのにたいし、「29番」の注目すべき点は、フォルテの部分に入る前は2拍ごとに和声を変える、という原則で作曲されているところです。
また、冒頭拍だけ、和音がついていません。
これは「25番」の最初の4小節に和声がついていないのとは意味が違います。
ほんとうに最初の1音、A音だけに和音をつけていない。つまり、冒頭で「調」を決めていない。まだ「イ長調」ではないのです。
それがほんの一瞬だ、たった一拍だ、というのがミソで、「聴き手の耳を初めからひきつけてしまおう」という、頭脳的戦略です。ニクイね!
以降、2拍ずつ和音にかなりの揺さぶりをかけますので、「ああ、穏やかな音楽だなあ」という印象とは裏腹に、聴き手の感情は揺さぶられることになります。これが、「29番」に私たちが感じる不思議な心の膨らみをもたらす重要な仕掛けになっています。
本来はこれまでの作品や同時代の他者の作品も観察した上で結論付けなければいけないのでしょうが、ともあれ、モーツァルトにとっては画期的な「新工夫」であること、そしてその、私たちが一般的に耳にする最も初めの作例だ、ということは、言ってしまっても間違いではないでしょう。

次の工夫は、「29番」、「30番」で共通していることです。ただし、「30番」だけは、後述のように、さらに発展した技法を用いています。
どんな工夫か。
第1楽章と終楽章の最初もモチーフに共通のものを用いていることです。

「29番」はa-A(移動ド読みで「ド−ド」)のオクターヴ下降を共有モチーフにしています。
(音声:

「30番」はd7-a-fis-d(移動ド読みで「ド−ソ−ミ−ド」)という骨格が共有モチーフです。
(音声: )〜こっちは、「29番」と違って変形が加えられていますから、ちょっと分かりにくいかしら?)

こういう共有は「25番」や「28番」ではなかったことです。モーツァルトは、74年の交響曲作曲にあたって、明らかに「交響曲全曲の統一感をどうやって持たせようか」と、おそらくはじめて意識したのだと思われます。

さて、「29番」はその美しさ、あるいはベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番冒頭部が参考にしたのではないか、と想像されたりしている事情などからポピュラーになっています。ムードも、ロマン派以降の音楽に馴染んだ耳には、より「情緒的」で馴染みやすい。
ですが、「30番」は、真の意味で、交響曲における「モーツァルトらしさ」を確立した作品で、鑑賞上の価値とは別かもしれませんが、「29番」よりも重要度の高い作品ではないか、と、私は思います。(アルフレート・アインシュタインが29番との比較のみにおいて30番をおとしめて評価している態度は、私には納得が行きません。)

「30番」については、第1楽章と第4楽章の、これも第一主題の冒頭部を使って観察しましょう。
音声をもう一度聴いて下さい。


最初の4小節で完結、と聞こえるのですが、じつはその変奏を次の4小節で用いています。
和声はもちろん、音の骨格が全く同じであるところを、聞き取ってみて下さい。


これはやはり最初の4小節で完結・・・かなと耳には感じます。しかも、それだけだと、第1楽章の最初の主題の、前半2小節しか使っていない。。。
後に続く、一旦静かになる部分が、第1楽章冒頭主題4小節のうちの後半部を用いているのです。・・・これは、譜例のほうが分かりやすいのですけれど。どうです? 音だけでおわかりいただけるでしょうか?

以降、音楽をつなげていく手段にも面白いトピックがあるのですが、細かいことを綴り始めると、止まらなくなります。だいいち、私の頭もそこまでまとめられる能力に欠けています!
とくに「30番」では、第1楽章も第4楽章もさらにこのあと、冒頭主題の動機を活用した経過句などを用いて、ウィーン時代以降を思わせる構成のガッチリした音楽に仕上げています。そのあたりを、是非、いちどご確認いただければと思います。
また、「30番」の第2楽章では三声のカノンの手法も巧みに使われている(「25番」も、ですけれど、こちらは二声までにとどまっています)あたり、やはり非常に美しいです。

あんまり言い尽くせた気がしないのですが、これでもだいぶ長くなったので、最後にランスロットさんから出された宿題の「29番聞き比べ」感想を一言ずつ載せて、終わりにします。
ただし、私はモーツァルトの交響曲はいま単独盤CDでは持っておりませんので、すみませんが全集中の演奏の聴き比べになります。
ほぼ、録音年代順に。

・ラインスドルフ〜研究熱心だった彼の指揮下の演奏は、しかし、学際的ではなく、ドライではあっても活き活きしています。

・ベーム〜何故か修飾音を「当時」風にすることにこだわっていて、くどいかも。モーツァルト指揮者のイメージで売ったベームですが、「29番」あたりまでについては、この点、出来不出来にムラがあるとの印象を受けています。

・ホグウッド〜柔らかいのが好きな方には好まれるかもしれません。

・ピノック〜古楽系ですが「モダン」な印象。私はこの演奏の全集を携帯していますので、今回のサンプルはこれです。

・テイト〜ホグウッド的解釈のモダンオケ版演奏、というところかな。

(番外〜ちょっと饒舌!)
・スウィトナー/シュターツカペレドレスデン
この組み合わせでのモーツァルトの交響曲は残念なことに28番以降しか録音されていませんが、いちどどなたにも耳にして頂きたい演奏ばかりです。解釈には20世紀前半的なロマン的香りを濃厚に残していながら、どの交響曲もメリハリの効いた響きを作り上げていて、今でも理想的なモーツァルト演奏として充分通用するものばかりではないかと思います。とくに「ハフナー」以降、「プラハ」までが出色です。
「29番」は柔らかく始まりながら、クッキリさせるべきところはクッキリ、と、「そんなこと、あたりまえじゃないか」ということを、しかし上記のどの演奏よりもキッチリ守っているのが印象的です。
・クレンペラー/フィルハーモニア
この組み合わせで面白いのは「パリ」交響曲が「ベルリン」的な演奏である、とでもいうべきところですが、似たようなことが「29番」の演奏についても言えます。「俺がやるならこうだぜ! 理屈? 関係ねえ! いやなら出てけ」と言わんばかりで・・・(ベートーヴェン「エグモント」序曲の練習風景の録画に、このセリフがぴったり来るような映像が残っていて愉快ですけれど、団員さんはいやだったろうなあ)、ありきたりの「29番」じゃあつまんない、とおっしゃるならクレンペラーを聴いてみて下さい。私は、案外、好きです!(我が家の状況で、いま、ちょっと取り出せないのが残念。)

長々、失礼しました。

あ、曲の構成を記し忘れました!

K.201 in A (2ob. 2Hr.)
Alegro moderato 4/4 206bars
Andante 2/4( in D ) 109bars
Menuetto 32 + Trio 22
Allegro con spirito 187bars

K.202 in D (2ob. 2Hr. 2Trmp)
Molto Allegro 3/4 207 bars
Andantino con moto 2/4( in A ) 75bars
Menuetto 40 + Trio 20 (Trioは弦楽のみ)
Presto 2/4 205bars & Coda 14(このコーダがなんともいえず愛嬌があります。)

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コメント

やっとコメントできます。何故 29番に惹きつけられるのか音楽的に考えたることはできませんが、kenさんコメントでMozartの戦略にまんまと嵌っているということが解りました。ありがとうございます。さて聞き比べの項ですが、まさに驚きです。番外のスイトナーが私の正解でした。感服!!

投稿: ランスロット | 2007年7月28日 (土) 09時06分

ランスロットさん、ありがとうございます!

ああ、やっと安心した! 枕を高くして寝られるぞ!

投稿: ken | 2007年7月28日 (土) 09時29分

個人的には28番の作曲年代は1774年かな、と思っています。
確かに第一楽章こそ16番K128の焼き直しのように聴こえますが、
緩徐楽章の音楽的成熟は29番より一歩前進しているように感じますし、
メヌエットのさりげなく立体的なところや
小慣れた書法による、コンパクトながら充実したフィナーレなどは
29、30番よりも一枚上手ではないかと推察します。
しかし、書法や様式から判断することに大きなリスクが伴うことは
「孤児院ミサ」の例でも立証済みなので、とても難しいですね。

29番はやっぱり傑作!
この曲でモーツァルトが自分の交響曲書法を一応の完成に導いたことが
一聴して実感できますね。感情的な表出はほとんど皆無ですが、
それでも以前の(25番は除く)交響曲からすれば、明らかに
「個人的な音楽」になっていて、その成長ぶりの凄さに圧倒されます。
この作品ではカノン風の模倣的な書法と弦による激しいトレモロの表現が
随所で目立っており、興味深いです。

30番はその機会音楽的な雰囲気で等閑視されていますが、
この機知に富んだ小粋な交響曲はもっと親しまれてもいいと思います。
特に第一楽章のオーケストレーションは面白すぎます。

25番も含めたこれらの4曲を聴いたり眺めたりしていて気付くのは、
モーツァルトが(当時は古臭いとされていた)対位法を
ホモフォニックな音楽に採り入れることに腐心していることです。
後の彼の(音楽における)生涯のテーマの一つとなるものが
この時期にすでにしっかりと芽を出していることは、
指摘しておいてもイイかもしれませんね。

投稿: Bunchou | 2008年7月20日 (日) 14時31分

そうですか・・・28番は、また見直しをしてみようかな。。。

30番については全く同感です。

モーツァルトが決して「ホモフォニー」の作曲家ではないことも。
「ホモフォニーの代表作」みたいに扱われがちな「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」でさえも、決して「ホモフォニー音楽」ではありません。
これはハイドンの諸作にもほぼ共通していえることだと思っております。

この辺りの誤解は、いい加減、世の中から取り除きたいですね。

投稿: ken | 2008年7月20日 (日) 22時51分

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