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2007年5月25日 (金)

死について

頂いたメールへの返信を、ほぼそのまま載せます。いずれ考えたかったことだったから。



人の死は、人にはその日を決められないのですね。
決めてしまうのはルール違反ですよね。
でも、前もって神様が教えて下さらないのは、ルール違反ではないのでしょうか?

聖書の神様は、ヨブには「ルール違反じゃない」と言いました。

信教がなんであってもいい、人は「生かされている」ということを切実に感じていなければならない。
「生きている」、と、あくまで「命」が自分自身の持ちものだと錯覚するのだったら、・・・こんなことは、ありえない。それを思い知らなくちゃいけない。

Hさんは、神様に選ばれてしまった。
「神様」という言葉なり、「仏様」という言葉なりを拒否する人も、考えてみたらいいのです。
あなたがあなたとしてあるのは、あなたの意志によるものですか、って。
意志なんか関係ない、って言うなら、じゃあどうしてあなたは「意志」を持っているのですか、って。

それは、この宇宙を成り立たせている摂理がもたらしてくれた必然です。

ですから、その摂理だけが、個々の生や死や、生物であるか無生物であるか、や、では「命」はこの個体にとってどういうサイクルで回るのか、や・・・
ああ、とりとめもないけれど、そうです、僕たちを「生かせて」いる摂理だけがすべてを知っている。

死は偶然ではない。ただ僕たちにはその訪れが何時なのかが見えない。
占ったって、だめです。占いが仮に真実のひとかけらでも見せてくれるとしたって、それは所詮、ひとかけらでしかない。
ひとかけらをもってすべてだと思うのは危険だから、古人は「占い」を捨ててきたのだし。
そんなものにたよって、何が分かるか? 結局は、分からない。
すべてが見えないことを、「分かった」などと言い切ってはいけない。
だから、キリストも、明日のことは明日に任せよ、と言い、
釈迦も灯は自らのうちにしか見いだせないと言ったのでしょう。
分かるために、ではなくて、分からないことが起きても、いつでもそれを受け入れられるように。

僕たちには、永遠に、何も分からないのだろうか?

僕、もう狂っているかもしれないけれど、ますます狂っていくようだ。
こんなことしか綴れないし、考えられません。

変なおはなしでごめんなさい。

ほんとうに、心がグルグルするばかりです。

いま、お家のベッドでやすらかににこやかにお休みになっているHさんがどうしても目に浮かんで、やすらかなだけに、こっちはこっちで、涙が止まらなくて仕方ありません。
悲しいから、だけじゃない。
神様に選ばれた人への嫉妬もあるかもしれない。
家内のときも、嫉妬したから。

僕は、とてもとても、神様に選ばれる人間じゃない。
そのことばかりを、悔しくもむなしくも感じます。

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コメント

Hさんのご冥福を心よりお祈りします。

それが「神」であれ、「仏」であれ、kenさんが
言うように「摂理」であれ、私たち一人一人は、
いや万物すべては、本来名づけられない「何か」に
よって支配されています。(その名づけられない
何かを何と呼ぶかは私はあまり重要でないとすら
思っています)。

限られた認知能力と身体能力しか持たない人間
には定められた「分」というものがあります。
その「分」を超えて上記の「何か」に介入することは
できません。

「何か」の存在と力を漠然と知る人間にとって、
人間の「分」に留まらなければならないというのは、
辛いことですが、私たちはそこに留まらなければなりません。
私たちは「何か」の存在と力を欲しがってはいけません。
私たちは「何か」の存在と力を崇めるだけしかできません。
「何か」を知りながら、決して「何か」にはなれない
自らと和解し調停をするしかありません。
自らを慰めるしかありません。

そこで私たちは数々の文化を作り出しました。

各種の宗教もそうです。哲学もそうです。
文学もそうです。

そして私たちが愛する音楽もそうです。

Hさんを直接存じ上げない私が偉そうに
言えることではありませんが、私たちは
音楽に接することで、HさんとHさんを大切
に思う方々が新たに加わった人類の慰めの歴史
につながることができるのかもしれません。

音楽を愛したHさんのためにも、これから
私は音楽を大切にしてゆきたいと思います。

すみません、私にはこれぐらいしか言えません。

お気に障ることを言ったとしたら、ひらに
ご容赦ください。

投稿: イワン | 2007年5月25日 (金) 09時59分

イワンさん、全て、おっしゃる通りです。
さっそくありがとうございました。
生かされてある、というのは、それにしても、なんとせつないことか。

投稿: ken | 2007年5月25日 (金) 10時31分

イワンさんのコメントを見て思い出したことがあります。
ピタゴラスが言った3っつの音楽のことです。

ひとつは天球の音楽
もうひとつは身体の音楽
それから楽器による音楽
そしてそれは本来はひとつであるということ。
私にはそれが何を意味するのかわからないのですが、
分からないなりに、感じるものがありました。

神様の国にあるのは
天球の音楽なのでしょうか、
私達にできるのは、
この身体を持ち、楽器を手に取り奏でる音楽ですね・・

そこに生きてる意味があるのかなと・・

いつかはみんな選ばれていくのでしょうから
いまは地上でしかなしえない
音楽を精一杯生きていこうと
私は思います。
どんなに不器用でもいいから。

その不器用な行いの中にも
音楽はありえるのじゃないか
神様のそばにある音楽のかけらが。

そのかけらを少しづつでも
地上に降ろしてくることができたら
私にも生きている意味が生まれるのかもしれない。

音楽は誰のものでもない。
でも私は心のどこかでそれを自分のものにしたいと思っています。
いつもこれで躓いてしまうのです。
あなたには音楽があるからいいじゃない?っていわれるととても悲しい。
でも私には今それにどう答えることもできません。

Hさんと私達の間には身体という壁がうまれてしまったのですね。
そして生きている人と生きている人の間にも
身体の壁がある。
でも音楽を共有したいのです。
それを乗り越えるために生きてるのかなって
思っています。


自分のことばかりでごめんなさい。
kenさんやイワンさんが
自分とそう遠くないところに
ところにいらっしゃるように思えて
お便りさせて頂きました。
場違いであったらごめんなさい。

Hさんのご冥福をお祈りします。


投稿: うてな | 2007年5月25日 (金) 20時22分

追記


私はまだあまりパソコンでのやり取りになれていません。
ネットの向こうにいる方々のリアリティを
私は本当にはわからずに書き込んでいるのではないのでしょうか?
大切な方を失った痛みに対し私がいえることなどないはずなのに・・
無神経であったなら、本当にごめんなさい。


投稿: うてな | 2007年5月25日 (金) 22時05分

うてなさん、すてきなコメントをありがとうございました。
何の心配もいりませんよ! ただ、私からは感謝あるのみです。

音と言葉は、目に見えないものをも強く結びつけてくれます。
とくに、ブログで出会い、ここでコメントも下さったイワンさんは、直接のご面識は無いにも関わらず、家内の死以来は特に(その前からではあったのですけれど)、私の最大の恩人です。そして、そういう方はほかにもまた数人いらっしゃいます。お名前を挙げたいところですが、ご迷惑をおかけするかもしれないので、自分の気持ちをとりあえずは抑えます。
こうしてみると、私は恵まれているのだと思います。有り難く感じております。

自分の家内の死・・・それによる悲しみから少しでも私をラクにさせようとしてくれた最大の友の、思いがけない急逝。
私は、それらについて、思いをここにぶつけるほかに場所も持ちません。普段顔を合わせる人とほど、変な話で、語りにくかったりさえします。
ですから、大切な人の死によって生まれる壁は、じつは死者との間に出来るものではなく、その死という現実を共有する生者たちの間に生まれるものだと思っております。
死者は、むしろ壁から解放された。だから、むしろ、私たちの語りかけを、いつでも聴いてくれています。さらには、応えさえ返してくれているはずなのですが。。。残念なことに、下手に「生」にとらわれている「私」には、それが上手に聞き取れないのだと思います。・・・一番悲しいのは、このことなんです。

痛みを知る人には、誰にでも、痛みを語る資格があります。
ただ、痛みの質は、人によって異なります。
異質な痛みのぶつかり合いは、新たな、さらにひどい痛みを生み出したりします。
それさえなければ・・・と、切なく祈る毎日です。
が、自分自身が、あまりに自分自身のみの痛みに熱中するタイプなので。
私のほうこそ、そういう発言があったらお許し下さい。

天上の音楽は、ヨーロッパではピタゴラス派の人たちからプラトン、キケロに受け継がれ、キリスト教のひとたちが中世期に大事にしてきた、「耳には聞こえない」、しかし「心には響く」調べです。近世以降、そんなものの存在は・・・哲学上は「ある」とされてはいても、現実には・・・無に等しいとされるようになって、今日に至っています。
日本でも、古代の人々は、聖なる往生をとげる人に寄り添っていると、妙なる音楽が天上から聞こえる、と人々は信じていました。ところがこちらも、中世になると(それは仏教で宗派というものが自己主張を始めた時期からですが)、「あの宗祖の往生を目撃したけれど、天上の音楽なんかちっともきこえなかったぞ」と、他宗の権威者が威張って記録に残したりするようになり、やはり、心に届かなくなりました。

せめて、私のそばで続いた貴重な「死」を契機に、私は私の周りの人たちと「天上の音楽」を聞き取れる心を・・・古代人になって取り戻し、共有してみたい。

うてなさんから頂いたお言葉で、いま、そんなことを考え始めました。

大それたことでしょうかね。。。

長過ぎました。ごめんなさい。

投稿: ken | 2007年5月25日 (金) 23時26分

暖かく受け止めて頂いてありがとうございます。
もう少しだけ書かせてください。
私の考えに過ぎないので、押し付けにならないことを祈りつつ。

「生」は貪欲であるけれども、
私はそれは醜くて不自由なだけではないように思うのです。
ムシカ・フマーナ(でしたっけ?身体の音楽)は、
その後の歴史の中でどのように扱われたのでしょうか?
天上の音楽(天球のというとニュアンスが違うようですね)についてはよく目にするのですが。
それが身体という信じられない巧妙な器の見取り図のことなのか、肉という不透明で暖かな存在のことを指しているのかは分かりません。

けれどピタゴラスの言葉に従うなら
フマーナ〈ヒューマンのことでしょうか)
にも天上の音楽は写しとられているのではないか、
と私には思えてならないのです。

大切な神様の近くにいる方たちは
きっとkenさんとともに耳を澄ましていらっしゃるのだろうと思います。
kenさんがご自身の「生きること」を通して
いつか、お二人やおそらくその背後にいるたくさんの方たちの力を借りて、その音楽をきくことができることを、お祈りすると共に、ブログを通して少しばかりおこぼれを頂く日を楽しみにもしています。
天上の音楽は今も昔も同じなのでしょうか、それとも地上の音楽と共に変化しているのでしょうか。私はそれが知りたいです。

私がこのブログに行き着いたのは、奥様が亡くなられた日でした。
書いていることは私の言葉なのですが、奥様に背中を押されて書いているような気もします。分かりません。奥様に失礼かも知れませんね、こんなことを書くと。

本来私はこういうやり取りはとても苦手なのです。
恐ろしく時間を食ってしまいますから、それに、
生身のその人が見えないというのは、私にはとても恐ろしいことです。もし傷つけたとしても見えないから。
書き込みするのはこれで最後にしようと思います。

私はkenさんとは少し違う角度から音楽の起源を掘り下げたいと思っています。多分ムシカ・フマーナという入り口から。今日ゲーテの科学方法論を始め本をたくさん借りてきました。そちらに専念しようと思います。

月並みな書き方でごめんなさい、でも、
書かせてください。
お辛いことと思いますが、生きてください。
お二人のためにも。


投稿: うてな | 2007年5月26日 (土) 01時45分

「死」を巡るコメントですので、用語や歴史の話のために「天上の音楽」云々をしたわけではなく、私が綴ったのは多分に観念的なことでした。また「ムジカ・フマーナ」がそもそもピュタゴラス学派の頃から使われた言葉だったとおっしゃるのでしたら、それは私は初耳で、存じ上げないことです。「ムジカ・ムンダーナ」・「ムジカ・フマーナ」・「ムジカ・インストゥルメンターリス」という三分類の意味を手近にお知りになりたい場合は、古書で皆川達夫「中世・ルネサンスの音楽」(講談社現代新書)をお見つけになり、お読みになるのが手っ取り早いかと存じます。そこまで詳しくはこの本では触れてくれませんが、三分類は中世のポエティウスという人に由来するもので、18世紀の教育にまで使われた、という以上のことは存じません。さらに、お感じになっているのは「ムジカ・フマーナ」を現実に聞こえる音楽とご理解なのか、と読み取りましたが、「ムジカ・フマーナ」もまた、耳に聞こえない音楽です。
いずれにせよ、三分類はネオ・プラトニズムの産物で、プラトンのイデア論からの派生物ではあっても、古代のものではありません。したがって、史上どう扱われたか、となると、「ムジカ・ムンダーナ」と全く同様だった、と、私の知識の範囲内では想像するしかありません(ただし、多分、生理学や生物学に引き継がれてはいると思います。音楽「学」中には生き残っていません)。
そのあたりはご興味に応じてお調べになり、お深めになれば、私などよりずっとよくお分かりになるのではないかと存じます。なにせ、私は唯の知ったかぶりで、そんなにいろいろ知っている訳でもありません。かつ、素人が資料的に追いかけられるのは「ムジカ・インストゥルメンターリス」のみです。詳細は金澤正剛「古楽のすすめ」(音楽之友社)程度しか、今のところ知りません。
いずれにせよ、ご自身の方法で「音楽の本質は何か」をお考えになることは悪いことではないと思います。。。ただ、そこで往々にしていったん陥ってしまう「自分なりの分類」の枠にはまる危険はご承知の上でなさったらよろしいかとも存じます。私の家内は私と違って、観念的なところはどうでもよろしい人でしたし、Hさんも同様の音楽観の持ち主でした。
現実に響く音はどうすれば美しく響くのか。
それだけの興味から、私たちは話をし、実践をしました。
完璧にはほど遠かったけれど。

大切なのは、私たちの耳に美しく響く「調和」とは何かであって、用語の如何に関わらず、ピュタゴラス学派がたどり着いたのも、それを知ったプラトンが取り付かれたようになったのも、おおもとには「調和」の一事しかありません。
中世にへたに三分類などなされてしまったことが、「調和」に持つべき素朴な思いを失わせ、聞こえないものは聞こえない、という即物的な発想を招きやすい結果をもたらしたのではないかと思いますヨ。

いずれにせよ、ここで語るべき話題ではないかと存じます。
長々綴りすぎました。

ご研究の実り多からんことをお祈りいたします。
ゲーテ、色彩論だけは読みましたが、今の科学者が彼の科学の価値を再発見しようと試みているのもむべなるかな、と感じた記憶があります。ただ、記憶力が弱いので、私は内容はそれきり忘れてしまいました。。。

投稿: ken | 2007年5月26日 (土) 08時11分

もう書かないと書いたのですが
これはお詫びせねばとおもいました。


私の無知さはばか者で済みますが、
kenさんに対しては、無神経でありすぎました。
自分が傲慢であったことも、仰るとおりです。

kenさんのひたむきな音楽に対する姿勢と自分を重ねてしまったことにも申し訳ない思いです。


ごめんなさい。

投稿: うてな | 2007年5月27日 (日) 02時54分

ばか者で終わらないよう
音楽との向き合い方
もう一度よく考え直してみます。
感じなおしてみます。


投稿: うてな | 2007年5月27日 (日) 03時21分

うてなさんは、傲慢でもないですし、ひたむきさがないわけでもないでしょう?
ご自身を「ばか者」などと規定なさらないようにして下さいね。
いや、「ばか者」であるなら、そのまま徹底して「ばか者」でいましょうよ。

私の家自体は仏教の「浄土宗」の寺に属します。(それはそれでまたいろいろ考えてしまうことがあるのですけれど、今は余計なことです。次に綴ることと関係があるので・・・)
で、その宗祖、法然という人が書いた短い文章を、朝晩、家内の位牌の前で、家内と一緒に読みます。お経読んでもうちのかあちゃん、たぶんちんぷんかんぷんだろうけど、ちゃんと日本語になっている文だったら、分かるだろうから。で、そこまでのつもりはなかったのですが、毎日のことなので、暗記してしまいました。その中にこんな一節があります。へたくそですが、現代語に直しておきます。意味を私の解釈で補った部分があるので、原文より相当長くなってしまいます。

「念仏を信じる人は、たとえ一生分の学問に自信を持って取り組んできていたとしても、そんなことは忘れて、何にも知らない大バカものになりきって、そのへんのオジサンオバサンみたいな『けっ、何にも知らねえやつ!』っていうのと同じになってしまえばいいのであって、知恵者の振る舞いをすることを絶対にせず、ただ一心不乱に「南無阿弥陀仏」と唱えていなさい。」

・・・これは「南無阿弥陀仏」に決めておきたい人はそれでいいし、別のものを選ぶ人はそれでもいい。何んであっても同じだとは思います。
・・・でも、なんとまあ、実践しにくいことでしょう!
・・・だって、このブログの上で毎日こんなに偉そうなことばかり綴る僕を「オバカサン!」て笑ってくれる人は、ほとんどいませんもん。
僕は、むしろ「オバカサン」って、おおらかに笑ってほしくて、こんな「偉そうバカ」を続けているんですけれど。
だから、
「ああ、こういう馬鹿もいるのか!」
で接してくれたら、一番うれしいんですヨ。

Hさんは、素朴にそう接してくれた(いや、彼自身が自分というものに謙虚であり続けた)方だった。・・・僕の悼み方では、それが全然伝わらない。反省しなければいけませんね。

ありがとうございます。

投稿: | 2007年5月27日 (日) 08時49分

ありがとうございます。
無知の知・・・・また滑ったかも・・・

私は自分の過失から火事を起こし
自分を見失ったまま10年ほどを過ごしました。
その土壌の中から芽を出すように
して出てこられたのは
音楽があったからでした。
火事から何日もたたないうちに焼け焦げた楽譜を持って公民館にピアノを借りに行っていました。
周りの人には、なかなかに無気味だっただろうと思います。
自分に対する信頼さえもなくしたとき、
でも、私にはこれがあると思いました。
それはたとえ指がなくなっても、声が出なくなっても無くなってしまうような物ではない。
でも私は、これを私の指で弾こう。
自分で音楽をつかみなおそう。
音楽ははるかな高みにあるようでも、
すっと降りてきてとても平易なものにもなりうる。
その深み、懐の大きさ。
あれに生身で向き合ってみよう。
それが私を前向きにさせてもくれたのです。

3っつのムシカはひとつだということは、私のその感覚に似ていました。
中世のものだったとは知りませんでした。
教えてくださってありがとうございます。

大バカになるには、私はこの生まれつきのバカにまだまだ磨きをかけなければなりません。
kenさんのブログを読んでいると、
私も、手を伸ばしてあれもこれもとかき集めたままのものを一つ一つ手に取り直し丁寧に磨きなおし、私にとってに過ぎないかもしれないのですが、あるべきところへと収めてゆく作業をしたいと思うようになったのです。

大変なときですのに結局つき合わせる形になってしまいました。十分に休養を取られてください。

投稿: うてな | 2007年5月27日 (日) 11時55分

うてなさんへ

ここは僕のブログなので、僕のことばかり綴っていますが、世の中、いろんなことに出会っている人ばかりですよね。何も背負っていない、なんて人は、どれくらいいるでしょうね。
僕の前の上司は、やはり奥さんが揚げ物をしていて、火が噴き上げたのが原因で、家が全焼してしまいました。が、元気に生きています。元気すぎて、周りからは大いに嫌われるくらいです! でも、僕がその上司の下でウツになったとき、一番面倒を見てくれた人でもありました。
この人の場合、命をつないだのは、散歩する道ばたの草の手入れをすることでした。
「なにやってんだろうな、あのオヤジ、って、きっとみんなに笑われてるよ」
などと言ってはからからと笑う人です。

私は私で、大学時代にクルマでバイクを跳ねた(本当はバイクが飛び込んできたんだ、と今でも信じていますが)経験があります。
会社員になったばかりの頃はセールスをしていたので、その後、同じような経験をした仲間も少なからずいます。

「少なからず」といいつつ、ほんとに少ない例ですが。

そうして負ってしまったものを幸運と考えるか不運と考えるのか、誰もが、日々葛藤をしているのだと思えば、私たちは音楽によって『生かされている」、その一事で、まだそんな余分な『先入観』を持たずに済む分、よい出会いをしていると思えなくはないでしょうか?
そう言いつつ、ちっとも心が楽にならないなあ、と嘆いてばかりの自分ですから、恥ずかしいこときわまりないのですけれど。

頂いたコメントそのものにストレートにお応えするとなると、本来は別のことを綴らなければならないのですけれど、まずは、いま私にはここで「うてなさん」とよい出会いが出来た・・・その幸せを大事に出来ればいいと思っている、ということをお伝えするのがよろしいかと思い、このような内容にいたしました。

何かが、その本来あるべきところにあるかどうか・・・そして、その場所に片付けてやらなければならないかどうか(ちょっと、うてなさんのおっしゃりたいことからすれば脇にそれるのですけれど)については、この記事にイワンさんが寄せて下さった最初のコメントをご再読頂くのが、判断材料として最も適切です。ぜひ、ご再読の上ご吟味下さいね。
ついでながら、私は個々でのイワンさん大言葉に、全く異議はありません。

投稿: | 2007年5月27日 (日) 22時33分

私達は音楽によって生かされている・・
本当に私もそう思います。
それは、この上ない喜びで、私には手に余るほどのプレゼントです。


kenさんが、大切な方をお見送りしなければならないときに、振り回した形になり恐縮しています。
一応このやり取りは終わりにしませんか?
わたしも、kenさんと出会えてよかったです。

ブログを作ろうかと思っています。

 

投稿: うてな | 2007年5月28日 (月) 08時34分

うてなさん、ブログ開設を楽しみにしております。

投稿: ken | 2007年5月28日 (月) 09時22分

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