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2007年5月12日 (土)

いちばんたいせつなこと

私の所属する東京ムジークフローの定期演奏会について掲載しました。
ご招待の企画も(個人的に)しております。リンクご参照の上、是非おいで下さい。



純粋プライベートはブログへは極力綴らない、と、4月以降決めていました。
が、今日だけは綴らせて下さいね。

このあいだ、自分がどうにかなりそうになって、どうしたもんか、と悩んだ末に、あれこれ算段をし、ある人に会ってもらいました。

その人とは初めて会いました。
それで新しい恋人になってもらったとかいうのでもありません。
宗教関係の人でもありません。
いかがわしい関係のギョーカイ人、でもありません。
ただ、異性ではあります。
なので、どうしてそんなことが出来たか、は、ご紹介すべきところですが、それはご容赦下さい。

その人に頼んだことは、ただふたつ。
してもらったことも、ただ二つ。

ひとつは、最初に簡単に、僕が家内を亡くした悲しみを二言三言話すのを聞いてくれること。
もうひとつは、そのあとただ黙って、僕をずっと抱きしめていてくれること。
そんなに長い時間ではありませんでしたが、短い時間でもありませんでした。

それだけで、家内の死後、頭髪の下に分厚くこびりついてしまったフケが、後で洗髪したら、きれいにとれました。
この数ヶ月、いくら試しても、どうしても治らなかったことでした。

* * * * * * * * * *

家内にプロポーズした日・・・それは奇しくも15年後のちょうど同じ日に家内を失った日付ともなったのですが・・・、家内が僕にしてくれたことも、それまでの僕の中にたまっていた悲しみを聞いてもらうこと、そして後は黙って抱きしめてもらうことでした。それで嘘のように、僕のヒドいフケ症が直ったので、不思議に思ったものでした。

15年間の結婚生活の中で、家内にも泣きたい日が何度もあり、そのときは僕が、家内を抱きしめてやりました。
お互いにそんな風に接し合ってきながら、去年だけは、一度も家内は泣き顔も悩む顔も見せず、僕は僕でウツからの復帰で家内を困らせるのも不本意で、だからそういう、ある意味禁欲的な抱擁というのは、一度もし合うことがありませんでした。家内が死んではじめて、霊安室に連れて行かれる前日、僕は親族の目もはばからず、家内の遺骸を抱きしめて寝たのでした。

* * * * * * * * * *

いま、ウツの薬の効果が切れている間に人になんだかんだ言われると、異常に気が高ぶり、怒りが収まらなくなる状態で日々を過ごしています。
ただ病気だから、そうなるのか?
違うんだ、と思いました。
じゃあ、何が足りなくてそんなことになるのか?

無心の抱擁、だったのではないか、と思いました。
今回、特にそれを強く感じました。

以下、厳密ではないので信仰をお持ちの方にはその点ご寛容にお読みいただきたく、あらかじめお願い申し上げます。
仏教のいうのは「唯、仏に抱かれていると信じよ」
キリスト教なら「神の愛に包まれよ」
で、そこへ至る道程の求め方こそ異なれ、たどり着くところに変わりはないもの、と、私は受け止めています。
ですが、神・仏は、私たちの肉眼に有形で現れることは、決してしてくれません。
ですから、神・仏に抱擁されている、などということを、私たちは肉体で実感することは出来ません。
ただ一心に信じることだけが、抱擁されている確かさのよりどころとなる。

それに耐えられない、弱い、信じきれない自分。卑小です。
それが私というものの現実です。

鎌倉時代初期の名僧、明恵は、早くに両親を失った人ですが、「仏眼仏母」の絵姿を身近におき、仏眼仏母に抱擁される自分を夢想し、抱擁を感得し得た人でもありました。
「木に刻み絵に書きたるを生身と思へば、やがて生身にて有るなり」(梅尾明恵上人遺訓)

私は毎朝毎晩、位牌の厨子の前に置いた家内の小さな遺影に口づけします。そうすれば、明恵のいうこの心に近づけるのではないか、と、そう思いつつ、続けてきました。
・・・なかなかに、しかし、それでは済まない。遺影が前に有りさえすれば、まだ生身がここに有ると自然に思ってはいられます。ですが、遺影の前から離れると、もう駄目です。
家内は、今の僕には「絵姿女房」です。

いつもの饒舌になってしまいました。

一番大切なことは何なのか。
それが、わかった気がして、綴り始めだしたのでした。

それは、
「私は黙って信じてもらえ、黙って抱きしめられている。そして、黙っていてくれるその人を黙って信じられる」
という、たったそれだけのことなのかもしれない。

今朝はやはり薬切れの最中に息子がグダグダ言うのに腹が立って怒りまくってしまいました。
そのあと、息子がすり寄ってきて、
「ごめんなさい」
と謝りながら、手を僕の体に伸ばしてきました。
あとは黙って、しばらくのあいだ抱きとめてやりました。

これだけのことで、お互いが信じ合い続けられるなら、こういう時間を、絶対に惜しんではならない。

これだけのことの中に、神がおられ、仏がいまし、無神論の方にとっても宇宙は厳然と存在するのです。

僕は確信します。
肉体と心は、一生惑い続けるかも知れませんが。(11:55)

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