定家:「邂逅」前夜(2)
まあしかし、世間というものはそう順風満帆にはいかないのが常ですね。
翌八月には、自家が領家である越部庄(兵庫県。播磨国風土記にも既にその地名が出てくる由ですが、いま風土記を引っ張りだせませんので確認していません)が十九日の洪水で大被害を被り、十日後にそれを知った定家は日記に絶望的な言葉を書き連ねます。
荘園からの実入りは、こうした自然災害にも、また地頭や現地民と徴税請負人とのトラブルにも大きく影響されるものでした。総じて、貴族自身が国司となって任地に赴いていた数百年前に比べ、長い時間の間に、現地人との通信だけにおんぶして、国政を崩壊させた荘園という、ある意味「絵に描いた収入源」だけに経済基盤を求めるようになっていたことは、当初はそれでよかったにせよ、いずれは崩壊の危険にさらされるだろうことが目に見えていたはずです。見えるはずのものが見えない・・・これが、人間の性(さが)と言うものでしょう。定家の、越部庄洪水で受けた打撃は、そんな人間の愚かな営みがもたらした結果の、ほんの一例にすぎません。
自分の経済力をどう保つかは、八百年前の定家もいまの私たちも・・・手段の違いはあっても、日々難問である点では、本質的に変わりませんね。
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